式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

83 室町文化(10) 連歌

連歌の始まり

倭建命(やまとたけるのみこと)が東北の遠征から帰る途中、供の者にお訊ねになりました。

『新治(にいばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』(新治 筑波を過ぎて何日経ったのだろうか?)

御火焼(みひたき=篝火を焚く人)の翁が歌ってこう申し上げました。

『かがなべて夜(よ)には九夜(ここのよ) 日には十日を』(日々を数えてみますと、夜は九日、昼は十日でございます)

倭建命の歌の問い掛けに、翁が5.7.5の歌で答えました。二人で一つの歌に成したこの故事が、連歌の始まりと伝えられています。

『菟玖波集(つくばしゅう)の名前は、関白太政大臣二条良基がこの故事に因んで付けたものです。

 

『菟玖波集』

『菟玖波集』は連歌ばかりを集めた准勅撰連歌集です。

二条良基は、連歌師の救済(くさいorぐさいorきゅうせいorきゅうぜい)と協力して連歌を編纂し、1356年(正平11年(延文元年)に『菟玖波集』を出しました。翌年、佐々木道誉の尽力で准勅撰に昇格しました。

1356年と言えば、前年に南朝北朝が京都奪還を巡って攻守入り乱れて戦っており、南朝に拉致されていた光明上皇が解放され、京都に戻って来た時期でもありました。

『菟玖波集』は、二条良基と言う時の関白の後ろ盾を得、准勅撰集になった事で連歌の地位が上がりました。当時、連歌はとても盛んでしたが、和歌より下に見られていました。これにより連歌が独立した文学のジャンルに認められる様になったのです。

連歌の仕組み

連歌と言うのは、一言で言えば二人以上でする和歌の連想ゲームです。

しりとり遊びですと、例えば春ーるりーりすーすずめーメダカ・・・と続いていきますが、連想ゲームですと、春ー鶯ー梅ー匂いー思い出ー物思いー恋・・・と、末尾の発音には捉われずに、印象の連想が広がって行きます。これを和歌でやるのが連歌です。

連歌には色々な式目(規則)があります。

和歌の5.7.5ー7.7の始めの5.7.5の前句と7.7の後句を別々の人が詠みます。5.7.5に付ける後ろの句の7.7を付句と言います。付け句を詠んだ後ろの次の人が再び前句の5.7.5を詠みます。こうして次から次へと歌が詠まれて行きます。句を100回詠むのを百韻(ひゃくいん)と言います。千回続けるのを千韻と言います。50回や36回(歌仙)と言うのも有ります。

実際にどうなっているのかを菟玖波集巻第一から抜粋してみます。

最初に百韻連歌と銘打って御嵯峨院御製の句が出てきます。菟玖波集に記載されているのは、その内のほんの一部です。「春はまた・・薄霞」の次に続く「山の・・」は別の連歌会で詠われたものです。このように、百韻連歌といっても、その全文を載せているのでは無く、良いとこ取りの数句が入集(にっしゅう)されているだけです。

そういう数え方で菟玖波集の全20巻に収められている句は2,190句です。

原文

菟玖波集巻第一

宝治元年八月十五日夜百韻連歌

山陰(やまかげ)しるき雪の村消えと侍るに

       後嵯峨院御製

新玉(あらたま)の年の越えける道なれや

 絶えぬ烟と立ちのほる哉

        前大納言為家

春はまた浅間のたけ(岳)の薄霞

 山の梶井の坊にて百韻連歌侍りけるに

 猶(なお)も氷るは しか(志賀)の浦波

     二品法親王(にほんほっしんのう)

雲間より道有山と成りぬるに

 月かけ寒く夜こと更(ふ)けぬれ

      前大納言尊氏(=足利尊氏)

山の陰にある雪の村消えは新年が山を越えて来た足跡でしょう。家々も賑わい竈の煙も立ち昇っています。烟と言えば、浅間の岳の烟は薄霞の様です。(山の・・以下の意訳は略)

三句をずいよう流に超意訳してみました。合っているかどうか不安です。

菟玖波集はこのように、ずらずらと区切りなく続いています。良く読み込めばその区切りが分かるでしょうが、婆には分からない事の方が大きく、参ってしまいました。

 

菟玖波集に出て来る作者

菟玖波集に入集(にっしゅう)されている作者で上位5者は次の通りです。

救済127句、二品法親王90句、二条良基87句、佐々木道誉81句、足利尊氏68句。

その他に藤原為家、善阿、藤原家隆、後嵯峨院、周阿、足利義詮など合わせて500名以上に及びますが、名前が分かっている人は450名くらいです。

連歌は二人以上で行う歌の会です。連歌の付き合いは、皇、公、武、僧の広くに渡っていました。それ故、単に文学的サロン、と言うばかりでなく、皇公武僧の縦断的かつ横断的な交流の場であり、政治的に非常に重要な役割を果たしていました。

 

猫また騒動

『奥山に猫またといふものありて』で始まる『徒然草』第89段にこんな話があります。

奥山に「猫また」という化け物がいて、人を喰うそうだという噂がありました。何阿弥陀仏と言う連歌の僧が、或る時、連歌の会が遅くなって夜になってしまいました。びくびくして夜道を歩いてようやく我が家の前に来たところ、急に化け物に襲われて首の所を喰いつかれそうになり、慌てて防ごうとしますが、なおも飛びついて来ます。「助けてくれー!」と叫んで小川に転げ落ちた所、連歌の賞品を落して濡らしてしまいました。不思議にも命拾いをしたのですが、後で、それが飼っていた愛犬だったと分かった、というお話です。

徒然草』の著者・吉田兼好二条良基の和歌の弟子です。二条派の和歌の四天王の一人に数えられています。四天王というのは浄弁、頓阿、慶運、兼好です。良基は「吉田兼好は歌が上手ではあるけれど、イマイチだ」と評しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

82 室町文化(9) 東山御物

東山御物(ひがしやまごもつ)と言うのは、室町幕府八代将軍・足利義政が東山山荘に集めた書画文物の事を言います。これ等の蒐集品は義政が集めた物ばかりでなく、歴代の将軍達が集めた物も入っております。

東山御物の蒐集品群は、宋・元・明との交易によって集めた唐物が中心になっております。

これ等の書画は将軍家に仕えていた同朋衆の能阿弥、芸阿弥、相阿弥の親子三代によって管理されていました。どれも皆、国宝や重要文化財級の至宝の数々です。

その中でもお茶に関して言えば、大名物(おおめいぶつ)と呼ばれる茶器類があります。

大名物の中には数奇な運命を辿っているのが少なくありません。

例えば、銘「初花」という唐物肩衝茶入(からものかたつきちゃいれ)は、名だたる所有者の手を経て今日に至っています。

「初花」は南宋で焼かれた物です。それが日本に輸入されて足利義政の手に入ります。それから次の様に所有者が変わります。足利義政→(茶人二人を経由)→織田信長→(本能寺の変で一時不明)→徳川家康羽柴秀吉宇喜多秀家徳川家康→(松平忠直の子孫に伝承)→徳川幕府→徳川記念財団

