式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる

七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき

鷹狩の時に俄雨にあい、近くにあった貧しい家に立ち寄り、雨具を貸して欲しいと頼んだ太田道灌。その家の女は黙って八重咲の山吹の一枝を差し出しました。その意味が分からず腹を立てた道灌は、館に帰ってから家臣に尋ねました。すると、家臣がこう答えます。拾遺和歌集兼明親王(かねあきらしんのう)の歌があり、それには

七重八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞあやしき

とあります。それを知っていた女が、実と蓑(みの)を掛けたこの歌に託して「蓑が無いので悲しゅうございます」と伝えたかったのでは・・・と。道灌は歌に暗かった己を大いに愧(は)じ、和歌の道に励んだと伝わっています。

この項で扱う人物は太田道灌  三好元長   佐々成政  です。

 

 

太田道灌(おおたどうかん)資長(すけなが)(1432-1486)

室町時代、太田氏は関東管領・山内(やまのうち)上杉氏を支えている上杉分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏重臣。図式で言うと

鎌倉公方(後に古河公方)足利氏(臣下)関東管領山内上杉氏(補佐)←分家扇谷上杉氏(臣下)扇谷上杉氏家宰・太田氏

道灌の幼名・鶴千代元服して資長法名道灌江戸城を築いた名将。

父・太田資清、扇谷上杉氏の家宰(家の中の運営を一手に引き受ける人・執事・家老・重臣など)なるが故に、室町幕府と鎌倉府の対立、鎌倉公方関東管領の対立(享徳の乱)、上杉内紛、本家上杉家家宰の反乱(長尾景春の乱)等々、関東の騒乱の真っ只中に立つ。道灌も然り。

道灌、扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとも)、上杉政真(うえすぎ まさざね)、上杉定正の三代に仕える。道灌、父と共に河越城(埼玉県川越市)江戸城(東京都千代田区)馬橋城(千葉県松戸市)など各地に築城。江戸城は1457年に完成。(因みに道灌築城の130年後、徳川家康がこの江戸城を基に大規模に天下普請の拡張工事を行う)。

戦に於いて、従来の騎馬武者主体から足軽主体の集団戦法に替え、江戸城内で兵の訓練を日々行う。駆り集めの農民兵から訓練を受けた兵卒に脱皮。生涯30数度の合戦に於いて敗戦一度も経験せず。道灌の粉骨砕身の働きにより、関東に平安がもたらされ、主家・扇谷上杉家は、上杉本家の関東管領山内上杉家を凌ぐほどになる。大いに称賛されるべき所、主君・上杉定正、道灌の余りの有能振りに恐れを抱き、いつか自分の地位を脅かすのではないかと疑心暗鬼。道灌を館に招き、風呂に誘い、暗殺。随行の家臣達も皆殺しにする。享年55歳。

なお、道灌、死に際に「当方滅亡」と言う。この言葉は「当家は滅ぶ」の予言と解釈されている。また、討ち手が、道灌が歌の名人と知っていて、歌の上の句を

かかる時さこそ命の惜しからめ    

(こんな時、さぞかし命が惜しいだろうよ)と詠むと、道灌それに下の句をつけて

かねてなき身と思い知らずば     

(以前から我が身は無いものと悟っているので、命を惜しいは思わない。もし、それを悟っていなかったならば、命を惜しいと思ったであろう)と返し、絶命。

なお、道灌、上杉定正の心の動きを察知、事前に嫡男・資康(すけやす)を人質の名目で公方・足利成氏に預け、避難させている。道灌暗殺した定正はと言えば、忠勇有能なる臣を殺害した行為に、家臣達が一斉に逃げ出し、本家山内上杉家に身を寄せ、定正衰亡の道を辿る。再び関東に戦乱が呼び戻される。

 

 

三好元長 (1501-1532)

細川氏の分家である細川讃州家の代々の家臣。祖父は三好之長(みよしゆきなが)細川高国と戦い敗北、偽りの和睦により処刑さる。父は三好長秀。長秀、細川高国と如意が嶽の合戦で敗走。伊勢山田で北畠材親(きたばたけ きちか)と交戦し、自害。元長、父戦死後三好氏の総帥に就き、父祖が主筋としてきた細川讃州家の幼い当主・細川晴元(=六郎)を守り、仕える。

時の管領・細川本家・京兆家(きょうちょうけ)の細川高国、将軍の首を挿(す)げ替えるなど専横の振る舞い多く、不満の者多数。高国、重臣香西元盛(こうざい もともり)を無実の罪で誅殺するを機に、元盛兄弟をはじめ反高国派が挙兵。三好元長、主君・細川晴元を援け、11代将軍・足利義澄の遺児にして10代将軍義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)を擁し堺公方を樹立、反高国派の挙兵に合流。堺公方側、三好元長を総大将にして各地で激戦の末、1531年(享禄4年6月8日)、高国を自害さす(大物崩れ(だいもつくずれ))。

高国を滅ぼし、堺公方、いよいよ正式将軍就任かと思う時、細川六郎、近江に逃走中の将軍・足利義晴に接近、堺公方義維を捨て義晴側に就く。梯子を外された形の元長、畠山義尭(はたけやまよしたか)と共に主君細川晴元を諫めるも溝は埋まらず、路線対立で次第に関係悪化。

かねてより元長、六郎の臣・柳本賢治(やなぎもとかたはる)と不仲。賢治急死の跡を継いだその子・甚次郎の城を攻撃して落城さす。甚次郎討死。更に、権謀術数多く向背危うい木沢長政が晴元に取り入るのを善しとせず、長政の元主君・義尭と共に元長これを攻撃。長政、晴元に讒言したが為に、晴元、元長討伐に動く。長政、事に備えて三好元長に対抗意識を持つ三好政と手を組む。

義尭と元長、木沢長政の居城・飯盛山城を攻囲し優位に立つ所、突如一向一揆に挟撃され潰走。畠山義尭自刃。三好元長、和泉本願寺まで敗走するも、そこで自害す。堺府も消滅。元長享年32歳。

一向一揆軍の蜂起、黒幕は細川晴元なり。元長討伐の為、山科(やましな)本願寺飯盛山城支援を要請。三好元長法華宗庇護者なれば一向宗の宗敵也と吹き込み、襲わせる。宗敵打倒の火が着いた一揆軍の勢いは燎原の火の如くに広がり、最終的には10万もの大群に膨れ上がったと言う。

後年、元長の嫡男・三好長慶(みよし ながよし)細川政権を打倒し、三好政長、木沢長政を討つ。

 

 

佐々成政(さっさなりまさ)(1536?-1588)

織田家家臣。猛将で知られ、織田信長の黒母衣衆のリーダー的存在。数々の武功を挙げ、北陸方面軍の柴田勝家の下に、成政前田利家、不破光春(府中三人衆)と共に組み入れられる。

成政、富山城城主となる。一向一揆や越後の上杉景勝の脅威に対処しつつ、常願寺川の治水工事(佐々堤)などを行う。時には北陸を離れ、石山合戦有岡城の戦いなどにも出陣。

1582年(天正10年6月)、本能寺の変勃発。

上杉景勝春日山城を攻略中の柴田勝家以下諸将身動きならず、秀吉に天下取りの先を越される。

1583年(天正11年)、羽柴秀吉柴田勝家賤ケ岳の合戦で、成政、勝家に与(くみ)するも、勝家敗北。翌年3月~11月に掛けて小牧・長久手の戦い(羽柴軍 対 徳川・織田連合軍)では、織田信雄(おだ のぶかつ)の誘いを受けて、成政、徳川軍に与す。前田利家に末森城を攻撃され敗北。突如秀吉と信雄の間で和議が成る。結果として、越中の成政、今は敵方となった越前の利家と、越後の上杉に挟撃される形になる。成政、密かに十数人(?)の家臣と共に城を抜け、浜松の家康に再起を促すべく説得に赴く。越前、越後の敵地を避け、ルートを北アルプス越えに取る。厳冬のさらさら越え(ザラ峠)や針ノ木峠を経て浜松に行くも、家康、成政を相手にせず。空しく帰国。成政、秀吉の軍門に降る。織田信雄の仲介により助命さる。

秀吉の九州征伐の時、功を上げ、為に肥後国を領す。秀吉より急激な改革を慎むべしと厳命されるも、急いで検地に着手。国人の蜂起に遭い収拾できず。責任を取らされ切腹を命ぜらる。享年49歳~52歳くらいか?

