式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)

乱世は無頼無道の野蛮人の世界です。家督を巡る争奪戦や権力闘争は規模の大小を越えて、無限相似形のフラクタルを描いています。

嘉吉の乱応仁の乱明応の政変、永正の錯乱・・・そして、将軍・義輝の悲劇、永禄の変へと繋がって行きます。

幕府滅亡への道 

土地を得る事は武士としての収入を得る事。収入が無ければ家族も家臣も養って行けません。自ずと土地への執着は真剣になります。

室町政権初期は全国に御料地を有し、勘合貿易で巨万の富を得ていましたので、余裕がありました。家臣を守護職に任じ、将棋の駒の様に転勤させている内は良かったのですが、次第に固定化して既得権益化しますと、幕府が自由に裁量できる土地が窮屈になり、何々守護に任ずると言う恩賞を以って家臣の軍功に応える事が出来なくなりました。土地の活用が窮屈になれば、当然それは幕府自身の収入減にも直結しました。

貿易については、3代将軍・義満の時に始めたものの、4代の義持の時に中断、6代の義教の代に再開しました。そのまま続けばよかったのですが、応仁の乱のころになると、博多港大内氏に、堺港は細川氏に押さえられてしまい、貿易の主体は大内氏細川氏に取って代わられました。幕府は抽分銭(ちゅうぶんせん)(=輸入税)を取るだけになってしまったのです。

度重なる戦費、御所や東山第の造営、飢饉疫病等々の出費が嵩み収入が減り、幕府の屋台骨が傾きました。更に幼君の将軍就任が続き、近臣達の専横が常態化し、将軍はお飾りになりました。

幕府が健全に存続して行く為には、財力と軍事力と行政力の三本足が均衡を保って立っていなければなりません。室町幕府の末期になると、その全てが幽霊の足状態になっていました。

その頃になると将軍と言う権威は、千社札(せんじゃふだ)ほどの価値も有りませんでした。家臣は図柄を変えて新しい札に張り替えれば良かった・・・

 

菊幢丸誕生

12代将軍・足利義晴細川晴元の圧迫を逃れて南禅寺に逃避していました。南禅寺は洛東に在り、晴元が攻めてくれば直ぐ近江へ逃げられる位置にあります。

1536年3月31日(天文5年3月10日)、足利義輝は12代将軍・足利義晴の嫡子として、東山南禅寺で生まれました。幼名は菊幢丸(きくどうまる)です。「幢」は将軍の旗とか皇后の旗を表す文字です。義晴の意気込みが伝わって来る様な名前です。母は関白太政大臣近衛尚通(このえ ひさみち)の娘です。菊幢丸は元服して義藤と名乗り、後に義輝と名を改めます。関白・近衛前久(このえさきひさ)と義輝は従兄弟同士です。

これまで足利将軍家正室は、尊氏、義詮、義材(よしき)を除いて代々日野家から正室を貰いました。

日野家藤原北家の流れを汲む公家の名家で、土倉(→質屋・貸金業)などとも手を結んだ資産家でした。因みに尊氏の正室北条流赤橋家、義詮も北条流渋川家、義材の正室は細川家から来ています。

足利将軍家の中で摂関家から正室を迎えたのは義晴が初めてでした。その正室から初めて生まれた子が男子です。義晴はとても喜び、この子を手元で育てました。

 

大名家の子育て

大名の家の子育ては普通とは違い、親は我が子を手元に置いて育てる事など先ず有りません。

「殿様」は非情の「職業」です。万一敵襲があった場合、同居していた故の共倒れを防ぐために、我が子を他人に預けて育てさせます。時には人質として見殺しにする場合も有るので、親子の恩愛が出来るだけ育たない様に乳母とか、傳育(ふいく)係とかが育てます。親に甘えさせず、子供の時から将たる心構えを教え込みます。獅子は子を千尋の谷へ突き落す、と言われていますが、それは、こういう事 → 過酷な環境に置く事を指して言っているのだと思います。

ただ、この様な「外注子育て」には負の側面も有ります。その負とは、養い親の台頭を許し、飛ぶ鳥を落とす程の勢いを与えてしまう危険性がある点です。今回、菊幢丸の養い親から伊勢氏を外した事で、その懸念を払う事ができましたが、逆に言えば、万一の時の支持層を失った事にもなります。養い親と烏帽子親は親に代わる第二、第三の親になる人です。菊幢丸の場合、義晴の手元で育てる方式に改めた事で、それが手薄になりました。伊勢氏にとっても相当不満があった筈です。なにしろ、政治に口を出す足掛かりを失ったのですから。

 

菊幢丸元服、義藤となる

1546年(天文15年7月27日)、菊幢丸は朝廷より「義藤(よしふじの名前を賜りました。

同年11月19日、義藤は左馬頭の官職に任じられました。

同年12月19日六角定頼を烏帽子親(えぼしおや)にして、義藤の元服式が近江坂本で執り行われました。烏帽子親になると言うのは、親ともなり子ともなる関係を結ぶことで、それが一生続きます。本来ならば管領細川晴元が烏帽子親を務めるべきでしたが、丁度その時、晴元は細川氏綱・畠山政国・遊佐長教(ゆさ ながのり)と戦って敗北し、丹波に逃げている時でしたので、細川晴元の舅の六角定頼の出番となった訳です。もっとも、細川晴元と義晴とは敵対していましたから、事情はどうであれ、烏帽子親を頼まなかったでしょう。

元服翌日の1546年(天文15年12月20日)、勅使を近江坂本に迎えて、義藤は将軍宣下を行い、第13代将軍に就任しました。この時、義藤11歳でした。

勅使を迎えて義藤が将軍宣下をしたと言う事は、朝廷は堺公方義維(よしつな)を将軍とは認めておらず、義維は将軍を僭称(せんしょう)しただけになります。

その年の暮、義晴と義藤は坂本を離れ、東山慈照寺(銀閣のあるお寺)に入りました。

1547年(天文16年1月26日)、父と共に宮中に参内、後奈良天皇に拝謁しました。

1548年(天文17年)細川晴元と義藤が和睦、細川晴元は義藤の将軍を認めました。義藤はこれで京都へ帰る事が出来ました。

 

順風満帆の滑り出しの筈が・・

義晴は息子の為に良かれと思うもの全てに手を尽くしました。自分の目の黒い内に早々と義藤を将軍にし、天皇にご挨拶をし、細川晴元と和解しました。そのお蔭で平和が来ると思いきや、そうは行きませんでした。

細川晴元は義晴の次男・義維を擁立して堺幕府を打ち立てました。が、朝廷はあくまで義晴の嫡嗣子・義藤を将軍と認めています。義晴次男・義維を押し立てて権力を振るおうにも、将軍でない義維では意味がありません。晴元は義維を見捨て、義晴・義藤側と和睦、義晴側に接近します。

