式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

53 鎌倉文化(9) 歴史書・他

愚管抄(ぐかんしょう)

愚管抄天台座主慈円が書いた七巻にのぼる歴史書です。神武天皇から仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)(廃帝)までの天皇の歴代の年代記を書き、三巻目からは『物ノ道理ヲノミオモヒツヅケテ』歴史を、漢字とカタカナで書き綴っています。

愚管抄より、壇ノ浦の戦いの場面を抜粋。

『元歴二年三月弐四日二船イクサノ支度ニテ。イヨイヨカクト聞キテ頼朝ガ武士等カサナリ来タリテ西国ニヲモムキテ。長門ノ門司ダンノ浦ト云フ所ニテ船ノイクサシテ。主上[安徳]ヲバムバノ二位宗盛母、イダキマイラセテ。神璽寳剱トリ具シテ海ニ入リケリ・・・(以下略)』

ずいよう超訳:元歴2年3月24日に船戦の支度をした。いよいよこの様にと聞いて、源氏の武士達が押し寄せて来たので平家は西国に赴いた。長門の壇ノ浦と言う所で船戦になった。主上[安徳]天皇をば乳母の二位の宗盛の母がお抱きになり、神璽と宝剣と共に海に入水した。

 

吾妻鑑(東鑑)  (あずまかがみ)

成立年は学者によって諸説あります。凡そは1200年代後半から1304年までと言われ、日記形式で書かれています。但し、『玉葉』や『明月記』の様に日々記録したものでは無く、後世に資料を編纂して日記風に書いたものです。政所などにあった役所の書類、御家人達の家誌、寺社の記録などを集めて整理し、如何にも公式記録らしく体裁を整えています。ただ、都合の悪い所は軽く流し、或いは欠落させ、これぞと言う所は過剰に盛り、誅伐した相手に対しては自分達が良くて相手の方が悪い、と言う書き方をしています。書き手の視点は源氏寄りでは無く北条得宗家寄りです。

漢文で書かれており、作者は鎌倉幕府の中枢にいた者達の手によるものと思われます。

 

四鏡 (しきょう)

大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』を合せて四鏡と言います。いずれも極めて高齢の翁や嫗が歴史を語る、と言う趣向で書かれています。

大鏡は平安後期1025年頃成立。文徳(もんとく)帝850年から後一条帝1025年迄。

『今鏡』は平安後期1170年頃成立。後一条帝1025年から高倉帝迄。

『水鏡』は鎌倉初期(1195年頃)成立。神武天皇から仁明(にんみょう)天皇迄。

『増鏡』は、後鳥羽帝誕生1180年から後醍醐帝の建武親政1333年迄。

 

神皇正統記 (じんのうしょうとうき)

神皇正統記は、南北朝時代南朝方の北畠親房が著した歴史書です。この本は徳川光圀の『大日本史』へ影響を与えたり、国粋主義への傾倒を促したりしました。

冒頭抜粋

『大日者神國也天祖始テ基ヲ開キ日神永続ヲ傳へ給フ我國・・・(以下略)』

 

尊卑文脈 (そんぴぶんみゃく)

『尊卑文脈』は左大臣洞院公定(とういんきんさだ)が著した系図集です。藤原氏平氏、源氏、橘氏などの家系図の集大成です。古い家系を調べる時大いに参考になり、系図書き職人の多くがこれを参考にしました。ただ、左大臣の権力を使ってどの位の規模で編纂したのか、或るいは、個人的に一念発起して家中の協力を得ながら取り掛かったのか、集めた情報は本当に過誤の無い記録ばかりだったのか、疑問があります。

江戸時代、幕府は大名・旗本から系図を提出させ寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)を編纂しました。時が経ち、更に続編を書こうとしたら寛永系図に誤りや盛りを発見。そこで改めて系図を提出させ、間違いを正して編纂し直し、寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)を作ったと言う経緯があります。大名・旗本を全て網羅、出来上がった寛政譜は1.535巻、この作業に学者50人を動員して14年間かかりました。

『尊卑文脈』の場合、洞院公定の死後も書き継ぎが多くなされました。各家に系を繋げ、流を作ろうとした動きもありました。後世、徳川家康は源氏の流れを汲むとされましたが、これも、上手い具合に書き継いだかと思われます。

「古田」の系図を調べてみると源頼茂 に辿り着きます。(このブログのシリーズ「28北条執権物語(2)北条義時」の項参照) 。  が、真偽は分りません。古田系図と土岐系図と尊卑文脈に記載されている人物名に世代のズレがあります。古田織部美濃源氏流と言われていますが、詳しい事は分りません。

なお、尊卑文脈の正式名は『新編纂図本朝尊卑文脈系譜雑類要集』です。

 

元亨釈書(げんこうしゃくしょ) 

日本仏教の歴史と、僧侶の各伝などを漢文で書いたものです。臨済宗の虎関師錬(こかんしれん)が著し、1322年に朝廷に奉呈されました。全30巻です。

 

