式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

92 応仁の乱(3) 序章

(な)れや知る都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)

       あがるを見ても落つる涙は      飯尾常房(いいお つねふさ)

応仁の乱で焼け野原になった都。婆の目には、終戦直後疎開から帰って来た時の東京の景色が、朧気ながら重なって目に浮かびます。

飯尾常房細川成之(ほそかわ しげゆき)の家臣です。彼は青蓮院(しょうれんいん)流書道を究め、飯尾流の書を始めた流祖で、歌人です。その能力を買われ、足利義政の祐筆(ゆうひつ)を務めました。

大乱はいきなり始まるものではありません。そこに至る迄の下地があり、序章があります。応仁の乱の始まりは1467年の、語呂合わせで言えば『人の世空しい』年から始まりますが、ここではいきなり1467年から書き起こすのではなく、足利尊氏から始まる権力闘争に目を向けて、簡単に初めから触れて行きたいと思います。

 

初代将軍・足利尊氏

尊氏には弟・直義(ただよし)が居ました。非常に優秀な弟でした。北条時行の起こした中先代の乱では、尊氏は直義を救援しましたが、高師直と直義が対立して起こした観応の擾乱(じょうらん)の時は、直義を殺し、直義の養子(実は尊氏の実子)・直冬(ただふゆ)も殺します。

 

2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)

南朝北朝の間で揺れ動く家臣が多く、家臣同士の争いも絶えませんでした。尊氏が薨去(こうきょ)すると細川清氏管領になります。清氏は幕閣と摩擦を起こし、仁木義長(にき よしなが)南朝に下ります。義詮は清氏を失脚させ、清氏に追討令を出します。清氏は南朝に下り、更に讃岐(さぬき)に逃げて、従兄弟の細川頼之(ほそかわ よりゆき)によって討たれます。義詮は管領斯波義将(しば よしゆき)を任命、義将が失脚すると細川頼之管領にして、幼少の嫡男・義満を託して薨去します。

 

3代将軍・足利義満

斯波氏や土岐氏に強要され、義満は管領細川頼之を罷免、斯波義将管領になります(康歴(こうりゃく)の政変)。

[守護弱体化策1]  土岐氏を弱体化させる為に、兄弟同士で戦う様に仕向けます。

義満は、3か国領知の土岐康行(とき やすゆき)から尾張一国を召し上げて、康行の弟・滿貞(みつさだ)へ与えました。滿貞は尾張を受け取りに行くも、既に尾張守護代になっていた弟の詮直(あきなお)と合戦になり、滿貞は敗走します。滿貞は康行と詮直の謀反を言い立てます。それを待っていた義満は康行討伐を命じます。康行は負け、尾張守護職は滿貞が就きます。明徳の乱の時、義滿は土岐滿貞の守護職を罷免します。義満は、兄弟喧嘩を誘発させて双方を自滅させました。土岐氏の没落は、やがて美濃守護代・斎藤氏の台頭を招き、斎藤道三へと繋がって行きます。

[守護弱体化策2]  大内氏を崩壊させる為に同族同士で争わせ勢力を削ぎます。

[守護弱体化策3]  山名時煕(やまな ときひろ)山名氏之(やまな うじゆき)を討伐せよと、同族の氏清滿幸に命じます。時煕と氏之は敗走、討手の氏清には但馬(たじま)を、滿幸には伯耆(ほうき)が与えられました(明徳の乱)

しかし、翌年の1391年(明徳2年)、滿幸は上皇の所領を押領した罪で放逐されます。滿幸は氏清を誘い幕府に反抗、氏清は戦死、滿幸は逃亡の末殺害されました。明徳の乱で敗走した時煕と氏之は雌伏後復帰、時煕流が家督を継いで行きます。時煕嫡子・持豊(宗全)の代に、旧領回復の動きが活発になり、更に争いの火種が延焼して行きます。

 

4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)

[対抗馬を潰す]  父・義満は弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛しており、弟の義嗣は義持の将軍位を脅かす存在でした。父没後に関東で上杉禅秀の乱が起きます。義持は鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)を援(たす)け、首謀者の一人と見られる義嗣を捕縛、幽閉後殺害します。持氏はその後も関東平定の為、乱に加担したと言う名目で関東扶持衆(将軍直臣)に弾圧や討伐を行い、次第に義持と対立して行きます。義持は持氏討伐軍を発しようとしますが、持氏が謝罪、沙汰止みになりました。

 

5代将軍・足利義量(あしかが よしかず)

足利義量は将軍位に就くも、父・義持よりも早く亡くなりました。享年19歳。

 

6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)

[圧伏]  くじ引き将軍・義教は延暦寺と対立。彼は兵を持って延暦寺を攻め、屈服させます。24人の僧が根本中堂に火を放って焼身自殺。これに抗議します。

[対抗馬を潰す]  先々代義持の時から懸案であった鎌倉公方・持氏の排除に動きます。持氏と関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)との間に亀裂が入った機を狙い、義教は持氏討伐の軍を発し、持氏を滅ぼします。

[対抗馬を潰す]  大和の国人達の間で争乱が続いており、弟の義昭(よしあき)がこれに関与していると見て義教は討伐軍を派遣、越智(おち)箸尾(はしお)を討ちます。義昭は逃亡し、四国から九州へ逃げますが、薩摩で捕えられ自害しました。

[守護弱体化策]  義教は、有力守護大名家督相続に口を挟み、自分の気に入った者、自分の意の儘になる者を後継者に指名し、混乱を起こさせます。その餌食になったのが、斯波氏、畠山氏、京極氏、富樫氏、今川氏などです。義教の命により土岐持頼は大和出陣中に誅殺され、一色義貫(いっしき よしつら)親子も武田信栄(たけだ のぶひで)に暗殺されます。信栄も2か月後に殺されます。

1441年(嘉吉元年6月24日)、赤松満祐は結城合戦戦勝祝いの宴席を設け、その席で義教を暗殺します。

 

7代将軍・足利義勝

義勝は義教の長庶子で、父死亡後9歳で跡を継ぎます。将軍在位8か月で亡くなります。

 

8代将軍・足利義政

義政は義教の5男、義勝の同母弟です。幼くして将軍職に就きますが、14歳の頃から管領細川勝元の助けを借りながら政務を執り始め、近臣や女房衆が彼の周りを取り囲みます。

[対抗馬を潰す]  鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)関東管領上杉憲忠(うえすぎ  のりただ)を謀殺、義政は討伐軍を派遣し鎌倉を制圧、成氏は古河(こが)に逃れます(享徳の乱)。成氏は古河公方(こがくぼう)と呼ばれます。

義政は兄・政知(まさとも)鎌倉公方に任命します。が、政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ)に留まります。政知は堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれます。

[守護弱体化策]  畠山持国庶子・義就(よしひろ)と甥の政久(=弥三郎)家督争いが起きます。義政が義就を家督者にします。細川勝元山名宗全は政久を支持します。義就が義政の命令を聞かず、細川勝元の所領山城国を攻撃し、義就が失脚します。政久死後、弟の政長が義就に代わり畠山の家督を継ぎ、管領に就任します。

さて、これから先、義就の逆襲が始まり、義就と政長の死闘が始まります。また、それぞれの守護大名が抱えているお家の事情や思惑、婚姻による派閥など集合離散の連続になります。

将軍家は人事権を振り回して守護達の力を削ぐ努力をして来ました。義政の先代も先々代も、義政自身もそうして将軍の力を強めようと努力してきました。義政の代になって、その成果を刈り取る時期が来た筈ですが、時すでに遅し、野焼きの火は消し様も無く大きくなり、大森林火災となって日本中を覆い尽くしていたのです。

 

 

余談  還俗(げんぞく)

 還俗はゲンゾクと読みます。カンゾクではありません。普通「還」はカンと読みます。けれども、お寺や仏教に関する用語では特殊な読み方をする場合があります。カンゾクと辞書で引くと、漢族、姦賊、奸賊、官賊、貫属と言う言葉が出てきます。ゲンゾクで引くと「還俗」が出てきます。

婆は今まで字が読めなくて随分恥ずかしい思いをして来ました。例えば「安芸」ですが、50過ぎるまで読めませんでした。「アキノミヤジマ」という言葉は知っていましたが、宮島の紅葉は有名だから「秋の宮島」だと思っておりました。「安芸」とは結び付いていなかったのです。そんな事が沢山ありました。今でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