その外にも、大名物には窯変(曜変)天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)などがあります。窯変天目茶碗は、漆黒の夜空に星が輝いている様な美しい茶碗で、世界に三盌しかありません。

 

『御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)

 『御物御画目録』と言うのは、足利将軍家が所有している書画をリストアップしたものです。

書画の名前と内容と作者が一行ごとに記録されています。

例えば『圓石観音 韋駄天 竜 牧谿和尚』と言う具合です。

目録に載っているのが90点。その内牧谿のが36点あります。徽宗皇帝の作品が3点収められています。牧谿の作品がかなりの割合を占めている所を見ると、牧谿がよほど気に入っていたのでしょう。末尾に『鹿苑院殿已来御物 能阿弥撰之』とあります。鹿苑院足利義満法名です。

 

『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

『君台観左右帳記』は、作品をただ列挙するのではなく、上の部の作品、中の部の作品、下の部の作品と、作品の善し悪しを分類して整理し、記載しています。

本の構成としては、初めに絵の分類別リストがあります。その後に書院飾りの項目があります。軸の掛け方、花瓶の位置、燭台、香炉の位置などが図で示されています。棚飾りも、どの棚に何を置くかが具体的に描かれております。

『君台観左右帳記』が国立国会図書館デジタルコレクションに載っていましたので、開いて読んでみましたら、婆が習った床の間飾りとほとんど同じでしたので、びっくりしました。

残念な事に東山御物は、その後、足利将軍家の衰退と共にちゃんとした管理が行われなかったこともあり、かなりのものが散逸したり失われたりしてしまっています。

 

唐物趣味

鎌倉、南北朝、室町と時代が下がるにつれ武家は、政治や軍事、果ては経済まで世の中を牛耳る様になり、我が物顔に振る舞う様になりました。けれども、彼等がどうしても公家に敵わないものが有りました。それは、公家達が築き上げてきた文化に対してです。

確かに武士の上層部の人達の中には、和歌を詠み、連歌を楽しみ、茶の湯を嗜む「文武に優れた人」と評判をとる人達も居ました。が、それはほんの一握りでした。文化の背景というか、その深さや広がりの点に於いて、公家に比べて武家は圧倒的に劣っていました。

武家は公家に、破壊と新潮流をもってそれに対抗します。それがバサラと禅宗です。

腕力に任せ、財力に任せ「どうだ、凄いだろう」と言わんばかりに傍若無人に振る舞うバサラ族。ゼニ・カネで闊歩する彼等は、大陸から輸入した高価な唐物で身の回りを飾り、悦に入っていました。鎧の下に唐織物の胴服を着て、陣羽織を羽織って戦に出陣しました。闘茶の賭け物に唐物の絵画、墨蹟、骨董、什器、織物などを並べました。

そうなると、日本の職人達も負けられません。唐織物に追いつこうと、蜀江錦や緞子などを見様見真似で工夫しながら織物を作り始めます。染織技術の工夫は一段と進み、やがてそれが西陣織に発展して行きます。豪華な能衣装などにも使われ始めます。

 

侘びと華やぎ

禅宗では人間生来無一物と言い、執着心を捨てる様に説いています。簡素な生活を勧めています。面白い事に、そうは言いながら、高僧達の袈裟は金襴・錦などの超高級品で作られています。それは頂相図等から推察できます。山水画、道釈図、禅会図などの掛け物は、見事な裂(きれ)で表具されています。幽玄を演じる能の衣装は、染織の粋を集めた華麗な織物で出来ています。

禅宗的な侘びと、金満家的な華やぎが同居している文化、それが室町文化の特徴の様に思えます。一見チグハグに見える取り合わせが、妙に調和しているのです。

 

工芸品

鎌倉の円覚寺に残る『仏日庵公物目録(ぶつにちあんこうもつもくろく)』によると、堂坊で使う什器は全て中国からの輸入品でした。

茶の湯が盛んになると唐物の茶碗が輸入される様になりました。それにつれて国産の茶碗作りも上向いて来ました。禅宗寺院で使う什器も初めは日本で生産できませんでしたが、やがてそれも出来るようになりました。刀剣や鎧の金工細工の腕がそれを支えました。

侘びとバサラが出会ったこの時代、混乱の中から新しい文化が生まれてきました。

 

 

余談  能阿弥、芸阿弥、相阿弥 

 能阿弥(のうあみ)は、元は武士で中尾真能(なかおさねよし or しんのう)と言いました。六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)と八代将軍・義政に同朋衆として仕え、足利家が初代から蒐集してきた書画骨董の鑑定や管理を行って来ました。将軍からは絶大な信頼を得て、書画庫に自由に出入りし、東山御物の制定を行いました。また、優れた作品に日常的に触れられたお蔭で、彼も一流の水墨画の絵師になりました。茶人にして連歌師表具師でもあります。

芸阿弥は能阿弥の息子です。名前は真芸(しんげい)。父と同じ様に足利義政同朋衆として仕え、絵師にして連歌師。鑑定家で表具師です。書画庫の管理を任されていました。彼は座敷飾りに通じ、書院飾りの指導などを行っています。
相阿弥(そうあみ)は芸阿弥の息子です。つまり、能阿弥の孫です。父祖と同じ様に足利将軍家に仕え、書画の管理や鑑定を行いました。連歌や茶道に通じ、絵も一流で、彼は狩野正信やその子の狩野元信に絵の指導を行っています。

 

余談  中興名物・名物

大名物に対して、「中興名物」や「名物」と言うのがあります。それ等は千利休やそれ以後の茶人・松平不昧(まつだいらふまい)などが「これは良いものだ」と太鼓判を押したもの(極め)を指します。

 

余談  御物(ぎょぶつ)と御物(ごもつ)

同じ文字を書きながら「ぎょぶつ」と読んだり「ごもつ」と読んだりします。読み方の使い分けは、皇室の宝物は「ぎょぶつ」。それ以外の宝物は「ごもつ」と読みます。

正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)

東山御物(ひがしやまごもつ)

柳営御物(りゅうえいごもつ) 柳営→将軍家の事。柳営御物と言った場合は徳川将軍家の宝物を指します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

81 室町文化(8) 水墨画

空山不見人   空山人を見ず

但聞人語響   ただ聞く 人語の響き

返景入深林   返景 深林に入り

復照青苔上   また青苔の上を照らす

この詩は、王維が作った『鹿柴(ろくさい)』という有名な詩です。教科書か何かで一度は目にした事があるのではないでしょうか。王維は自然を詩に写し取り、幽玄な世界を描き出しました。彼の『香積寺(こうしゃくじ)に過(よぎ)る』という詩など、正に水墨画の世界です。