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 

正法眼蔵』は曹洞宗の開祖・道元が生涯をかけて書いた全87巻の宗教書です。漢字かな交じり文で書かれています。『正法眼蔵随聞記』は道元の弟子・孤雲懐奘(こうんえじょう)が書いた正法眼蔵の解説書です。(「47鎌倉文化(3)仏教・禅宗」の項参照)

 

摧邪輪(さいじゃりん) 

1212年、明恵上人が書いた仏教書です。(「15 栄西禅師と明恵上人」の項を参照」

  

 類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)

 類聚名義抄は11世紀から12世紀にかけて成立した漢字の辞書です。漢字の読み、用い方、アクセント、イントネーションなどが書いてあるそうで、昔の日本語の発音などを知る上で非常に貴重な資料と言われています。

 

余談  仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)廃帝

 仲恭天皇は1221年5月13日に4歳で践祚(天皇の位に着く事)。祖父・後鳥羽上皇承久の乱を起こしたので、鎌倉幕府の手によって同年7月29日で廃帝にさせられました。即位礼(正式に即位の宣言をする儀式)や大嘗祭をしていなかったので、天皇とは認められませんでした。78日間の最短在位です。彼は隠棲し17歳で崩御。明治時代に太政官令で復権し、現在は皇居の皇霊殿に祭られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

52 鎌倉文化(8) 物語

前項「51 鎌倉文化(7) 日記・随筆」で方丈記を取り上げましたので、余談として「利休とあさがお」についても触れました。この時代の文学作品には茶飲み話によさそうなおもしろい話が沢山あります。

今昔物語

『今は昔・・・』で始まる今昔物語は、インドや中国からの伝承話や、日本各地などのお話から採話した短編集です。1,000話以上あり、全31巻に及びます。

仏教説話や怪異、霊威などの話に加えて、強盗・殺人・不倫・騙しなど極めて世俗的な話がてんこ盛りに描かれており、後世の作家に影響を与えています。

能の演目「弱法師(よろぼし)」は、今昔物語の中にあるアショーカ王の盲目の王子から想を得ているそうですし、500人の盗賊が500羅漢の元だったなどと言う話もあります。芥川龍之介の「鼻」「羅生門」等も今昔物語に由来しています。「虎の威を借りる狐」の話は、途中まで中国の「戦国策」に出て来る「借虎威」に似ていますが、今昔物語の結末では、狐が悔い改めて神様になります。

今昔物語以前の物語はどちらかと言うと、源氏物語伊勢物語の様に貴族の恋愛などが中心でしたが、平安末期から鎌倉期に入ると、ぐっと庶民的になります。

 

とりかえばや物語

とりかえばや物語」は、平安末期に書かれた物語です。

女性的な男の子、男性的な女の子を持った関白左大臣が、二人の性が取り替わったらいいのになぁと嘆く事から始まる物語で、非常に今日的なテーマを含んでおります。

几帳の陰に隠れて琴を弾く美しい息子、狩衣を着た凛々しい娘。妹は若い貴族として宮中に出仕して出世街道をまっしぐら、兄は女東宮の内侍(ないし)として仕え、恋愛や結婚に話が膨らんで行きます。

 

宇治拾遺物語

宇治拾遺物語は、宇治大納言物語が基になっているのではないか、と言われております。

宇治大納言物語そのものは散逸してしまって、今に残っていないそうですが、宇治拾遺物語は197話、15巻からなっています。今昔物語とも重なり合う部分があるそうです。昔話でよく聞く話が、宇治拾遺の中に結構含まれております。

例えば、「わらしべ長者」「こぶとり爺さん」「五色の鹿」「絵師良秀の火災」「袴垂」「芋粥」等があるかと思えば、「伴大納言応天門の変」等の歴史物もあり、収められている内容は変化に富んでいます。

 

軍記物語 

軍記物語は、合戦の数ほど沢山あります。

中でも保元(ほうげん)物語、平治物語平家物語、承久(じょうきゅう)記、源平盛衰記太平記義経(ぎけい)記などは良く知られています。

保元物語平治物語平家物語と承久記の四つを合せて、四部合戦状(しぶかっせんじょう)、または四部合戦書と言って、四つの物語を通すと、1156年の保元の乱勃発前後から平家の滅亡、土御門上皇を土佐へ配流(はいる)するまでの歴史が分かります。

 

平家物語

平家物語は仏教世界の諦観を背景に、流れるような名文で語られており、心を打つ場面が多くあります。「50 鎌倉文化(6)和歌と五山文学」の項で、『さざなみや志賀の都は‥』の平忠度(たいらのただのり)の歌を載せました。その歌は平家物語の中で、西国に落ちる忠度が師の藤原俊成に歌を託して別れましたが、その時託された歌がこの歌です。

文体は和漢混淆文(わかんこんこうぶん)です。琵琶法師によって広く流布されました。四部とも、推定される作者は何人か居ても、これぞと言う確定的な作者は未だ判明していません。

 

