式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

60 建武の新政(1) 荘園制度からの考察

国衙領(こくがりょう)と荘園

権力者は富を欲し、富者は権力を望みます。

上皇摂関家をはじめ貴族達は荘園を沢山持っていました。有力者の荘園は税金を免れていましたので、少しでも土地を持っている者達は税金を逃れようと、有力荘園に自分の土地を寄進しました。こうして寄進地系荘園が日本中に広がりました。

と言う事は、税金を納めない土地が増え、国庫の財政が痩せ細って行く事になります。

朝廷は国衙領(国有地)に受領を派遣し、その土地から上がる収穫や収益を集めさせ、朝廷に送らせていました。この仕事は「22  源氏の諸流」の項で述べた様に、結構副収入が期待でき、旨い汁を吸える仕事でした。

一方、荘園領では、領主が都に留まりながら、信頼のおける人物を派遣して管理を任せていました。信頼のおける人物と言うのが、臣籍降下した者達で、清和源氏桓武平氏達などがそれに当たります。

臣籍降下は口減らしとリクルート

子孫繁栄を願うのは誰しもの事です。天皇家にしても同じです。けれど、財産を減らさない為にも、将来的に権力闘争になりそうな芽を摘んでおく為にも、皇太子以外のその他大勢の子供達を排除しなければなりません。そこで、子供達を臣籍降下させます。彼等を失業させない為に、出家させたり荘園の監督官にしたりします。荘園の監督官になれば、そこに住み着きながら、収入を得られるので、彼等にとっても悪い話ではありません。

荘園の蚕食

源頼朝臣籍降下した源氏の子孫の一人です。同じく臣籍降下した平氏を頼朝は滅ぼしました。彼は鎌倉幕府を開き、武家政権を樹立します。

源頼朝は、源平合戦で一緒に戦った御家人達に恩賞を与えなければなりません。彼は謀反人探索と治安維持の為だからと言って、強引に朝廷に掛け合って守護と地頭を各地の荘園に送り込みました。そのお蔭で御家人達は土地を得る事が出来ました。彼等は与えられた土地の治安と収穫物の収納を担いました。

そこで働く農民たちは領主に納める年貢と、守護・地頭に納める「みかじめ料」の両方を納めさせられました。二重支配の始まりです。(「29 執権北条氏(3) 北条泰時御成敗式目」の項の「余談『吾妻鑑』の内、高田郷地頭重隆公領妨害の事』を参照)

やがて、守護・地頭達は荘園領主達の実入りを掠め取り、私腹を肥やす様になりました。私腹を肥やして武力を増強しました。髄虫(ずいむし)が稲を食害して枯らしてしまう様に、彼等は荘園に巣食い、実質的な支配力を増しました。それに反比例して、都に居る荘園領主達の懐事情は寒くなりました。

八条院

「42 南北朝への序曲」の項の「余談 長講堂領と八条院領」でも述べました様に、後白河法皇が所有していた長講堂領と、美福門院が所有していた八条院領の二つの荘園を合せると、日本の有効利用できる土地の半分近くの面積になります。

八条院領は代々大覚寺統が相続してきました。後醍醐天皇大覚寺統ですから、八条院領を受け継いだ訳です。莫大な財産です。ところが、実際には守護・地頭の武士達に蚕食されており、期待していた通りの財産ではありませんでした。おまけに「両統迭立」の名の下に、天皇の位まで武士達の指図に従わなければならない状況に陥っていました。

これって何なのだ! 天皇は国を統べるべきものなのに、何もかも武士の言いなりになっているではないか!

両統迭立天皇になる順番が回って来た時、後醍醐帝がそう考えたとしても不思議ではありません。武士を排除すべし。巣食っている荘園から彼等を追い出し、日本中の土地所有を一旦チャラにして改めて貴族達に分配すべし。その為に幕府を倒すのだ、と。朕がやらなきゃ誰がやる?

後醍醐天皇の討幕への異常なまでの執着と情熱は、その辺に動機があるのではないかと、婆は見ています。

1333年6月、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇が京都に戻って最初にしたことがあります。

それは、幕府によって帝位に就いた光厳(こうごん)天皇廃帝にし、自分が復帝する事でした。彼は復帝とは思っていません。たまたま討幕運動で留守にしていただけで、自宅に戻ればそのまま続きをしていると言う感覚でした。彼は、留守中に帝位に就いていた光厳天皇を無かった事にしたのです。