織田軍団の武将として全く孫色の無い猛将なるも、信長-信雄への忠誠心故に、新たな支配者・秀吉に従順になれず、秀吉の指示無視による出過ぎた振る舞いが懲罰対象か・・・

 

 

余談  太田道灌(資長)

幼少より聡明で知られ、父資清(すけきよ)、それを案じ「驕者不久(きょうしゃふきゅう)(驕れる者久しからず)」と諭すと、資長「不驕者又不久(ふきょうしゃまたふきゅう)(驕らざる者又久しからず)と即答しました。又、父資清が「障子は真っ直ぐ立ってこそ役に立つ」と教えると、「屏風は真っ直ぐ立っては役立たない。曲がってこそ役に立つ」と反論します。建長寺で禅を学び、足利学校で学問を治めました。日本有数の学者。文化人。歌人

江戸城を築城(現東京都千代田区)。皇居に「道灌濠(どうかんぼり)」、荒川区日暮里(にっぽり)道灌山の地名を残しています。都内・埼玉・神奈川各所に銅像が立っています。名将の誉れ高く、築城の名手です。

 

余談  岩佐又兵衛

絵師の岩佐又兵衛荒木村重の子です。有岡城落城の時、赤ん坊の又兵衛は乳母に抱かれて脱出。石山本願寺に保護されました。「岩佐」は母方の姓です。長ずるに及んで絵師などの技を以って織田信雄に仕えましたが、信雄が改易されて出家すると、又兵衛は京都や北の荘、江戸などで絵師として活躍します。

 

余談  さらさら越え

さらさら越えと言うのは、ザラ峠を越える事をいいます。ザラ峠は立山の室堂(むろどう)近くにある峠で、標高2,348mです。

鉢の木峠と言うのは、後立山連峰の針の木岳と蓮華岳の間にある標高2,536mの峠です。佐々成政が富山から浜松まで厳冬の北アルプスを通って行ったと言うのは史実です。が、登山装備も満足にない昔の人が、冬のアルプスをさらさら越えするなど無理だとする登山家も居て、他にもルートが幾つかあり、実際には高山を経て、より標高の低い安房峠(あぼうとうげ)(1,790m)を通ったのではないか、と言う説もあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

124 武将の人生(5) 足利将軍家2

お茶会が始まる時「お床拝見」をします。その時、他の流派では床の間の正面に座り、膝前に扇子を置いて拝礼し、拝見しますが、式正織部流では、拝礼はしますが膝前に扇子を置きません。

利休は床の間を「神聖な場所」或いは「冥界」と見立てています。ですから、そこに踏み込まない様に、床の間との間に結界を設けます。結界の印が扇子です。冥界と一線を画す為に扇子を置きます。

武士にとって「死」は非日常では無く、あの世は地続き。ひょいと一歩向こう側へ踏み出して行く日常です。「死」は他所事では無く自分事です。多くの普通の人が「死」を他所事として捉え、冥界と一線を画す為に扇子を置こうとする所作は、武士には無用です。お茶席の所作の一つにも、武家茶にはこのように武士の生き様が投影されています。

式正織部流の「茶の湯」の背景にある世界を、武将達が歩んだ「死」のナイフエッジの道を通して、もう少し、探って行きたいと思います。

この項で扱う人物

足利義晴、  足利義輝・義藤、  足利義栄(あしかがよしひで)義親(よしちか)、    

足利義昭・義秋 

 

足利義晴 (あしかが よしはる)(1511-1550)

室町幕府12代将軍。父は11代将軍・足利義澄。弟(or 兄?)に義維(よしつな)が居る。

父・義澄が将軍位を追われて近江にいた時に、義晴誕生。父、再起を図るも、志を果たせず病没す。父死没の年誕生の義晴は播磨の赤松義村に預けられ、義維(義維の誕生年は不詳)は阿波の細川澄元の下に送られ、兄弟別々に育つ。

父が近江に没落している間に再任された(元10代)将軍・義稙(よしたね)管領細川高国と対立して破れ、阿波に逃亡。その時義稙、阿波の細川氏に預けられていた義維を養子にとる。義稙没後、細川晴元三好元長らは義維を推戴して堺に堺公方を樹立する。

1522年(大永元年)、義晴、朝廷より将軍宣下を受け12代将軍襲位。時に11歳。管領細川高国や父の遺臣達の助けを得て政務を執る。堺公方・義維を擁する細川晴元に度々京都侵攻を受け、その都度近江坂本などに亡命するも、幕臣達の支えで亡命政府としての機能を保つ。朝廷も義晴を正統の将軍として遇する。高国と晴元の京都をめぐる攻防激しく、義晴、京都ー近江を中心として避難、逃亡の引っ越し動座21回。

細川家内紛混沌。細川家家臣三好氏も内紛、向背、戦死等相乱れ、ついに義晴が高国を見限り、「大物崩れ(だいもつくずれ)で高国戦死。三好氏が主家・細川家に背き、三好長慶(みよしながよし)が実権を握る。義晴、三好長慶に対抗すべく中尾城を築き、北白川にも城を築く。が、義晴、病が悪化、穴太(あのう)で薨去。将軍在位25年。享年40歳(満39歳)。

   参考:99戦国時代の幕開け(1) 永正の錯乱

      100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還

      101 戦国乱世(1) 大物崩れ

 

足利義輝・義藤 (1536-1565)

室町幕府13代将軍。父は12代将軍足利義晴。京都の南禅寺で誕生。朝廷より義藤の名を賜る。後に義輝と改名。

1546年(天文15年12月20日)、義藤、近江坂本にて将軍宣下を受ける。時に11歳。

義藤が将軍職を継いだ頃、細川京兆家(ほそかわ きょうちょうけ)内部で権力闘争があり、京兆家の家臣・三好氏も二派に割れて闘争。管領細川晴元、義藤弟・義維を旗印にして堺公方府を樹立。細川一族内部の私闘に、幕府も巻き込まれる。為に、将軍義藤も幾度も近江へ動座。

1554年(天文23年)、義藤、朽木(くつき)滞在中に名を義輝に改める。将軍の権威を上げる為、諸大名の調停に積極的に取り組み、偏諱(へんき)を与え、役職を任ず。織田信長斎藤龍興長尾景虎等が上洛、謁見。

細川氏内紛を制して頭角を現した三好長慶、主君の細川晴元を没落させ、強大な軍事力と巧みな政治力を以って実権を握り近畿一円を支配。京都の治安を維持す。朝廷の元号改元の相談に与(あずか)る程になる。初めて源氏流に拠らない武家政権を確立。が、順調満帆に見えた三好政権、長慶を襲った身内の不幸に脆くも崩れる。

長慶弟・十河一存(そごう かずまさ or かずなが)病気による急死。弟・三好実休(みよし じっきゅう)、久米田の戦いで戦死。嫡子三好義興(みよしよしおき)22歳で早世。と立て続けに失い、弟・一存の息子・重存(しげまさ)を養子にとるも気鬱になり、精神を病む。唯一残った弟・安宅冬彦を呼び出して殺害 (謀反の讒言が原因との説有るが真相不明)。長慶、絶望のあまりその約二か月後の1564年(永禄7年7月4日)に病死。長慶死後、三好三人衆を制御する者無し。

過去に攻防繰り広げながらも、義輝の長慶厚遇政策に懐柔されていた三好氏、長慶亡き後、将軍親政を推し進める義輝に、傀儡将軍を望む三好重存、三好三人衆 (三好長逸(みよしながやす)三好宗渭(みよしそうい)岩成友道(いわなりともみち))松永久通の不満が爆発。義輝を討つ。(尚、松永久秀は加わらず)

1565年6月17日(永禄8年5月19日)、三好軍1万を以って二条御所を攻撃。義輝自ら迎え撃ち、刀を取って奮戦するも討死。家臣殆ど全滅 (永禄の変)。上は天皇から大名、庶民までその死を惜しむ。将軍在位18年5ヵ月。享年30歳。(満29歳)

   参考:102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)

               103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

                104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変

 

足利義栄(あしかが よしひで)義親(1538-1568)

室町幕府14代将軍。祖父は11代将軍足利義晴、父は堺公方足利義維(よしつな)。義栄は阿波で誕生。初名は義親(よしちか)

父・義維、一時堺公方なるも没落し、阿波に逼塞(ひっそく)。義親、父に従い、阿波の平島館(ひらしまやかた)(現徳島県阿南市)で穏やかな日々を暮らす(平島公方)

やがて、三好本家が、意のままになる新たな将軍を推戴しようと、義維・義栄親子に接近、事態が動き出し、身辺が慌ただしくなる。義維その時中風。若い義栄が将軍にと担がれる。

1565年、永禄の変で13代将軍・義輝が殺害さる。殺害首謀者の一人で三好長慶の跡取養子・三好重存(みよししげまさ)、直ちに改名し、義継(よしつぐ)と名乗る。「義」は足利将軍家の通字。「義」の通字を以って「継ぐ」とは、将軍に取って代わるとの意思表示と見る研究者有り。義輝を殺害してその地位に登らんとした義継なるも、貴種尊重の流れの前に、将軍の血筋を持つ義栄が優位に立つ。松永久秀・久通親子三好三人衆と袂を分かち、義輝の弟・足利義昭の側に立つ。義昭の後ろには織田信長朝倉義景らが居る。

義栄を旗印に迎えた三好陣営、三好義継を疎外。義継、いたたまれず義昭側に寝返る。

義栄、朝廷に太刀や馬を献上し、将軍就任活動をする。三好三人衆  vs  松永・義継、東大寺で戦う。この時、東大寺大仏殿炎上。義栄、将軍宣下を朝廷に乞うも、献金不足で却下さる。更に義栄努力し、旧義輝政権で干された伊勢為貞を幕府政所執事に据え、幕府内の態勢を整え、ようやく将軍就任に成る。これを祝い、堺の津田宗及(つだ そうぎゅう)屋敷で大宴会を催すも、足利義昭を奉ずる織田信長、次々と義栄陣営の城を攻略、落城させ、進撃の勢い止められず、ついに義栄、自身の病発症の事も有り、阿波へ退却。1568年(永禄11年)死去。将軍在位8か月。享年29歳。