太平記

後醍醐天皇鎌倉幕府討幕を企ててから、南北朝を経て室町時代の中期・足利義満の代までが和漢混淆文で書かれており、全40巻あります。

太平記は一般的には僧・慧鎮(えちん)の作と伝えられていますが、真偽の程は分りません。天台宗の僧・玄恵(げんね)とその子・伊牧と言う説、一条兼良と言う説、慧鎮の居た法勝寺の何人かによる集団制作、近江の小島法師と言う説など諸説あります。

成立時もはっきりしません。初めに全30巻が完成した時点で足利直義に見せた所、直義から史実とは大いに違うと言われ、大幅に書き直しをさせられました。それを伝え聞き、功名の記載を願い出る者が続出、修正に修正を重ねて行きました。このような経緯、特に足利直義の命によって変更を余儀なくされた事から、足利氏に都合の悪い所は改められたりしていますので、公平さは担保されていません。

楠木正成の活躍や東照寺合戦など、英雄伝や涙を誘う悲劇など様々なエピソードに彩られた太平記は、出色の読み物と言えます。戦国武将達の兵法書だったとも愛読書だったさも言われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

51 鎌倉文化(7) 日記・随筆

日記

日本人は日記を書くのが好きです。定番三日坊主はお愛嬌としても、古くは西暦935年に書かれた「土佐日記」を初めとし、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」と続きます。日記は個人史でありながら、その時代を映す大切な記録です。

鎌倉期に出た日記では次の様な物があります。

 名  前                       成  立  年  著  者  

玉葉(ぎょくよう)       1164年~1200年  九条兼実

明月記(めいげつき)      1180年~1235年  藤原定家

十六夜日記(いざよいにっき)   1277~1280年     阿仏尼

弁内侍日記(べんのないしにっき) 1246年~1252年  藤原信実

中務内侍日記(なかつかさないしにっき) 1280~1292年  藤原経子

(他にもありますが、省きます。)

 

玉葉

関白太政大臣九条兼実が書いた日記です。個人的な感想も有りますが、業務日誌に近いものです。叙任、政治、平氏や源氏の各地の情報、儀式次第など詳しく書かれています。歴史の変わり目に生きた最高権力者の日記で、超一級の資料です。現在最古の写本は宮内庁書陵部に収められています。「玉海」は二条家が「玉葉」を写本し、原本と写本を区別する為に付けた名前です。従って内容は同一です。

 

明月記

歌人藤原定家が、時代の奔流の真只中を写し取った日記です。権門への忖度は無く、世間から一歩引いた冷静な目で、その時々の事を記述しています。オーロラ出現などの天文の記録も正確で、日本天文遺産に指定されています。

「明月記」の中の治承4年11月7日の分を抜粋

『七日、天晴、去夜維盛少将自坂東逃帰入六波羅云々。客主之貌巳不相若、況亦疲之兵難當新騎之馬云々、入道相国猶以逆鱗云々』

7日、天気晴れ、昨夜平維盛少将が坂東から逃げ帰って(富士川合戦)六波羅に入ったそうだ。帰還した維盛の顔は年取って見えた(維盛は光源氏張りの美男子で有名。この時21歳) ましてや、疲れた兵に新しい馬を宛がうのも難しい。平清盛入道は激しく怒っているとか。: ずいよう超訳

 

十六夜日記

著者・阿仏尼は藤原定家の息子・為家の側室です。為家死後、正室の子・為氏(ためうじ)と側室阿仏尼の子・為相(ためすけ)との間に相続争いが起きました。阿仏尼は我が子・為相の為に鎌倉へ行き、訴訟を起こします。鎌倉への道中記が十六夜日記です。訴訟の結果は阿仏尼の死後、為相の勝訴になりますが、これを機に、定家流は二つに分かれ、嫡流・藤原為氏は二条家となり、庶流・為相は冷泉家となります。

 

随筆

この時代、多くの随筆が書かれています。

海道記、東関紀行、建礼門院右京大夫集、とはずがたり などなどです。

けれど、何と言っても断トツは「徒然草」と「方丈記」でしょう。後世への影響も大きく、入学試験でも頻繁に出ます。出だしを暗誦していらっしゃる方も沢山いらっしゃるでしょう。

五大出だし暗誦文と言われる下記は、1行位は聞き覚えがあるかと思います。

「いずれの御時にか・・」「春はあけぼの・・」「祇園精舎の鐘の声・・」「つれづれなるままに・・」「ゆく河の流れは絶えずして・・」

 

徒然草 (つれづれぐさ)

丁度鎌倉幕府が倒れてから、南北朝を経て室町時代に書かれた全244段からなる随筆です。「枕草子」「方丈記」と共に「徒然草」は日本三大随筆に数えられています。

著者は吉田兼好と言うのが定説になっています。世の中の色々なことを取り上げて、面白おかしい説話だの、彼の雑感だの、それこそ暇にあかせて書き綴ったもので、今読んでも文章の軽妙さもさることながら、共感やら納得する箇所が随所にあります。

 

方丈記 (ほうじょうき)