91 応仁の乱(2) 続・お家騒動

前項で、富樫氏、小笠原氏、六角氏、畠山氏、斯波氏を取り上げました。

ここでは土岐氏、赤松氏、山名氏を取り上げたいと思います。

 

土岐氏の場合

1342年(康永元年) バサラ大名・土岐頼遠(とき よりとお) が、光厳(こうごん)上皇の牛車に無礼を働いて捕らえられ、六条河原で斬首されました。ただ、それまでの幕府への貢献が大でしたので、当主死罪のみでお家断絶を免れ、甥の土岐頼康(とき よりやす)家督が継承されました。

土岐頼康は「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)「男山八幡の戦い」でも常に尊氏側で参戦、足利義詮後光厳天皇を奉じて京都を脱出した時も、美濃に仮御殿を造営して迎えています。そのような事から土岐氏は幕府の宿老として重きをなし、美濃・伊勢・尾張の守護になりました。けれども土岐氏の勢力増大を恐れた義満は、土岐氏を弱めるべく内紛の種を仕掛けます。

1388年(元中(げんちゅう)4年)嘉慶(かけい or かきょう)元年)、土岐頼康が亡くなると、義満は土岐康行(とき やすゆき)が継いだ美濃・伊勢・尾張三国の内の尾張一国を召し上げ、康行の弟・滿貞に与えました。それを不服として康行は挙兵しますが、幕府の討伐軍に負けてしまいます(土岐康行の乱)。結果、康行は美濃・伊勢の領国を失います。そして、美濃は叔父の土岐頼忠(とき よりただ)へ、尾張土岐滿貞(ときみつさだ)へ、伊勢は仁木(にき or にっき)へ与えられました。

 1391年(明徳2年)明徳の乱の時、康行は幕府側で参戦、その戦功で伊勢の守護に復帰します。一方、滿貞は尾張を召し上げられて没落しました。尾張は斯波氏に与えられました。康行が土岐康行の乱で敗けて没落した時、土岐氏の庶流の多くは康行に従いました。その為、美濃国守護になった叔父の土岐頼忠は、外様の斎藤氏富島氏守護代に登用、やがて、彼等は争いを起こし美濃国を戦乱に陥れます。この争いに斎藤氏が勝ちます。斎藤氏は守護の土岐氏を蔑(ないがし)ろにして美濃の実権を握る様になります。

 

赤松氏の場合

赤松則村(あかまつ のりむら(円心))元弘の乱の時、宮方で戦い数々の武功を挙げ、播磨(はりま)の国の守護になりましたが、後醍醐天皇の論功行賞に不満だった彼は、以後足利尊氏側に立って戦う様になります。

九州へ落ちた尊氏を追撃する新田義貞の6万の軍を、則村は僅か2千の兵で迎え撃ち、 2ヵ月間釘付けにしました。尊氏はその間に九州で盛り返し、京都目指して東進します。則村は湊川楠木正成を破り、その功で、播磨摂津(せっつ)の守護になりました。

1391年(明徳2年)、将軍・足利義満の代の時、山名氏明徳の乱を起こします。この反乱の鎮圧に赤松氏も出陣し、功を挙げて、美作(みまさか)の守護の座を手に入れます。

 1427年(応永34年)、将軍・義持赤松満祐(あかまつ みつすけ)播磨国を没収して、愛する赤松持貞(あかまつ もちさだ)へ与えました。満祐は幕府に腹を立て、屋敷に火を放って領国に帰り、籠城します。義持は激怒。満祐の残る二つの領国を取り上げ、美作を赤松貞村(あかまつ さだむら)へ、備前赤松滿弘(あかまつ みつひろ)へ与えます。そして、満祐討伐の命を下します。美作や備前を貰った貞村と満弘は出兵しますが、一色義貫(いっしき よしつら)は出兵を拒否します。

ところが、にわかに持貞と義持の愛妾との密通事件が持ち上がり、持貞は義持の逆鱗に触れ切腹させられました。この為、赤松満祐討伐の件は立ち消えになりました。この事件は、管領畠山滿家が赤松満祐を討伐から救う為に仕組んだ工作だったとか・・・

その後、将軍・義教(よしのり)の代になると、満祐は粛清の影に怯(おび)える様になり、ついに1441年(嘉吉(かきつ)元年)、義教を暗殺します。

赤松満祐は討伐軍を迎え撃つ為、播磨の坂本城に戻ります。世間は、理不尽な理由で追討される赤松氏に同情的で、討伐軍に加わる者達の士気は低く、動きは緩慢でした。逆に赤松氏の領地を狙っていた山名氏一族の軍は意気盛んでした。

討伐軍は坂本城を、摂津、但馬、美作からと、三方から攻めました。

1441年9月、満祐は坂本城を捨て、城山城に籠城しましたが力尽き、嫡子の教康(のりやす)や弟の則繁(のりしげ)義雅(よしまさ)、孫の千代丸など17人を城から脱出させ、満祐自身と残存した69名は自害しました。弟の義雅は城を脱出した後に敵方に居た赤松満政に投降、千代丸を満政に託して義雅は自害します。千代丸は赤松滿政によって匿(かくま)われ、寺に入ります。千代丸は成人して赤松時勝と名乗ります。時勝の子の政則の代になり赤松家は再興され、播磨・美作・備前と加賀半国戦国大名になります。

 

山名氏の場合

山名氏は清和源氏の流れを汲む新田氏の一門です。山名氏は長い間鳴かず飛ばずの時を過ごしましたが、新田義貞が挙兵した時、山名氏は惣領の新田氏に従い討幕運動に身を投じます。山名時氏は初め新田軍で参戦しましたが、箱根竹之下の戦いの途中で足利尊氏に寝返ります。

世渡り上手と申しましょうか、時には南朝方に与(くみ)して京都に攻め入ったり、足利直冬(あしかが ただふゆ)に加担して足利義詮と対抗したりして色々ありましたが、最後は因幡伯耆丹波・丹後・美作を安堵する事を条件に、足利幕府に帰順します。

山名氏は日本全国66ヵ国の内、丹後、伯耆(ほうき)紀伊因幡(いなば)丹波、山城、和泉、美作(みまさか)、但馬、備後(びんご)、播磨(はりま)の11ヵ国を領していました。実に国の六分の一に当たりますので山名氏は別名「六分一殿」と呼ばれていました。

3代将軍・義満は、強大な山名氏の力を削ぐ策を練ります。

 義満は、山名氏清滿幸(みつゆき)に、不遜な時煕(ときひろ)氏幸(うじゆき)を討伐せよとの命令を下します。氏清は甥の氏幸を、滿幸は従兄弟の時煕を討ちに行きます。時煕と氏幸は赦しを乞い、許されますが、義満は更に同族内が不和になる様に仕向けます。

1391年(明徳2年)、氏清滿幸義理(よしただ or よしまさ)と共に、幕府に余りの理不尽な遣り方に反発し、叛旗を翻して明徳の乱(内野(うちの)合戦)を起こします。氏清は討死し、滿幸は敗走、義理は出家しました。

明徳の乱によって、山名氏が持っていた領地は守護大名達の格好の猟場となりました。最終的に山名氏の手元に残ったのは3ヵ国でした。

因みに山名氏の領有していた国は次の様に再配分されました。

丹後 → 一色詮範   紀伊 → 大内義弘   和泉 → 大内義弘

丹波細川頼元   山城 → 畠山基国   美作 → 赤松義則

出雲 → 京極高詮   伯耆 → 山名氏之   因幡 → 山名氏家

但馬 → 山名時煕

1339年(応永6年)、幕府の理不尽な内政干渉に追い詰められた大内義弘は、幕府に対して反乱を起こします。応永の乱が勃発します。

この乱によって山名時煕は功を挙げ、備後・安芸・石見の3か国の守護になりました。

大内氏の勢力拡大を懸念した幕府が、その押さえに山名氏を配置する必要から、山名氏に3か国を与えたのでした。山名氏の勢力を削ぐために明徳の乱を起こさせて山名氏を没落させたのに、今度は大内氏の抑えに山名氏を利用しているのです。