驚いたのは三好元長です。義維将軍で共同戦線を張っていた細川晴元が、手の平返しで義晴側についてしまったのです。

晴元と元長は対立します。元長の長男の三好長慶(みよし ながよし)松永久秀

 元長に従いますが、同じ三好一族でも三好政三好正勝は晴元側につきます。彼等は多くの武将を呼び込み、戦い始めました。

義藤(=義輝)がこの争いに巻き込まれて行きます。 

 

 

余談  戦国武将の生まれ年

足利義輝と同じ時期に、お馴染みの戦国武将達が生まれています。

織田信長は義輝の生まれる2年前の1534年に生まれ、羽柴秀吉は義輝の1年後の1537年に生まれました。

三好長慶(みよし ながよし)は義輝の生まれる14年前の1522年に生まれており、松永久秀は義輝より28年前の1508年に生まれています。

上杉謙信は義輝より6年前の1530年に生まれ、武田信玄は義輝が生まれる15年前の1521年に生まれています。

徳川家康はまだ生まれていません。

 

 

余談  後奈良天皇

義輝が将軍宣下して拝謁した後奈良天皇は、大変慈しみ深い天皇でした。

疫病が蔓延していた時「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉・・(以下略)」と書き、般若心経を写経してあちこちの寺に納めたそうです。大意は、「今疫病が流行り多くの人々が亡くなっています。私は民の父母と成ろうとしても徳不足でなれず、大変心を痛めております。」

とあり、私の写経が民の薬になります様にと一心に願い、般若心経を写します、と続きます。その時写経したものが何巻か現在に伝わっているそうです。

その頃、宮中は大変貧乏をしていました。後奈良天皇は宸筆をお書きになって売っていたそうです。そういう窮乏生活をなさっておりましたが、清廉なお人柄で、即位式献金し、任官を望んだ大内義隆に対して即刻拒否、お金を突き返してしまったそうです。

令和の天皇様が皇太子の頃、後奈良天皇をはじめそのような天皇のお名前を7人挙げられ、範としたいと言われたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

101 戦国乱世(1) 大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ)

大物崩れの大物は「だいもつ」と読みます。大物(だいもつ)という地名に由来しています。大物町は兵庫県尼崎市に在ります。昔は海に面した大物浦(だいもつうら)と言う港でした。ここは細川高国が壊滅的敗北を喫して自刃した地でもあります。

さて、これからその高国滅亡までの軌跡を辿ります。

 

将軍・義稙の出奔

田中城の戦い、越水城(こしみずじょう)の戦いのいずれも高国が敗け、三好之長に追われて近江坂本まで落ちたのを機に、将軍・義稙(よしたね)は高国から澄元支持に鞍替えしました。ところが、等持院の戦いでは逆に高国が勝ち、之長を討ち取ったので、高国と義稙の関係は一気に悪化しました。

 1521年(永正18年3月7日)、義稙は後柏原天皇即位式をすっぽかして京都を出奔、堺へ下向します。これを見て高国は義稙の将軍職を剥奪。代わりに前将軍・義澄の遺児・亀王丸(=義晴)を将軍として迎えます。

以前、1513年(永正10年)に、義稙は高国と意見が合わず近江へ家出したことがありました。その時は、重臣達が連名で服従を誓う起請文を差し出しましたので、義稙も機嫌を直して京都に戻りました。でも、今回は違いました。重臣達は彼を無視。新将軍・義晴に従います。義稙の挙兵の呼びかけに応える者はいません。失意の彼は、阿波国撫養(むや)(現鳴門市)まで落ち、病を得て亡くなりました。享年58歳。

 

香西元盛(こうざい もともり)、讒言に死す   

細川高国の従兄弟の細川尹賢(ほそかわ ただかた)は羽振りを利かせていました。

1526年(大永6年)、彼は、目障りな香西元盛を陥れる為に、元盛の偽の手紙を書き、謀反の証拠として讒訴します。高国は碌に調べもせずに元盛を自害させてしまいます。

彼は無学で読み書きが出来ませんでした。「証拠」の手紙とやらも読めず、何が何やら分からない内に死に追い遣られたのです。

 

報復

事情を知った波多野元清(=稙通(たねみち))と柳本賢治 (やなぎもと かたはる)は復讐に立ち上がります。元清と賢治は香西元盛の実の兄弟でした。元清と賢治は八上城(やがみ じょう)神尾山城(かんのおさん じょう)に立て籠って叛旗を翻します。

1526年(大永6年10月23日)、高国は尹賢や瓦林(かわらばやし)氏、池田氏を両城に派兵しますが、戦は硬直状態。包囲網を敷いた諸将も、殺された香西元盛に同情的で、内藤国貞は陣を払って帰国、赤井氏は3千の兵で包囲陣の背後を衝きこれを破ります。池田氏は瓦林軍に矢を射かけ、敗走させてしまいます。

この時を狙って、細川晴元は打倒義晴&高国に動きます。晴元は11代将軍・義澄の遺児で再任将軍・義稙を養父に持つ義維(よしつな)を擁立して、三好政に出陣を命令します。

高国側も六角氏赤松氏斯波氏に援軍を要請しましたが、六角氏は部下を出陣させるだけで消極的でした。赤松、斯波両氏は動きませんでした。

 

桂川原の戦い

柳本賢治軍は摂津の諸城を次々と陥落させ、大山崎で三好軍と合流、桂川の川原で高国軍と対峙します。武田元光は後詰、将軍・義晴は桂川から離れた6条に陣を敷きました。

 1527年2月13日(大永7年2月12日)の夜、両陣営は桂川で会戦します。

三好軍は桂川を渡河、武田軍の背後に回り攻撃します。意表を突かれた後詰の武田軍が崩れ、高国が救援に駆けつけた時はすでに遅く、武田軍は敗れて敗走、それを立て直す暇も無く、高国軍も潰走します。敗走兵に巻き込まれて、後方の義晴達も算を乱して逃げ始め、そのまま近江まで落ち延びました。義晴はこの時、幕府の評定衆などを引き連れていましたので、彼等も一緒になって近江に逃げてしまい、京都の幕府の機能が失われてしまいました。

 

 堺公方・義維(よしつな)

 三好政長や細川晴元達が桂川原の合戦で高国軍に勝ったので、阿波に居た三好元長は義維を奉じて堺にやって来ました。彼等は堺で義維を推戴して幕府を開きました。養父・義稙が阿波に落ちた時、供奉した数人の幕府の要人がそのまま義維に従っていましたので、幕府の仕事を司るのが可能でした。大永7年に朝廷から従五位下・左馬頭に任じられました。官位を得て、御内書の発給など将軍の仕事などをしたので、堺の義維を、人々は堺公方、あるいは堺大樹と呼びました。 大樹とは将軍の事です。

 とは言え、実際は近江の義晴の方が朝廷や公卿達との結び付きが強く、又、幕府の人材・陣容とも厚みがあり、人々は義晴の方を将軍と見ていた様です。

 

高国、浦上村宗を得る

桂川の戦いで敗れ、将軍・義晴ともども近江に逃れた高国は、救援してくれる大名を探しましたが、どの大名からも断られました。その中で唯一協力を申し出たのが、備前守護代浦上村宗(うらがみむらむね)でした。