彼は、天皇としての権力と威徳を以って土地私有の権利を全て取り上げてしまい、改めて、土地を天皇の綸旨によって自ら分け与える事にしました。

さあ、大混乱が始まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

59 鉄と刀

製鉄事始め

天下五剣を生んだ背景には「鉄」の存在があります。

縄文時代の長崎小原下遺跡や、弥生時代中期の福岡県赤井手遺跡に鉄を作った形跡があるそうです。当時は朝鮮半島から鉄鉱石を輸入して鉄を作っていたそうです。

562年、任那(みまな)日本府が新羅に滅ぼされると鉄鉱石の入手が困難になり、新たな鉄の入手先を探す様になりました。そこで見つけたのが「砂鉄」という鉄でした。

豊富な砂鉄

砂鉄は、花崗岩が風化して出来た砂や土に含まれています。

花崗岩と言うのは、墓石などでよく見かける御影石と同じです。

花崗岩はマグマの奥深くでゆっくりと冷えて固まった火成岩なので、地球を構成している様々な元素を含んでいます。勿論鉄も含まれています。花崗岩は大変固い石ですが、石英や長石や黒雲母の集合体なので、それぞれの熱膨張率が違い、熱がかかると脆くなります。

日本列島は火山列島です。花崗岩は日本全体に分布しています。特に、阿武隈地方、関東北部、岐阜一帯の山脈、近畿地方、山陽・山陰地方、北九州とその範囲は広いです。

花崗岩は数千万年~数億年かけて風化して砂や土になります。こうして出来た黄土色の砂が真砂土(まさつち or まさど)です。これらの砂や土には鉄が含まれています。

京都の刀鍛冶が輩出した粟田口や三条と言う土地は、比叡山大文字山などの麓にあります。比叡山大文字山花崗岩で出来ています。花崗岩帯と川と森林に恵まれた土地に刀の生産地を重ね合わせると、見事に一致します。

大鍛冶と小鍛冶

能の「小鍛冶」で言う小鍛冶とは刀鍛冶の事です。小規模の鍛冶屋という意味ではありません。それに対する「大鍛冶」と言うのは、鉄の採掘業者や精錬業者の事を指します。
当時の砂鉄の採集の仕方は、山砂を渓流に流し、鉄の重さを利用して選別する比重選別法でした。そうやって集めた真砂砂鉄(磁鉄鉱)を、たたらで粗鋼を作り、それを砕いて更に鋼を作り、更に精錬して玉鋼(たまはがね)にします。赤目(あこめ)砂鉄(チタン鉄鉱)の場合は、少し方法が違うようです。

聞く所によると、砂鉄13t、炭13tを三昼夜燃やし続けて2.8tの鋼を作り、その2.8tを更に精錬して玉鋼を作るのだそうです。結果、出来上がる玉鋼は1tだそうです。

話によると、砂鉄のみで作る玉鋼では国内の刀の需要を賄いきれず、輸入物の鉄鉱石にもかなり依存していたのではないかと、言う人もいます。(室町時代後期には明へ36,000振りの刀を輸出していました。)

大鍛冶は、出来上がった玉鋼を小鍛冶に卸します。

小鍛冶はこれを鍛錬します。鍛錬して行く過程で、鉄の強さを引き出し、鉄の脆さを粘りに変えて、刀に仕上げていきます。

古刀と新刀

豊臣秀吉が南蛮鉄を輸入し始めると、刀鍛冶達も南蛮鉄を用いて刀を作り始めます。

この頃を境にして、南蛮鉄到来以前を古刀、それ以後を新刀と呼ぶようになります。天下五剣は皆古刀です。

世界各地には鉄にまつわる民間信仰があります。鉄を邪悪な神として忌避する習俗もあれば、鉄は魔物を斃す善の神として崇める地域もあります。日本では亡くなった方のご遺体に短刀を置き、悪霊に邪魔されないで恙なく極楽浄土へ旅立てる様に見送ります。

刀は人を殺傷する為だけのものではありません。むしろ、その美しい光を以って普く世を平らかにする祈りの神器で有って欲しいと、婆は願っています。

この辺りをもっていよいよ鎌倉時代に一区切りをつけ、南北朝から室町時代へと筆を進めて参りたいと思います。前途に立ち込めるのは血煙ばかりの様な気がして、何とも気が重いです。

 

 

余談  白砂青松

日本の海岸風景を造っている白砂青松は、花崗岩が風化して出来た真砂土由来のものです。真砂土は石英や長石や雲母などが混ざっていますが、山から川に運ばれ、海の波に洗われると、長石などは早くに細かくなって失われ、白い石英が残ります。これが白砂青松の基になっています。

 