1404年(応永11年)山名時煕に男子が生まれます。後の持豊(もちとよ)(=山名宗全)です。彼は10歳で元服します。長兄を差し置いて次兄・持煕(もちひろ)が後継ぎに指名されます。この指名は将軍・義教自らが決めました。長兄はその後早世します。なので、次兄・持煕がすんなりと家督を継ぐと思われましたが、持煕は義教の勘気を蒙り廃嫡されてしまいます。そこで3男の持豊が父の死後に、父の持っていた備後・安芸・石見の領地と共に家督を継ぐ事になります。廃嫡された持煕がこれに不満を抱き、挙兵しました。持豊は兄を討ち、山城の守護にもなりました。

1441年(嘉吉元年)、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺する事件が起きます。当日、山名持豊も赤松邸の宴席に居ましたが、いち早く逃げました。

彼は赤松満祐討伐の総大将になります。討伐に出発する前から、持豊は京都で略奪・乱暴を働き顰蹙(ひんしゅく)を買いますが意に介せず、更に討伐軍を動かす前に先遣の守護代を播磨に送り込み、押領してしまいます。この戦いで大功を挙げ、持豊は播磨を獲得。父から相続した3か国と山城と播磨を加えて5か国の守護になりました。また、一族の得た石見、美作、伯耆備前因幡と合わせると10ヵ国になり、以前の勢力をほぼ回復した事になります。

持豊は嘉吉の乱で殺された山名煕貴(やまな ひろたか)の二人の娘を猶子にして、一人を細川勝元に嫁がせ、一人を大内教弘に嫁がせ、縁戚関係を結びます。この様にして押しも押されぬ地位を確保、畠山持国を失脚させます。

将軍・義政山名持豊を討伐しようとしますが、細川勝元のとりなしで持豊が隠居する事で何とか丸く収めました。やがて、再び山名宋全(=持豊)が政治に復帰すると、幕府内の主導権争いが過熱してきます。

 

余談  内野(うちの)、大内

「内野」は野球のナイヤではありません。御所の敷地内の事を指します。大内と言うのも御所の敷地内の事を指します。大内守護は、その敷地内の警護をする役目です。源三位頼政や、承久の乱で討たれた源頼茂も大内守護です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

90 応仁の乱(1) お家騒動

応仁の乱は複雑過ぎて全体像を理解するのがなかなか難しいです。

そこで、こんがらかった糸を解きほぐす為に、それぞれの各守護大名の家庭の事情を集めたいと思います。その上で、それらがどの様に絡み合って行くのかを、見てみたいと思います。

先ずは富樫(とがし)氏から

富樫氏の場合

加賀国守護・富樫氏春が亡くなると遺児・竹童丸が跡を継ぎます。竹童丸はまだ幼く、この機に乗じて佐々木道誉加賀国を斯波氏に与えようとしました。それを細川清氏が抑え込み、竹童丸が受け継いだという経緯があります。竹童丸は元服して富樫昌家(とがし まさいえ)と名乗り、加賀国の守護になりました。これにより、富樫氏は細川氏と密接に結びつきます。

富樫氏は幕命の様々な賦役を真面目にこなし、忠勤に励みました。富樫邸に足利義満の渡御(とぎょ)の栄誉を得た時は、引出物が10万疋に及んだそうです。(※疋は反物や銭の数え方。徒然草の時代では1疋=10銭だったとか。時代によって銭貨が違っています。) 富樫氏は細川氏へも大いに贈物をし、太いパイプをつなぐ様に努力しました。

しかし、1379年、康歴(こうりゃく)の政変が起き細川頼之(ほそかわ よりゆき)が失脚、代わりに斯波義将(しば よしゆき or しばよしまさ)管領になりますと、富樫昌家の立場は途端に弱くなりました。(義将の読みは正式には「よしゆき」です。)

1387年、昌家が亡くなると家督は弟の滿家に継承されましたが、管領斯波義将は、滿家を罷免し、自分の弟の斯波義種(しば よしたね)加賀国の守護に任じました。

富樫滿家の子・滿成(みつなり)は足利将軍・義持の寵愛を受けていました。斯波滿種が義持の勘気を蒙って失脚後、加賀国の半国の守護に任じられ、先祖の土地に返り咲き、勢力を盛り返します。

1416年に上杉禅秀の乱が勃発した時、謀反の疑いで幽閉された足利義嗣を滿成が取り調べ、調書を幕府に報告します。その調書から謀反の大規模な全容が判明、滿成は義持の密命を帯びて義嗣を暗殺しました。が、滿成自身の不祥事が発覚、畠山滿家によって1419年に滿成は殺害されます。(参考:86 足利義持上杉禅秀の乱)

加賀南半国を領していた滿成の土地は、加賀北半国を領していた兄の三春が受け継ぎ、結果的に兄の富樫滿春が加賀一国の守護となりました。

 

小笠原氏の場合 

小笠原氏は清和源氏源頼義を源流とする信濃源氏の祖・小笠原長清から発しています。

安達泰盛平頼綱(=平禅門)の権力闘争で起きた霜月騒動(1285年)の時は、騒動が全国に波及して信濃国も巻き込まれ、伴野彦二郎(小笠原氏)が自害しました。

北条氏の鎌倉幕府討幕運動では足利尊氏側で出陣し、戦功をあげて信濃守護に任じられました。長い間、信濃は北条氏の知行地でしたので北条親派が多く、建武の新政に不満を抱く国人領主らは北条高時の遺児・時行を担いで1335年挙兵、中先代の乱を勃発させます。その時、信濃守護・小笠原貞宗が鎮圧に乗り出しますが形勢不利、北条時行の鎌倉進撃を許してしまいます。守護職は降ろされ、代わりに斯波氏が信濃守護になります。再度小笠原氏が信濃守護になったのは1399年の事でした。しかし、信濃の国人達は小笠原長秀の高圧的な態度に反発、軍を起こして反抗します。「大塔(おおとう)物語」によると、小笠原長秀の軍は800騎、信濃国人衆の軍勢は併せて2,800騎、これに徒士(かち)などを加えれば、約4千余対約1万余の対決になったそうです。小笠原氏は敗北、彼は守護職を解かれ、信濃細川氏を代官として幕府直轄領になりました。この戦いの中に実田(さなだ)氏の名前が見えるそうです。実田氏はその後の真田氏ではないかと、見られているそうです。
信濃は京都の幕府の勢力圏と、鎌倉府の勢力圏の接する所であり、また、信濃国人衆は独立志向が強い地域でもあり、上から支配の難しい所でもあります。

六角氏の場合

六角氏は近江源氏の佐々木氏の流れを汲む嫡流です。「六角氏」の六角は、京都の「六角堂」傍に住んだ事に由来します。後に近江の佐々木庄に移りました。

六角氏は嫡流が六角家、庶流が京極家、大原家、高島家と分かれます。京極佐々木家に高氏(京極高氏佐々木道誉)が出て、そちらの方が栄えて幕府の要職に就き、本家六角家と対立する様になります。佐々木道誉の様に直接幕府に仕えて権勢を誇る者が居て、近江の守護・六角氏の言う事を聞かず、領国経営に苦労します。

六角道綱(ろっかく みちつな) には長男の持綱(もちつな)、次男の時綱(ときつな)、三男の周恩が居ました。

1446年、次男の時綱が国人衆に担がれて父と兄に反逆、道綱と持綱は敗れて自害しました。相国寺の僧侶だった周恩が幕命により還俗して名を久頼(ひさより)と改め、次兄・時綱を討ち滅ぼしました。この時佐々木持清(もちきよ)が久頼を援(たす)けました。久頼はこうして六角家の本家を継ぎましたが、久頼と持清との間に軋轢が生じ、久頼は憤死してしまいます。

久頼の遺児・亀寿丸(後の行高=高頼(たかより))は、六角政堯(ろっかく まさたか)の後見を得て近江守護になります。この六角政堯は、時綱の子です。亀寿丸は守護職を継いだものの幕命により追放され、後釜に六角政堯が座ります。が、2年後、政堯も廃嫡され、家督は再び亀寿丸に戻されました。

応仁の乱の時、政堯と亀寿丸(=高頼)は東軍、西軍に分かれて戦います。

 

畠山氏の場合

 畠山氏は河内、紀伊越中、山城の守護です。1449年管領職も務めます。

1440年、関東の諸将が鎌倉府の足利持氏(あしかが もちうじ)の遺児を擁立し、幕府に叛旗を翻しました。いわゆる結城合戦です。その時、幕府は討伐軍を関東へ差し向けましたが、畠山持国(はたけや まもちくに)は出陣を拒否しました。その為に、将軍・義教が激怒、持国を追放し、弟の持永(もちなが)へ畠山の家督を与えました。