 著者の鴨長明(かものながあきら or かものちょうめい)は、加茂神社に仕えた家柄の出です。

彼は和歌や琵琶を習い、和歌所の寄人(よりうど)迄になりましたが、50歳の時、下賀茂神社禰宜への道を閉ざされて突如出家してしまいます。彼は日野に庵を結び、そこで方丈記を書いたと思われます。1212年の事です。

方丈記抜粋

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 (中略) 知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り,誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖と、無常を争うさま、いはば、あさがおの露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なお消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。(訳は省略します)

 

 

余談  利休とあさがお

利休の庭の朝顔が見事だと言う評判に、秀吉は朝顔が見たいと利休に所望しました。利休は庭の朝顔を全部摘み取って、一輪だけ床に活けました。

千利休は「方丈記」を知っていたでしょうか。いえ、利休ほどの人が知らない筈はありません。

秀吉も知っていたでしょうか。それは分かりません。

経緯はどうであれ、利休がもし方丈記を知った上で朝顔を活けたのなら、秀吉に「殿下の『我が世』は短いですよ」と暗に示したことになるかも知れません。お茶の世界は暗喩、見立て、推測の世界。亭主の意を汲み取り趣向を肴にして遊ぶ世界です。

秀吉が朝顔の花を所望した、利休は利休なりの美意識で素直に応じた、それだけの話かも知れけないけれど、婆はそこに何か得体の知れない怖さを感じます。利休の底知れぬ反骨と挑戦。「殿下、ご存知かな? 朝顔が象徴する意味。知らぬだろう。それは方丈記に・・」

婆の考え過ぎかしらね。利休切腹予兆の足音が、微かに聞こえる気がするのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

50 鎌倉文化(6) 和歌と五山文学

諸行無常の風の前に平家は滅び、貴族達は戦乱の坩堝(るつぼ)に投げ込まれます。運命に翻弄されながらも、万葉の昔から老若男女貴賤の別なく、人々はその時々の心を歌に詠んできました。平家や源氏の武人達も又、多くの歌を残しております。そして、歌をこよなく愛する将軍・源実朝が、藤原定家の指導を受けて歌の道に励んだことが、鎌倉歌壇の隆盛を呼びました。実朝以降、京都から親王を迎えて将軍に戴いた事もあって、むくつけき武士達も一層和歌を嗜む様になります。

武士の歌

庭の面はまだかわかぬに夕立の 空さりげなく澄める月かな 

                                                                                     源頼政(新古今集)

さざなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな  

                                                                                      平忠度 (千載集)

箱根路を我が越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ 

                                                                                       源実朝(金槐集)

来し方ぞ月日にそへて偲ばるる又めぐりあふ昔ならねば

                                                                                   北条政村 (続拾遺集)

旅人のともし捨てたる松の火のけぶりさびしき野路の曙

                                                                                     宗尊親王(玉葉集)

「旅人の・・」の歌は、宗尊親王が将軍職を解任されて京都に送り返される時に詠んだ歌、と聞いております。

勅撰和歌集は「古今和歌集」から「新続古今和歌集」まで合わせると21集あります。

21集の中でも主だったものを八大集と呼びます。

八大集は次の通りです。

古今和歌集 ②後撰和歌集 ③拾遺(しゅうい)和歌集 ④後拾遺和歌集 ⑤金葉(きんよう)和歌集 ⑥詞花(しか)和歌集 ⑦千載(せんざい)和歌集 ⑧新古今和歌集 です。

私家集としては源実朝の「金槐和歌集」等が挙げられます。

 

五山文学

ここで五山と言うのは、鎌倉五山京都五山の総称で、いずれも禅寺です。

鎌倉五山と言うのは、建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺 です。

京都五山と言うのは、南禅寺天竜寺、相国寺建仁寺東福寺万寿寺 です。

京都五山は六か寺あります。南禅寺は、亀山法皇開基による勅願寺なので、別格扱いで数えられています。時には政治的な事情で、妙心寺大徳寺の名前が挙がる事もありました。要はどこそこのお寺と言うよりも、一括りに禅寺として見るべきで、五山文学は禅寺で生まれた漢詩・漢文の文学で、看話禅(かんなぜん)と深く関わっています。

禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)です。つまり、「悟りは文字では表せない」を宗是としています。であるならば、不立文字を言葉で説明するとはこれ如何に!!