王維は詩人です。しかも南宋画(又は南画)の祖と言われる程の絵の大家です。王維の『偶然作六首』という詩の中に『前身應畫師』という一節があります。自ら畫師(画師)である事を認めています。

 

文人

文人と言えば、隋や唐の昔からずっと中国の歴史の文化を担って来た人達です。彼等は学問(主に儒教)などを深く身に着け、詩作に耽り、書を能くする書斎人でした。

詩と書に卓越した人を詩書双絶の人と称します。これに畫(が)が加わると詩書畫三絶の人と称賛しました。意外な事に書聖・王義之、王献之も三絶の人でした。ただ、二人とも書が傑出し過ぎていましたので、絵の才能は霞んでいました。また、絵は画工職人が描くものと思われていましたので、誇り高き文人や士大夫(したいふ)から、詩や書よりも畫は下に見られていました。

こういう話があります。

唐の閻立本(えんりっぽん)は、母が武帝の娘という家柄抜群の文人でした。或る時、皇帝・太宗の命令で呼び出され、皆の前で絵を描く様に命じられました。立本は命令に背けず絵を描いたのですが、これをとても愧(は)じました。なまじ絵が上手な為にこの様な目に遭ったと言って、子供達に絵の習得を禁じました。とは言いながら、彼自身は生涯を宮廷画家として過ごし、歴代帝王の肖像画を描いて後世に名を残しています。

 

絵画

唐代頃から盛んに描かれたのは、聖人や帝王の肖像画、宮廷の人達の群像など人物中心の絵でした。又、花などの絵も多くの人に好まれました。絵は彩色してこそ完成品と思われていました。輪郭線のみで描かれた白描画(はくびょうが)の人物画もありましたが、それが受け入れられるのはずっと後になってからです。 

白描画でも無く、彩色画でも無く、筆一本で自在に描ける墨筆の奥深さに気付いた宋代の文人達は、水墨画に手を染める様になります。人物画など衣の襞や袖が風に翻(ひるがえ)ったりする様は、草書の運筆の緩急自在の筆運びに似ています。花鳥画に於いても、蘭・竹・梅が好まれました。蘭の葉の柔らかな弧線、表葉と裏葉の返り、梅の絵のごつごつした勁(つよ)い枝の線と花の清々しさなど、文人達を魅了するものでした。

宋元の梅墨図が鎌倉時代の中期から日本に輸入される様になり、日本人の梅好みもあって大いに持て囃されました。それらを絵手本にして日本人も梅墨図を描く様になりました。

 

道釈図(どうしゃくず)禅会図(ぜんねず)

梅墨図ばかりでなく、禅僧の渡来と共に、道釈図も日本にもたらされます。道釈図と言うのは、道教や仏教に関係した人物の絵を描いたものを言います。例えば、布袋や達磨、羅漢、仙人、頂相図(ちんそうずorちょうそうず)などの人物画です。

禅会図と言うのは、禅の悟りを助けるような、公案的な絵の事を指します。十牛図(じゅうぎゅうず)寒山拾得(かんざんじっとくず)などがその代表です。(参照:鎌倉文化(12)肖像画・宋画)

 

気韻生動(きいんせいどう)

山水画と言えば水墨画と言うイメージが有りますが、彩色された山水画も有ります。

日本に沢山入って来たのは墨一色で描かれた水墨山水画の方です。特に禅僧達は彩色画よりもモノクロームの絵に禅気を感じていたようです。色は本質を掴むのに邪魔だったのかも知れません。

画工達の描く絵は、正式には彩色を施した絵が多かったのですが、それに対して水墨山水画はどちらかと言うと、文人達の手遊(てすさ)びでした。

どういう訳か水墨山水画は描く人の品位が問題にされました。出自が立派で学があり人徳優れた人物が描くものだ、という変な思い込みが当時にあり、画業をもって生活する画工は、それに値しないと考えていた風があります。高潔風雅の人間が描いてこそ、山水画の神韻が表現できる、と言うのです。謝赫(しゃかく)の絵画論の『画の六法』第一に挙げられているのが、『気韻生動』です。(横山大観流に言えば、『絵にはその人の人格が現れる、人品が良ければその絵に品格が出る。人品卑しければその絵は貧しいものになる』と言うことでしょうか)

 

神仙思想

気韻生動の考えが良いか悪いかの論議はさて置いて、中国の水墨山水画は神仙思想に基づいています。

岩山が空高く聳え、雲が巻き、樹々が生え、渓谷が山間を走り、小さい庵が川の畔(ほとり)に結ばれている・・・そんな風景の山水画。(これ以降山水画と言えば水墨山水画の事を指す事にします)

桂林や黄山、廬山などの景色をテレビで見て、あゝ、さすが山水画の故郷だと、婆は感動しました。日本にはこの様な地形は見当たりませんもの。でも、しかし、あの山水画は、現代の画家がする様に、屋外にイーゼルを立てて写生するのとは違って、こんな所に住んで悠々自適に暮らせたら仙人の気分になれるだろうになぁ、という文人達の憧れの世界を描いたものなのです。詩の世界からインスピレーションを得て描いたり、或いは、且つて旅に遊んだ土地の景色を思い出しながら、頭の中で景色を再構成して仙境を描いたりしたものです。白居易の様に廬山の麓に引っ越す人もいました。天台山に登って禅の修行をした僧も数知れず。ですから、全く空想の絵だとは申し上げませんが、本当の写生とは違ったものなのです。

 

米芾(べいふつ)

米芾(米元章(べいげんしょう))という書家がおりました。宋の四大書家に数えられる程の書の大家ですが、彼は絵の大家でもありました。また、鑑識眼も高く、徽宗の蒐集物の鑑定に当たり、書画学博士にもなりました。彼は米法山水画と呼ばれる山水様式を生み、雲や霧など湿潤な空気観を表す画法を編み出しました。墨筆の水の含み具合によって描き分けたり、輪郭線を描かなかったりする方法ですが、これによっていよいよ深山幽谷の景色が可能になりました。彼の息子の米友仁(べいゆうじん)も書家で画家です。(参考:49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟)

 

牧谿(もっけい)

牧谿南宋から元の時代にかけての僧です。無準師範の弟子で、同門に無学祖元兀庵普寧(ごったんふねい)など日本に渡って来た禅僧がおります。日宋交流で、宋の色々な文物が日本に輸入されましたが、特に、牧谿水墨画は人気が高く、その作品の多くが日本に有ります。

牧谿は中国本土では余り人気が無く、評判も良くありませんでした。婆が思うに、多分彼は西湖の風光明媚な穏やかな景色に囲まれて住んでいましたので、画風も穏やかだったからでしょう。景色にしても動物や仏画にしても彼の絵は、文人達が峨々とした仙境を描き出そうとしたのとは違っていたので、宋では日の目を見ず、日本に作品が伝わって初めてその良さが理解されたのだと思います。日本には桂林だの黄山の様な景色はありませんもの。