1441年、嘉吉の乱が起こり、将軍・義教(よしのり)が暗殺されてしまいます。持国は直ぐに兵を挙げ、弟・持永を攻めて討ち取ってしまい、家督を奪還します。

義教の遺児・三寅(みつとら)が8歳で将軍に推された時に管領だったのは、畠山持国でした。三寅は14歳の時元服して義政となり、8代将軍を継ぎます。持国はその頃行政手腕を発揮し、権勢を振るいました。 

持国には子供が無かったので、別の弟の持冨(もちとみ)を養子にします。ところがその後、持国の側室に子が出来ました。この側室は「桂女(かつらめ)」と言って、元は春をひさぐ遊女だったのです。(「桂女」は遊女の隠語」) 彼女は他の男との間にも子を成しています。持国は子の母が卑しい身分なので、当初はその子を石清水八幡宮の僧にする積りでしたが、途中で気が変わり、持冨を後継ぎから外し、この子を後継ぎにします。この子が後の義就(よしひろ)です。持冨はこれを受け入れ、従います。持冨はその後病死しました。

持冨の家臣達は、後継ぎが義就に挿し替わるのに納得しませんでした。義就が本当は持国の子なのかどうか疑問が持たれていました。彼等は持冨の子・弥三郎を擁立して反抗、この争いに細川勝元山名宗全、畠山義忠が口を挟みます。

 

斯波氏の場合

斯波(しば)氏は越前、尾張遠江(とおとうみ)守護大名です。斯波氏は古文書などで「斯波」と書かれる事は無殆ど無く、武衛家(ぶえいけ)とか勘解由小路(かでのこうじ)とかで名前が出ています。「志和」の時も有ります。斯波の名前は、鎌倉時代陸奥国斯波郡(岩手県斯波郡)を領していた事に由来します。

「武衛」と言う名の通り、武をもって国を衛(まも)る官職で、元は唐の官職名です。武衛督(ぶえいのかみ)兵衛府の最高長官です。足利尊氏直義(ただよし)、初代鎌倉公方基氏(もとうじ)が武衛督になりましたが、その後は斯波氏が受け継いでいます。斯波氏は足利氏の嫡流です。けれども、時の政権に反抗して庶流にされてしまいました。以後その地位に甘んじていますが、誇りが高く、足利一門筆頭の家格を持ち、他の足利庶流とは別格の扱いになっています。

1452年(享徳元年)、斯波氏本家9代当主・斯波義健(しば よしたけ)が18歳で亡くなりました。そこで、斯波氏の分家・大野持種(おおの もちたね(斯波持種))の子・義敏(よしとし)が10代目を継ぎました。

義敏は父・持種と、守護代甲斐将久(かい ゆきひさ(=甲斐常治(かい じょうち))の補佐を得て守護の務めを果たしていきますが、甲斐将久の横暴が激しく、将久を抑える為に義敏は幕命に背き私的都合で越前に出兵、その為、家督を取り上げられてしまいます。そして、11代目の家督は義敏の子の松王丸に与えられました。2年後、将軍・義政は松王丸を追放、12代目に遠縁の斯波義廉(しば よしかど)を当てます。

義政生母逝去で義敏は恩赦されます。すると義敏は義廉から家督を奪い13代目に就きます。家督を奪われた義廉は舅の山名宗全を頼り、一色氏、土岐氏も味方して14代目当主の座を義敏から義廉が奪取、また更に争い15代目義敏が就きます。この騒動に将軍義政の弟・義視が巻き込まれ、応仁の乱へと発展して行きます。

これを義健から書きますと、下記の様になります。数字は代です。

9 義健―10 義敏―11 松王丸―12 義廉―13 義敏―14義廉―15 義敏

 

余談  勧進帳

勧進帳に出て来る安宅関(あたかのせき)の役人・富樫左衛門泰家(とがし さえもん やすいえ)は、富樫氏6代目と目されています。彼は、源義経を逃がした罪で守護職を剥奪されます。彼は出家し、後に奥州平泉に義経に会いに行ったと言われています。一説には、古文書などからの時代の擦り合わせによると、勧進帳の富樫は泰家ではなく、もう少し前の人物ではないかと言う人も居ます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

89 趣味天下を制す 足利義政

室町幕府8代将軍・足利義政(あしかが よしまさ)は、無気力で優柔不断、将軍としての実績を残さなかったばかりか、都を戦火で荒廃させた無能の将軍と誹(そし)られる事が多いのですが、どうしてどうして、彼の創造した「わび」「さび」の世界は、その後の600年に渡り日本文化の基底になってきました。それどころか、「わび」「さび」は世界語にもなり、日本文化を世界に発信し続けております。そういう意味で、彼は室町幕府の産んだ最大の将軍であったかも知れません。

高度の文化を朝貢の諸国の大使に見せ付け、「こんなに凄い国とはとても戦争なんて出来ない」と思わせて相手国を臣従させる事は、戦費を掛けて戦うよりも安価でしかも平和的であると、オスマン帝国の皇帝が言ったとか。トプカプ宮殿の財宝はその為に集められたもの。中国の紫禁城の豪華さも然り。しかし、目を奪う程の豪華絢爛な文物ではなく、その対極にある貧乏を昇華させた文化を義政は華開かせたのです。

「わび」とは侘しい事、「さび」とは寂しい事。うらぶれて寂しい有様を美しいとし、価値あるものとしたもので、全く発想を逆転させた精神文化の華です。

 

7代将軍・足利義勝(あしかが よしかつ)

嘉吉元年6月24日(1441年7月12日)の嘉吉の乱で、将軍・足利義教(あしかが よしのり)赤松満祐(あかまつ みつすけ)に殺害された時、残された義教の子供は4人おりました。そこで長庶子千也茶丸(せんやちゃまる)が急きょ幕臣達に推されて7代将軍になり、名を義勝と改めます。この時、御年9歳。嘉吉2年(1442年)11月7日の事でした。

翌年6月、室町殿で朝鮮通信使を義勝は謁見します。どうやら無事に謁見は済んだものの、約1か月後の7月21日、義勝は急死してしまいます。享年10歳。将軍在位8か月でした。

 

8代将軍・足利義政 (あしかか よしまさ)

次に将軍になったのが義教の5男で義勝の同母弟・三寅(みつとら)です。その時三寅は8歳でした。政を行なえる年齢ではなく、管領畠山持国(はたけやま もちくに)の後見を得て後継者となります。三寅は名前を三春(みつはる)と替え、以後三春は室町殿と呼ばれました。更に花園天皇より義成(よししげ)の名前を賜り、文安6年(1449年)4月16日に元服します。

文安6年(1449年)4月29日、将軍宣下を受けて義成は13歳で第8代の将軍位に就きます。

 14歳になると政務を執る様になりました。政務と言っても、乳母の今参局(いままいりのつぼね)(=略称お今)、扶育の烏丸資任(からすまる すけとう)や側近の有馬元家(ありま もといえ)の助けを借りて行いました。

享徳2年(1453年)6月13日、義成は義政(よしまさ)と改名します。 

 

将軍家の跡目問題

康正(こうしょう)元年(1455年)8月27日、義政は日野富子と結婚します。富子、この時16歳です。

4年後に第一子が生まれますが、その日の内に亡くなりました。富子はこれを乳母の今参局の呪詛の為だとして、今参局流罪にします。また、義政の側室達も追放してしまいます。その後2人の姫が生まれましたが、結婚9年目になっても男子が生まれませんでした。そこで、義政夫婦は、天台宗浄土寺にいた弟・義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、養子にします。

義尋は義視(よしみ)と名を改め、富子の妹の良子と結婚しました。ところが、

寛正(かんしょう)6年(1465年)11月23日、義政と富子の間に義尚(よしひさ)が誕生しました。

兄夫婦に子供が出来たので、養子の義視の立場が無くなり、義政と義視の関係が悪化、それが応仁の乱の原因となりましたと、婆は学校で習ったような気がしますが・・・

ですが、婆は疑り深いです。「本当?」どうも納得できないのです。

何故なら、翌年1月、義視は従二位になっています。「文正(ぶんしょう)の政変」後も、義視は、後土御門天皇の大嘗会行幸に際し供奉(ぐぶ)し、義政の代理を立派に務めました。しかも、文正2年(応仁元年)正月11日、義視は正二位に昇進しています。兄の義政がその時従一位でしたから、これは義政の後押しがなければ出来ない事です。義政夫婦は義視を排斥するどころか優遇しているのが分かります。

夭折の家系?