 

足利義昭・義秋(1537-1597)

室町幕府15代将軍。父は12代将軍・足利義晴。13代将軍・足利義輝は同母兄。14代将軍義栄は従兄弟。義昭の幼名千歳丸法名覚慶(かくけい)。還俗初名義秋元服義昭昌山道休

 

[ 1期 将軍への道 ]

4歳で、興福寺塔頭・一乗院に入り出家。覚慶と名乗り、門跡となる。1565年(永禄8年)、兄、義輝殺逆(しぎゃく)されるの時(永禄の変)、覚慶も捕縛され、興福寺に幽閉さる。

幕臣細川藤孝、三渕藤秀(みつぶち ふじひで(→細川藤孝異母弟))米田求政(こめだ もとまさ(☆藤孝の家臣))、一色藤長(☆妹が義晴側室)仁木義政(☆伊賀の豪族)、和田惟政(わだ これまさ(☆甲賀21家の中の一人))などの連携により脱出に成功。惟政の居城・和田城に入る。覚慶、将軍になる覚悟を決め、和田城にて諸国大名に幕府再興への支援を呼びかける。更に、和田(現滋賀県甲賀市)よりも京都に近い矢島(現滋賀県守山市)に移り還俗。義秋と改名。

興福寺脱走約1年余、諸将、義昭上洛支援の具体的動きの気配無く、義秋、矢島から義弟・武田義統(たけだよしずみorよしむね)を頼って若狭へ移動し、名を義昭に改名。が、武田氏内紛による衰退につき、1566年(永禄9年9月)朝倉氏を頼って一乗谷へ移る。朝倉義景、詩歌遊芸に耽(ふけ)り腰を上げる兆し無し。義昭、一乗谷滞在の間に、足利義栄が将軍宣下を受け、14代将軍に就任す。

 

[ 2期 幕府樹立へ]

義昭、織田信長の上洛を促し、信長の後顧の憂いを取り除く為、尾張と美濃の講和を勧め和睦成功するも、信長、それを破棄。稲葉山城の戦い斎藤龍興と一戦を交え信長勝利す。

1568年(永禄11年7月25日)、義昭、岐阜の立政寺(りゅうしょうじ)で信長と対面。

1568年(永禄11年9月7日)、信長、義昭を奉じて上洛を開始。

上洛途次の六角氏を攻撃。六角氏の箕作城(みつくりじょう)を1日で落とす。以降、六角氏の18支城ドミノ倒しに落つ。城兵逃亡、投降など落城の状況様々。この報に京都の三好氏、戦わずして京を退却。

1568年(永禄11年9月26日)、信長、義昭を奉じて入洛し(この頃、平島公方義栄、死去)、10月18日に義昭、第15代征夷大将軍に就任す。

義昭、信長を「御父(おんちち)」と呼び、信長に管領や副将軍のポストを用意するも、信長これを拒否。義昭、諸将の論功行賞などを行い、各職掌を整える。幕府成立の達成感により警備油断。三好氏、そこを突き、義昭を急襲(1569年(永禄12年1月)本圀寺の変)。近隣諸将急ぎ救援、信長も岐阜より駆けつけるも、義昭、手勢で辛くも危機を脱す。二条城を再建し防御を強化す。

信長、義昭に「殿中御掟」の9ヶ条を示し、更に7ヶ条、5ヶ条と追加。計21ヶ条の掟を示す。何事も信長の許可なく行うべからず、等々の条々。義昭の行動を制限する内容也。

 

[3期 信長との連携]

1569年(永禄12年8月)、信長、北畠氏討伐に出陣するも攻城不調で戦況不利に傾くを、義昭、信長を援け和議斡旋に動く。同年10月、信長有利の条件で和睦成立。

義昭の義弟・若狭の武田義統朝倉氏に併呑(へいどん)さる。当主・武田元明一乗谷に居住、朝倉監視下に置かれる。義昭、若狭武田氏再興を望む。

1570年(元亀元年4月)、信長、朝倉氏討伐の為、織田・徳川軍を主軸にした幕府軍を率いて越前へ出陣。信長と浅井長政、信長妹お市の方の輿入れにより義兄弟の同盟を結ぶも、長政、朝倉に与(くみ)す。更に六角義賢(ろっかく よしかた)蜂起。金ケ崎城での合戦、信長優位に進むも、浅井叛旗により挟撃の恐れ生じ、信長直ちに退却す。(金ケ崎の戦い。金ケ崎の退口(のきぐち))

同年6月、信長、改めて浅井・朝倉攻めに出陣。義昭、織田方に味方する様に畿内に動員令を発す。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で激突(姉川の戦い)、織田・徳川連合軍、これに勝利す。

同年7月、三好三人衆((三好長逸(みよし ながやす)・三好宗渭(みよし そうい)・岩成友道(いわなり ともみち))と細川昭元が挙兵。義昭方の城を攻撃(野田城の戦い・福島城の戦い)。義昭、河内、紀伊、和泉に動員令を掛け、信長にも参陣を要請。義昭、自ら出陣し、幕府軍3万、織田軍3万を率いて三好軍側と睨み合う中、石山本願寺が蜂起。続いて浅井・朝倉が連動して蜂起。比叡山延暦寺が浅井・朝倉側に就く。

義昭・信長、和議に動く。信長、六角氏と本願寺三好三人衆と講和。義昭と関白・二条晴良、浅井・朝倉・延暦寺と和議交渉。最終的に勅命が出て勅命講和が成る。

 

[4期 信長と対決]

義昭と信長の蜜月の連携に陰り生ず。各地で合戦多発、調略激化。疑心暗鬼の世になる。

義昭、畠山秋高と遊佐信教に義昭から離反しない様にとの書状を出す。松永久秀、義昭に叛旗を翻し、三好三人衆側に奔る。更に、浅井・朝倉の残存勢力、比叡山に逃げ込み延暦寺と手を結ぶ。信長、怒り心頭、延暦寺を焼討す。

1572年(元亀3年9月)、信長、義昭に「異見十七ヶ条」を送付。義昭の振る舞いに注意を与える。

同年10月武田信玄、甲斐を進発し、三河の三方ヶ原で徳川家康を破る。

信玄に与するか否か、幕府内の意見割れ親信長派の義昭次第に孤立。ついに、

1573年(元亀4年/天正元年2月13日)、義昭、信長討伐令を下す。

信長大いに驚き、息子を人質に講和を申し入れるも、義昭応じず。幾度の交渉も功を奏さず。一方、義昭、朝倉義景に上洛を命じるも、上洛せず。信玄も動かず。義昭、近隣の国衆に動員を掛けるも、既に信長先手を打って彼等の城を攻め落とし済。義昭の兵力数千、対する信長1万。信長講和を求めるも義昭応じず。信長洛中洛外に放火を命じ、市中混乱。信長最後の手段で勅命和議に持ち込む。義昭、この時、未だ信玄の死を知らぬ形跡あり。

同年7月2日、義昭、宇治の槙島城に入城し、再挙兵す。

信長上洛。二条御所の義昭の家臣達、無血開城し信長に降伏。信長、二条御所を破却、二条御所の宝物略奪勝手放題を人々に許す。

7月18日、信長、槙島城を攻撃。義昭、1歳の息子・義尋(ぎじん)を人質に差し出し、信長に降伏す。

この時を以て室町幕府滅亡と言われる。が・・・

 

[5期 蠢(うごめ)く将軍]

槙島城(まきしまじょう)で敗北した義昭、信長に追放され、三好義嗣の居城・若江城に身を寄す。義昭、若江城にて信長討伐令を乱発。義昭を庇護した義嗣に信長怒り、若江城から義昭を追い出した後、佐久間信盛に命じて若江城を攻撃す。

1573年(天正元年11月)、三好義嗣奮戦するも敗北し落城、自害。

義昭、若江城を退城してより後も、放浪の旅の先々で幕府復活の悲願を達成すべく、これぞと思う大名に御内書を下し、上洛援助を命令す。頼みの大名、朝倉義景浅井長政、信長に討滅さる。上杉謙信北条氏政六角義賢へも上洛命令を下し、島津義久へも協力を命ず。

義昭、毛利輝元を頼り備後の鞆(とも)に移り、鞆幕府を開く。義昭、毛利輝元へ信長討伐を命令す。

輝元、織田信長と事を構えるを嫌うも、信長、羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣するを見て、信長打倒に起つ。義昭、これを喜び、毛利輝元を副将軍とし、毛利軍を幕府軍と成す。義昭、輝元の後顧の憂いを除く為、島津氏に使者を遣わして大友氏牽制を命じ、更に、島津氏へ毛利氏への援軍を求む。が、大友氏が動き、毛利氏内部を調略し、重臣謀叛。毛利氏の出陣、無期延期となる。

更に義昭、武田勝頼徳川家康を攻撃する様に命じ、織田軍の兵力分散を画策。

1574年(天正2年5月21日)、織田・徳川連合軍、長篠の戦で武田勝頼を破る。

1578年(天正10年3月)上杉謙信死去。

同年6月2日本能寺の変織田信長明智光秀に討たる。

 