牧谿が日本の画家達に与えた影響は大きく、長谷川等伯『松林図屏風』もその一つと言われております。

 

雪舟(せっしゅう)

室町時代の画僧で備中の国に生まれました。10歳で相国寺に入り、春林周藤の下で禅の修行を励み、天章周文について絵を学びました。30歳を過ぎた頃、周防(すおう)の国の大名・大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護を受けます。その後明へ渡航。中国各地を2年間巡り水墨画を学ぶと共に、写生を重ねました。この点、中国の山水画が観念的なものであるのに対し、雪舟山水画は写生を基にしています。国宝天橋立図』を含めて国宝6点、重要文化財13点あります。

 

余談  国宝・瓢鮎図(ひょうねんず)

如拙作『瓢鮎図』は禅会図です。画題は、足利義持が出題したものです。コロコロした瓢箪(ひょうたん)でヌルヌルしたナマズを捕まえるにはどうしたら良いか、という禅の公案で、不可能なものを可能にする工夫を問うています。これに対して31人の日本のトップクラスの禅僧達が詩文で答えています。

うわっはっはっは!できる訳が無かろうが、という答えや、ナマズが竹に登ったら捕まえるかのぅ、とか、面白い答えもあります。鮎はアユではなくナマズの事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

80 室町文化(7) 庭園

日本の作庭の基本は、自然の姿を写し取り、違和感なく住いに取り込む事に有ります。

自然信仰

古来の日本人は、八百万(やおよろず)の神が自然のあらゆるものの中に居る、と信じて来ました。神様は磐座(いわくら)や見事な大木を憑代(よりしろ)として降臨する、と言い伝えられていましたので、それらに注連縄(しめなわ)を張って大切に守ってきました。

浄土式庭園

仏教が伝来し、神道と仏教が共存する様になります。初め、仏教は国策として取り入れられましたが、信仰が広く深く浸透して行くにつれ、仏教を信ずれば死後は極楽浄土へ行けると云う風に変わって行きます。それならば、極楽浄土をこの地上に造ろうと言う貴族が現れます。阿弥陀堂の前に大きな池を造り、信者が西に向いて手を合わせられる様に伽藍を配置します。宇治の平等院毛越寺(もうつじ)などが代表でしょう。

寝殿造りの庭園

貴族達は大きな寝殿造りの前庭に、広々とした庭園を造ります。池を配し、そこに船を浮かべて遊びます。広庭では蹴鞠などに興じます。曲水の宴などを開き、詩歌に打ち興じます。そのような遊びや行事に応えられる庭、それが寝殿造の庭の役目でした。

神仙蓬莱式庭園

大陸から神仙蓬莱思想が伝わってきました。仙人が住むと言う不老長寿の桃源郷に人々は憧れました。海の彼方にあるという蓬莱山を真似て、池を造り、池の中に島を造り、そこに蓬莱山に見立てた石を立て、鶴や亀の姿に似せて石を組み合わせたりして庭を造りました。

縮景庭園

日本の美しい景色を縮尺して造った庭が縮景庭園です。築山や池や州浜などを配して、それを富士山や天橋立や住吉の浦などの名勝に見立てるという趣向です。

禅宗の庭

 森羅万象の自然と一体となって座禅を組む場、それが禅宗の庭です。

山や渓谷、滝や龍に見立てた石組などを配置し、できるだけ自然に近い形にします。

そう言う自然志向の庭もあれば、また、雲水に何かを問う様な、龍安寺の石庭の様に、石以外何も置かない庭も出現します。具象の庭、抽象の庭、いずれも禅宗の庭です。

 

庭造りは、それぞれの風土により、宗教観により、又、人々の生活様式により大きな影響を受けています。その楽しみ方も様々です。池泉回遊式庭園の様に池の周りを巡り歩いて鑑賞する方式や、書院や縁側に座って定点で眺める様に作られた庭も有ります。歩き回るも良し、座って眺めるも良し。日本の庭はどれも変化に富んでいて、味わい深いものが有ります。

 

『作庭記』

『作庭記』は、平安時代末期の橘敏綱(たちばなとしつなor藤原敏綱)が書いたと言われております。 この本は世界最古の作庭の書と言われております。主に、寝殿造りの庭の造り方が書かれているそうですが、『作庭記』に書かれている庭造りの要諦は現代でも立派に通じるそうです。石を立てようとするならば、まず全体の主旨を把握し、土地の様子を活かして行いなさいと書かれているそうで、造園家ならぱ一度は必ず読む本と聞いております。

 

夢想疎石

作庭の事を語るには夢想疎石を抜きには語れません。

夢想疎石は臨済宗の僧侶です。彼は作庭に天才的な才能を発揮しました。

夢想疎石は求道遍歴の旅人です。初め彼は天台宗の寺に入門しました。そこで天台宗真言宗を学びました。ある事を切っ掛けに仏教に疑問を持ち、禅宗に興味を持ちました。

建仁寺無隠円範(むいんえんぱん)に参じ、東勝寺無及徳詮(むきゅうとくせん)に参じ、建長寺葦航道然(いこうどうねん)に参じ、円覚寺桃渓徳悟(とうけいとくご)に参じ、建長寺痴鈍空性(ちどんくうしょう)に参じ、原点に戻って建仁寺無隠円範に参じ、更に建長寺一山一寧(いっさんいちねい)に参じ、松島寺(現瑞巌寺)で天台宗を学び、万寿寺高峰顕日(こうほうけんにち)に参じ、最終的に高峰から印可を受けました。

このように、道を求めて三千(参禅)里。夢想疎石は旅を続けました。京都や鎌倉はもとより、四国、近畿、東海、中部、関東、東北と、その行脚(あんぎゃ)の範囲は驚くべきものが有ります。修行を続けた疎石は『長い間、青空を求めて大地を掘っていた。無駄な努力をして随分余計なものを積み重ねてしまった』と言う意味の漢詩を詠んだそうです。

日本中を旅して、岩の上や洞で座禅を組み、自然の呼吸の中に身を置いて得たものが、彼の庭造りの基になったのでしょう。

以下の漢詩は、平成12年8月27日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものです。ネットにアップされていましたので引用しました。対談は天龍寺管長・平田精耕氏、京都大学名誉教授・上田正昭氏、ききて・峯尾武男氏のお三方で行われました。詩の前後の対話は略します。

仁人自是愛山静 仁人は自ら是(これ)山の静かなるを愛す

智者天然楽水清 智者は天然に水の清きを楽しむ

莫怪愚惷翫山水 怪(あや)しむ莫(なか)れ愚惷(ぐどう)の山水を翫(もてあそぶ)

只図藉此砺清明 只だ此れを籍(かり)清明を砺(と)がんと図(はか)るのみ

 