義政の父・義教(よしのり)には正室と側室併せて7人居たそうで、男子だけでも11人生まれたそうです。ただ、義教が暗殺された時に生存していたのはその内の4人だけだったとか。どの子も短命でした。義勝が将軍になりましたが10歳で薨去しています。残ったのは4男政知(まさとも)、5男義政(よしまさ)、10男義視(よしみ)の3人だけです。義政本人を除く残りの二人の内、政知は堀越公方として関東の要でしたので動かせず、残る義視だけが頼りの綱だったのです。

義政夫婦に義尚が生まれると、義視は義尚への中継ぎ的存在になり、且つ、万一義尚が夭折した場合の安全弁的存在になりました。

兄弟達が次々と夭折して行った現実を直視すると、二組の兄弟姉妹夫婦は、足利将軍家の血筋存続を至上命題として結束していた様に、婆には見えます。義政夫婦の子・義尚の下に、義視夫婦の子・義稙(よしたね)が猶子に入り、従兄弟同士ですが、親子の関係を結びます。

文正の政変

文正元年(1466年)8月25日、伊勢貞親)(いせ さだちか)季瓊真蘂(きけい しんずい)等が「文正の政変」を起こします。貞親は義政を養育した人で、政所執事です。義政に義尚が生まれると、今度は義尚の養育係になります。幼君を守る貞親にとって義視の存在は将来の禍根です。彼は義視に謀反の疑い有りと讒訴、義視の処刑を主張します。義視は細川勝元の屋敷に逃げ、無実を訴えます。義視の申し開きが入れられ、貞親達は逃亡します。幕府で絶大な力を持った貞親が失脚し、義政は有能な側近を失います。代わりに山名持豊(=宗全)が台頭、山名持豊細川勝元が対立し、そこに各大名のお家騒動が絡んで応仁の乱へ突入する様になります。

 応仁の乱1467年から1477年まで11年間続きます。

 

 東山山荘造営

足利義政は、戦乱に次ぐ戦乱に嫌気がさし、政治から逃避して東山山荘で隠遁生活を始めた、と言われております。実際は少し違います。

戦争を何年も続けていると全体に厭戦気分が蔓延し始め、終戦の兆しが僅かに見え始めていました。

文明4年(1472年)、細川勝元山名宗全の間で和議の交渉が始まりました。

文明5年(1473年)、山名宗全細川勝元の両巨頭が相次いで亡くなりました。

文明6年(1474年)1月7日、義政は終戦が間近いと目途を付けて、義尚に将軍の座を譲りました。

応仁の乱が終わったのが1477年、東山山荘の造営に着工したのが1482年です。彼は戦争の終結を見届けてから山荘を作り始めました。

とは言え、幕府は貧乏でした。妻の富子は利殖の道に長け、かなりの銭を持っていましたが、それを夫の義政に回す様な事はしませんでした。彼女は、敵に金を渡して軍を引かせたり、寝返らせたり、幕府の財政を立て直したりして有効活用をしていました。趣味人の夫に渡す金など、びた一文も出さなかったのです。

文明14年(1482年)から東山山荘(東山殿。後の東山慈照寺)の造営に取り掛かります。

彼は、造営を始めてから間もなく山荘に移り住みます。まだ建設が始まったばかりで、土がほじくり返され材木が山と積まれ、職人達が忙しく働いている最中に引っ越して、そこで寝泊まりしながら現場の指揮を執ります。そういう訳で東山山荘は、彼の手造りと言って良く、隅々まで彼の趣味が行き届いていると言っても過言ではありません。

義政は段銭(たんせん)(=税金。臨時の住民税の様なもの。銭による納付)を課したり、夫役(労働)を課したりして東山山荘の費用を捻出しました。

幸いな事に、禅宗は装飾過多を嫌い、単純或いは素朴、静謐な風を尊びます。貧乏な義政に打って付けの世界でした。禅宗の文化や美意識は、武士のそれと軌を一にするものでした。彼は先祖代々蒐集してきた財物を能阿弥・芸阿弥・相阿弥に命じて整理させました。義政の画庫にあるものは殆どが唐物でした。宋元明の絵画や墨蹟でした。それ等は勘合貿易や渡来僧、或いは留学僧などがもたらしたものです。

安物買いの宝物

日本人は舶来ものを喜ぶ、という傾向がありました。商人は日本人好みの水墨画や墨蹟を買い付けたり、留学僧なども帰朝の際に手土産にそう言うものを買って来たりして、随分向こうの文物が日本に入ってきました。現在ではそれらは目の玉が飛び出る程高くなっていて、0 の数を数えるのも難儀しますし、国宝や重要文化財に指定されている物も多いのですが、当時、それらは比較的安く現地で手に入れる事が出来ました。

と言うのも、例えば牧谿の絵などは、神仙思想に裏打ちされた峩々(がが)たる山の山水画とは違って、江南の穏やかな風景が朦朧と描かれていたりするので、中国人の好みには合わなかったのです。また、米芾(べいふつ)のような名筆家の書を尊ぶ現地では、禅坊主の墨蹟は「下手」だったので見向きもされませんでした。何事も需要と供給です。優れた芸術作品でも大衆の好みに合わなければ、安く買い叩かれてしまいます。

今、牧谿の作品の殆どが日本に在る、と言われています。中国の人が口惜しがっている、と噂で聞いたことがあります。

 

参考までに

19 室礼の歴史(4) 武家文化

20 室礼の歴史(5) 同仁斎

21 室礼(6)   床の間

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗

48 鎌倉文化(4) 禅語

49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

55 鎌倉文化(11) 仏画

56 鎌倉文化(12) 肖像画・宋画

57 鎌倉文化(13) 工芸(織・漆)

73 室町時代(2) 武家文化の変遷

74 室町文化(1) 庶民の芸能

75 室町文化(2) 世阿弥

77 室町文化(4) 闘茶

78 室町文化(5) 金閣寺

79 室町文化(6) 銀閣

80 室町文化(7) 庭園

81 室町文化(8) 水墨画

82 室町文化(9) 東山御物

 

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このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯」の世界」で、各記事毎にサブタイトルがあります。各サブタイトルには通し番号を付けております。この記事の場合は89です。89の番号の下に小さな四角い薄青色の枠茶の湯をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)

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 2021年4日3日現在、通し番号は93応仁の乱(4)  乱の前夜」を掲載中。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

88 足利義教(2) くじ引き将軍

宗教界の最高位の人が俗的権力を手にした時、往々にして暴走する事があります。まして神託によって選ばれたという自負がある場合、神が憑依(ひょうい)したかのように生死与奪の権を思いのままに振る舞い勝ちです。万人恐怖と言われた足利義教(あしかが よしのり)は、正に神意を頼むくじ引きで選ばれた将軍です。彼は、元は『天台開闢(かいびゃく)以来の逸材』と言われた僧でした。

 

天台座主出身階層

義円(ぎえん)(=義教)が153世天台座主に就く迄の歴代座主の出身を見ると、次の様になります。

(なお慈円(じえん)の様に4度就任した人も居るので、下記の数字は述べ人数です)

出自が一般人で幼少より僧籍に入った者  32名

公卿(三位以上)の家の子で僧籍に入った者 65名、

親王出身の者               53名、   

武家出身                3名    計153名

(公家と言うのは朝廷に仕える官人全て。貴族と言うのは5位以上。公卿(くぎょう)は三位以上を言います)

初めの頃は修行・学問・人徳が優れた者が天台座主に就いていますが、やがて左大臣など正二位以上の高位高官の子弟達がその地位を占めようになります。更に時代が下ると殆ど法親王(ほっしんのう)が就任する様になります。法親王とは天皇の皇子が僧籍に入った人の事を言います。

権門で占められた叡山の座主。かつて学問に沸き新しい宗派を次々と生み出した叡山は沈滞し、僧兵の横暴が罷り通る時代になっていました。そこへ武家出身の春寅(はるとら)(=義円義宣(よしのぶ)義教)が門跡寺院の青蓮院(しょうれんいん)に入室します。彼の父は征夷大将軍にして従一位左大臣でした。武士の土壌に育った春寅は、僧界とも貴族社会とも違った視点を持っていたに違いありません。