[6期 晩年]

本能寺の変の7日後の6月9日、義昭、毛利輝元に入洛の供奉出兵を命ずるも、輝元動かず。

6月13日、秀吉、山崎の合戦で明智光秀を破る。

羽柴秀吉柴田勝家の戦いの時、義昭、柴田勝家を応援、結果、勝家敗北に伴い義昭、敗者側に没落す。羽柴秀吉、関白太政大臣豊臣秀吉となり、義昭より上位に立つ。義昭、朝廷に正式に将軍位を返上。これにより、室町幕府完全に消滅す。

秀吉の計らいにより、義昭、准三宮になり、槙島に1万石の領地を得る。文禄の役の時、3千の兵を率いて肥前名護屋に出陣。無理が祟ったのか帰洛後病に伏し、

1597年(慶長2年8月28日)、薨去。葬儀は極めて簡素。享年61歳。

     参考:106 平蜘蛛の釜

        109 信長、茶の湯御政道

 

 

余談  ナイフエッジ

ナイフエッジとは登山用語です。ナイフの刃の上を歩くような、両側が切り立った崖の稜線の事を言います。

 

余談  覚慶(義昭)幽閉と松永久秀

永禄の変の時、松永久秀が覚慶を興福寺に幽閉し厳重に監視したと言われています。これは、逆の見方をすれば、襲撃犯から覚慶を守る為に保護したとも取れます。幽閉された場所は元々覚慶が居た興福寺です。自宅に監禁する様なものです。監視の厳重さは暗殺者の侵入を防ぐ為とも取れます。

後に、覚慶に脱走されてしまった不始末を三好義継や三好三人衆に糾問されて、松永久秀は息子・久通と共に彼等から離れ、信長側に帰順します。

 

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

文中、参考として過去の項目を挙げていますが、次の様にクリックして頂ければ、その項へ飛ぶことが出来ます。

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123 武将の人生(4) 足利将軍家 1

家系を繋ぐと言うのは何時の世でも大変な困難を伴います。足利将軍家は正にその典型でした。

男子が生まれない、生まれても大人になる前に病死してしまい満足に育たない、健康ならばそれで目出度いかと言うとそうでも無く、兄弟が死闘を繰り返す・・・徳川幕府は過去の歴史を鑑み、系を絶やさぬ為に大奥を作り、正室の外に側室を大勢置き、更に御三家・御三卿を設置し、継承に万全を期しました。それほどにしても継承の危機は訪れます。

徳川家では、5代綱吉は舘林藩から、6代家宣甲府藩から、8代吉宗紀州藩から、11代家斉は一橋家から、14代家茂(いえもち)は紀州藩から、15代慶喜水戸藩出身一橋家からと、外から徳川本家に入り、何とか将軍位に穴を開けずに継承しました。

将軍継承が不安定ならば、政権の土台が揺らいで行きます。

この項で扱う人物は下記の通りです。

足利義量  足利義教  足利義勝  足利義政  足利義尚  足利義視

足利義材・義尹・義稙    足利義澄・清晃・義遐・義高

 

足利義量(あしかが よしかず)  (1407-1425)

室町幕府5代将軍。17歳で将軍職を継ぐ。父は4代将軍・足利義持。一人っ子。生来病弱。大酒飲みだったと言われている。在位は1423年-1425年、在位期間1年11か月。享年19歳。

 

足利義教(あしかが よしのり)  (1394-1441)

室町幕府6代将軍。前将軍義量が子無きまま急死。先代義持も後継を指名せず薨去重臣達止む無く先々代義満の三人の子を候補に石清水八幡宮くじ引きし、天台座主義圓(ぎえん)を6代に選ぶ。義圓、義教と改名。

義教、政の理想を父・義満の代に求め、直属軍・奉公衆の充実、勘合貿易再開、管領権限の制限等親政を行う。猜疑心強く、暴君。「万人恐怖」と言われる。

1433年から延暦寺と抗争し、和睦の使者の僧4人、後に殺害す。延暦寺衆徒24人、根本中堂に放火し、抗議の焼身自殺す。

1439年鎌倉公方足利持氏、意のままにならぬ関東管領上杉憲実(うえすぎ のりざね)に追討軍を差し向ける。憲実、幕府に救援を求む。義教それに応え、持氏を朝敵として討伐軍を起こし、持氏一族を討滅(永享の乱)。続いて結城氏、持氏遺児・春王丸安王丸を担ぎ叛乱を起こす(結城合戦)、義教、結城氏を討伐し春王・安王を殺害す。更に翌年、異母弟で大覚寺門跡義昭(ぎしょう)大和国人の騒乱に乗じて挙兵したとの名目で、討伐軍を派遣、国人の越智氏(おちし)箸尾氏(はしおし)等を討ち、九州に逃亡の義昭を捉えて自害に追い込む。

義教、有力大名の家督相続に積極的に干渉、影響力を及ぼし、意に染まぬ者は誅伐。大名達戦々恐々。赤松満祐(あかまつ みつすけorまんゆう)もその一人。満祐誅伐の噂が流れるに及び、1441年(嘉吉元年6月24日)、満祐、先手を打ち義教を宴に招き暗殺(嘉吉(かきつ)の変)。悲しむ者無し。在位12年3か月。享年48歳。

 

足利義勝  (1434-1443)

室町幕府7代将軍。父・義教暗殺により急遽7代目を継ぐ。時に義勝9歳。朝鮮通信使との会見を果たすも、在位8か月で急死。病死(赤痢とも)。享年10歳。

 

足利義政  (1436-1490)

室町幕府8代将軍。同母兄・義勝急死の跡を継ぎ、1449年に将軍宣下を受く。時に8歳。管領細川勝元の助けを得て政務を行うも、今参局など「三魔」の介入を受く。今参局、後に失脚。

世は凶作続き、餓死者8万余人。土一揆徳政一揆頻発。世情不穏の中、徳政令乱発し、土倉(質屋・高利貸)経営を圧迫、引いては土倉に収入源を頼る幕府財政が弱体化する。義政の正室・富子は、段銭、棟別銭、関銭などの重税賦課。これに反対する民衆を弾圧。衆人、富子を守銭奴と罵り、怨嗟す。

義政、畠山家の家督相続に介入し、畠山兄弟間に戦闘を誘発。更に斯波家にも介入。次々と守護家に対して家督相続の介入を行い、各地で戦闘多発す。

義政と富子夫婦に一子誕生するも、誕生当日に死亡。その後女子ばかりで男子が生まれず、義政の弟・義視を還俗させて養子と成す。1年後、実子義尚が誕生。義尚の将来を憂う伊勢貞親など側近、「義視に謀反の疑い有るにより討つべし」と義政に進言。義視、管領細川勝元の邸に逃げ込み無実を訴える。勝元、伊勢貞親等を讒訴の罪で失脚さす(文正(ぶんしょう)の政変)。義政夫婦、義視を義尚就任までの中継ぎ、或いは万一の時の後継スペアーとして義視を温存す。

1467年(応仁元年1月18)、御霊神社(ごりょうじんじゃ)に於いて、畠山義就(はたけやま よしひろ or よしなり)畠山政長の軍が衝突。応仁の乱勃発。細川勝元山名宗全これに参戦。戦の規模は拡大し、戦火は更に多くの大名を巻き込む。

1473年、勝元、宗全両名相次いで死没を機に、1474年、義政、将軍職を義尚に譲るも、実権は手放さず。義政と義尚の対立激化。

義政晩年、政治への興味を失い、建築中の東山山荘に移り住み、芸術を愛する日々を暮らす。銀閣の完成を見ずに中風で倒れ、薨去。在位24年。享年55歳。

 

足利義尚(あしかが よしひさ)  (1465-1489)

室町幕府9代将軍。義政と日野富子の次男。叔父・義視が義政の後嗣と決定された後に誕生。ここに波乱の種が生ず。誕生2年後、畠山家の内紛に端を発した応仁の乱勃発。戦乱、東軍と西軍の二派に分かれて全国に波及。富子、山名宗全に義尚を頼む。将軍義政と富子を擁する東軍の細川勝元、義視を総大将にして宗全の西軍と戦う。この乱の最中、義政、文正の政変で義視を讒訴した伊勢貞親の復帰を図る。身の危険を感じた義視、西軍側に逃亡。義視、今度は西軍側の大将になる。11年に及ぶ大乱終結1474年、義尚9歳の時、将軍職を継ぐ。父、実権手放さず。母富子、超過保護過干渉。20歳過ぎるまで義尚活躍の場無く、生活荒れる。1487年、23歳の時、近江の六角高頼を討伐に出陣。戦績芳しからず。六角高頼のゲリラ戦に翻弄され、1489年、近江の(まがり)で約1年半の滞陣の末、酒淫に溺れて病を得、陣没。在位15年、享年25歳(満23歳)。

 

足利義視(あしかが よしみ)  (1439-1491)