宋の時代、汾陽善昭(ぶんようぜんしょう)という禅僧が、頌古(じゅこ)を詩にして書きました。更に雪ちょう重顯(せっちょうじゅうけん)が豊かな文才を発揮して「頌古百則(じゅごひゃくそく)」と言うものを作りました。そして更に、「頌古百則」を芯にして色々のものを加え、編纂し直して、圜悟克勤(えんごこくきん)が「碧巌録(へきがんろく)」を著しました。

「碧巌録」は韻文・散文見事な文学作品だそうです。そういう本を土台にして日々研鑽に励んでいる臨済禅の僧侶達は、自ずと漢文学の素養を深めて行きました。

日本では虎關師錬(こかんしれん)が五山文学の開祖と言われております。彼は「済北集」「聚汾韻略(しゅうぶんいんりゃく)」「元享釈書(げんきょうしゃくしょ)」等の本を書いております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

笏より重いものを持った事の無い優雅な人達から、鎧を着て刀を振り回す武闘系の人達の世に移ると、書の雰囲気も変わってきます。優美で流れるような書体から、力に満ちた書体になって行きます。

元との交流

1293年、鎌倉地震が発生し、建長寺の倒壊炎上を切っ掛けに、資金調達の為、幕府は敵対関係にあった元と交易する様になりました。政経分離と言いますか、経済優先のついでに人の交流も復活し、日本から入元する僧が増えたばかりか、来朝して帰化する元の僧も増えてきました。そうなると、書の世界も、大陸の最新の文化が再び流れ込み始めました。ただ、宋様、元様の書の流れが日本にも影響を及ぼし始めると、尊円法親王(そんえんほっしんのう)などはその影響を苦々しく思われていたようで、その傾向を非難しております。

尊円法親王は書を、藤原(世尊寺)行房と行尹(ゆきただ)に習いました。けれど、行房が後醍醐天皇に従って隠岐へ行ってしまいましたので、その後は行尹に書を習いました。尊円法親王は何よりも日本の古筆を尊び、菅原道真三蹟(小野道風・藤原佐里・藤原行成)を範として習い、やがて彼独自の書風を開いて行きます。

世尊寺流

平安時代三蹟の内、年代的に最後に出た藤原行成(972年~1028年)は、道風と佐里の書風を取り入れて融合させ、行成独自の美しい書風を確立しました。彼は、邸宅内に世尊寺と言うお寺を建て、そこに住んでいましたので、彼の書風を世尊寺流と言う様になりました。宮中の文書の清書などにも世尊寺流が担う様になりましたので、貴族達は挙って世尊寺流を習いました。

時代が下がるにつれ、世尊時流は文字の形や美しさに拘るあまり、生き生きとした書風を失って衰微して行きます。1529年、子孫が絶えたのを機に、遂に失われてしまいます。これを惜しまれた後奈良天皇持明院基春に命じて世尊寺流を復活させ、持明院流としました。

尊円流・青蓮院流(しょうれんいんりゅう)

尊円流は、伏見天皇第六皇子・尊円法親王(1298年~1356年)を流祖としています。尊円は青蓮院(しょうれんいん)に住んでいましたので、青蓮院流とも言います。(江戸時代になると、幕府の公文書にこの書体が用いられ様になり、御家流と呼ばれるようになります。)

法性寺流(ほっしょうじりゅう)

関白太政大臣・藤原忠道(1097年~1164年)の書が基となった流派です。忠道(ただみち)は初め藤原行成に書を習いました。後に出家して法性寺入道と呼ばれたので法性寺流と言われています。

 定家流

法性寺流から分派。藤原定家が祖。非常に個性的です。一代で途絶えるも、冷泉家(れいぜいけ)で復活し、冷泉流となります。

 

断簡

本来巻物や冊子本であったものを切断し、お習字のお手本(手鑑(てかがみ))用に直したり、茶席の床の間を飾る掛物に仕立て直したりしました。このように切断したものを断簡、又は「切(きれ)」と言います。有名な断簡に高野切があります。

高野切(こうやぎれ) 

古今和歌集」が世に出てから150年後に書写されたものを、切断しました。それら断簡を、多くの者達が手本にしてお習字の練習に励み、更に二次書写、三次書写と書き継がれていきました。最初の書写本は断簡にされて散って現存するのは少なくなってしまいましたが、豊臣秀吉が所持していた断簡が高野山に伝わり、これを高野切と呼んでいます。

高野切は三人の書き手が分担して書いています。

藤原行経が書写したと思われるものを第一種高野切、源兼行が写したものを第二種高野切、たぶん藤原公経の手になったものであろうものを第三種高野切と、便宜上呼んでおります。

古今和歌集の断簡は高野切ばかりでなく、民部切、顕廣切、了佐切等々他にも色々あります。

 

墨蹟 (ぼくせき)

墨蹟と言うのは、禅僧の書いた「書」の事を指します。他宗の僧侶の字は墨蹟とは言いません。

 大陸との往来で、宋・南宋の文化が日本にも盛んにもたらされましたが、元寇により一時中断してしまいました。しかし、やがてそれも解け、幕府公認の貿易が始まると、かつての文化交流が復活し、それに伴って禅僧の渡海も盛んになりました。

当時、宋では、蘇東坡(そとうば)、黄山谷(こうざんこく)、蔡君謨(さいくんぼ)、米元章(べいげんしょう)の四人が、宋の四大家と言われていました。

禅僧達は、大陸で隆盛を極めていた書を習い、それを日本に伝えました。

明菴栄西は、黄山谷の書を学んで帰ってきました。

南宋最後の書家に張即之(ちょうそくし)と言う能書家が居ました。彼は二王(王義之と王獻氏)を否定し独自の書風を打ち立てます。書聖の二王を否定するなど常識外れと非難されますが、彼は禅林にも交わり、権威を嫌う性質でもありましたので、それを意に介しませんでした。