村宗は赤松義村の家臣で守護代です。主家・赤松氏を凌ぐ力を持っていました。義村は村宗を討とうとしますが敗北してしまいます。村宗は、和睦の席で主君・赤松義村を捕らえ、そして、赤松家の家督を8歳の義村の嫡子・才松丸に譲らせて、義村を隠居させます。自分は才松丸の後見になって政を牛耳りました。更に義村を幽閉、暗殺してしまいます。才松丸は長じて政祐(まさすけ)(初名は政村、最終的に義晴の偏諱を受けて晴政)と名を改めます。

政祐は村宗に反抗し、戦いを挑みます。けれど政祐の力及ばす負けてしまいます。不思議な事に、そういう二人でしたが、二人は外敵に対しては協力関係にあり、手を結んでいました。

 

退勢の晴元軍

浦上村宗は、高国の力を借りて播磨一国を統一しました。次に、高国と村宗の連合軍は、堺公方側の勢力圏に侵攻し、堺公方・義維や細川晴元達一派を孤立させる作戦に出ます。

1530年(享禄(きょうろく)3年)、村宗の家臣が、柳本賢治の寝込みを襲い暗殺。

1531年4月3日(享禄4年3月6日)、高国・村宗軍は、晴元側の摂津の池田城を陥落させます。小寺氏御着城(ごちゃくじょう)別所氏三木城などの居城を次々と落とします。この勢いに恐れをなして京都を警護していた木沢長政が京都から逃げ出しのたので、高国が京都を奪還、入京を果たします。
 破竹の勢いの高国・村宗軍に押されっ放しの細川晴元は、三好元長に援軍を頼みます。晴元は軍を再編成し、元長を総大将にし、晴元自身は義維の守備に回り、阿波から駆け付けた細川持隆等の新たな援軍も加えて義維側の軍は勢いを盛り返します。

 

大物崩れ

1531年(享禄4年6月2日)、赤松政祐が神呪寺城(かんのうじじょう)に、高国・村宗の後詰として着陣、それまで中嶋天王寺付近で一進一退を繰り返していた両軍は、膠着の局面が一気に動きます。

翌々日の6月4日、赤松政祐は背後から高国・村宗軍を猛攻します。政祐は事前に晴元側に人質を送って、必ず村宗から寝返りすると約束し、村宗には面従腹背していたのです。

高国軍は、正面から三好軍、背後から赤松軍に挟撃され、 総崩れしました。高国軍の名だたる武将は全滅、辛うじて死地を脱した高国は、大物城へ逃げこもうとしましたが警戒が厳しくて叶わず、町の藍染屋の甕を伏せ置きしてその中に隠れました。けれど子供達に見つかり捕縛され、6月8日に尼崎の広徳寺で自害させられました。享年48歳でした。

村宗軍も戦死者を累々と出し潰走します。赤松軍はそれを追撃、要所に伏兵を置いて逃げる将兵を漏らさず討ち取り、ほぼ全滅させてしまいます。

こうして、細川政元の養子の澄之、澄元、高国の三人は、争いの果てに滅びてしまいました。

 (参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱) (参照:100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還) 

 

 

余談  まくわ瓜

大物崩れの時、逃亡した高国を探索していた三好一秀は、まくわ瓜を手に一杯にして、子供達にこう言いました。

「高国と言う人の隠れ場所を教えてくれたら、この瓜を全部上げるよ」

高国はこうして子供達によって発見されてしまいました。

 

 

余談  高国辞世

高国は辞世の歌を何首か詠んでおります。その内の一つが下記の歌です。

絵にうつし石につくりし海山を 後の世までも目かれずや見む

彼は作庭家でした。彼の作った庭園は武家書院式庭園です。杉や苔や岩を自然に見える様に配置して深山を思わせる雰囲気を湛えています。如何にも庭を造りました、という人工的な主張はそこには見られません。以下4庭園がそれです。

北畠氏館跡庭園    三重県津市美杉町

旧玄成院庭園     福井県越前大野

龍潭寺(りょうたんじ)        京都府亀岡市

旧秀隣寺庭園(興聖寺)    滋賀県鷹島市朽木

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還

細川澄之(ほそかわ すみゆき)は、永正(えいしょう)の錯乱で暗殺された細川政元の葬儀を手際よく行い、家督者たる立場を示しました。将軍・義澄も澄之を細川家の跡取りと認めました。ところが、それも束の間、事件の揺り戻しが大きく津波の様に伸(の)し掛かってきました。(参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱)

 

近江の澄元

近江に逃れた澄元は青地城(あおちじょう)へ入りました。青地城は現在跡形も有りませんが、場所としては名神高速道路草津JCTの近くです。今も昔も交通の要衝です。

青地氏佐々木氏支流六角氏の有力家臣です。六角氏と言えば、9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ)が六角氏討伐で手を焼き、(まがり)の陣で病没してしまった、という因縁があります。また足利義材(あしかが よしき)も討伐を継承しましたが、六角氏を駆逐したものの、討ち滅ぼすまでには至りませんでした。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変)

澄元は、かつて幕府に反抗した氏族の勢力圏に入り、更に、甲賀(こうか)の山中為俊(やまなか ためとし)を頼ります。山中為俊は甲賀二十一家の一つです。甲賀二十一家と言うのは、甲賀流忍者の長の一人で、亀六の法などの戦術を編み出した人です。

澄元は近江で国衆を糾合して挙兵しました。

 

細川氏の内紛

澄之はもともと九条家の出身。細川家に根を張っておらず、地盤が弱い立場でした。 その澄之が、細川政元死後直ちに跡目を継いだとなると、家中は騒然、と同時に反発の機運が沸き上がります。(参照:99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱)

3番目の養子・高国は、細川政賢(ほそかわ まさかた)細川尚春(ほそかわ ひさはる)畠山義英(はたけやま よしひで)と共に、澄元を後継ぎとして支持、近江で挙兵した澄元に与力します。まず、細川政元の殺害を指揮した薬師寺長忠香西元長(こうざい もとなが)が血祭りにあげられます。

1507年(永正4年7月28日)、薬師寺長忠は居城の茨木城を、甥の国長に攻められて落城し、討死しました。

翌7月29日、高国や政賢などが、香西元長の嵐山城(京都嵐山の頂上、現在城は消滅)を攻め落とし、元長を討ち取り、

8月1日、高国側に三好之長(みよし ゆきなが)軍も加わって、澄之の居る遊初軒(ゆうしょけん)を攻め落とします。澄之は自害しました。享年19歳。

細川京兆家(ほそかわ けいちょうけ(本家))13代当主にして、室町幕府第29代管領・細川澄之は、わずか40日でその夢を閉じました。

辞世  梓弓(あずさゆみ)張りて心は強けれど   引くて少なき身とぞなりぬる

 

義材(よしき) 改め 義尹(よしただ)