余談  真砂土の危険性

真砂土は、石が細かくなったザラメの様なもので、粘性の無い土です。

ここに雨が降ると、持ち堪えられなくなって流れてしまいます。これが土砂崩れや地滑りや土石流を引き起こします。たとえそこに森林があり大きい岩があって大丈夫そうに見えても、自然災害は森も岩も削り取ってしまいます。災害は何処でも起きます。先ずは逃げるが勝ちです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

58 天下五剣

伝説の名刀「小狐丸(こぎつねまる)」

「これは一条の院に仕え奉る橘の道成(みちなり)にて候。さても今夜帝不思議のお告げましますにより、三条の小鍛冶宗近を召し、御剣を打たせられるべきとの勅諚にて候ふ間・・・」

これは、能「小鍛冶(こかじ)」に出て来る冒頭の詞です。

ここに出て来る三条宗近(さんじょうむねちか)は平安時代に実在した刀鍛冶です。

能「小鍛冶」では、宗近は稲荷明神の化身を相槌方にして、見事に「小狐丸」と言う名刀を打ちます。この「小狐丸」の刀が本当に実在していると信じている人が大勢います。

世界の刀剣類の中で、日本刀は他の追随を許さない程優れた性質を持っております。そういう日本刀の中でも、天下五剣(てんごけんorてんごけん)と言って、名刀中の名刀と呼ばれる刀があります。(鎌倉時代に限らず、平安時代の作も含まれています。)

天下五剣

銘 三日月宗近(みかづきむねちか) 国宝

三日月宗近は三条宗近が作刀した太刀(たち)です。平安中期の作らしいです。

刃長 79.9㎝  元幅 2.97㎝  先幅 1.47㎝  反り2.8㎝

手元に近い下半分に三日月の様な刃文があり、それが銘の由来です。

三日月宗近」は足利義輝が所有していました。足利義輝は、上泉(かみいずみ)信綱と塚原卜伝(ぼくでん)から剣術を習った剣豪でした。けれども1565年、三好と松永の謀反により殺害されてしまいます。この時「三日月宗近」は三好氏の手に落ちてしまいます。やがて刀は豊臣秀吉の手に渡り、秀吉正室高台院の手から徳川秀忠に贈られ、徳川家の重宝となります。明治維新後個人コレクター所有になりますが、1992年、東京国立博物館に寄贈されました。

 

銘 童子切安綱 (どうじぎりやすつな) 国宝 

伯耆国(ほうきのくに)(現鳥取県中部・西部地域)の刀工・大原五郎大夫安綱が作刀した太刀です。製作は平安後期と言われています。

刃長 80.3㎝  元幅 2.9㎝  先幅 1.91㎝  反り2.7㎝

伝承では、安綱が坂上田村麻呂の為に作った太刀で、坂上田村麻呂は後に伊勢神宮に奉納、その後、源頼光が神宮参拝の折、夢のお告げによりその太刀を給わります。

その頃、大江山酒呑童子と言う鬼が居ました。源頼光は家臣の渡邊綱にその刀を貸し与え、鬼退治を命じます。渡邊綱はその太刀で鬼の腕を切り落としましたが、鬼は切り落とされた腕を取り戻そうと源頼光を襲います。頼光はこの太刀で酒呑童子を見事に討ち取ります。以来、その刀の銘を「童子切安綱」と申します。

童子切」は足利将軍家の所蔵となり、足利家から豊臣秀吉に贈られ、徳川家康、秀忠を経て松平忠直松平光長の手に渡り、津山藩松平家に落ち着きます。

江戸時代、罪人の死体を6人積み重ねて「童子切」の試し切りをした所、一気に下まで到達したばかりでなく、土台をも切ったと伝わっています。

明治維新後、個人コレクターの収蔵品になりましたが、戦後は東京国立博物館に収蔵されています。

 

銘 鬼丸国綱 (おにまるくにつな) 御物

「鬼丸国綱」は、山城国 (京都) 粟田口の刀工国綱の作刀した太刀です。

刃長 78.2㎝  元幅 2.88㎝  先幅 1.97㎝  反り 3.2㎝

北条時頼は夜毎に鬼の夢に悩まされていました。或る夜、太刀の化身が現れ・夢の鬼を退治したければ国綱の刀の錆びを落せと告げます。その通りにして、抜身の刀身を立て掛けていると、刀が倒れて火鉢の足の鬼の細工を斬ります。それ以来、時頼は悪夢を見なくなったとか。

1333年、新田義貞に攻められた北条氏は敗北、東照寺で800余人が自害をします。この時「鬼丸国綱」は新田義貞の手に渡ります。(44鎌倉幕府滅亡の項参照)