父は6代将軍・義教。先代義勝と先々代義政と兄弟。5歳の時出家。名は義尋(ぎじん)。

子供の無い義政に養子にと懇請されるも、幾度も拒否。根負けして受諾。還俗して名を義視と改め兄・義政の養子になる。1年後、義政正室富子、義尚を出産。富子、妹の良子と義視を娶(めあわ)せ、義視の立場を固める。義視、義尚誕生後も順調に出世、高位に登る。義尚を扶育の伊勢貞親、義尚の将来を危惧し、季瓊真蘂(きけいしんずい)斯波義敏赤松政則らが義視排除を画策、「義視に謀反あり」と義政に訴え誅殺を進言。義視、細川勝元の助けを求め無実を主張。義政、伊勢貞親らを讒訴の罪で失脚させる(文正の政変)。足利家の子等病弱にして成人まで育たぬ者多し。義政夫婦それを案じて次世代の「種」温存の為に義視を排除せず。

畠山家内紛騒動が拡大。初め細川勝元山名宗全が手を組むも、宗全、娘婿の畠山義廉(はたけやま よしかど)に肩入れし、勝元と敵対す。天下、東軍と西軍に二分し戦乱状態に入る(応仁の乱)

細川勝元、将軍義政を擁して義視を東軍の総大将とす。西軍の総大将は山名宗全。義視、東軍総大将として活躍する中、伊勢貞親政界復帰の報に身の危険を感じ西軍に奔る。西軍これを歓迎、西軍の将になる。応仁の乱終結後、美濃の土岐氏の下に亡命。そこで、子の義材(よしき)元服。その間、義政嫡子・義尚、鈎の陣で陣没。義視、義材を連れて上洛し、富子の居る小川殿に入る。富子、義材を次期将軍に推し、義材10代将軍になる。義材の対抗馬に香厳院清晃(こうごんいんせいこう(=義澄))が居た事を知り、義視怒り、富子の小川殿を破却し、所領も没収。義視、将軍職に就く事も無いまま人生を終わるが、10代将軍・義材を後見、正二位・准三宮になり、薨去従一位太政大臣の位を遺贈さる。享年53歳。

 

足利義材・義尹・義稙(あしかが よしき・よしただ・よしたね)(1466-1523)

室町幕府10代将軍。父は足利義視。義材は名を3度変える。応仁の乱終結後、父と共に美濃に亡命。義尚亡き後、1490年、香厳院清晃を退けて将軍になる。

義材、親裁志向強く独断行動多し。義材を将軍に推した先々代御台所・富子や、細川政元と対立。義材、幕府内の反対を無視し、六角氏を討伐す。更に畠山義豊討伐の遠征で留守の時、富子と政元、政権転覆させ、香厳院清晃(足利義澄)を将軍位に就かせる(明応の政変)細川政元畠山政長を自刃に追い込み、義材を幽閉。義材、幽閉先を脱出して逃亡。北陸、中国地方流浪13年半。

1507年、永正の錯乱(えいしょうのさくらん)細川政元暗殺されるを好機と捉え、義尹(よしただ(=義材))は反撃を開始。大内義興と共に上洛して義澄近江・朽木谷(くちきだに)に追い落とし、将軍に返り咲く。その後も義澄と抗争続くも、義澄病死。義稙(よしたね(=義材=義尹))与党の大内義興畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)は本国に帰国。故に義稙の軍事力低下。管領細川高国と対立を深め、義澄派の台頭を招く。

義稙、義澄派の細川澄元を討つ様に赤松義村(実は義澄派)に命ず。細川澄元反撃。義稙、更に細川高国に赤松応援を命ず。が・・・高国排斥を狙い、澄元と高国の勢力を両天秤に掛けての保身の策の義稙、事前に澄元側と内通す。高国、尼崎で大敗し、近江に落つ。高国、義稙の内通裏切りを知り、近江で勢力を蓄え捲土重来の猛攻開始。義稙を破り京都を奪還す。義稙、後柏原天皇即位式準備をせず、天皇激怒。高国、将軍に代わり即位式を整える。義稙没落し堺で反撃を志すも、味方集まらず。阿波国の撫養(むや)(現鳴門市)で病没。将軍在任期間一期目3年。二期目13年6か月。享年58歳。(満56歳)

義材の名前のおよその区分:将軍初任の時は義材、流浪の時は義尹、二期目の将軍の時は義稙。

 

足利義澄・清晃・義遐・義高  (1481-1511)

室町幕府11代将軍。父は義政や義視の異母兄弟で堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知。初名は清晃(せいこう)。後に還俗して義遐(よしとう)義高、義澄と変わる。

政知には先妻との間に嫡子茶々丸、後妻円満院との間に清晃(義澄)と潤童丸がいた。

次男の義澄、上洛して天龍寺香厳院に入り、香厳院(こうごんいん)を継ぎ清晃と名乗る。茶々丸行状不良につき廃嫡さる。代わりに後妻円満院の潤童丸を後継に指名。政知、これを諫めた家老上杉政憲を自害させ、茶々丸を土牢に監禁す。政知死後、茶々丸、牢番を殺し脱獄。継母・円満院と潤童丸を殺害、堀越公方になる。

一方、9代の足利義尚死去。義政も亡くなり次期将軍候補に義視の子・義材と、政知の子・清晃が挙がる。大御台所・富子の推挙で、10代は義材と決定。が、義材、富子と細川政元の意に染まず、明応の政変で義材追放さる。この時、香厳院清晃還俗し義遐と名を改め、更に義高、義澄となる。富子、政元、伊勢貞宗の推挙により将軍空位1年5か月の後、義材の跡を継ぎ、義澄、11代将軍となる。

義澄、奉公衆の伊勢宗瑞(=伊勢新九郎盛時=北条早雲)に伊豆の堀越公方茶々丸の討伐を命ずる。茶々丸は義澄の生母の仇なり。茶々丸、宗瑞の攻撃を受け自害。宗瑞、伊豆を支配。因みに、伊勢宗瑞は「文正の政変」を起こした伊勢貞親の流れを汲む。

1507年(永正4年)細川政元暗殺さる (永正の錯乱)。混乱に乗じ、追放された前将軍・義材、大内義興を従えて攻め上るの報に、義澄、六角高頼を頼り近江へ逃亡。義澄、将軍位を廃位され、没落。再挑戦するも、船岡山合戦を前にして病死。在位13年4ヵ月。享年32歳。(満30歳)

 

 

余談  三魔

三魔とは、義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね) 通称「おい

     義政育ての親の烏丸助任(からすまる すけとう)の「からす

     義政側近の有馬持家(ありま もちいえ)の「あり」(又は有馬元家?)

の三人の事を指し、義政の傍にあって絶大な権勢を誇った人物達です。今参局は、富子の最初の子が直ぐに亡くなった原因は今参局の呪詛によるものと断じられ、琵琶湖の沖ノ島流罪になり、その途中自害します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

122 武将の人生(3)

室町幕府守護大名の寄合所帯です。足利将軍はその上に乗っかている御神輿の鳳輦(ほうれん)に過ぎません。足利家は御神輿の安定化を図る為に担ぎ手の守護大名の背丈を揃えようと、強大な守護大名を狙い撃ちにしては内紛を起こさせて弱体化を図り、挑発しては謀叛を起こさせて討滅の機会を作り、何とかバランスを保とうとしました。そうする事がお家の安泰、引いては天下泰平に繋がると考えていました。

けれどそれは、結局自分が拠って立つ地盤を弱体化させて行く事に外なりませんでした。

この項で取り上げる人物

足利義満 足利義持 赤松則祐 大内義弘 今川了俊 菊池武光 土岐康行 

山名氏清

 

室町幕府前期

足利義満 (1358-1408)

幼名春王。足利義詮の次男として伊勢貞継邸で生まる。南朝に攻められ父・義詮近江に逃亡の際、春王、京都を脱出し赤松則祐居城に避難。京都帰還後、斯波義将(しば よしゆき)に養育さる。義政失脚後は細川頼之が扶育。父・義詮没後の翌年11歳の時、室町幕府3代将軍に就任。九州の南朝勢力を叩き、懐良(かねよし)親王日明貿易の利権を得ようと画策す。将軍直属の軍・奉公衆設立、康暦(こうりゃく)の変細川頼之を罷免、代わりに斯波義将管領に任命。土岐康行の乱で土岐氏を討伐、明徳の乱で山名氏を没落に追い込む。長年の懸案であった南北朝の件、北朝有利の条件で南朝と和解し、南北朝時代終結させる。

1395年(応永元年)、将軍職を嫡男の義持に譲るも、実権は手放さず。九州の懐良親王に代わり、日本国王を名乗り明と勘合貿易を開始。出世街道をひた走り、太政大臣にまで上り詰める。北山第を造営。猿楽の観阿弥世阿弥を庇護。溺愛する次男・義嗣元服式を行った2日後、病に倒れ、1408年(応永15年5月6日に薨去(こうきょ)。享年51歳。

 

足利義持(あしかが よしもち)(1386-1428)

室町幕府第4代将軍。3代将軍義満の庶子ながら嫡嗣子として遇される。将軍在位28年余。歴代足利将軍の中で最長の在位期間。専制政治よりも調整型の政治手法を取り、所領安堵を多く行い、朝廷への参内、家臣邸への渡御(とぎょ)を頻繁にして、結び付きの強化を図る。