天台開闢以来の逸材、と言われた春寅は、経文の暗記などは難なくできたでしょう。ただ、春寅が特殊だったのは、暗記力や知識力ではなく他の僧侶達とは違う発想と、父から学んだ上から目線の尊大さだったと思います。小さい子が大人顔負けの偉そうなことを言えば、誰でも「ほーっ」と感心するものです。

僧侶出身でありながら、何故『万人恐怖』と言われるまでに残虐性を持ったのか、粛清の帝王・明の朱元璋(しゅげんしょう)(=洪武帝)も僧侶の出であることを思い合わせれば、興味深いものが有ります。 (参考:85 元滅亡と朱元璋)

 

義持、後継者を指名せず

応永30年3月18地日(1423年4月28日)、4代将軍・義持(よしもち)は将軍職を嫡嗣子の義量(よしかず)に譲りました。義持は37歳、5代目を継いだ義量は17歳でした。ところが、

応永32年2月27日(1425年3月17日)、義量は19歳で突然病死してしまいます。生来の病弱と、大酒飲みが原因と言われています。義量の在位2年、義量には子供が居ませんでした。独り子を失い孫も居ないという状況の中で、「次に正室から男子が生まれる」という石清水八幡宮の占いに、義持は希望を託します。

応永35年(1428年1月7日)、入浴中、義持はお尻のおできを掻きむしり、そこから細菌が入って壊疽を起こします。病状が日に日に悪化、敗血症になり、危篤に陥りました。

重臣達は慌てて誰を後継者にするか、義持に尋ねます。ところが義持は後継者指名を頑(かたく)なに拒みましたので、重臣達は義持の4人の弟たちの名前を書いてくじを作りました。

その名前とは、梶井門跡義承(ぎしょう)大覚寺門跡義昭(ぎしょう)相国寺虎山永隆(こざんえいりゅう)、青蓮院義円です。これ等の名前を書いて、石清水八幡宮でくじを引きました。

応永35年(1428年)1月18日、義持が薨去(こうきょ)しました。発病してから11日目でした。 

事前に引いたくじを義持死後開封しますと、そこには義円の名前が書いてありました。

 

還俗(げんぞく)将軍就任

義円は何度も就任要請を断りますが、ついに折れて還俗します。そして、髪の毛が伸びてから元服義宣と名前を変えます。

正長2年(1429年)3月15日、義宣は征夷大将軍に就任します。この時、名前を再度替え、義教と名乗ります。

 

義教の目指したもの

義教は、祖父・義満を理想として強い幕府を目指し、その為の施策を次の様に考えました。

一つに、将軍を頂点とする完全なピラミッド型組織を築く。

二つに、財政基盤と軍事力を強化する。

一つ目の課題を達成するには現在の有力な守護達の首をすげ替え、親義教派に切り替える事です。でなければ、互いに相争うように仕向けます。そうすればどちらかが滅亡し、もう片方が消耗して勢力を衰えさせる事が出来ます。

二つ目の課題は日明貿易を再開し、市場経済を活発化させることです。室町幕府は直轄領をほとんど持っていなかったので、年貢の収入は当てになりませんでした。朝鮮通事の尹仁甫(いんじんほ)の朝鮮への報告書に、室町幕府の事を「国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ」と書いてあるそうです。財務省的な機能を持つ役所が無く、幕府の財産管理を民間に任せていたようです。

 

守護弱体化へ

[御前沙汰]  将軍親政が行えるように、義教は有名無実化している重臣達の評定衆や引付を止め、自ら選んだ人を召して御前会議を行い、色々の事を決定しました。これを「御前沙汰」と言います。

[裁判]  義教は裁判にも関心を持ち、直接裁可を下しています。全てがそうではありませんが、中には、「湯起請(ゆきしょう)や「くじ引き」など神がかり的な判決も有りました。「湯起請」と言うのは、熱湯の中に手を入れて火傷すれば有罪、火傷しなければ無罪という判決の仕方です。これは古代に行われた裁判の方法と同じで盟神探湯(くがたち)とも言われています。

 [延暦寺対策]  義教は自分の後任に、弟の梶井門跡義承を延暦寺天台座主に送り込みます。が、永享年(1433年)、山門奉行の不正を切っ掛けに延暦寺と揉め、奉行を配流して事を収めましたが、延暦寺は図に乗り園城寺(おんじょうじ)を焼き討ちします。義教は激怒、延暦寺を攻め、門前町の坂本を焼き払います。そして、延暦寺の使いの僧4人を斬首、延暦寺は抗議の為、根本中堂に火を掛け、焼身自殺24人を出します。

[永享の乱]  鎌倉公方足利持氏(あしかが もちうじ)が将軍義教を蔑(ないがし)ろにし、勝手に振る舞うので、義教は持氏を朝敵にします。そして、関東管領・上杉憲実(うえすぎ のりざね)と手を結び、持氏一族を討ち滅ぼしてしまいます。

 [結城合戦]  足利持氏の残党と結城(ゆうき)氏等が、持氏の遺児を擁立して反乱を起こします。幕府は結城氏を討伐し、持氏の遺児3人の内2人を京へ護送中に殺害します。後日、この結城合戦の戦勝祝いの席で、義教は赤松満祐に殺害されるのです。

[弟殺し]  異母弟の大覚寺門跡義昭が突然出奔。これを南朝方と通じた為であると見た義教は、義昭に謀反の疑いを掛け、探索します。義昭は追われ、四国から九州へと逃れるもついに包囲され、自害します。義教は義昭の首を見て喜んだと言われています。

[家督相続への干渉]  義教は守護大名達の家督相続に口を挟みました。嫡嗣子に関係なく、義教に従順な者の方を選んで首をすげ替えました。相続争いに負けた方の領地を没収し、寵臣にそれを分け与えました。気に染まなければ攻め滅ぼしてしまいました。そのようにして山名氏、細川氏、一色氏、土岐氏など有力守護大名を自分の息のかかった者にしてしまいました。

そんな中で、次に殺られるのは赤松満祐だという噂が流れました。赤松満祐は先代将軍・義持の時、相続問題で一悶着を起こして赤松を討伐せよとの騒ぎを起こしたことがありました。幸いにしてその時は、周囲の執成(とりな)しで大事に至らず納まりましたが、そういう前科があったので、噂を本当に信じてしまいました。義教だったら遣りかねないのです。

赤松満祐は殺られる前に殺ってしまえと、結城合戦の戦勝祝いの宴席に義教を招き、暗殺してしまったのです。

[その他]  義教は些細な事で多くの人を処罰しました。顔を見て笑ったから、とか、料理が不味いとか、闘鶏の賑わいで道が混雑していたからとか、噂話をしたからとか、とにかくとんでもない事に腹を立て、殺したり、所領を没収したり、流罪にしたりしました。酷いのは、義教の側室に男子が生まれた時、側室の兄の所に祝い客が大勢押しかけたと言って、それが気に障り、押しかけた客全ての者を調べ上げて処罰したのです。又、日蓮宗の僧・日親に説教されて激怒、灼熱の鉄鍋を頭から被せ、舌を切ると言う罰を与えました。

伏見宮貞成(ふしみのみや さだふさ)親王は、『万人恐怖、言う莫(なか)れ、言う莫れ』と書き記しています。

 

 余談  天台座主は何処に住んでいたの?