新田義貞斯波高経(しばたかつね)に討たれ、鬼丸は斯波高経の手に渡ります。

斯波高経足利尊氏に降伏し、鬼丸は足利尊氏の手に渡ります。

足利義昭織田信長に将軍職を追われ、鬼丸は信長に渡ります。

織田信長明智光秀に殺され、鬼丸は豊臣秀吉の手に渡ります。

この様な来歴に、秀吉は鬼丸の不吉を嫌い本阿弥家に預けてしまいます。

それでも豊臣家は二代で滅び、大坂城は落城します。

大坂城落城後は徳川家に渡りますが、徳川家も本阿弥家に預けっ放しにします。

明治維新になって、本阿弥家は預かっていた鬼丸を明治政府に届け出、ようやく明治天皇の御物として皇室に納められます。

 

銘 大典太光世(おおでんたみつよ)  国宝

大典太光世」は、平安時代後期に筑後三池(現福岡県)の刀工・初代典太光世が作刀した太刀です。

刃長 65.1㎝  元幅 3.5㎝  先幅 2.4㎝  反り 2.7㎝

足利義昭から豊臣秀吉に贈られました。この刀は霊力があり、病を治すと伝わっています。前田利家の娘・豪姫が病気になった時に、この刀を秀吉から利家が借り受けたところ、豪姫の病が治りました。豪姫は幾度か病に罹り、その度に秀吉から大典太を借り出す内、秀吉はついに利家にその刀を与えました。以降、前田家の家宝として現代にまで伝えられています。前田育徳会所蔵。

 

銘 数珠丸恒次 (じゅずまるつねつぐ) 重要文化財

日蓮上人が信者から護身用にと贈られた太刀です。作刀は備前守青江恒次です。

刀身 83.7㎝ 元幅 3.1㎝ 先幅 1.8㎝ 反り 3.0㎝

日蓮上人はこの太刀に数珠を巻いていましたので、数珠丸恒次という銘になりました。数珠丸は身延山久遠寺に納められましたが、行方不明になりました。それから約200年後の1920年(大正9年)、競売品の中から偶然発見されました。「数珠丸恒次」を元の久遠寺に返そうとしたところ、久遠寺側は元の刀と少し様子が違うと、受け取りを拒否。そこで、数珠丸を同じ日蓮宗本興寺に奉納しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

57 鎌倉文化(13) 工芸(織・漆)

舶来ものを珍重する気風は時代を問わず日本人にはあるようです。

元寇の後に途絶えていた大陸との交易も、幕府公認の貿易が再開されました。

日本の輸出品は、金・銀・真珠・水晶・琥珀・絹織物・硫黄・水銀・銅・鉄等々です。

元からの輸入品は、香木・漢方薬・陶磁器・仏具・墨蹟・宋銭・綾・羅・錦等々です。

鉱物資源や自然産品はさて置いて、大陸からもたらされるものに触発され、日本の工芸品も更に進歩して行きました。

輸出絹織物

日本が輸出していた絹織物は浮線綾(ふせんりょう)、繧繝(うんげん)などです。

浮線綾は、線を浮き織して丸文に菊花や蝶を織り出した布です。

繧繝と言うのは、寺院の柱などに蓮華や雲を描く時、紫・緑・赤・白など色の隈取をして美しく荘厳しているのを見かけますが、それを繧繝と言います。但し、輸出するのは「繧繝」模様の絹織物です。繧繝模様と言うのは、雛祭りのお内裏様が座っている畳縁の色鮮やかな縦縞模様の事です。恐らく、高松塚古墳の女性のスカートは繧繝模様ではないかと、これ婆の推測。

輸入絹織物

南宋や元から輸入した絹織物は、綾・羅・錦などです。

一番人気の輸入品は蜀江錦(しょっこうにしき)です。蜀江錦は紅地で連珠文や亀甲文が多く、文の中に獅子や鳳凰、花などを配した美しい文様です。蜀江錦は貴族の衣服に用いるばかりでなく、武士の鎧直垂(よろいひたたれ)等にも用いました。鎧直垂と言うのは鎧の下に着る直垂の事で、戦場での晴れ衣装でした。

後世、緞子や蜀江錦などは、名物裂(めいぶつぎれ)として茶道具の仕覆(しふく)などに珍重されました。

漆は、塗装剤・防腐剤・接着剤として縄文時代から利用されてきました。

奈良時代になると、漆の堅牢さを利用して、土造りの塑像に麻布を張り、その上から漆で塗り固め、漆が乾いてから土を取り出すという脱乾漆造(だつかんしつづくり)と言う手法で、仏像を作る事もありました。興福寺の国宝・阿修羅像は脱乾漆で作られています。