9歳で将軍職を継ぐ。実権は父の掌中に在り。父とは不和。父・義満は義持の弟・義嗣を溺愛す。義嗣元服の2日後、父は病に倒れ、9日後薨去。義満亡き後、衆目は義嗣を義満の後継と見る所、斯波義将これを阻止、義持の家督相続を決める。

義持、朝廷からの義満への太政法王尊号遺贈を辞退。更に父の花の御所を出て祖父・義詮の三条坊門邸に移り、義母死後、金閣寺を除く北山第を破却、義満の冊封関係の日明貿易を否定し、明の永楽帝の勅使を追い返し、国交断絶す。父の路線を次々と否定し、独自路線を行く。

1416年、鎌倉公方足利持氏関東管領上杉禅秀(氏憲)の更迭に端を発し、上杉禅秀の乱が勃発。禅秀、挙兵し持氏を攻撃。持氏、幕府に救援を求む。幕府、鎌倉救援軍を派遣し鎮圧するも事は単純に非ず。関東の上杉禅秀の乱に呼応して義嗣、有力幕閣を巻き込み将軍府攻撃を画策する事変と判明。義持、義嗣を殺害。加担した公家や守護の地位剥奪・配流(はいる)・謹慎命ぜらる者多数。

鎌倉府、一件落着の安定を期待される中、鎌倉公方・持氏、事後の処断厳しく、関東武士に不満鬱積、離反の動き加速。将軍・義持激怒し、これを叱責。「持氏討伐令」を発す。後に和睦。

1423年、義持、嫡子・義量(よしかず)に将軍職を譲るも、2年後の1425年、義量急死。義持、将軍職継続。

1428年(応永35年1月7日)、浴室で尻のおできを掻きむしり悪化。9日後重体に陥る。重臣集まり後継者指名を懇願するも、義持、後継者を決めず。重臣達評議して、義持弟4人から石清水八幡宮の神意に従い、事前にくじを引き、義持没後に開封の事とす。同年1月18日没。享年43歳。

 

赤松則祐(あかまつ のりすけ or あかまつ そくゆう)(1314-1372)

元は比叡山延暦寺の僧・律師妙善。天台座主護良親王に従い、初め宮方で戦績を重ねるも、後に則村・則祐父子共々尊氏側に帰順。尊氏破れ九州に落つる時、これを追撃する新田義貞軍を播磨で阻止。則祐、九州に赴き尊氏に再起を促す。尊氏東征に転ず。数々の戦功により播磨守護になる。観応の擾乱の時、南朝に降り足利義詮の攻撃を受く。正平一統を機に義詮に帰順、備前守護になる。南朝楠木正儀細川清氏による京都侵攻の際、春王(=義満)を守って播磨に避難。宮方→幕府側→宮方→幕府側との向背の変転、これ以降無く、生涯幕府側に尽くす。禅宗律宗の管理職『禅律方」に任命され、管領細川頼之を補佐。正室佐々木道誉の娘。舅・道誉と共に一流の茶人。享年61歳。

 

大内義弘(1356-1400)

百済聖王の子孫と称し、中国地方の太守。倭寇の討伐に励み朝鮮からの信篤く、地の利を生かし貿易で巨万の富を築く。義満、北山第山荘造営の賦役を諸守護に課すも、義弘のみ拒否。義満との関係悪化。上洛命令に服従せず。義弘、九州の今川了俊を誘い(実は了俊これを拒絶)、反義満派の足利滿兼(鎌倉公方)、滅亡の山名氏嫡男・宮田時清、没落の土岐顕直南朝比叡山興福寺の衆徒などと密約し討幕の狼煙(のろし)を上げ、堺に進発。将軍、義弘討伐令を下す(応永の乱)。義弘、自身の生前葬を行う。反義満派の諸将、各地で蜂起し、幕府の勢力分散を企てるも功無く、堺陥落。義弘討死。享年45歳。

 

今川了俊(=貞世)(いまがわ りょうしゅん)(=さだよ)(1326-1420)

足利尊氏、義詮、義満三代に仕える。観応の擾乱の時、尊氏側に属す。

九州の懐良(かねよし)親王菊池武光征西府を築き太宰府を占拠、九州を南朝一色に染め上げ、その勢いに誰も敵わず。少弐氏これを攻撃して惨敗、大友氏も負け、九州探題斯波氏経も敗退、後任探題・渋川氏は九州に足を踏み入れる事さえ出来ず。幕府は1379年頃、最後の切札に今川了俊を投入。了俊、充分な準備をして進発。中国地方の守護や豪族を召集、瀬戸内海の制海権を抑え、東征の気配の南朝方を阻止、太宰府を攻めて奪還し、そこを拠点にして懐良親王菊池武光を追い落とす。了俊、島津・大友・少弐の各氏に来陣を促すも、少弐氏のみ拒否。了俊、宴を口実に少弐冬資を呼び、これを謀殺す。謀殺の件により九州諸将の信を失い、九州平定難儀す。了俊、九州探題に任命されてから22年後の1392年、ようやく南朝勢力を帰順させ、九州を平定。が、3年後罷免さる。応永の乱の時、謀叛を疑われ、了俊追討令が発せられるも、助命嘆願により、政界引退を条件に許される。以後、著作活動に専念.難太平記』『言塵集(ごんじんしゅう)』『了俊歌学書』『道ゆきぶり』などなど著書多数。歌人、文化人。享年87歳とも、96歳とも・・・

 

菊池武光(1319?-1373)

蒙古襲来絵詞を描かせた菊池武房の子孫。後醍醐天皇の八の宮・懐良親王に仕え、九州での南朝勢力拡大に生涯を捧げる。筑後川合戦 (懐良・菊池等4万  vs 少弐・大友等10万) では双方合わせて5千人以上の戦死者を出す大激戦を制し、武光勝利。連戦連勝の勢いで九州を席捲。京都を目指して東征を企(くわだ)てるも、瀬戸内海渡航に失敗、以後退勢に転ず。今川了俊から太宰府攻撃を受け敗退。筑後高良山(こうらさん)城に籠城。武光、そこで陣没す。享年52歳か?

 

土岐康行 (?-1404)

土岐氏4代当主。2代当主に光厳上皇に「院と言うか、犬と言うか、犬ならば射ておけ」と暴言を吐き狼藉を働き処刑された頼遠(よりとう)がいる。康行の養父・頼康は頼遠処刑後美濃守に就く。

1352年、正平一統破綻の時、足利義詮後光厳天皇を奉じて美濃に脱出。その時土岐頼康揖斐郡(いびぐん)小島に義詮と天皇を迎え、行在所(あんざいしょ)を造営、歓待す。その後、美濃・尾張・伊勢の守護になり勢力拡大。養父・頼康没後、将軍義満は、土岐氏の勢力を削(そ)ぐ為、康行弟・滿貞尾張守護にし、家督を弟に移す。これに反発した康行は挙兵。早速土岐康行討伐を命令。康行、敗北す(土岐康行の乱)。1391年、康行、許されて伊勢守護に再任さる。享年不明。

 

山名氏清 (1344-1392)

山名氏は足利氏の支流で一族は「六分の一殿」と呼ばれる。「六分の一殿」の呼称は、守護している領国が、以下の通り、全国66ヵ国の領国の内の1/6に当たる事から来ている。

長男・師義 (もろよし) 丹後・伯耆(ほうき)

次男・義理(よしただ or よしまさ)紀伊

三男・氏冬因幡(いなば)

四男・氏清丹波・山城・和泉

五男・時義美作(みまさか)・但馬・備後

惣領師義の三男・滿幸播磨(はりま)

以上合わせて11ヶ国。この絶大な勢力が幕府の脅威となり、守護弱体化政策の対象となる。

山名氏の一族の内に、家督相続で内紛発生。足利義満家督相続に不満を持つ氏清と氏清の甥・滿幸に対し、惣領を相続した時煕とその義兄・氏之の討伐令を出す。氏清と滿幸、命令を承って時煕と氏之を討ちに行くも、義満その後時煕・氏之両名を赦免。幕府のこの仕打ちに対し滿幸・氏清・義理は挙兵。1391年京都に攻め入り(明徳の乱)、幕軍と対戦するも、氏清戦死。滿幸処刑、義理は出家。山名氏の所領は3ヵ国に減る。氏清の享年49歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

121 武将の人生(2)

南北朝の動乱の中、足利家で一つの悲劇が同時進行しておりました。それは、日本史最大の兄弟喧嘩とも言える観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の始まりです。

室町幕府初代将軍・足利尊氏には正室との間に生まれた義詮(よしあきら)と言う男子と、無筋目の女性の間にもうけた直冬(ただふゆ)と言う男子がおりました。尊氏は直冬を認知しようとはせず、その子を寺に入れます。子供の無い尊氏の弟・直義(ただよし)は直冬を引き取り、養父となって育てます。

尊氏と直義兄弟は、尊氏が軍事を、直義が内政を担(にな)い、車の両輪の如く機能して幕府を運営しますが、やがて足利家の執事・高師直が台頭し、幕政に強い権限を発揮します。

直義と師直は対立して抗争が激化。尊氏が師直の肩を持ち、ついに直義は失脚します。これが1349年に起きた観応の擾乱(かんのうのじょうらん)です。

直義は師直と戦い高一族を討滅しますが、尊氏によって直義は毒殺されてしまいます。直冬は、養父・直義の敵討ちと実父・尊氏への憎しみで南朝に与(くみ)し、軍をもって戦いを挑(いど)み続け、室町幕府を脅(おびや)かす存在になって行きます。