張即之の書風は、禅僧などの間に受け入れられ、流行ります。

蘭渓道隆の書は張即之の書を継承している、と言われています。

東福寺開山・圓爾(えんに)(聖一国師)も張即之に私淑してその書を体得し、帰朝しました。

字を上手く書こうなどと言う意識は、禅僧にはさらさら無い様ですが、逆にそれが味わい深い趣を出している様に感じます。

一山一寧、無学祖元、大休正念、兀庵普寧、宗峰妙超(大燈国師)、夢想国師、希玄道元・・・・

 

参考

33 執権北条氏(7) 元寇(1)南宋滅亡  8月1日up

36 元寇(4) 弘安の役(前編)       8月11日up 

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗     9月19日up

48 鎌倉文化(4) 禅語        9月21日up

 

余談  藤原行房

藤原行房は世尊寺家12代当主。南朝後醍醐天皇の側近として仕え、後醍醐帝が隠岐に流された時も千種忠顕(ちぐさただあき)と共に隠岐随行しました。建武の中興後、行房は皇太子・恒良(つねよし)親王、後醍醐帝第一皇子・尊良(たかよし)親王、新田氏と共に軍を率いて北陸道に落ち、金ケ崎城で足利軍と対決、城は落城し、尊良親王と藤原行房・新田義顕は自害しました。これによって困ったのが持明院統光厳(こうごん)天皇で、大事な行事に用いる色紙が用意できなくなり、止む無く弟の行尹が代筆した、と伝わっています。なお、恒良親王の生死は不明。毒殺されたとも・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

48 鎌倉文化(4) 禅語

茶掛けに盛んに禅語を用いるようになったのは、千利休が活躍した安土桃山時代ですが、鎌倉時代禅宗そのものが日本に定着した時期でもありますので、ここで、茶掛けによく使われる禅語の一部を紹介したいと思います。茶掛けと言うのは、茶室の床の間に掛ける掛物の事です。

 

茶掛けの禅語

一期一会  (いちごいちえ)

今、あなたにお会いしているこの時・この一瞬は、後にも先にも二度と来ない奇跡の時空。だから、この時間を愛おしみ大切にしたい。

これは、対人ばかりでなく、素晴らしい芸術や物に出会った時にも使う言葉です。

 

和敬清寂 (わけいせいじゃく)

互いに敬いながら和気藹々と、静かに愉しむ状態を指します。

 

日日是好日 (にちにちこれこうじつ)

春の縁側の眠り猫。長閑でいいなぁ!  という好日ではありません。

今日はいい事があった、ラッキー!! という好日でもありません。では、何?

圜悟(えんご)禅師の著書『碧巌録(へきがんろく)』にこういうのがあるそうです。

『雲門、垂語して云く。15日以前の事は汝に問わず。15日以後、一句を道(い)い将(も)ち来たれ。自ら代わって云く。日日是好日

(ずいよう流超訳:過去の事は聞かない。これからどうする?誰か言ってごらん。(シーン)。じゃ、儂が答えよう。日日是好日じゃ) 

雨が降っても槍(災害)が降っても、病になっても、困窮しても、幸せな時も、そうでない時も、いつも自分がそこに存在する事に感謝し、その時間を慈しみ、万物の恵みの有難さを喜ぶ・・・それが日日是好日です。

 

喫茶去 きっさこ

喫茶去とは「お茶を飲みなさい」という意味です。

唐の趙州(じょうしゅう)禅師が、訪ねて来た僧に「ここは初めて来たのか?」と聞きました。「初めてです」とその僧が答えると「お茶を飲みなさい(喫茶去)」と言いました。別の僧がやって来た時、禅師は又「初めて来たのか?」と聞きました。その僧は「いえ、以前にも来ました」と答えました。すると「お茶を飲みなさい」と言いました。寺の者が「初めての人もそうでない人も何故喫茶去なのですか?」と伺いました。すると、趙州禅師は「お前もお茶を飲め」と言いました。

誰彼の区別なく、誰でもお茶で持て成す、それが喫茶去です。

 

松無古今色 まつにここんのいろなし

松樹千年翠  しょうじゅせんねんのみどり

松の偈は、正月などのめでたい時や、末永く栄えます様になどと願いを込めた茶席に、良く掛けられる禅語です。

松は常緑。何時も青々していて永遠にこの状態が続く様に見えますが・・・果たしてこれは本当? 実は、松は常に変化しています。変化しているから見掛けが変わらないのです。松を良く観察してみると、松の木の下に、茶色いこぼれ松葉がいっぱい散り敷かれています。枯れた松葉は落ち、新しい松葉が生えてきます。松は常に新陳代謝をしているのです。伝統の世界でも同じです。新陳代謝や改革を怠って沈滞すると、やがて衰退していきます。