この様に、漆は日常でも仏像や美術品などで日本人に馴染みの深い素材です。漆塗りの仏具、調度品など金箔を張り、蒔絵を施し、鎌倉時代になると一層技術の深化が見られる様になりました。

三島大社に奉納されている北条政子の「梅蒔絵手箱」は、種々の漆の技法が施された化粧箱です。その手箱は白楽天の詩を意匠化したものです。その様に詩や和歌を題材にして蒔絵・螺鈿で調度品を飾るという趣向は良く使われました。この流れは江戸時代になっても続き、国宝「初音の調度」の傑作が生まれます。

螺鈿(らでん)

螺鈿細工は、紀元前1000年頃、中国の周の時代に既に始まっていましたが、唐の時代になり日本に伝えられました。仏具や調度品などが螺鈿で装飾され、さぞかし見事なものが沢山あったに違いないと思うのですが、残念ながら兵乱の時代が長く続き、調度品で残っているのは殆どありません。灰燼に帰したと思われます。それは、何も螺鈿細工だけでは無く、上記の漆の工芸品も、或いは屏風や日常雑貨も、かなり失われてしまっています。鎌倉時代になり武家政権がある程度安定して来ると、遺された物も少し多くなります。

螺鈿は単なる漆よりも堅牢だと言われています。螺鈿の鞍や螺鈿の太刀、螺鈿の胡籙(やなぐい(矢を入れて腰に着けるもの))など、武具を美々しく飾る様にもなりました。

「時雨螺鈿鞍」などは慈円の歌「わが恋は松を時雨に染めかねて真葛原に風さわぐなり」をテーマにして作られており、武具に恋とはなかなかの奥床しさです。螺鈿の鞍は当時随分流行ったようです。 

 

余談  蜀江錦(しょっこうにしき)

蜀江錦は、元々は蜀錦(しょっきん)と呼ばれていました。蜀錦は、中国は蜀の国・現在の四川省で織られていた錦で、紅色を基調色とした織物です。この地方では紅花を栽培しており、その紅花で染色したものを、蜀の国に流れる川で洗うと発色が美しくなりました。その川を蜀錦に因んで錦江(きんこう)と称し、蜀の都・成都を錦城(きんじょう)と呼びました。蜀錦は蜀紅錦(しょっこうにしき)と、真ん中の字を「紅」で書いていたものが、日本に来て「江」の字に変わりました。錦江の「江」です。

 

余談  初音の調度

徳川家光の長女・千代姫が徳川光友に嫁ぐ時に作らせた婚礼調度の事をさします。

初音の調度は、源氏物語の初音の帖に出て来る和歌の

「年月を松にひかれてふる人にけふ鶯の初音きかせよ」

を主題にして作られた調度類で、漆工芸の粋を集めた作品です。

 

余談  鎌倉彫

鎌倉彫は大陸の堆朱(ついしゅ)に想を得て、仏具用に日本で作られたものです。

堆朱とは、朱漆を厚く塗り重ねた上で、それを彫って浮き彫りの絵にしたものです。黒漆のものもあります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

56 鎌倉文化(12) 肖像画・宋画

肖像画

鎌倉時代肖像画で最も有名なのは、教科書にも載っている「伝源頼朝」像です。

これは「神護寺三像」と言って、神護寺で所有している三幅「伝源頼朝」「伝平重盛」「伝藤原光能(みつよし)」の肖像画の内の一幅です。三幅とも国宝です。

実は、これらの絵は「足利直義」や「足利尊氏」や「足利義詮」であろうと言う説が出ています。

いずれも使用されている絹布の由来、描かれた畳の縁の模様、冠や束帯の様子などから、科学的に、有職故実的に分析した結果だそうです。

神護寺にはこの三幅の他に重要文化財の「文覚(もんがく)上人」の肖像画もあります。

俗形(ぞくぎょう)

肖像画には、俗形像と僧形像の二つのタイプがあります。

俗形像と言うのは「伝源頼朝」の肖像画の様に衣冠束帯を着けた姿や、直衣に烏帽子を着用した公家姿で描かれた肖像画の事を言います。

水無瀬(みなせ)神宮所有の国宝・後鳥羽天皇(.藤原信実筆)がありますが、これも俗形像です。鎌倉期の天皇肖像画は殆ど俗形像で描かれています。

僧形(そうぎょう)

後白河院花園天皇は僧形で描かれています。

後醍醐天皇像は特殊な肖像画です。剃髪はしていませんが、袈裟を着ています。冠の上に冠を二重に重ねて被り、一見中国の皇帝風です。僧形像と言えるかどうか・・・

僧形姿で描かれている武士は、北条時頼北条時宗、金沢(北条)実時などがあります。

頂相(ちんそう or ちんぞう or ちょうそう)