 

夢想疎石が作庭したと言われる庭 

夢想疎石の造った庭は沢山あります。その中でも代表的なものを挙げます。

西芳寺(京都市)

開山・行基。中興開山・夢想疎石。

兵乱による焼失2度。洪水による被災3度。浄土式庭園から禅宗の石庭に変わり、洪水と近くの川の湿気の影響で苔むす寺に変貌。通称「苔寺」。なお、鹿苑寺金閣慈照寺銀閣の作庭の手本になっています。重要文化財世界遺産特別名勝

 天龍寺(京都市)

開基・足利尊氏。開山・夢想疎石。

後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立。天龍寺船を明に遣わし、貿易による利益で建てる。

焼失6回、伏見大地震で倒壊。その後更に2回火災焼失(うち1回は禁門の変)。都合8回の火災。度重なる被災で、夢想疎石が作庭した当時の面影が残されている部分は少しだけです。特別名勝世界遺産

永保寺(えいほうじ)(多治見市) 

開創・夢想疎石。開山・元翁本元(げんのうほんげん)(=仏徳禅師) 

浄土式池泉庭園。天然の岩や崖を利用した庭園です。石組は亀石・鶴石などがありますが、全体面積に占める人工的石組の割合は僅かです。阿弥陀堂や開山堂の屋根には強い反りがあり、禅宗様の建物風です。名勝地。

瑞泉寺(鎌倉市

 開基:二階堂貞藤(にかいどうさだふじ)。開山:夢想疎石

 足利基氏が中興して瑞泉寺と名を改めました。建物の殆どは大正時代以降の再建です。庭園は、昭和になって発掘作業を行い、古図面に従って復元したものです。

岩壁に穴を彫って洞を造り座禅の場としました。岩窟のある錦屏山(きんぺいさん)の頂上に登ると相模湾と富士山が一望できるそうです。疎石は頂上に小さな亭を建て、そこでも座禅を組んだとか。

その他に夢想疎石が作庭に関わった寺

 等持院(京都市)、南禅院(京都市)、浄居寺(じょうこじ)(山梨市)、恵林寺(えりんじ)(甲州市)、宝寿院(山梨県市川三郷町)

 

余談  七朝帝師

夢想疎石は歴代の天皇から尊崇を受け、幾つもの国師号を下賜されました。

生前に夢想国師、正覚国師、心宗国師の号を下賜され、示寂後も普済国師、玄猷(げんゆう)国師、仏統国師、大円国師の号を賜りました。

 

余談  『夢中問答集』

夢想疎石の著書に『夢中問答集』があります。

足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)の問いに対し、夢想国師が丁寧に答えたものです。誰にでも分かり易く説明しているので、直義がこれを皆に見せたいと願い、足利氏の家臣・大高重成が出版しました。奥書は

笠仙梵僊(じくせんぼんせん)が書いています。室町時代から江戸時代、現代に至る迄何回も出版されています。(参考:笠仙梵僊は元からの渡来僧です)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

79 室町文化(6) 銀閣寺

通称銀閣寺と呼ばれるお寺は、正式には東山(とうざん)慈照寺と言い、相国寺の飛び地にある塔頭(たっちゅう)の一つです。このように飛び地にある塔頭を境外塔頭と呼びます。金閣寺相国寺の境外塔頭です。

銀閣寺の建っている場所は京都市左京区にあり、大文字山の麓です。

北山文化の代表と言われる鹿苑寺金閣。一方、東山文化の代表と言われる慈恩寺銀閣

金閣を建てた足利義満も、銀閣を建てた義政も、禅宗に深く影響を受けている人物ですが、造営した建物の雰囲気はまるで正反対です。(参照:78 室町文化(5) 金閣寺)

金閣は贅美の極みです。銀閣の姿には質実簡素な美が有ります。銀閣には無駄をこそぎ落とした禅宗の精神美が見られます。

 

義政の建築趣味

足利将軍家は、将軍の代が変わる毎に将軍御所を新築する習わしがありました。義政もその例外ではありません。彼は在位中47年間の間に烏丸殿(からすまるでん)、室町殿、小川殿(こがわでん)、東山殿の四か所を造っています。

室町殿は三代将軍・義満の室町第と同じなので、改築位で済ませたのかも知れません。

小川殿は細川勝元の別荘でした。義政は勝元の別荘地を借りて御所を建てます。が、手狭でした。義政は正室日野富子との仲が悪くなり、義政は別居願望が強くなります。彼は東山に延暦寺門跡寺院だった浄土寺の土地を手に入れ、山荘造りを始めます。

足利義政は生来芸術家肌で将軍職には向いていなかったのかも知れません。彼は権力闘争の明け暮れに政治への興味を失っていました。(その癖、実権は最後迄離そうとしませんでした)。正妻からも一刻も早く離れたかったようです。

彼は東山山荘の造営にのめり込み、毎日建設現場に足を運びました。大工や庭師などと話しながら、彼が思い描く理想の山荘を追い求めて行きました。ついには、建設途中の山荘に引っ越してしまい、寝泊まりする様になりました。

彼は芸術に逃避しました。おまけに、財布の紐は正妻の富子に握られていました。日野富子は巨万の富を手にしていましたが、義政自身は貧乏でした。彼は公家領や寺社領から資金を取り立て、また、庶民に税金や労役を課したりしました。家臣の家へ御成りして、饗応接待を受け、お土産を沢山貰ってそれを資金の一部にもしました。

 

部屋の使い回しと固定化

それ迄の将軍御所や上級武士の家の構えは、表向きの客殿は寝殿造でした。

寝殿造りの部屋割りは、御簾や几帳、調度や屏風などで区切ります。客人が来ると、ちょいと設えを動かして、それ用に調えました。(参照:16 室礼(しつらい)の歴史(1) 寝殿造)

それが次第に変わって行き、客用の部屋が生まれました。相手の身分によって上位者であれば主人が下座に座って客を上座に、下位者であれば主人は上座に座ったまま客を下座に迎えると言う形になりました。

その遣り方は時代が経るにつれて更に変わって行きます。

上座は上座で主客入れ替わる事が無くなり、部屋の機能が固定化してきます。接客部屋が固定化してきます。謁見や儀式の間の様な公の間と、主が寛げる私的空間に分かれて行きます。

公の間は会所の広間の変化形と見る事が出来ます。

会所では、壁際全ての面に屏風を並べ立て、長板の上や卓の上に自慢の物を飾り付けて展示しましたが、やがてその飾り付けの場所が固定化し、正面上座の中央に押し板を置き、その分だけ壁を凹ませて、ショーウィンドウ的な効果を演出しました。

禅寺の部屋

世俗の建築がこの様に変化する様に、禅宗の寺も変わって行きます。

禅宗が日本にやってきた時、禅宗寺院では大陸で行われている宋様の諸式に則って全てが運営されていました。必要最低限の荷物を持って、僧侶達は大部屋一つに寝泊まりし、座禅堂で座禅を行い、作務に励みました。