 京都における細川氏の内紛を、遠くからじっと窺っている人物が居ました。それは足利義尹です。彼は、室町幕府第10代元将軍・足利義材です。彼は、将軍職を追われてから名前を義尹と変え、流転の人生を歩んでいました。

義尹は復活を願い、時には朝倉氏比叡山を味方に付け、京に攻め上ろうとしました。が、細川政元が先手を打って比叡山の主要な堂塔を全て焼き打ちしてしまいましたので、義尹の反攻は実現しませんでした。

義尹は、周防(すおう)大内義興(おおうち よしおき)の下に身を寄せました。

 

澄元 対 高国

澄元は、高国はじめ諸将の援けを得て細川家の跡目を継ぎ、管領に就任します。

澄元に阿波からずっと従って来た三好之長は、ようやく香西元長や薬師寺長忠などの政敵を斃し、我が世の春を迎えました。

之長は澄元よりも約30歳も年上です。戦場の場数を踏むこと数多(あまた)、海千山千の老獪(ろうかい)な之長に、19歳の澄元は彼を制御できません。澄元は増長し始める之長を抑えられず、二人の間に亀裂が入り始めます。

澄元を擁立した細川家の人々はこの様子を見て、「澄元では管領は務まらん」「之長をはじめ阿波から従って来た家臣ばかりがのさばっている」となり、次第に澄元から気持ちが離れて行き、高国に心を寄せる様になって行きました。

大内義興は、これを好機と捉えて前将軍・義尹を擁立して軍を発し、上洛の途に就きます。

これに慌てた澄元は高国へ義興と和睦の交渉をする様に命じます。高国は義興と和睦の席に着きましたが、澄元に背いて義興と手を結び、そのまま京都を脱出、伊勢の二木高長に身を寄せます。

 

流れ公方、帰還す

1508年(永正5年4月9日)、高国は京都に侵攻。高国に呼応した諸大名と共に、将軍・足利義澄や細川澄元、三好之長を攻めました。義澄、澄元、之長ともに近江へ逃れます。

義尹は大内義興に擁されて入洛し、高国に迎え入れられます。

 1508年7月28日(永正5年7月1日)、義尹は名前を義稙(よしたね)と改め、将軍に就きます。義稙にとって二度目の将軍職です。彼は、細川家家督の澄元の地位を剥奪し、それを細川高国に与えます。更に、高国右京大夫管領に、大内義興左京大夫管領代に任じます。

滑り出しは順調でしたが、政権奪還した直後から澄元や之長の反攻が始まります。

如意が嶽の戦い、深井城の合戦、芦屋河原の合戦と、戦いが続きます。

1511年(永正8年8月23日)、足利義澄方と義稙側の決戦が京都の船岡山でありましたが、その10日前に足利義澄が病死してしまいます。旗印を失った義澄方の大将・細川正賢(ほそかわ まさかた)と澄元、三好之長などの兵は6千。足利義稙側には高国軍と大内義興軍の兵合わせて2万。多勢に無勢、正賢は討死し、澄元軍は敗退して阿波へ逃れます。

 

之長と澄元の死

 1518年(永正15年8月2日)、西国の雄・大内義興が領国の争乱を鎮める為に帰国しました。京都滞在およそ10年、何時までも領国を放って置ける訳もありません。彼が京都から抜けて力の均衡が崩れ、高国軍の力が衰え始めました。それがまた戦を呼びます。勢いを盛り返した澄元側は攻勢に出ます。

田中城の戦い(現兵庫県三田市)越水城(こしみずじょう)の戦い(現兵庫県西宮市)、いずれも高国が敗けてしまいます。高国は追われて近江坂本まで落ちました。

将軍・義稙は負け続きの高国を見限り、高国支持から澄元支持に鞍替えします。

高国は近江坂本に逃れた後、六角氏・朝倉氏・土岐氏等の支援を得て反撃に転じます。

 1520年(永正17年5月5日)、等持院で、高国軍と三好之長軍が戦います。

等持院の戦いでは高国連合軍が4~5万、一方、之長軍は4~5千の兵力でぶつかりました。この時、澄元は病気で戦場を離れていました。之長の軍からは次々と戦線離脱と寝返りが続きました。ついに之長の命運が尽き、捕らえられ処刑されてしまいます。

翌月の6月10日、細川澄元が病気で亡くなりました。享年32歳。

 

 

余談  亀六の法

「亀六の法」と言うのは戦い方の一つです。亀の様に、攻撃されれば頭も手足も引っ込め、攻撃されなければ頭や手足を出す、という戦法です。相手が推して来たら逃げて隠れ、相手が退却すれば攻撃に転じる、或いは油断してのんびりしている所をやっつける、という戦い方です。

 

余談  空城の計

1511年(永正8年7月7日)、和泉堺にある深井城での戦いの時、城を守る細川正賢の兵は7~8千。攻める高国軍は2万。これで戦ったのですが、高国軍が大敗してしまいました。

原因は「空城の計」に引っ掛かってしまったのです。

空城の計とは、城を空っぽにして敵を誘い入れ、敵が城に入った途端出口を塞いで一網打尽に討ち取る戦法です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

99 戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

明応の政変 

1493年(明応2年4月)、細川政元10代将軍・足利義材 (あしかが よしき) を追放して、足利義澄(あしかが よしずみ)11代将軍にした事件が起きました。これを明応の政変と言います。(参照:96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変)

「人の世空しい(1467年)」応仁の乱は、家督相続にまつわる兄弟喧嘩から始まりました。今でも、通夜の席が遺産相続に絡んで肉親同士が争い、とんでもない修羅場になるといった話を聞きます。応仁の乱はその修羅場に軍事力を持ち込んで争った戦争です。

世は乱れ、戦続きの時代でしたが、それでも家臣が主人を追放する事はありませんでした。細川政元がそれを行なった初めての人です。これを下剋上の本格化と捉え、応仁の乱をもって戦国時代の始まりとするよりも、近頃では明応の政変を以て戦国時代の始まりと、解釈する様になって来ています。

明応の政変は、重臣が(14)好み(93)の将軍にすげ替えた政変と語呂合わせすると覚えやすいと思います。

 

3人の養子

 管領細川政元には子供が居ませんでした。そこで彼は養子を3人取りました。

三人の養子の出自は次の通りです。

養子1 澄之(すみゆき) 実父は関白左大臣九条政基

養子2 澄元(すみもと) 実父は阿波細川家(分家)細川義春
養子3 高国(たかくに) 実父は細川野州(分家)細川政春

澄之が政元の養子になった時はまだ2歳でした。政元はこの子に、細川家の嫡流嫡男が代々名乗っていた聡明丸と言う名前を付けました。

聡明丸は細川本家の幼名を付けられたのですが、家中から、細川家嫡流の跡取りに細川家の血筋以外の者を就けるのは如何なものか、と言う意見が出ました。そういう声に加えて、政元と聡明丸はどうも折り合いが悪かったので、1503年(文亀3年5月)、政元は聡明丸を廃嫡し、二番目の養子を阿波細川家から取ります。それが六郎、後の澄元です。