写実性を最も表しているのが頂相と言う禅宗の高僧の肖像画です。

頂相は、後世の弟子が祖師の人品骨柄を拝して祖師の禅風を感得する為のものですから、出来る丈あるがままの姿を描きます。額の皺も垂れ眼もほうれい線も遠慮会釈なしに描き切るのは勿論ですが、それよりも、描かれた人物像が祖師そのものの全人格を醸し出す様にするのが第一の主眼になっています。

頂相は、まず初めに弟子が、師と向き合いながら紙に正確にデッサンをします。沢山描いたデッサンの中から、師が気に入ったものを選び、改めて絹布に本画を描きます。

国宝・無準師範(むじゅんしはん)

無準師範は臨済宗の僧で、南宋の人です。無準師範の弟子に兀庵普寧、無学祖元がおり、日本人の弟子では東福寺開山の圓爾(えんに(=聖一国師))が居ます。忘れてはならないのが、禅僧の画家・牧谿(もっけい)も無準師範の弟子です。牧谿は無準師範に絵を習いました。

圓爾は帰国する時、無準師範の頂相を持って帰りました。

蘭渓道隆、大燈国師、兀庵普寧、夢想国師明恵上人等々の頂相があります。

(47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗の項参照)

 

宋画

禅僧の入宋や渡来僧の交流が盛んになる中で、宋画の技術が日本に影響を与える様になりました。

大和絵は、日本の風俗や景色や物語を題材にして描かれた絵です。

唐絵(からえ)は、中国から伝来した絵画や、日本人画家が大陸の風俗や景色を真似て中国風に描いたものです。

宋画は、宋の人が描いた絵です。

宋画の代表作である徽宗の「桃鳩図(ももはとず or とうきゅうず)」と源氏物語絵巻を比べてみると、印象が大分違います。勿論、画題が動物と人物と言う具合に違うので、印象が違うのは当然です。

源氏物語絵巻」の描き方は線描きをして彩色しています。いわばぬり絵です。

「桃鳩図」は羽毛を感じさせる柔らかさと温みがあり、単なるぬり絵ではない事が分かります。写実なのです。

「桃鳩図」は対象物を正確に捉えて表現する技量と細密性、色の濃淡の連続した変化・ぼかしの技があり、その上で動物図鑑の写実とは違った気品を備えています。

このような宋画の在り方が、その後の日本の絵に多大な影響を与える様になりました。

 

 

余談  頂相語源 

 頂相の「頂」は頂上の「頂」です。この場合、頭の天辺と言う意味です。頭の天辺は自分自身も、又、相手からも見えません。二階から見下ろせば他人様の頭の天辺は見えますが、偉いお坊様を上から見下ろすなんて事はしません。そこで、頂相とは見えないものを描く、心の高み、禅僧の内面を描く、そういう意味があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

55 鎌倉文化(11) 仏画

絶え間ない戦乱、飢餓、疫病に加えて元寇と言う国難、それに追い打ちを掛ける経済の破綻の中で、人々の間に末法思想が更に強く深く広がって行きました。この時代は、多様な宗派が出現した時代です。信仰も様々な形が共存し始めます。

念仏宗と美術

極楽往生を念じる方法も、観仏往生に加えて、念仏往生が流行り始めました。

称名念仏は仏像や仏画を必要としないので、芸術の発展に余り寄与していません。

けれども、浄土宗や浄土真宗の寺では仏像を祀り、極楽もさぞやと思うほどに天蓋や金の瓔珞などで祭壇を美々しく荘厳(しょうごん)します。それは多分、信者の気持ちに沿う様に、私の信じている仏様の説く極楽はこの様なものだと、ビジュアルに見せる為のものでしょう。

村々のお寺での仏像の需要が大きくなり、快慶以後、仏像は工房による類型的な量産品に推移して行きます。絵も又、阿弥陀仏画像はもとより、来迎(らいごう)図や涅槃(ねはん)図も沢山描かれる様になります。(45鎌倉文化(1)運慶・快慶の項を参照)。これには粉本(ふんぽん)の存在が大いに貢献しています。粉本というのは下絵の事です。下絵が絵手本になって、同じ様な絵図を何枚も描くことが出来ます。

真言密教と忿怒(ふんぬ)尊像

真言密教では忿怒形(ふんぬぎょう)尊像が昔から描かれてきました。忿怒尊と言うのは物凄い形相で怒っている仏様の事です。国家護持の祈りや煩悩を打ち払う降魔の修法(ずほう)は、鎌倉時代になっても行われていました。いえ、むしろ、兵火を鎮める為に、益々描かれる様になりました。