松が緑を保ち続ける為には、不断の努力が必要です。

 〇 

 まる。まるは・・円相は、むむ・・・難しい。分かりません。

吉川英治の『宮本武蔵』の中で、修行に行き詰った武蔵が愚堂和尚に教えを乞う場面があります。武蔵は愚堂和尚の前に座り、地面に両手を着き、頭を垂れて必死に答えを求めます。和尚は黙ったまま棒で武蔵を囲む様に地面に〇を書き、そのままスタスタと去って行ってしまいました。武蔵は円の中に取り残されてしまいます。こんなに頼んでいるのに、何だあの態度は、と心の内で怒り心頭「糞坊主!  頭の中が空っぽだから、さも意味有り気に〇を書きやがって! 」と、思った瞬間、忽然と悟る場面があるのですが・・・ (吉川英治はもっと文学的に書いています。)

 

 無

ますます分かりません。よって、般若心経より『無』がいっぱい羅列されている箇所を抜粋してみました。

・・無色 無受想行識 無眼耳舌身意 無色聲香味觸法    無限界 乃至 無意識界 無無明  亦 無無明盡 乃至 無老死 亦 無老死盡 無苦集滅道 無智 無得以無所得 ・・

 

 無一物 むいちもつ

 人間生まれた時は裸ん坊。死ぬ時もあの世に何も持って行けません。人間の本来の姿は無一物。なので、余計な執着は捨てましょう。地位も名誉も財産も愛憎も。

 

知足 ちそく

満ち足りた心境の事。

あれもこれも欲しくて全て手に入れた上での「余は満足じゃ」という心境ではありません。念のため。

 

諸悪莫作  衆善奉行  自浄其意  是諸仏教 

しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶつきょう

上記四つの言葉はお経の中の一節です。茶掛けに良く用いられるのは「諸悪莫作 衆善奉行」の二句です。悪い事をしてはいけません。良い事をしましょう。と言う意味です。

唐の白楽天が樹の上で座禅をしている道林禅師に「 仏の教えは何か」と問うと、「悪い事をするな。善い事をせよ。そして、心を清くする。それが仏の教えじゃ」と言いました。「そんなの3歳の童でも知っている」と白楽天。すると「80歳の老人でも行うは難しい」と禅師が答えました。

 

莫煩悩 まくぼんのう

悩むな。     (36 元寇(4) 弘安の役(前編)参照)

 

莫直去 まくじきこ

真っ直ぐ行け   (36 元寇(4) 弘安の役(前編)の余談参照)

 

看脚下 かんきゃっか or   きゃっかをみよ

脚下照顧 or 照顧脚下 きゃっかしょうこ  or   しょうこきゃっか

看脚下も脚下照顧も、玄関などに表示されている足元注意の標語です。足元が暗いので注意してね、履物はちゃんと揃えてね、と言う意味です。

転じて、余所見ばかりしていないで自分自身の足元を見なさい、とも。自分探しの旅をしてみたい。そんな時に思い出したい言葉です。

 

壺中日月長 こちゅうにちげつながし

壷中天   こちゅうてん

これは中国の仙人のお話。

昔、後漢の国に壺公という薬売りのじい様がおりました。じい様はいつも夕方になると店を閉めて壺の中にスーッと入ってしまいました。それを知ったお役人が、一緒に連れてって、と頼むと渋々壺の中に連れて行ってくれました。お役人が見た世界は、立派な御殿か立ち並び、山紫水明の庭に鳥が鳴き、花が咲き乱れ、美女が数多居てご馳走が並ぶ、夢の様な世界でした。三日ばかりそこで遊んで、再び元の世界に戻ってみたら、十数年の時が過ぎていましたとさ。

壷中天も字句の由来は同じ。壺の中の別天地と言う意味です。

狭い世界と見えた所が広々とした美しい別世界だった、というお話。悟りの境地かも。

或いは、狭い茶室の比喩かも。楽しんで、ゆっくりして行きなさい、という・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗

禅寺では、お庭に楓の木を良く植えます。それは、春に芽吹き、夏に涼やかな木陰を作り、秋に紅葉して散って行く、その移ろいの無常を知る為と聞いたことがあります。人生の盛りもやがては死に向かうとの提示とか。東福寺の燃えるような紅葉にカメラを向けながら、死の一瞬前の華やかな輝きに思いを致す事は、婆には難しい事でした。年を取った今ではその話を聞いて、あゝそうだったのか、と妙に納得してしまっています。

茶禅一味と申します。「茶の湯」をメインテーマにしながら。なかなか茶の湯に言い及ばなくて、武士の歴史にばかり紙面を割いて来ました。前回「46 仏教・宗派多様」の流れから、この辺りで禅宗について項目を設けたいと思います。

禅宗は自力本願の宗派です。

禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)です。文字には拠らない、経典にも拠らない、説明文も無し。自ら考えよ、と言うのが禅宗です。

臨済宗

日本に入って来た最初の禅宗臨済宗でした。

明菴栄西南宋から持って帰ってきたものですが、初めは日本の仏教界から受け入れられず、止む無く鎌倉で布教を始めます。また彼は、京都で受け入れられる様に、他の宗派も併せて学べるように工夫しました。