養子の3番目に高国が居ます。彼の諱(いみな)の「高」は、11代将軍・足利義高偏諱(へんきorかたいみな)です。義高は義遐(よしとお)義高義澄と、三度名前を変えています。順番から言えば義高の「高」一字を賜った高国の方が、澄之や澄元よりも先と言う事になります。

 

派閥

聡明丸は元服して澄之と名乗り、六郎は澄元と名乗るようになりました。

この場合「元」の字は細川家代々の当主の名跡です。「元」が付いた方が政元の跡を継ぐ事を意味します。これで細川政元の跡を継ぐのが澄元だと誰の目にも分かりました。

細川政元は、澄元に従って阿波からやって来た三好之長(みよし ゆきなが)を特に重く用いていました。之長は無頼漢でしたが、戦には滅法強い武将でした。一方、澄之付家臣の香西元長(こうざい もとなが)薬師寺長忠(やくしじ ながただ)は、三好之長の後塵を拝していました。もし今の流れのままに澄元が細川家のトップになれば、彼等は完全に反主流派の冷や飯食いになってしまいます。

彼等の焦りと、廃嫡された澄之の恨みがここで接近し始め、或る考えに辿り着きます。政元を斃してその地位を奪う、と。そうすれば澄之は管領になれるし、香西と薬師寺は三好を駆逐して主流になれる・・・この謀は深く静かに進められて行きました。

 

丹後攻略

尾張・知多出身の一色義有(いっしき よしあり)が、落下傘守護の様な形で丹後守護に任ぜられたのですが、応仁の乱から続いている国人達の抗争をなかなか鎮められません。それを見た若狭の武田元信が、一色義有の統治能力を問い、義有の罷免と丹後の国を要求します。

細川政元は武田元信の要求を入れ、義有を罷免します。が、義有はこれを拒否します。

 1506年(永正(えいしょう)3年4月)細川政元は一色氏討伐に動きます。

政元は、澄之、澄元、細川政賢(ほそかわ まさかた)、赤沢朝経(あかざわ ともつね)三好之長、香西元長、武田元信等の武将を率いて討伐軍を発します。

翌1507年(永正4年5月29日)、政元は戦陣を離れて京都に帰りました。澄之は、加悦城(かやじょう)を攻めていましたが、石川直経と裏で和睦を結び、政元を追う様に部下の香西と共に京都に帰ってしまいます。後に取り残された細川軍は、その後も丹後で戦い続けていました。

永正(えいしょう)の錯乱

細川政元修験道に凝っていました。女人を近づけず、また、本気で天狗の真似をして高い所から飛び降りて怪我をするなど、全く馬鹿々々しい修行に本気でのめり込んでいました。

1507年(永正4年6月23日)、この日、政元が修行する為、精進潔斎して湯殿で行水を使って身を清めていた時、突然、香西元長や薬師寺長忠の意を受けた近侍の者に襲われ、暗殺されてしまいました。

翌6月24日、香西と薬師寺は、澄元と三好之長の屋敷を襲います。不意打ちを食らった澄元と之長は辛うじて窮地を脱出し、近江に敗走します。
香西と薬師寺は主君・澄之を迎えて、細川本家家督を継がせました。

同年6月26日、丹後で戦っていた赤沢朝経(あかざわともつね(=澤蔵軒宗益(たくぞうけんそうえき))は、京都の変事を知り、軍を撤退しようとしましたが、石川直経の反撃を受けて敗北、自刃してしまいます。

 

 

余談  赤沢朝経

赤沢朝経は小笠原氏の支流で、大和・河内・山城の守護代です。小笠原流馬術の師範で、細川政元足利義政に弓馬術を教えました。文武両道に優れた剛の者です。

 

余談  今熊野城、阿弥陀峰ヶ城、加悦城(かやじょう)

一色義有の上記三つの城は、日本三景の一つ、天橋立を眼下に望む絶景ポイントに建っていた山城でした。(現在、郭などの遺構は木に覆われています)

この時の戦により町は炎に包まれ、灰燼に帰しました。雪舟の国宝天橋立図」は、そうなる直前の貴重な記録絵でもあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

98 船田の乱 土岐氏と斎藤氏

織田信長が生まれる40年ほど前、美濃の船田で始まった船田の乱は、船田合戦とも言い、土岐氏家督相続を巡る争いが発端です。この戦いは、美濃一国に留まらず、近隣の尾張、近江、越前を巻き込む広範な地域に及びました。

石丸(=斎藤)利光が居城としていた船田城は、今はすっかり影も形も有りません。岐阜駅から南へ約1.5㎞ 位の所に石碑があるのみです。

この合戦の中に古田氏の名前が出てきますので、もしや美濃出身の古田織部の先祖も関わっているのかもと思い、取り上げてみました。

 

嫡子  対  庶子

1494年(明応3年)、美濃の守護・土岐家に跡目相続の争いが起きました。

守護・土岐成頼(とき しげより) は、嫡子・政房よりも四男の側室の子・元頼(もとより)を溺愛していました。

彼は元頼を後継者にする為に、守護代斎藤利藤(さいとう としふじ)と手を結びます。利藤は代官の石丸利光(いしまる としみつ)に「斎藤姓を名乗る事を許す」と釣り、石丸利光を味方に引き入れます。斎藤利藤と石丸(斎藤)利光は元頼を擁立し、政房を討とうと動きます。

それに対して、嫡出嗣子の政房こそ正統な跡継ぎだと、斎藤利国(=妙純(みょうじゅん))が反対します利国は、利藤の異母弟です。(「利」が付く名前がこれから沢山出てきて紛らわしいので、ここでは「利国」を法名の「妙純」で呼ぶことにします。)

石丸利光は妙純を討とうと兵を集めますが、奇襲に失敗してしまいます。

1495年(明応4年)、利光は、自分の居城の船田城に、土岐元頼、斎藤利藤、その孫の利春毘沙童を迎え入れます。(利春は間も無く風邪で陣没してしまいます。)

一方の土岐政房・妙純側には、尾張織田寛広(おだ とおひろ or おだ ひろひろ)が、妙純との姻戚の縁を以って援軍に駆けつけます。

 

船田合戦

1495年(明応4年6月19日)、石丸利貞、秀道が斎藤方の西尾氏を攻め、これを破りました。更に勢いに乗り、妙純の居城・加納城を包囲しましたが、反撃に遭い、二人とも戦死してしまいます。

1495年(明応4年7月1日)、両者の間で戦端が開かれました。古田氏が石丸利光側についたと聞いた妙純は、弟の利安と利綱を、西郡に居る古田を討ちに向かわせます。それを聞いた石丸利光は、古田救援に1,000人余の援軍を送りました。

7月5日早く、利安、利綱、山田氏、村山氏が石丸方に攻めかかります。石丸方は敗退し、船田城に火をかけて近江へ逃れました。

土岐成頼城田寺城(きだいじじょう)に引き籠って隠居し、嫡子・政房に家督守護職を仕方なく譲ります。

 