この項で扱う人物

足利義詮 足利直冬 北条時行 楠木正儀 細川清氏 畠山国清 細川頼之 

仁木義長 斯波義将 

 

足利義詮(あしかが よしあきら)(1330-1367)

室町幕府2代将軍。幼名千寿丸。父・尊氏、北条氏に背(そむ)後醍醐天皇に寝返る時、千寿丸と母は鎌倉で人質になるも、家臣に助けられ脱出、挙兵した新田義貞軍に合流す。千寿丸(4歳)、父・尊氏の名代として家臣の補佐を受け、軍忠状を発給す。新田義貞、鎌倉に攻め入り、北条氏を東勝寺合戦で討滅す。

千寿丸、鎌倉将軍府で成長。観応の擾乱で叔父・直義失脚を機に、義詮(=千寿丸)、父より京都に呼び戻され内政を担当。が、直義の反撃に遭い、義詮は北陸に逃亡。その際、京都に光厳、光明、崇光天皇などを置き去り、失策。直義より京都奪還後、三種の神器無しで後光厳天皇の即位を実施。尊氏没後二代将軍に就任す。斯波義将(しば よしゆき)管領に任命し、幕政安定化を図る。観応の擾乱南朝方に離反の諸将も帰参。南朝との和議も進展。管領斯波義将の後釜に細川頼之を任命し(貞治の変(じょうじのへん))、嫡男・義満を託して没す。享年38歳。病没。

 

足利直冬(あしかが ただふゆ)(推定1327?-推定1400?)

養父・直義は、尊氏と共に兄弟二頭による幕府運営を図るも、執事・高師直(こう の もろなお)と路線が対立。直冬を政争圏外に置く為、直義は直冬を長門探題に派遣。直冬、中国と九州で勢力を張る。

直義、師直との政争に負け、失脚。直冬は軍を率いて長門を進発。これに激怒の尊氏「直冬討伐令」を発す。一方、直義は南朝に奔(はし)り挙兵。直義、足利義詮を北陸へ駆逐、尊氏軍を破り、高師直一族を殺害。尊氏と和睦するも、直義毒殺さる。直義死後、直冬、南朝方に帰順。南朝の武将の後援を得て一時期京都の尊氏を追い落とすが、尊氏軍の猛攻を受けて敗走。以後消息不明。一説によれば、中国各地を放浪。74歳で没すとか・・・

 

北条時行(ほうじょう ときゆき or ほうじょう ときつら)(推定1325?以降-1353)

鎌倉幕府14代執権・得宗北条高時の次男。新田義貞の攻めにより、北条氏一門は東勝寺合戦で滅亡。時行は家臣に守られて死地を脱出、信濃国に逃れる。

1334年、公卿・西園寺公宗(さいおんじきんむね)による後醍醐天皇暗殺未遂事件を機に、建武の親政に不満の武士達が各地で反乱、それらを糾合して時行、信濃で挙兵。鎌倉へ侵攻す。鎌倉府の足利直義の迎撃を時行は各地で撃破、父祖の都・鎌倉を奪還す。直義、鎌倉に幽閉中の護良親王を殺害し、千寿王(=義詮)を連れ京へ敗走。守邦親王将軍は取り残されるも、時行、危害を加えず。親王出家す。この後、北畠顕家と手を結び青野ヶ原で高師冬や土岐頼遠など足利軍側に勝利しながら、尊氏側と鎌倉を巡り攻防を繰り広げ、三度鎌倉を掌中に収めるも、足利側に捕えられ鎌倉龍の口で処刑さる。享年推定28歳かそれ以下。

 

楠木正儀(くすのきまさのり)(推定1333?-推定1388?)

楠木正成(くすのきまさしげ)の三男。父正成、兄・正行(まさつら)正時の三人、いずれも南朝方で戦い討死。

正儀は南朝の武将。幾度も北朝軍と交戦。観応の擾乱の時、正儀と直義間で和議が話し合われるも、和議破談。足利尊氏が直義を討つ為南朝に降(くだ)るを機に、南朝北朝別使用の年号を「正平」に統一(正平一統)。

正儀、和平を望みつつも、硬軟両刀を使い分け南朝有利を目指し、1352年、京都侵攻。足利義詮を北陸へ追い落し、光厳(こうごん)院、光明院、崇光(すこう)天皇などを拘束し、三種の神器を奪還、南朝大和賀名生(やまとあのう)(現奈良県五條市)に連行し軟禁す。その後、南朝北朝入り乱れて都合4度の京都攻防戦が続く。長引く戦いに厭戦気分が蔓延。両陣営とも疲弊す。南朝後村上天皇、41歳で崩御。後継の長慶(ちょうけい)天皇は主戦派。故に、和平派の正儀は南朝内で孤立し、北朝に出奔す。管領細川頼之、正儀を武衛最高の官位と河内・和泉・摂津の守護の地位を用意して歓迎。南朝、正儀の居城瓜破城(うりわりじょう)(現大阪市平野区)を攻撃。細川頼之は将軍・義満を説得し瓜破城に援軍を送る。正儀勝利す。正儀、細川氏春と共に南朝天野行宮(あまのあんぐう)を攻撃、陥落さす。南朝著しく戦力低下、正儀同族の南朝武将・橋本正督、これを見て正儀に従い北朝に降るも正督向背変転して信無く、却(かえ)って正儀糾弾の的になる。これを庇(かば)細川頼之失脚す(康暦(こうりゃく)の政変)

正儀、頼之の後ろ盾を失い北朝で再び孤立。北朝を出て南朝に帰参す。正儀と幕府側との交戦など紆余曲折の末、南朝主戦派の長慶天皇が譲位、代わりに和平派の後亀山天皇が即位し、和平への機運が高まる。この譲位、正儀の根回しの功による、との説あり。正義、和議を見ずに卒とも・・・享年不明。

 

細川清氏(?-1362)

観応の擾乱の時、細川頼之と共に四国軍を率いて足利直義と戦う。清氏と頼之は従兄弟同士。清氏、義詮の初代執事となる。強硬策により政敵多し。河内赤坂城を攻略・落城さす。政争に敗れ、南朝に降る(康安の変)。従兄弟の細川頼之と戦い討死。

 

畠山国清(?-1362)

観応の擾乱足利直義に与(くみ)し尊氏と戦う。後、尊氏に従う。新田義貞の次男・義興を謀殺。関東管領に就く。軍務違反で失脚、鎌倉公方足利基氏に攻められ、連戦連敗。居城修善寺城陥落。基氏に降伏。その後生死不明。

 

細川頼之(1329-1392)

観応の擾乱の時、讃岐軍を率いて足利直冬討伐軍に参陣。直冬の京都奪還の事態に、義詮を援(たす)け、神南(こうない)合戦で直冬を東寺に追い込む。直冬、東寺合戦で敗北逃走。南朝に降った同族・細川清氏討伐の幕命に従い、これを討つ。四国・中国平定。「貞治(じょうじ)の変」で執事の斯波義将(しば よしゆき)が失脚。義詮、死の直前に頼之に管領就任を要請。反斯波派の支持を得てこれに就任。幼い将軍・義満を補佐す。半済令(はんぜいれい)倹約令、婆沙羅規制など内政に力を入れ、天皇継承問題についても意見具申。頼之養子・頼元を総大将にして南朝討伐を行うも、失敗。頼之の、旧南朝の武将・楠木正儀に対する厚遇への反感も相まって、諸将、頼之の罷免を求む。頼之、失脚し(康暦の政変)出家。失脚後復帰。斯波・畠山と共に三管領の一角を占める。享年64歳。

 

仁木義長(?-1376)

仁木氏は足利氏の一族で清和源氏の流れを汲む。尊氏旗揚げ当初より家臣団の一人。中先代の乱の時、北条時行に侵攻され足利直義共々鎌倉から敗走。また、尊氏が九州に没落の時、義長それに従う。尊氏上京の折り、義長と一色範氏を九州の抑えとして残留。

義長、観応の擾乱では一貫して尊氏方に就く。高師直死亡後、兄、仁木頼章が尊氏の執事に就任。義長、兄の威を借り権勢を誇り傲慢。諸将の反目を買う。尊氏と兄・頼章両名相次いで没後、勢力失墜。罷免され没落。

 

斯波義将 (しば よしゆき)(1350-1410)

13歳で管領就任。細川頼之&佐々木道誉の画策により失脚。越中守護。越中は直義・直冬を擁護する抵抗勢力・桃井氏の地盤。これを討滅し越中平定。細川頼之と対立。頼之を罷免させ、管領になる(康暦の政変)。後に、細川頼之養子・頼元と斯波義将と交互に三度管領を務む。

義満没後、義満長男・義持を差し置いて次男の義嗣の将軍推戴の動きを封じ、義持4代将軍に推し、実現。義持を補佐す。春屋妙葩を任用し禅僧統括を図る。越前・越中信濃守護。人物高潔・寛大にして公正、文化人。義満没後、朝廷より義満に太政天皇尊号遺贈の動き有るも、義持に辞退を進言。又、「日本国王」詐称して行う義満の日明貿易を恥じる義持に賛同。貿易を中止。享年61歳。人々その死を悼む。