比叡山延暦寺と言うのは比叡山一帯に広がって建っているお寺の総称です。山の峰や谷を、東塔地区、西塔地区、横川(よかわ)地区、別所と分けて三塔十六谷二別所と言われる地区に堂塔伽藍が立ち並んでいます。中心は東塔の根本中堂です。昔の最盛期の頃、比叡山が擁しているお寺は3千とも言われていました。天台座主は根本中堂に住む事は無く、周辺のお寺のどれかに住んでいました。

義承が住持していた梶井(かじい)門跡と言うのは昔の名前で、現在は三千院、或いは三千院門跡と呼ばれています。比叡山のお寺の一つで京都の大原にあります。

義円が住持していた青蓮院(しょうれんいん)は京都の粟田口にある天台宗のお寺で、門跡寺院です。青蓮院は青蓮院流書道で有名です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

87 足利義教(1) 将軍暗殺さる

嘉吉元年(1441年)6月24日、6代将軍・足利義教(あしかが よしのり) が、赤松家の西洞院二条邸に於いて催された猿楽の席で、暗殺された。義教は即死、随伴の守護大名の中に死傷者多数、現場は混乱を極めた。

[ 続報 ]

侍所頭人赤松満祐(あかまつ みつすけ)、その子赤松教康(あかまつのりやす)は、将軍暗殺を決行した後、幕府から必ずや討手が差し向けられると考え、切腹の覚悟を決めていたが、討手は押し寄せて来ず、夜になった。赤松氏は兵を纏め、自邸に火を放ち、義教の首を槍の先に下げて整然と隊列を組んで京を退去、自領の播磨国(はりまのくに)坂本城 (現姫路市書写山) へ戻った。

[ 細報 ]

24日、赤松満祐の子・赤松教康は「庭に鴨の子が生まれました。とても可愛らしいので、先頃の結城合戦の戦勝祝いを兼ねて宴を催したいので、是非ご来駕頂きたく・・」と将軍義教を招待した。将軍は喜び、公家や大名などの中から意に染む者を引き連れ赤松邸に渡御(とぎょ)、猿楽を楽しみながら酒宴の真っ最中の時、一頭の馬が庭に放たれた。と、直ちに門が閉められ、辺りは騒々しい物音に包まれた。

「何事ぞ!」との問いに、正親町三条実雅(おおぎまち さんじょうさねまさ)は、「雷鳴でしょう」と答えたが、直ぐ障子が開け放たれ、武装した侍数十人が乱入。忽ち義教の首が刎ねられた。首級を挙げたのは安積行秀(あさか   ゆきひで) と言う赤松家随一の剛の者である。

宴席は一転血の海の修羅場と化した。刀を抜く間も無く斬られる者、抵抗を試みて戦うも反撃敵わぬ者、算を乱して庭に逃げ出す者、塀を攀じ登ろうとする者、さながら邸内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵になった。しかし、将軍を守ろうとして戦おうとしたのはほんの数名だけであった。外の守護大名達は将軍に構わず真っ先に逃げ出した、と言う。

赤松からは「将軍殺害の目的が達せられたので他の者には危害を加えない」と告げられたので、ほどなく修羅場の騒ぎは収まり、難を逃れた者は早々に退出した。赤松邸では、死者や負傷者を片付けると、夜まで幕府からの討手を待ったが、何事も無く時間が過ぎたので、屋敷に火を放ち、領国へ引き上げて行った。

この事件の死者重軽傷者は次の通りである。

死亡者(4名)

将軍・足利義教(あしかが よしのり)(48歳)

山名煕貴(やまな ひろたか) 石見守護。娘は細川勝元の室。

京極高数(きょうごくたかかず) 侍所頭人兼山城・出雲・隠岐・飛騨の守護

大内持世(おおうち もちよ) 周防(すおう)長門(ながと)豊前筑前の守護               

重傷者(2名)

 細川持春 (ほそかわ もちはる) 歌人。備中朝口郡・伊予宇摩郡の守護。

正親町三条実雅  従一位内大臣(義教の継室・尹子(いんし)の兄。)

無事脱出組(主だった者5名、他多数)

 細川持之(ほそかわ もちゆき) 管領。摂津・丹波・讃岐・土佐の守護

山名持豊((やまな もちとよ)宗全) 四職侍所頭人兼但馬・備後・安芸(あき)・伊賀・播磨の守護

 畠山持永(はたけやま もちなが) 河内・紀伊越中の守護

 一色教親(いっしき のりちか) 丹後・伊勢の半国・山城の守護

細川持常(ほそかわ もちつね) 幕府相伴衆・阿波・三河の守護

                            以下多数

思考停止の幕府

事件のあらましは上記の様でしたが、その後の幕府の対応は鈍いものでした。その為、赤松氏は悠々と領国へ帰国へ帰国する事が出来ました。道中の妨害にも遭いませんでした。

幕府は茫然自失、混乱の極みの中にありました。それまで全ての権限が将軍義教一人に集中していた為に、義教を失った時点で指揮命令系統の頭が消失してしまった為でもあります。

事件直後、管領細川持之は赤松邸から逃げ帰って自邸の門を固く閉ざし、沈黙を守りました。他の幕閣、大名も大同小異でした。将軍暗殺と言うこれ程の大事件を起こすには、赤松のみで実行できる訳がなく、赤松以外に加担している者が居るのではないかと言う疑心暗鬼に駆られ、互いの動きを探っていたのです。

事後処理難航

翌6月25日、幕府は評定を開き、将軍空位をどうするか話し合いました。そして、伊勢貞国の館で養育されている義教の長庶子千也茶丸(せんやちゃまる)を室町第へ移し、将軍後継者に擁立する事にしました。

同年7月1日、相国寺の僧・季瓊真蘂(きけい しんずい)が赤松の立て籠もる坂本城へ赴き、義教の首の返還を求め、持ち帰る事が出来ました。それによって7月6日、京都の等持院で義教の葬儀が執り行われました。

さて、ようやく葬儀を済ませ、それから赤松討伐について話し合いましたが、皆腰が重くなかなか動きません。一応、赤松氏の単独犯行と分かりましたが、討幕軍の編成に時間が掛かりました。義教は、独裁的で猜疑心が強い将軍でしたので、彼を恐れて戦々恐々としていた人達は、暗殺を実行した赤松満祐・教康親子に心を寄せる者も多く、赤松氏には同情的な声があったのです。

赤松氏による将軍足利義教暗殺から赤松氏討伐に至る一連の騒動を嘉吉の乱と言います。

伏見宮貞成(ふしみのみや さだふさ)親王(後崇光院)の書いた『看聞日記(かんもんにっき)』 or『 看聞御記(かんもんぎょき)』は、1372年から1456年にかけて書かれた日記で、全44巻からなります。そこに嘉吉の乱についても詳しく書かれています。ここにその一部を抜粋して載せます。

看聞日記

(前略) 赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松をうたるべきの御企(おんくわだて)露見の間、遮(さえぎり)て打ち申すと云々。自業自得、果たして無力の事か。将軍の此の如き犬死、古来その例を聞かざる事なり(後略)

(ずいよう意訳)

赤松が領国へ落ちて行くのに、それを追い駆けて討つ人はいなかった。「惜しい人を亡くしたものだ」と残念がる人もいなかった。諸大名はこの事件に関して同心(結託) しているのか。その意中は掴めない。(将軍はかねてより赤松を討とうとしていたのだが)結局、その企みが(赤松側に)露見していたので、赤松側は殺られる前にその企てを防いで、逆に(義教を)討ったのだ、と申している。自業自得である。果たしてどうしようもない事なのか。将軍がこの様な犬死をするなんて、今迄聞いた事が無い。

赤松討伐

事件当日、無傷でいち早く逃げ出した管領細川持之などは、臆病者よと笑いものにされました。外にも、すぐ手を打たず、赤松に退却の時間を与え赤松有利にしてしまった事を取り上げ、実は、細川も義教殺害に一枚噛んでいたのではないか、と言う人も居ます。

 表向きはどうであれ、内心では義教死去に快哉を叫んでいた守護大名がかなりいる中で、赤松討伐を諮っても結論がなかなか出て来ません。そんな中で山名持豊は積極的に賛成に回ります。と言うのも、赤松亡き後の領国を狙っているからでした。義教に寵愛を受けていた赤松貞村も参陣します。貞村は、赤松満祐の弟・義雅の土地を義教の計らいで貰って居ました。義雅側から言えば、義教の命で所領を没収されてしまったのです。

山名持豊はいち早く出陣の用意をしますが直ぐには動かず、京都に居座って略奪などの乱暴狼藉を働いていました。山名は7月28日になってようやく進軍を始めました。

細川持常・赤松貞村・赤松滿政が連合した大手軍、山名持豊軍、山名教清軍の三軍に分かれて赤松氏を攻めますが、幕府軍の士気は低く、合戦は長引きます。赤松満祐は坂本城から要害の地に建つ城山城(きのやまじょう)に移り、なおも抵抗しますが、9月10日に幕府軍の総攻撃を受けてついに陥落してしまいます。満祐は子の教康と弟の則繁を城から落とし、切腹しました。

 

 