不動明王が海の中の岩座に座り、紅蓮の炎を背負って睨みを利かす図は、元寇調伏の祈りと言われています。走り不動明王の図も、急いで九州の戦場に駆けつける明王の姿を描いたと言われています。西大寺愛染明王の持つ鏑矢が弘安の役の西に向かって飛び去ったと言う伝説もあります。

この外に毘沙門天、摩利支天等々、武を象徴する様な仏様が積極的に描かれています。

密教にも絵手本があります。名作を縮小転写して紙型を作ります。墨で線描きした白描図(はくびょうず)の紙型に色名をメモして書き入れてあったりするので、同じ作品を幾つも作るのに欠かせません。これを専門にする白描絵師もいました。金胎坊覚禅の「百巻抄」は白描画の出色の出来だと聞いております。

真言密教曼荼羅(まんだら)

聞く所によると、曼荼羅サンスクリット語パーリ語で「マンダ(本質)」と「ラ(所有する者)」の意味だそうです。

紀元前のインドの「マンダラ」とは、花を連ねた輪の意味だったとか。

それが紀元0年頃には、土で丸く築いた祭壇を指す様になり、更に4~5世紀頃になると、その祭壇に仏とヒンドゥーの神々を序列化して並べて祀る姿になったそうです。その丸い祭壇が次第に塔の様に高くなったそうです。チベットに入ると床に砂絵で描く様になります。仏教が中国に入ってくると、インドの三次元のマンダラが二次元に圧縮されて布に描かれる様になったそうです。

曼荼羅の意味は、婆には全く分かりません。多分、と想像するのですが、人間の精神の一つ一つの要素を擬仏化して、その作用とか、要素同士が影響を与え合う距離とかを図式化して、それを宇宙全体に広げた絵ではないかと・・・婆の推測、門外漢の素人が寝言を言っているとお笑い下さい。

曼荼羅真言密教の根本教義だそうです。様々な仏様が規則に則って厳格に描かれます。お手本となったのは空海が日本に持って帰って来た曼荼羅図です。空海はそれを厳密に模写させました。その模写を忠実に写したのが現在残っている最古の曼荼羅図です。各地にある真言宗のお寺の曼荼羅は、それらを基にして描いたものだそうです。

本地垂迹曼荼羅(ほんちすいじゃくまんだら)

 神道でも、本地垂迹曼荼羅の図が描かれる様になりました。

本地垂迹と言うのは、仏教の仏様と日本古来の神様を一体化する考え方です。

春日(かすが)本迹(ほんじゃく)曼荼羅(重文)では、如来や観音のそれぞれの仏様の脇に束帯姿の神人や僧形の神人が描かれています。例えば、不空羂索(けんさく)観音の脇に鹿島武雷神(かしまみかずちのかみ)が描かれる、と言う具合です。

禅宗仏画

武士は禅宗に帰依し、質実剛健の気風と禅宗の無一物の思想から、釈迦牟尼仏の仏像の外、禅寺堂内の荘厳はすっかり取り払われ、簡素化されてしまいました。

 禅宗では、阿弥陀仏も来迎図も、まして曼荼羅も飾られていません。仏画の代わりに、頂相(ちんぞう)が描かれる様になります。

頂相と言うのは、禅宗の高僧の肖像画の事です。そして、禅画が描かれる様になります。 

 

余談  掛け軸の鑑定

日本画の修行は、伝来の粉本や絵手本を寸分違わず写し取る事から始まります。転写、模写、臨画など、あらゆる手法で「そっくり画」を描く、それが修行です。弟子の技量が 高ければ、本物と作品を区別するのが難しくなります。よく、美術館で同じものを見たから、これは本物に違いないと、高額で掛け軸をお買いになる方がおりますが、とても危ない橋に見えます。或る鑑定家に伺いました。線の勢い、紙の質や顔料の質なども観察すると良いと。紙の経年劣化も誤魔化せるそうですので、用心、用心。

 

 

 

 

 

 

54 鎌倉文化(10) 絵巻物

歌を詠み管弦の遊びに興じる大宮人から、軍馬を駆り雄叫びを放つ武士の世に変わると、光華やぐ昼から光が消え、芸術も急に陰った様な感覚に襲われます。

けれどそれは、外出先から帰って玄関に入った時に感じる一時の暗さであって、目が慣れると、そこに様々に優れたものが見えてきます。

それ迄の絵巻物の人物は、引き目鉤鼻の類型的な顔でしたが、平治物語絵巻になると眼に瞳が点じられるようになります。また、手が描かれるようになり、口を開けたり頬骨が描かれたりして、現実的な人物に近づいてきます。(源氏物語絵巻では手が描かれる場面は少ないです。)