やがて住職の高弟が本寺院の敷地内に塔頭を建て、数人の弟子を預かって指導する様な形が取られて行きます。大寺院では幾つも塔頭が並びます。また、塔頭の住持は自分の個室を持ち、そこで詩作をしたり、読書をしたりの活動をしました。五山文学などの優れた文学も、こういう所から生まれてきています。

武士の部屋

支配層の武士達は禅僧に師事し、学問や行動規範を学びます。

軍事面を除いて、武家と禅家の二者は互いに響き合い、融合した文化を紡ぎ出して行きます。

足利義政は自分が理想とする山荘を建てようと志しました。彼は将軍御所の機能と、自分が独りになれる憩いの場を東山殿に実現しようとします。その憩いの個室こそ書院の始まりになりました。東求堂の同仁斎には文房具を置く付け書院があり、愛玩の文物を置く棚があります。

創建当時は銀閣や東求堂の外に会所、泉殿、常御所、西指庵(禅堂)などなど幾つもの建物が建っていたそうです。これらは慈照寺に受け継がれたそうですが、その後の兵乱で荒れ果てて殆どを失ってしまいました。

(参照:「20 室礼の歴史(5) 同仁斎」)

 

 

余談  日野富子

足利義政正室日野富子は、日本三大悪妻のトップに輝く誉れ高い人物です。

義政との間に出来た初産の子を、即日に亡くした富子は、乳母を流罪にしてしまいます。

義政の側室4人を追放します。

富子に中々男子が生まれなかったので、義政は弟の義視(よしみ)を後継者に指名。その後、富子は男子・義尚(よしひさ)を産みます。富子は我が子を将軍にしようと山名宗全を後見人に指名、細川勝元や斯波氏、畠山氏を巻き込んで応仁の乱を引き起こします。富子は戦費を大名に貸し付け大儲け。米の投機も行い更に儲けます。京都の入り口の七か所に関所を設け、通行税を取り、一揆を頻発させます。

この様な具合で彼女の評判は最悪ですが、芸術オタクの夫・義政を見限って財テクに邁進し、室町幕府の切り盛りをしていた、という見方も出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

78 室町文化(5) 金閣寺

金閣寺

京都の北山にある金閣寺は、元はと言えば足利義満が建てた別荘でしたが、彼の死後、相国寺(しょうこくじ)に寄贈され、同寺の塔頭(たっちゅう)の一つとなりました。相国寺の境内から離れて、飛び地の様な土地に建っているお寺で、山号は北山(ほくざん)、寺名は鹿苑寺(ろくおんじ)と言います。鹿苑寺の敷地内に建っている金色の舎利殿が余りにも有名なので、通称金閣寺と呼んでいます。

 

金閣は金ピカではなかった?

足利義満が建立したこの舎利殿は三層の楼閣です。

今、婆達が目にする金閣は、二層目、三層目とも眩いばかりの金箔に覆われていますが、洛中洛外図屏風の上杉本を良く見てみると、この屏風が描かれた当時の金閣は、三層目の柱と扉と垂木の端だけが金箔で荘厳されている様に見えます。

壁は一層目、二層目、三層目とも土の白壁。

柱は一層目と二層目が木地のまま。

高欄は二層目と三層目が朱塗りで、三層目の高欄には金色の金具が付いています。

二層目と三層目には花頭窓があり、花頭窓の縁は黒っぽいので黒漆塗りかと?

婆の目はかなり衰えていますので、材質の色別は確かではありません。ただ、清水寺の舞台の床板の色や、民家の柱の色などと比較して、たぶんそうでは無いかなぁ、と見た訳です。創建当時の様子は、今とは大分印象が違う様です。

(上杉本 洛中洛外図 nhkアーカイブスを参考にしました。)

 

内部の設え

往時の金閣は、亀泉集証の書いた『蔭涼軒日録』によると、創建当初、二層目に観音像を安置し、三層目には阿弥陀如来を祀り、その周りに25菩薩像が安置されいたとか・・・あの世からのお迎えは、阿弥陀如来と25菩薩が雲に乗って山越えして来ると信じられていますので、義満は、北山を越えて阿弥陀様がお迎えに来てくれる事を願っていたのかも知れません。

「72 室町時代(1) 義詮と義満」の項の「天皇になりたかった?」で、金閣は義満の野心を表している、と推察する説を載せました。来迎を望んだのか野心なのか、どちらが本当なのか、婆には分かりません。

義満の孫の義政が度々鹿苑寺を参詣していたそうですが、その時には二層に安置されていた筈の当初の観音像が別の観音像に置き換わっており、阿弥陀如来と25菩薩は失われてしまっていた、と『蔭涼軒日録』に書いてあるそうです。

 

放火事件

1950年(昭和25年)7月2日、放火により舎利殿は焼失してしまいました。その後再建し、現在は一層目に宝冠釈迦如来坐像、足利義満座像を安置、二層目に観音菩薩像と四天王像、三層目に舎利が祀られています。

金閣は江戸時代と明治時代、昭和の放火事件以後一度と、三度修理されています。現在の舎利殿は、創建当時の材木では無くなっていますが、不幸中の幸いと申しましょうか、明治39年に解体修理が行われた際に図面が作成されていましたので、明治以前の姿に復元する事が出来ました。

 

鎌倉幕府室町幕府の違い

同じ武家政権でも、鎌倉幕府室町幕府とでは大きな違いが有ります。幕府の姿勢の違いが、鎌倉と室町の文化の差を生んでいます。

鎌倉幕府は、京都から出来るだけ距離を取り、朝廷の権謀術数から離れようとしました。

源義経が鎌倉の意向を伺わずして朝廷から官位を授かったという理由で、謀反人と断じ、討伐しています。それも、京都から離れて武家の独立を保とうとする現れでした。鎌倉幕府は武一辺倒で、芸術や美術品の価値を知りませんでした。

室町幕府は、京都の文化に惹かれ、なお且つ京都で政務を執る利便性に着目していました。

足利政権をそう仕向けたのは南北朝の争乱です。詰り、南朝北朝が京都制圧を目指して何度も戦っている内に、京都を制する者が天下を取る、という認識が出来上がって行ったのです。鎌倉に政庁を置いていては天下を睨む事は出来ません。鎌倉は関東と関東以北の押さえの地方行政庁に過ぎないと、気付いたのです。そして何よりも重要なのは、足利政権は北朝を寄る辺として成立したと言う事です。

 