城田寺城(きだいじじょう)の戦い

 1496年(明応5年5月)、妙純は尾張の織田寛広を支援の為、尾張へ出陣します。すると、その隙を狙って、近江に逃げていた石丸利光が、六角高頼織田寛村(おだとおむらorおだひろむら)の支援を受けて、美濃に侵攻し、土岐成頼の居る城田寺城に入ります。

それに対する妙純は、近江の京極隆清尾張織田寛広、越前の朝倉貞景の援軍を得て、城田寺城を包囲、総攻撃を掛けます。城田寺城は落城。5月30日に利光と利高父子は切腹し、元頼も日を置かずして切腹してしまいます。終戦を迎え、京極、織田、朝倉の軍勢はそれぞれ本国に引き返します。

土岐成頼は剃髪して宗安と名乗り、56歳で亡くなりました。

後日談

〇 妙純利親(としちか)父子は1496年(明応5年12月)六角高頼遠征後の帰り、武装した郷民の一揆に襲われ軍は敗退、父子は討死しました。

〇 土岐政房は父と同じ轍を踏み、嫡男頼武を廃嫡、次男頼芸(よりのり)を守護にして美濃を混乱させました。この混乱に斎藤道三が乗じます。

〇 織田寛広は後盾だった妙純死後、衰退。別家織田家から後の信長が出ます。

 

参考までに群書類従第21(合戦の部)、船田前記(明応4年)の記述を載せます。

なお、( )内の小さい字は、ずいようが後から付けた注です。

 

群書類従第貮拾壹輯(合戦の部)

船田前記 (明応四年)  

七月一日吾兵星(ノ如クニツラネテ)行軍於西郡討古田氏。以其與(与)(石丸利)也。光聞之遣鋭卒千餘人救之。以石丸正信新左衛門為上将。國枝氏為助為次将。馬場氏為之副。吾兵以其寡告急。

五日之早利安(斎藤利安)。利綱(斎藤利綱)領山田氏。村山氏曁(至るor及ぶの意)諸兵往而討之。貔貅(読み:ひきゅう、勇猛の兵の意)三千餘人。駢(並)部曲列?隊。一瞻(読み:せん、仰ぎ見るの意)将帥・麾節以為進退動止。朱幡白閃々交色。遠而望之則如雑花亂發。至高春遘(逅)敵於中野。山(山田)氏為先鋒。與國(国枝)氏戦乃捷矣。國(国枝)氏昆季(読み:こんき、兄弟の意)五人倶死。村氏與石氏箭(読み:せん。真っ直ぐの意)鋒相抂(狂)及其交鋒。利安。利綱自左右挟撃大破之。如山壓(圧)卵。馬(馬場)氏同族九人。石(石丸)氏三人。正信等父子三人皆死。刎額(首)者百三十餘級。遭虜十餘。横死者填野。

(ずいよう超意訳)  7月1日、妙純が、西郡の古田氏を討ちに行った、と聞いた石丸利光は、石丸正信を上将、次将国枝氏、馬場氏を副将にして、精鋭千人余の兵を救援に派遣した。

5日の早くから、妙純側の利安、利綱、山田氏、村山氏の諸兵が既に攻撃を始めていた。勇猛な兵三千余人が大将の采配に進むも退くも動くも止むも一糸乱れぬ動きをし、紅白の旗が閃いて遠目で見ると花々が咲き乱れる様だった。村山氏が先鋒、国枝氏の動きは早かったが兄弟5人討死。利安と利綱は左右から挟撃して大いに破った。まるで潰れた卵が山の様。馬場氏9人、石丸氏3人、正信等父子3人討死。討ち取った首は130余、捕虜10余、戦死した者は野に充ちていた。

(貔貅:貔(ひ)も貅(きゅう)も虎や豹に似た獰猛な動物の事です。昔、中国で貔貅を飼い慣らし、戦場で使役したと言う伝説から、貔貅は勇猛な兵士を表す言葉になりました。)

 

 

余談  古田城落城

船田の乱の時、古田氏が石丸利光側についた為、妙純は弟の利安、利綱を中之元にある古田城(中野城)に向かわせました。古田勝信信清兄弟は応戦しましたが、兄弟とも討死し、城も落城しました。たぶん古田城は平城で、館の様な構えだったのではないかと婆は推測しています。

古田の嫡男・古田彦左衛門が政房側に居たので、生存者を、美濃加茂郡八百津に亡命させた、との話があるようです。が、研究者によれば、古田彦左衛門は船田の乱よりずっと前に亡くなっているので、この話は違うと言う説も有ります。

戦乱により古田は美濃、尾張と散り散りになり、系図もかなり混乱しているらしいです。ただし、古田彦左衛門については不二庵(大仙寺)への寄進文が残っていて、実在の人物です。

船田の乱で亡くなった者達を葬ったのが古田山徳林寺と言って、やはり大野町中之元にあります。徳林寺は以前は寂乗山徳林寺と言っていたそうですが、山号の変わった理由は分かっていないそうです。古田織部天正時代に寺を再建した時に山号を変えた、と伝わっているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

97 山城国一揆

山城国(やましろのくに)はどこ?

山城国と言うのは、山向こうの国と言う意味です。昔、奈良に都があった時、今の京都は山の彼方の国でした。山背(やましろ)の国、山代とも書きました。

794年、桓武天皇平安京に遷都した時、「山背国」の「背」の文字を忌み、詔を発します。 

「此の国の山河襟帯(きんたい)にして自然に城を作す。斯の形勝に因り新号を制すべし。宜しく山背国を改め山城国と成すべし」

(ずいよう訳) 山背の国は山や川によって襟(えり)や帯の様に囲まれ、自然のお城の様です。その形に因って名前を新しく定めます。山城国と。という訳で、山城国と名付けられました。

山城国は京都の南部に当たります。およそ京都盆地とその周辺の山々を含めた地域で、南は奈良県に接しています。

山城国一揆が起きたのは、その中でも最も大和に近い久世(くせ)郡、綴喜(つづき)郡、相楽(そうらく)郡の地域でした。

 

朝廷のお膝元

山城国は朝廷のお膝元でしたので、皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、社家領などの荘園がびっしりとモザイク状にありました。8郡500ヵ村に及びます。そういう地域に、幕府の御料地などが点在していました。

この様な状況から、山城国は守護が領主の様に君臨する土地では無く、六波羅探題守護代わりに警備を担当するとか、山城国に守護が置かれても、何となく監督している様な緩い体制で推移してきました。

鎌倉幕府が出来た頃の守護は、天皇領や摂関家領、公家領などの荘園の警備監督をして、その手数料を得て生活をしていました。ところが時代が下ると、守護は年貢を荘園領主に納めるどころか、半済令(はんぜいれい)の乱用が起き、年貢を誤魔化したり、あたかもその土地から上がる年貢は全て自分の物であるかのように我が物顔に振る舞い始め、戦費に使い、闘茶などに湯水の様に贅沢に使い、挙句の果ては、土地の相続に骨肉の争いを始める始末になってしまいました。お蔭で公家達は窮乏し、明日の食べ物も満足に得られないほど没落してしまいました。(半済令→年貢の半分を納める事。最初の半済令は1349年、ちょうど足利尊氏と弟・直義(ただよし)が戦った観応の擾乱の時に発令、兵糧米徴収が目的でした。但し、後世目的が変化します)