臨済宗では師から公案(宿題)が出されます。弟子は座禅を組みながらそれを工夫して答えを出します。答えが出たら、師に正解かどうか尋ねて正しかったら先に進みます。間違っていたら、やり直し。それでも駄目だったら更にやり直し、と果てしなく師と弟子の問答が続きます。答えが得られれば、次にもう一段階上の難しい公案が出されます。この方式を看話禅(かんなぜん)と言います。

臨済宗の座禅は対面座禅と言って、壁を背にして行います。勿論、対面座禅とは言っても座禅中は沈黙を守り、問答はしません。問答の時間は別枠で設けてあります。

曹洞宗

曹洞宗道元禅師が日本に伝えました。

道元禅師は初め宇治で興聖寺を開山し、そこで説きましたが、旧仏教からの排斥に遭い、越前に永平寺を開き本山とし、そこを修行道場としました。

曹洞宗の特徴は、只管打坐(しかんたざ)と言って、只管(ひたすら)座禅をします。これを黙照禅(もくしょうぜん)と言います。

曹洞宗の座禅は壁に向かって座禅をします。壁面座禅です。達磨大師と同じ方法です。

朝廷や鎌倉幕府の権門から距離を取り、越前の山奥で修業に励んでいます。

そういう訳で、朝廷や幕府からの直接的な弟子は少ないです。但し、全く無かったかと言うと、上杉謙信の様に、曹洞宗天室光育の膝下で教育を受け、大いに影響を受けた武将もおります。なお、道元は、末法思想は方便に過ぎないと否定しております。

道元禅師は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を著しました。

 

鎌倉期の禅僧

鎌倉期の主だった禅僧の名前です。(臨)は臨済宗、(曹)は曹洞宗の略です。

 

明菴栄西(臨) みょうあんえいさい or ようさい1141—1215

建仁寺開山。臨済禅を日本にもたらした僧。茶祖。「7 明菴栄西禅宗と茶の種を伝える」「8 栄西、第一次渡宋」「9 栄西、第二次渡宋」「13 背振(せふり)の茶」「14 栄西、鎌倉に下る」「15栄西禅師と明恵上人」を参照

 

道元(曹) どうげん 1200—1253

曹洞宗の開祖。永平寺開山。「正法眼蔵」を著す。仏性伝燈国師。 

 

弧雲懐奘(曹) こうんえじょう 1198—1280                

道元弟子。正法眼蔵を整理・筆写し 、現在残されている同書は全て懐奘写本を底本とす。また、道元が日頃語った法語を纏めた「正法眼蔵随聞記」を著す。永平寺二世。

 

円爾(臨) えんに 1202―1280

東福寺開山。聖一国師駿河に茶の種を伝え、静岡茶の祖。

 

宗峰妙超(臨) しゅうほうみょうちょう1283—1338 (=大燈国師)

 大徳寺開山。花園天皇離宮を禅寺にするにつき、山号寺号を正法山妙心寺とし、妙心寺開山に弟子の慧玄を推挙して入寂。禅風は厳格。興禅大燈と高照正燈の国師号を賜る。

 

大休正念(臨) だいきゅうしょうねん1215—1290

 南宋からの渡来僧。建長寺住職、円覚寺住職。北条時宗北条貞時北条宗政が参禅。

 

蘭渓道隆(臨) らんけいどうりゅう1213—1278  

 南宋からの渡来僧。北条時頼が帰依。建長寺開山。大覚禅師

 

無学祖元(臨) むがくそげん   1226—1286

 南宋からの渡来僧。蘭渓道隆の後継。建長寺住職。円覚寺開山。北条時宗の師。南宋に居た時、敵が刀を振り下ろそうとする刹那に、刃の下で詠んだ臨刃偈(りんじんげ)が有名。「莫煩悩」「莫直去」の偈をもって元寇に迷う時宗を励ます。「驀直進前」の成語の元。

 

一山一寧(臨) いっさんいちねい  1247—1317

元からの渡来僧。元からの朝貢要求使者として来日。処刑を免れ修善寺に幽閉されるも、後に鎌倉に身柄を移される。1293年、鎌倉大地震で倒壊・炎上した建長寺を再建し住職となる。南禅寺三世住職。一山国師

 

北条時宗(臨) ほうじょうときむね 1268—1284

鎌倉幕府8代執権。2度の元寇に対処。蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元に参禅し印可を受ける。元寇で亡くなった者達を、敵味方区別なく弔う為に円覚寺を創建、開祖。

 

覚山尼(臨) かくさんに 1252—1306

北条時宗正室東慶寺(縁切寺)の開山。

 

夢想疎石(臨) むそうそせき 

 夢想国師。後醍醐帝や足利尊氏・直義からも尊崇される。「夢中問答集」は足利直義との対話記録。作庭に非凡の才能を発揮。枯山水の完成者。天龍寺西芳寺を作庭する。他多数の作庭有り。漢詩、和歌を能くす。