美術品の価値の発見

足利尊氏は京都に、住居と政庁を兼ねた将軍の御所を構えました。朝廷との交流が密になり、武士達は公家文化に激しく晒されます。

京都と言う土地が持つ文化的雰囲気が、武士達を少しずつ雅の気風に染めて行きます。坂東の荒武者、田舎者、山猿などと京雀に馬鹿にされていましたが、それを財力で威圧する様な派手なバサラが現れ、開いた口が塞がらない内に彼等は京を席捲して行きます。闘茶や香寄合など、遊技にのめり込む者が多くなります。動機がどうであれ、懸物などの値踏みから美術品に金銭的価値がある事を認識し始めます。大陸から輸入した唐物が持て囃され、水墨画が高値で取引される様になります。

足利尊氏は大陸との貿易をしようと明に求めますが、国王とは取引をするが臣下とは取引をしないと言う明国の大前提に阻まれて思う様に出来ません。天皇の臣下が駄目ならば、天皇の臣下を辞めれば良い! つまり、俗世にあるから臣下になる、俗世を辞めて僧侶になれば天皇の臣下では無くなる・・・と考え、尊氏は出家してしまいます。

 

将軍御所の移り変わり

足利尊氏は、初め京都にあった弟・直義の屋敷を住所兼政庁にしていました。

二代将軍・義詮は三条坊門に屋敷を構え、室町家から「花亭」を買って別邸としていました。

三代将軍・義満は「花亭」に隣接する今出川家の「菊亭」も買い取り、大々的に将軍御所の造営を行いました。これを「室町殿」又は「室町第」と呼びました。室町幕府の名前はここから来ています。またこの室町第は花木が沢山あったので「花の御所」とも呼ばれていました。

花の御所は現在の京都御所の北西の隅、今出川交差点の斜め前にありました。

 

義満出家と鹿苑寺

明徳3年(1392年)10月27日、南朝北朝明徳の和約を結び、合一しました。これを成し遂げた義満はこれを丁度良い区切りとして隠居し、出家します。前に書きました様に、この出家は政策上の出家です。出家を機に将軍職を9歳の義持に譲りましたが、新将軍が幼い事もあって実権は義満が握っていました。

義満は隠居所を建てる為、河内の国と交換で、北山にある西園寺家の寺を買い取ります。

そのころ、西園寺家中先代の乱で謀反人となり、その影響で没落していました。お寺も荒れ果てていました。(参考:62建武の新政(3) 中先代の乱)

そのお寺を手に入れた義満は、将軍の居る花の御所にも負けない陣容に整備しました。義満の居室と表舞台を併せた北御所、義満側室の南御所、崇賢門院の御所の三つを敷地内に建て、会所、舎利殿護摩堂等々幾つもの堂宇を造立しました。また、庭は夢想国師が策定した西芳寺に倣って作りました。この様な立派な「山荘」ですので、これを北山殿とか北山第と呼びます。

 

北山第の破却

 義満は政務を北山第で行いました。その義満が1408年に薨去し、22歳になった義持が晴れて将軍らしく実権を振るう事が出来るようになりました。彼は、父の側室が亡くなると、父の遺言に従って北山第を相国寺に寄贈します。山荘は北山鹿苑寺と名を変え、禅宗の寺として再出発をします。その時義持は、舎利殿を残して殆どの建物を移築したり破却したりして壊してしまいます。

義満と義持の間には長い間の確執があり、親子関係は余り良くなかったのです。

 

余談  日本国王・良懐(りょうかい)

南北朝の争乱時、後醍醐天皇は勢力拡大の為、親王達をあちこちに派遣しました。その内の一人・懐良(かねよし)親王は、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)として九州に赴き、九州を南朝方に染め上げて行きます。彼は熊本を足掛かりに、博多や太宰府に拠点を築きました。親王日本国王・良懐と名乗り、明との貿易を始めます。足利義満が明との貿易が出来なかったのも、懐良親王の存在があるからでした。義満は懐良親王を取り除こうと、今川貞世を派遣して九州探題を強化。懐良親王太宰府を追われ、筑後の矢部(現八女市)で病没します。

義満が懐良親王薨去の後、日本国王の名前で貿易を開始しようとするも、すんなりとはいかず、正式に認められるまでは、「良懐」と名前を偽っていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

77 室町文化(4) 闘茶

お茶は、禅宗寺院内の茶礼が源流と言われています。

栄西禅師が宋から茶の種を日本にもたらし、九州の背振山(せふりやま)で栽培しました。それを明恵上人が分けて貰い、京都の栂尾(とがのお)でも栽培を始めました。栂尾での茶の栽培が成功し、次第に全国に茶の栽培と製造が広まって行きました。やがて宇治でも上質な茶が作られる様になり、それまで本茶と言えば栂尾産の茶葉でしたが、本茶に宇治茶も加わる様になりました。それ以外の産地の茶を非茶と呼びました。

(参考:7 明菴栄西禅宗と茶の種を伝える。 8 栄西、第一次渡宋。 9 栄西、第二次渡宋。 10 お茶物語in中国。 13 背振(せふり)の茶。 14 栄西、鎌倉に下る。 15 栄西禅師と明恵上人。)

 

お茶の当てっこクイズ

当時のお茶は碾茶(てんちゃ)というものです。碾茶と言うのは、摘んだ葉を蒸したまま揉まずにそのまま干し海苔の様に広げて乾燥させて作ります。茶葉が幾重にも重なったまま乾くので、分厚くて堅いシート状になります。碾茶は乾燥した青海苔の様な香気があります。

碾茶を砕いて石臼で粉末(抹茶)にし、それにお湯を注いで掻き混ぜて飲むのが、当時の飲み方でした。そうやって出されたお茶を、香りや味などを味わい分け、茶葉の産地を当てっこする遊びが流行りました。

 

闘茶(とうちゃ)

けれど人々はこの単純な当てっこ遊びでは飽き足りませんでした。当たったら景品を出そうよ、という話になります。更に、お茶当ての勝負を行い、賭けをする様になりました。

射幸心は留まるところを知らず、賭ける財物も豪華になり、財産を失う程の破滅の道を歩む様になります。

太平記の中に茶会(当時は茶会と言えば闘茶の事でした)の様子が描かれています。頭人( 賭けに参加した人)が、どういう茶の懸け物(闘茶に賭ける財物)を出すか具体的に書かれています。

以下、その部分を抜粋して載せます。 

太平記

33巻 公家武家栄枯易地事より抜粋

‥又都には佐々木判官入道道誉始めとして在京の大名、衆を結で茶の会を始め、日々寄合活計を尽くすに、異国本朝の重宝を集め、百座の粧(よそおい)をして、皆曲■の上に豹・虎の皮を敷き、思々(おもいおもい)の緞子金襴を裁きて、四主頭の座に列をなして並居たれば、只百福荘厳の床の上に、千仏の光を双(ならび)て坐(おわ)し給えるに不異。(途中略:ここから式三献と饗宴の豪華なご馳走の内容が描かれている)・・・旨酒三献過ぎて、茶の懸物に百物、百の外に又前引きの置物しけるに、初度の頭人は、奥染物各百充(づつ)六十三人が前に積む。第二度の頭人は、色々の小袖十重充置、三番の頭人は沈(ちん)のほた百両宛て、麝香(じゃこう)の臍(へそ)三充副(そえ)置く。四番の頭人は沙金百両宛金糸花の盆に入て置。五番の頭人は、只今為立(したて)たる鎧一縮(いっしゅく)に、鮫懸たる白太刀、柄鞘皆金にて打くヽみたる刀に、虎の皮の火打ち袋をさげ、一様に是を引く。以後の頭人二十余人、我人に勝れんと、様(さま)を変え数を尽くして、如山積重ぬ。されば其費(ついえ)幾千万と云事を不知。