 

山城国一揆の背景

1485年(文明17年)、山城国国一揆が起こります。

国一揆と言うのは、国人(誰の家臣でもない土着の武士達) が起こした一揆の事を言います。

山城国一揆は、土着武士に加えて農民も混ざって蜂起したもので、守護を追い出して自治を始めた特筆すべき出来事でした。

さて、山城国一揆に至る迄の経緯は次の様でした。

時は少し遡ります。

1478年(文明10年)、畠山政長山城国守護になりました。これによって政長は、河内、紀伊越中に山城を加えて4か国の守護になりました。とは言え、長年家督相続で争って来た義就(よしひろ(orよしなり))河内国を実効支配していましたので、河内国に関しては、政長は名目上の守護に過ぎませんでした。そこで政長は、山城国では年貢を半分取る権利や裁判権、警察権、その他様々な権利を一円的に得られる守護領国制の導入を目指します。これは荘園領主にとっても、幕府にとっても苦々しい事態でした。幕府は、山城国については御料国化したい目論見がありましたから、政長が頑張って守護職に邁進するのは迷惑だったのです。

1482年(文明14年)、細川政元畠山政長の連合軍が義就討伐に動きます。が、政元は義就と単独講和して軍を引き上げてしまいます。残された政長は義就と戦い続けます。義就は河内から山城へ侵攻、木津川沿いに軍を展開します。主戦場になった山城国の国人達は彼等に反発します。

 

山城国一揆

1485年(文明17年)、国人衆や惣の農民らが宇治平等院に集まって評定を開きました。彼等は「国中掟法(くにじゅうおきて)を取り決め、36人の代表による自治を行なうことに決めました。

 興福寺「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうき)という日記には、次の様に書かれています。

 「今日、山城の国人衆会す。上は六十歳、下は十五、六歳と云々。同じく一国中の土民等群集す。今度両軍の時宜を申し定めんが為の故と云々。然るべきか。但しまた下剋上の至りなり」

(ずいよう意訳) 今日、山城の国人達が集まりました。上は60歳から下は15~16歳までの者、同様に同じ年齢の農民達が一堂に会しました。それは今度の畠山両軍の退き時を話し合って決める為だそうです。それは当然でしょう。ただしこれもまた下剋上の現れです。

その集会で決議された事は次の通りです。

1. 畠山両軍は南山城から撤退する事。以後入って来てはならない事。

2. 寺社領地の権利関係は元の通りに認める事。

3. 住民は年貢を滞納せず、半済(はんぜい)する事。(本来なら、半済分の年貢は領主に納めますが、この集会での話し合いでは、この半済分を自治費用に充てるようにしました)

4. 新しく関所を作ってはならない事。

一揆側は畠山両軍と交渉。話し合いは難航しましたが、これを実施する為には武力行使も辞さないと毅然とした態度で臨み、結果、畠山両軍を撤退させることに成功します。

 

一揆の崩壊

 1486年6月(文明18年5月)、畠山政長の跡を、伊勢貞陸(いせ さだみち(政所執事伊勢貞宗の嫡男))が守護に補任されます。

貞陸は一揆側の自治を認め、その上で緩い支配をしていきますが、やがて欲を出し、政長と同じ様に山城国全域の一円化を目指す様になります。彼は、大和土豪にして僧侶・古市澄胤(ふるいち ちょういん)守護代にして南山城を治めようとしたことで、国人達の中にそれに随おうとするものと反発する者が現れました。国人同士の間や農民仲間同士、或いは国人対農民の間でも、それぞれ意見の食い違いなどが生じて来て、まとまりを欠いて来ました。年貢を滞納する者達も現れてきました。こうして次第に内部分裂を起こし始めました。澄胤はそういう隙を突いて反抗する者達を弾圧します。あくまで自治を貫こうとした人達は、稲屋妻城(いなやつまじょう)に立て籠って戦いました。が、澄胤はこれを討ち、鎮圧しました。

山城国一揆の約8年間続いた自治は、こうして終わりを告げました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

96 足利義尚・義材・義澄と明応の政変

足利義尚 (あしかが よしひさ)

9代将軍・足利義尚は母親の愛情を一身に受けて育ちました。

母親はあの日野富子。彼女は子供を完全に自分の支配下に置こうとしました。

子供は親の粘土細工ではありません。親の思い通りになる子供にしようとすればする程、反発します。9歳で将軍位を継いだ義尚は、長ずるに及んで自分で何でも判断する様になります。ただ、それは富子の望まない事でした。父・義政も又、隠居と言いながら義尚に政治の実権を渡そうとしませんでした。暇な義尚は、そこで何をしたかと言うと、和歌に興じ、酒と女に溺れました。

 

六角征伐

 近江国六角高頼(ろっかく たかより)と言う守護がおりました。高頼は近隣の国や、公家や寺社の荘園に侵攻し、土地を押領していました。それを成敗してくれと幕府に訴えがありました。

義尚は、この時こそ将軍の威令を示す時とばかり2万の軍を召集し、

1487年(長享元年9月12日)、自ら軍を率いて勇躍近江に出陣します。

義尚は六角氏の居城・観音寺城(かんのんじじょう)を攻撃します。観音寺城は佐々木城とも言い、琵琶湖の東岸にある交通の要衝(現近江八幡市安土)にあります。六角高頼は攻撃をうけるとその城を捨てて甲賀(こうか)の山中に入り、得意のゲリラ戦に持ち込みます。甲賀と言えば甲賀忍者の里。勝敗は決せず戦は膠着状態に陥り、鈎(まがり)と言う場所に陣を敷いたまま、義尚の陣中生活は1年5か月にも及びました。その為、幕府の機能も鈎に移ってしまった様な恰好になりました。朝倉氏を幕府の直臣に取り立てたりもしています。

義尚は、母・富子の手から離れて自由になったものの、箍(たが)が外れて自堕落になり、しかも、常にゲリラの襲撃に脅かされると言う過酷なストレスに晒されました。

1488年(長享2年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名します。

1489年(長享3年3月26日)、義尚は近江鈎の陣中で25歳の若さで病没します。

彼は黄疸に罹っていました。死因は大酒と荒淫による脳溢血と言われています。

 

足利義材(あしか がよしき) 

義尚には後継ぎの男子が居ませんでした。そこで、義尚が近江に出陣する9か月前に、彼の猶子となって元服した義材が次の将軍の候補になりました。(義政の養子になったと言う説も有ります) 義材は足利義視の嫡男です。

管領細川政元は、次期将軍に堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を推していました。その為、義材の将軍就任は円滑には進みませんでした。しばらく将軍空位のまま、義政が将軍代行として政務を執っていましたが、結局、義政と富子の後押しがあって義材が次期将軍に決まりました。