余談

次回は嘉吉の乱の背景などに触れるつもりです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

86 足利義持と上杉禅秀の乱

 トップの座に据えるべき人物を選ぶのは大変です。最新のニュースでも、或る団体のトップ交代を巡る一騒動がありました。ましてや、帝位や将軍位にまつわる人事では、国を争乱に巻き込むような事態に発展する例が後を絶ちません。

 

足利義持

室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)は父・義満との確執はあったものの、順当に将軍位に就く事が出来ました。義持が将軍に就いたのは9歳、将軍の実権を握ったのは23歳、それまで父義満が将軍の実権を握っていました。義満が薨去してからようやく名目上の将軍職から実質上の将軍になった義持でした。

彼は父が成した業績を壊し、政治路線を変えます。鹿苑寺の破却と勘合貿易の廃止です。それでも家臣からの反対は無く、朝廷とも一層良好な関係を結ぶことができ、長期安定政権を築く事が出来ました。義持の将軍継承については表面上全く問題がないように見えました。ただ、紛争の種だけは父によってしっかりと撒かれていたのです。

その種とは弟・義嗣(よしつぐ)でした。義嗣は義持の異母弟です。父・義満は義嗣を異常なほど可愛がっていました。義嗣の元服を宮中の清涼殿で行うなど、武家棟梁の家にはあるまじき扱いをし、まるで親王の御元服のようだと公家達から眉をひそめられました。元服を済ませた義嗣を、義満はその日の内に早速従三位に昇進させます。弟・義嗣への目に余る父の溺愛ぶりは、義持を警戒させるのに十分でした。つぎの将軍は義嗣様ではないかと、考える人々も出始めていました。そのような時、上杉禅秀の乱が起きました。 

 

上杉禅秀の乱

室町幕府は京都に政庁を置き、鎌倉へは幕府の支庁を置いていました。この支庁を鎌倉府と呼んでいます。鎌倉府のトップは鎌倉公方(かまくらくぼう)といい、2代将軍足利義詮の弟・基氏(もとうじ)が分家して、その子孫が代々継いでいました。

1409年鎌倉公方の跡を継いだ足利持氏(あしかがもちうじ)は11歳でした。その頃、彼の叔父・足利満隆(あしかがみつたか)が謀反をするとの噂が流れ、持氏は怖くなって関東管領上杉憲定(うえすぎのりさだ)の屋敷に逃げ込みます。上杉憲定は持氏の異母弟・持仲(もちなか)を滿隆の養子にすることで、持氏と満隆を和解させます。この養子の話は、和解に結びつく解決策には何ら関係もないように見えますが、鎌倉公方に接近して権力を得たい満隆にとっては、その足掛かりを得る策として、先を見据えた一手の駒だったに違いありません。

 この騒ぎで上杉憲定は責任を取らされ関東管領辞任に追い込まれます。

代わりに関東管領になったのが上杉氏憲(うえすぎうじのり)(=禅秀)です。

 上杉憲定と上杉氏憲(禅秀)の先祖は同じですが、途中で分かれて別々の上杉流家系になっています。

(ここから先は、上杉氏憲を出家後の法名上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)、又は単に禅秀と呼ぶことにします。)

経過

 鎌倉公方足利持氏が若いので、新しく管領になった上杉禅秀が持氏を補佐する様になりました。禅秀は次第に権勢をふるう様になります。それを嫌った持氏は、上杉憲基(のりもと)を重んじる様になります。そう、憲基は、叔父・足利満隆の謀反の噂に怯えて逃げ込んだ先の、あの前関東管領・上杉憲定の息子です。

1415年5月2日、 持氏と禅秀は対立し、持氏は禅秀を更迭します。

 同年5月18日、持氏は、禅秀の後釜に上杉憲基を関東管領に登用します。

1416年10月 2日、この人事に不満を持つ禅秀は、足利持仲を擁立して足利満隆と結託、関東周辺に居る身内の諸将や国人衆を糾合して、鎌倉公方の館を襲撃します。持氏は脱出して西へ逃れ、今川氏の下に行きます。

  同年10 月6日、禅秀一派は上杉憲基邸を襲い、これも陥落させます。上杉憲基は越後へ逃れました。

   同年10月13日今川範政から幕府へ、鎌倉での上杉禅秀謀反の一報がもたらされます。 

   同年10月29日、評定の席で、足利滿詮(あしかがみつあきら)(=3代将軍・義満の弟) は甥の義持を励まし、禅秀討伐を進言しました。評定衆もこれに同調、義持は今川範政と越後守護・上杉房方に持氏支援を命じます。

   同年10月30日、京都に居る足利義嗣(あしかがよしつぐ)が突然失踪し、遁世してしまいます。「?」狐につままれたような話で、初めの内は誰もが義嗣の失踪の理由が分かりませんでした。その内、関東のクーデターへの義嗣の関与が明るみに出てきました。義嗣の愛妾が上杉禅秀の娘でした。

同年11月5日、義持は弟・義嗣の確保を命じます。義嗣は仁和寺に幽閉され、更に相国寺に移されて幽閉されます。

1417年1月、幕府討伐軍に、上杉禅秀と足利満隆・持仲は敗北、鎌倉八幡宮近くの「雪の下」と言う地で自害しました。

 

義嗣殺害

幽閉されていた義嗣をどう扱うか、幕府内で意見が分かれました。管領細川満元は事を穏便におさめる方向の意見でした。それに対して、畠山滿家は義嗣の切腹を主張しました。

1417年11月、義嗣とその側近を取り調べた富樫満成(とがしみつなり)の報告が上がってきました。その内容は驚くべきものでした。 

報告によると、義嗣を担ぎ出して将軍にしようという計画でした。まず上杉禅秀や足利満隆・持仲が鎌倉でクーデターを起こし、関東の武士団への働きかけに加えて、その謀に管領細川満元、元管領斯波義重赤松義則などが乗っかっていた、と言うものでした。

1418年1月14日、義嗣は義持の命を受けた富樫滿成により殺害されました。享年25歳。

義嗣の最終的な官位は正二位、兄の将軍・義持が従一位で、官位の上では兄弟に差があったものの、眉目秀麗、文武両道と言われた義嗣。御神輿に担ぎ上げるには十分過ぎる程の条件が揃っていました。彼自身も野心があったかも知れません。

義嗣の死を以ってこれにて一件落着、とはいかず、富樫の報告書の信憑性が問われる様になりました。義嗣を殺害した富樫滿成は、謀反に加担した事実を隠蔽する為に、自ら担ぎ出した義嗣を殺して口を封じたと、義嗣の愛妾が将軍・義持に直訴したのです。積極的に切腹を主張した畠山滿家も怪しいものでした。富樫は不義密通の不祥事が暴かれ、高野山に逃げ込みますが、畠山に討たれてしまいます。

 

鎌倉公方足利持氏

一方、幕府の援軍で再び鎌倉公方に納まった足利持氏は、上杉禅秀の残党狩りに力を注ぎます。幕府は、持氏が残党狩りに名を借りて支配圏を広げているのではないかと疑い、持氏を警戒します。

持氏は、関東に居ながら鎌倉府の管轄下に入らず、直接京都の幕府と主従関係を結んでいる京都扶持衆と言う人達を討伐して行きます。「京都扶持衆」には小栗満重宇都宮持綱、桃井宣義という武将が居ました。持氏はこれらの武将を残党狩りの名目で滅ぼしていったのです。これは、幕府にとって宣戦布告に近く、やがてこれが6代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の代に起きた「永享(えいきょう)の乱」に発展して行きます。

 

 余談  勘合貿易の廃止

4代将軍・足利義持は、父・義満が始めた勘合貿易を廃止します。

理由は、明との朝貢貿易は屈辱的である、と言う点です。

もう一つあります。義満は日本国王を名乗って貿易をしましたが、それは詐称であり、天皇を蔑ろにしたものである、という考えに依ります。

義持は、父・義満が武力と財力で公家達を圧倒し、皇室までも思いのままに操ろうとしたことを改め、皇室を敬い、寄り添う様になります。その為、義持の代は皇室と大変良好な関係を築いていきます。

 

余談  北山第の破却

義持は、父の建てた北山の鹿苑寺を、金閣を除いてを全て壊してしまいます。そこで暮らしていた弟の義嗣も追い出してしまいます。義持自身は祖父の義詮が住んでいた三条坊門殿に移ります。義嗣は花の御所に移ります。