ずいよう意訳

・・都には佐々木判官入道道誉を始めとして、京都に居る大名が集まって闘茶の会を日々行っています。異国や日本の宝物を集め、パーティー用の衣装を着て、床に豹や虎の皮を敷いて座っています。それぞれ思い思いの金襴緞子を着て、四人の幹事が並んで座っているのを見れば、床の上に千の仏様が光り輝いて並んで座っているのと変わりありません。(途中略)・・旨い酒の三献式が過ぎて、(胴元が用意した)茶の懸物が百も有り、それ以外に(胴元以外の参加者が用意した)前置きの懸物も沢山あります。最初の頭人が用意したのは、繊維の奥までしっかりと染め上げた染物を各々百ずつ63人の前に積みました。二番目の頭人は小袖を十枚ずつ重ね、三番目の頭人沈香百両、麝香の臍を三つずつ副(そ)え、四番目の頭人は砂金を百両づつ堆朱(ついしゅ)に金を施したお盆に入れて置きました。五番目の頭人は作ったばかりの鎧に鮫皮を掛けた白太刀、柄鞘とも金で作られた刀、虎の皮で作った火打袋を下げ。一様にこれを引いています。以後の頭人20余人、儂は人より勝(まさ)っている物を懸け物にしているぞと、他人様が出している物とは違う物を出し、数を尽くして山の様に積み重ねています。その費用は幾千万になるか、底知れません。

この後、「我こそは勝者ぞ」と意気込むけれども負け、ついには次の様に続きます。

 『手を空にして帰りしかば、窮民孤独の上を資するにも非ず、又供仏施僧の檀施にも非ず。只金を泥に捨て玉を淵に沈めたるに相同じ。』と書き、『一夜の勝負に五六千貫敗くる人のみ有りて百貫とも勝つ人は無し(中略)抑此人々長者の果報有りて、地より物が湧ける歟(か)、天より財が降りけるか、非降非涌、只寺社本所の所領を押さえ取り、土民百姓の資材を責取、論人・訴人の賄賂を取集めたる物供也。』

ずいよう意訳

すってんてんになって帰ると、損したお金は困った人を助ける事もならず、お坊様のお布施にもならず、ただ金を泥に捨て玉を淵に沈めたのと同じことです。一夜の勝負に五六千貫敗ける人ばかりで、百貫も勝つ人は居ません。このような人々は長者の果報で、地から財物が湧いてくるのでしょうか、天から財産が降って来るのでしょうか。いえ、財産は降りもせず、湧きもしません。ただ寺社領地の所領を奪取し、土民百姓の資材を責め取って、論人や訴人から賄賂を集めた物なのです。

 

闘茶禁止令

上記「太平記」から抜粋したのは、佐々木道誉が開いた闘茶の様子です。

太平記」の外にも『光厳天皇宸記』によると、1332年6月28日、光厳天皇が茶会(闘茶)を行なった記録があります。更にそれ以前にも、後醍醐天皇も茶会を開いた形跡があります。(参考:43 後醍醐天皇 余談 茶会(闘茶))

二条河原の落首に『茶香十炷(しゅ)の寄り合いも鎌倉釣りに有鹿と 都はいとと倍増す』とあります。「お茶やお香の寄合も鎌倉と同じ状態らしい(有りしか)と言うけれど、都では大層流行って倍増しています」と言うくらい、みんな賭け事に夢中になっていました。

( 炷(しゅ)はお香などを炷(た)く時に使う字です。例:香点前などで「お香を一炷お聞かせ致します」などと言います。それに対して「焚く」は炎を上げて燃やす時に使う字です。例:「焚火」「お焚き上げ」などです。)

闘茶が非常に盛んになり、破産する者や自殺する者、領地迄賭けて没落する者まで出て来ました。幕府もこれを見過ごす事が出来なくなり、建武式目で闘茶を禁止しています。

 この建武式目に闘茶を禁止する条項を入れたのが、足利直義(ただよし)です。

足利直義は尊氏の同母弟です。直義は政務を担当していました。

「68 南北朝(2) 観応の擾乱」でも述べました様に、直義は真面目で堅く、清廉の人でした。

彼と同じ様に幕府の中枢にいて軍事部門のトップに居たのが、高師直です。前項「婆娑羅」でも取り上げた様に高師直はバサラ。引付頭人評定衆など重要な役職に居たのが佐々木道誉。直義の堅い性格は幕府の中では人気がありませんでした。高師直佐々木道誉の方が人気があり、彼等は大きな派閥を作っていました。幕府内の綱紀粛正を図ろうとする直義に相当の抵抗があったと思われます。直義は高師直を排除しようとしますが、それが幕府内の分裂を生み、観応の擾乱へと発展して、直義は幽閉されてしまいます。最期は殺されたとも噂されています。

 

余談  闘茶

闘茶には次の様な色々な呼び方があります。

茶寄合、茶歌舞伎(ちゃかぶき)、茶香服(ちゃかぶく)、飲茶勝負といったものです。

現代の闘茶は、茶師達の研鑽の場となっており、賭博の要素は全くありません。

 

余談 会所

会所と言うのは集会所の事ですが、迎賓館的な役割を持った建物です。30畳以上の大広間を有した建物で、そこで宴会や展示会や茶会を開きました。

展示会と言うのは館の主が蒐集した美術品を展示して、賓客のご覧に供して持て成すものです。それだけでは無く、実は、闘茶の賭け物を並べる場所でもありました。

壁際に屏風を一面に並べ立て、その前に長板や卓を置き、その長板や卓の上に蒐集品を置いて鑑賞します。この頃は未だ床の間の概念が無く、壁に沿ってずらりと展示物を並べました。なお当時の部屋は、畳敷きではなく、板敷きでした。

 

余談  金糸花(=堆朱(ついしゅ))の盆

堆朱とは、中国で作られた漆の工芸品です。朱漆を何層にも塗り重ね、乾いてから漆の層を活かして彫刻し、文様を彫り出したものです。黒漆で彫漆した堆黒(ついこく)と言うのも有ります。鎌倉彫は堆朱を真似たもので、文様を彫った木地に朱漆を塗って作ったものです。