1490年1月20日(延徳2年1月7日)、義政が薨去(こうきょ)しました。

1490年7月22日(延徳2年7月5日)、足利義材が10代将軍に就任しました。

義材は前将軍の遺志を継いで近江の六角高頼討伐の為に近江に親征、高頼の駆逐に成果を上げます。

六角征伐に成功したので、次に義材は、河内の争乱を鎮圧すべく4万の兵を率いて河内に向かいます。応仁の乱の発端となった畠山家の家督争いがまだ続いていて、畠山政長と、畠山義就(はたけやま よしひろ or よしなり)の子の義豊(よしとよ)が争っていたのです。

 

明応の政変

細川政元

幕府の権威を高めようと将軍が率先して動く事に、細川政元は反対していました。そういう仕事は管領や側近の職掌。将軍は御神輿に徹していれば良い、政務は儂が執る、と彼は考えていました。彼の意図に反して義材は親政を行い、政元と対立します。

また、彼は修験道に凝り不犯(ふぼん)の掟を自らに課しました。修行を成就(じょうじゅ)すれば役行者(えんのぎょうじゃ)の様に何でも思うままに動かせるとでも思ったのでしょうか。変な術を練習したりしていたようです。彼は結婚せず、次から次へと3人も養子を取りました。これが災いして、3人の子は後に跡目争いを起こし、細川家没落の原因となります。

クーデター

1493年(明応2年4月)、細川政元は、義材が河内に出陣している間にクーデターを起こします。

政元は、義材を廃立し、堀越公方足利政知の子・義澄(よしずみ)を擁立します。ところが、このクーデターを後土御門天皇が認めず将軍宣下を拒否、義澄は中途半端な立場になってしまいました。

細川政元は裏で義豊と結託、義材討伐の軍を河内に送り、義材達が本陣を置いていた正覚寺(現大阪市平野区)を襲います(正覚寺合戦)。河内に出陣していた幕府軍は、クーデターの話に激しく動揺、次々と大名達が細川側に寝返ってしまいます。味方だった者が敵方に回り、軍は崩れ、義材は敗北、政長は自害しました。義材は捕らえられてしまいます。義材は龍安寺に幽閉されましたが、かつて西軍に居た神保長誠(じんぼう ながのぶ)の家臣に手引きされて脱出、畠山政長の領地・越中へと落ち延びます。

1495年1月23日(明応3年12月27日)、義澄が新たな将軍になります。

 明応の政変は、家臣が将軍の首を挿(す)げ替えた、正に下剋上の事件として、戦国時代の幕開けの事件と言われています。

足利義澄(あしかが よしずみ)

 足利義澄は、堀越公方足利政知の次男です。

父・足利政知は6代将軍・義教の四男で8代将軍・義政と義視の異母兄です。つまり、堀越公方足利政知は将軍一家の生まれでした。

政知には3人の子がおりました(4人説も)。長男が茶々丸、次男が義澄、三男が童子(じゅんどうじ)と言います。

政知は嫡子・茶々丸を素行が悪い事を理由に土牢に幽閉します。次男については、将来将軍を継ぐかもしれない事を念頭に、天龍寺香厳院に入れて僧侶にします。これは義政・富子の意向でもあったようです。将軍候補控え選手の手駒だったのでしょうか。僧になった次男は法名清晃(せいこう)と名乗りました。清晃が後の義澄です。政知は三男の潤童子を自分の後継者として指名し、嫡男の茶々丸を廃嫡しました。廃嫡を諫めた上杉政憲切腹させられてしまいます。

1491年5月11日(延徳3年4月3日)、政知が亡くなります。その3か月後、茶々丸は牢番を殺して脱獄、継母と潤童子を殺害して堀越公方の座を奪います。彼は恐怖政治を敷き、重臣達も容赦なく斬り殺した事から家臣達は茶々丸を支持しなくなりました。

伊勢新九郎こと北条早雲の登場

天龍寺に居た清晃は、1493年の明応の政変で還俗して義遐(よしとう)と改名し、更に義高と名を変え、最終的に義澄の名前に落ち着きます。彼は将軍になっても、母と弟を茶々丸に殺された恨みを忘れていませんでした。幕府政所伊勢貞親の流れで伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)と言う者が駿河に居ましたので、義澄は伊勢新九郎茶々丸を討つ様に命じます。新九郎は手勢と今川氏から借りた兵とで茶々丸を攻撃、茶々丸を敗走させます。

茶々丸は再起を図って伊豆を窺(うかが)っていましたが早雲に捕えられ、1498年(明応7年8月)に自害しました。

北条早雲今川氏親と連携しながら領国を拡大して行きます。

 

義材(=義尹(よしただ))の流浪

将軍位から追放された足利義材は、供回り30名ばかりと共に畠山政長の領地・越中国に入り、守護代神保長誠を頼ります。神保勢は義材と共に畠山義豊と戦い、甚大な被害を出しましたが、長誠自身は病気療養中で河内国の合戦に参陣していませんでした。

長誠は、義材の為に放生津(ほうじょうづ)正光寺(しょうこうじ)を御所に造り直し、彼を迎え入れます。義材を細川政元の軍が攻めてきますが、これを神保は撃退します。

義材は北陸の大名達に協力を求めましたが、成果を得られず、越前朝倉氏を頼ります。この頃、義材は義尹(よしただ)と改名します。

1499年(明応8年9月)、正覚寺で死んだ畠山政長の子・尚順( ひさのぶ or ひさより)は、筒井順賢(つつい じゅんけん)、十市遠治(とおち とおはる or とおいち とおはる)の協力を得て、父の仇である畠山義豊を討ちました。この時を捉えて、義尹(=義材)は尚順と手を結び、又、叡山や根来寺(ねごろじ)高野山等の僧兵とも糾合して京都に攻め上ろうとしますが、敗北。義尹は逃れて周防(すおう)大内義興(おおうち よしおき)の下に落ち延びます。

 

余談  茶人・古市澄胤(ふるいち ちょういん)

1499年に畠山尚順が攻撃した相手・義豊側に、古市澄胤と言う武将がおりました。澄胤は興福寺の僧侶出身です。彼は茶の湯には欠かせない重要な人物で、村田珠光(むらた じゅこう or むらた しゅこう)の一の弟子です。山上宗二茶の湯の名人としてその名を挙げています。澄胤の弟子に松屋久幸が居ます。松屋が持っていた三名物の内で、現在所在が分かっているのは、根津美術館に所蔵されている松屋肩衝(まつやかたつき)という茶入れだけです。(肩衝(かたつき)と言うのは茶入れの事で、口の周りが肩が張っている様な形のものを言います。茶入れは抹茶を入れるもので陶器で出来ています。木製で出来ている物を「棗(なつめ)」と言います。茶入れには、丸っこいもの、撫で肩のもの、下膨れのものなどがあり、それぞれの形に名前が付いています。) 

 澄胤は1508年(永正5年)、畠山尚順を攻めましたが敗走し、自害しています。