絵巻物は、扱う内容によって、寺社の縁起物、祖師や偉人の伝記物、軍記物、仏法説話などに分類できます。鳥獣戯画はこの分類からはみ出して独立したジャンルを作っています。

 主な絵巻物

北野天神縁起絵巻(承久本) 国宝

鎌倉時代初期のもので、菅原道真の 生涯と、失意のうちに亡くなった道真の怨霊が復讐を果たしていく物語です。承久本、正嘉本、弘安本、建治本など幾つかの絵巻が作られています。承久本は縦52cm、長さ80m。紙本着色。

当麻(たいま)曼荼羅縁起絵巻 国宝

信心深い中将姫が当麻寺に入り、御仏に会いたいと念じながら蓮糸で曼荼羅を織り始めます。織物完成後、姫は阿弥陀仏の来迎を拝し往生します。紙本着色。金泥、截金使用。

法然上人絵伝 国宝

この絵巻は法然上人の一生を描いたものです。13世紀中頃に先ず2巻が作成され、その後、弘願本、増上寺本等々が出来ました。描き継ぎや改編などが行われ、15世紀頃迄描き続けられ、結局全48巻になりました。世代を超えて絵師も10人以上関わっております。紙本着色。縦32.7cm。

法相(ほっそう)宗秘事絵詞 国宝

法相宗の開祖・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)法師の伝記を描いたものです。唐からインドへ求道巡礼の旅を行い、万巻の経典を持ち帰って翻訳に生涯を捧げた物語を全12巻に収めて描いております。紙本着色。

華厳宗祖師絵伝 国宝

これは新羅華厳宗の祖師義湘と元暁の物語です。筋立ては安珍清姫に似ていますが、義湘に恋する善妙が海に飛び込み、竜に化身して船を背負って無事新羅に届ける、と言う物語です。これは、明恵上人が描かせたものです。兵乱で夫を処刑された女性達の為に善妙寺と言う尼寺を建て、善妙の話と女人成仏の話をして、女性を救済をしました。紙本着色。 

鑑真和上東征絵詞 国宝 

 1298年、鎌倉にある極楽寺の開山・忍性が絵師に描かせ、唐招提寺に奉納したもの。内容は、鑑真和上が幾多の困難を乗り超えて日本に渡来した物語です。紙本着色。全5巻。

平治物語絵巻 国宝

1159年に起きた平治の乱を絵巻にしたもの。初め15巻位あったそうですが、現存するのは、ボストン美術館静嘉堂東京国立博物館の合わせて3巻だけです。あと断簡が幾つかあるようです。群集描写、合戦の有様、武具甲冑などの精緻な描き込み、人物の表情など合戦絵の最高傑作と言えるでしょう。紙本着色。

蒙古襲来絵詞

1274年の蒙古襲来の時(文永の役)と1281年の弘安の役の両度に亘り、肥後の御家人竹崎季長(たけざきすえなが)は、自分の華々しい武功を子孫に伝えるために描かせた、と言われています。季長はこの絵を神社に奉納しております。

鳥獣人物戯画 国宝

高山寺に伝わっている絵巻物で、甲・乙・丙・丁の4巻あります。近年の研究により、部分的に入れ替えがあったりしているようです。詞書はありません。擬人化されたウサギ、サル、カエルなどが天真爛漫に遊び興じている様や、架空の動物などが描かれております。

佐竹本三十六歌仙絵巻

残念ながら、この絵巻は1919年に絵巻の形を失い、分割して切断され、個々の好事家の手に渡ってしまいました。

絵解き絵巻(説教絵巻)

九相図(くそうず)、地獄絵図などの仏法のお説教をする為に、描かれた絵巻物です。義母が小さい時、お寺のお説教で地獄絵図を見せられながら、絵解きを聞いたことがある、と話していました。とても怖かったそうです。数年前に義母は102歳で天寿を全うしましたので、この話は100年くらい前の話です。

 

余談  四大絵巻

日本の四大絵巻と呼ばれるものに、次の四つがあります。

1 源氏物語絵巻

2 伴大納言絵巻

3 信貴山縁起絵巻

4 鳥獣人物戯画絵巻

(以上の内、1,2,3は平安時代のものなので、鎌倉文化の範囲から外しました。)

余談  九相図

人間が死んでから骸骨になるまでの九つの姿を現わした絵です。