 

 

余談  楠木正儀細川頼之の友情のエピソード

正儀、京都市街戦の時に新戦術を編み出しました。

射手を屋根に登らせ街路に侵入する敵兵を上空から攻撃、動きを封じられた敵を騎兵が挟撃、更に槍を持たせた徒士に攻撃させると言う戦術で、これにより敵将・細川頼春が武士でもない徒士に討ち取られると言う、前代未聞の戦いが展開します。この時討死した細川頼春の嫡子が後の管領細川頼之です。頼之は正儀の戦術に驚嘆し、正儀に心酔。ここにライバルながら正儀・頼之の堅い友情が生まれます。この友情が、正儀の南朝離反を誘い、南北和平への道に繋がります。

 

余談  義持と義嗣

足利義満は次男の義嗣(よしつぐ)を溺愛し、長男の義持を蔑(ないがし)ろにしていました。義嗣の元服式は皇太子に勝るとも劣らない立派なもので、内裏の清涼殿で行った程です。全てがそのような状態だったので、義持は父・義満に反発。義満の建てた北山第を、金閣を除いて全て破却してしまいました。また、義満の政策路線を引き継がず、見直していきます。

 

 

余談  参考までに

何時もご愛読ありがとうございます。このシリーズでは、今回の項目に関連した記事を以前にも扱っておりますので、下記の様にご案内申し上げます。

44 鎌倉幕府滅亡

62 建武の親政(3) 中先代の乱

63 建武の親政(4) 矢作川合戦

64 建武の親政(5) 箱根・竹之下合戦

65 建武の親政(6) 楠木正成湊川合戦

66 建武の親政(7) 南朝樹立

67 南北朝(1) 北畠顕家

68 南北朝(2) 観応の擾乱

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

70 南北朝(4) 明徳の和約

71 南北朝時代の年表

72 室町時代(1) 義詮と義満

120 武将の人生(1)

上記の記事を開く場合、次の様にして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。

このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯」の世界で、各記事毎にサブタイトルがあります。各サブタイトルには通し番号を付けております。

この記事の場合は121です。121の番号の下にある小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)

但し、前項の120 武将の人生(1)については、この記事の右欄の「最新記事」から移動できます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

120 武将の人生 (1) 

豊臣秀吉が天下を取って争乱の時代が終わりを告げたかに見えても、なお戦いは絶えません。小田原征伐九州征伐・朝鮮征伐、関ケ原大坂の陣へと続いて行きます。

顧みれば、討死、戦病死、自刃、暗殺、刑死、謀殺・・・畳の上で天寿を全うすると言う事は、武士にとってはなかなか大変な事です。

戦史に消えた武将は、どういう風な死生観を持っていたのでしょうか。そこを探れば、武士と禅と茶の湯とを結びつける何かが、そこに在る様な気がします。

以下に、有名な武将をピックアップして、その生涯を短く纏めて列挙致します。

この項で扱う人物

源頼家 源実朝 北条時宗 北条貞顕 後醍醐天皇 尊義親王 護良親王 

宗良親王 恒良親王 成良親王 義良親王 懐良親王 楠木正成 新田義貞 

北畠顕家 足利尊氏  足利直義 高師直 佐々木道誉

 

 

鎌倉時代

氏 名 (生年-没年)

源頼家 (1182-1204)

鎌倉幕府2代将軍。源頼朝嫡男。禅宗の明菴栄西(みょうあん えいさい)の後ろ盾となり、京都に建仁寺を建立。伊豆修善寺にて暗殺さる。享年23歳。

 

源実朝 (1192-1219)

鎌倉幕府3代将軍。歌人。明菴栄西より『喫茶養生記』の献呈を受ける。栄西より二日酔いの薬としてお茶を勧められてその実効を知り、武士達にお茶を広める。鎌倉鶴岡八幡宮にて猶子の公暁(くぎょう)により暗殺さる。享年28歳。

 

北条時宗 (1251-1284)

鎌倉幕府8代執権。二度の元寇を退け、日本を勝利に導く。禅宗に深く帰依。蘭渓道隆、兀庵普寧(ごったん ふねい)、無学祖元に参禅し、学ぶ。満32歳の時に死期を悟り、出家。その日に亡くなる。

 

北条貞顕 (1278-1333)

鎌倉幕府15代執権。在任期間10日間(嘉暦の騒動により辞任)。一流の文化人。京都の銘茶と茶道具を揃え、守邦親王将軍を慰める。新田義貞と戦い、鎌倉東照寺合戦にて敗北。一族と共に自刃。北条氏滅亡。

 

南北朝室町時代

建武の親政~室町幕府創成期

 

後醍醐天皇 (1288-1339)

後醍醐天皇を武士の括(くく)りに入れるのは誤りですが、北条氏を倒し、足利氏と戦ったと言う点で特別に挿入します。

後醍醐天皇、8人の息子の内、夭折の二宮・世良(ときよしor よよし)親王を除く7人の皇子を南北朝の戦乱に投ず。その結果は以下の通り。

一宮・尊良(たかよし)親王、越前金ケ崎城の落城の折り自害す。享年31歳か。

三宮・護良(もりよし)親王征夷大将軍。父帝に疎まれ、鎌倉土牢内で暗殺さる。

            享年28歳。

四宮・守良(むねよし)親王信濃戦場で敗北後歌人として活動。晩年消息不明。

五宮・恒良(つねよし)親王(皇太子)、越前金ケ崎城落城後に捕虜。毒殺さる。

            享年22歳。

六宮・成良(なりよし)親王、越前金ケ崎城落城後に捕虜。毒殺さる。(異説有)

            享年19歳。

戦いに生き残った七宮・義良(よしながor のりよし)親王後村上天皇になり、八宮・懐良(かねよし)親王は九州で日本国王・良懐を名乗り日明貿易に励むも、九州探題今川了俊に敗北、没落し筑紫で薨去

後醍醐天皇はと言えば、南朝を樹立。文化人としての誉れ高く、闘茶を始めた先駆け。手ずから「金輪寺(きんりんじor こんりんじ)」と言う茶入れを作り、修験僧に振る舞ったと言われている。「金輪寺」は一時期織田信長が所有す。

後醍醐天皇は茶人。又、闘茶などにも関心が高く、故に、臣下達も茶の湯に励む。現代、社長がゴルフ好きなら、部下も挙(こぞ)ってゴルフをするに似る。以下に名を挙げる者はもとより、記載の無い武将達も茶の湯は殆どの者が嗜(たしな)んでいる。

 

楠木正成(くすのき まさしげ) (1294?-1336)

出自不詳。初期、鎌倉幕府得宗被官。武装民の討滅に軍事的才能を発揮。後醍醐天皇より報恩院道祐を通して和泉若松荘を得る。後醍醐天皇討幕に起つ報に天皇側に寝返る。赤坂城の戦い天王寺の戦い、千早城の戦い、いずれも寡兵ながら奇襲とゲリラ戦術を駆使。天才的な戦いぶりを見せ、護良親王と共に勝利す。建武の新政の時、記録所寄人、検非違使等々の役職に就く。護良親王が謀反の讒言に遭い捕縛され、足利方に引き渡されると、正成、全ての役職を辞し、新田義貞北畠顕家と合流。足利尊氏を撃破、尊氏を九州へ追い落とす。尊氏、態勢を立て直し京へ大軍で攻め上るを、正成と義貞は兵庫・湊川で迎え撃つ。正成敗北、自害。息子の正行・正時は四条畷(しじょうなわて)高師直(こうもろなお)と戦い討死。三男・正儀(まさのり)は幼少にして参戦せず。

 

新田義貞 (1301-1338)

御家人千早城の戦いに幕府方で出陣するも、離脱し新田荘に帰還す。幕府より莫大な軍資金の要求有り。その使者を殺害し挙兵。鎌倉目指して150騎で進軍。途中関東諸将が合流、足利尊氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)も加わり20万騎の大軍に成長。鎌倉を侵攻、東勝寺にて北条氏を滅ぼす。上洛し、功により侍所当人に就く。後醍醐天皇の命により護良親王を捕縛。尊氏、関東で勝手に論功行賞に及び領地を分配す。天皇これを怒り、義貞に尊氏討伐を命ず。義貞、尊氏討伐に掛かるも、西進する足利軍阻止叶わず。京都で義貞、顕家、正成、尊良親王、諸将と合流。入洛した尊氏に総攻撃を掛け九州に駆逐。九州より遡上の尊氏は正成・義貞軍と湊川で交戦。尊氏、正成&義貞を撃破。正成敗北し自害。

後醍醐天皇、和平の道を探り尊氏と交渉、義貞を捨てる。義貞、起死回生の道を求め、尊良親王恒良親王成良親王を奉じて北国へ移動。越前金ケ崎城に入る。足利軍、これを包囲。兵糧尽き、餓死者続出。ついに落城。尊良親王自害。恒良親王成良親王は捕縛さる。義貞は生き延び、越前・藤島の戦いで討死。享年38歳。

 

北畠顕家 (きたばたけ あきいえ) (1318-1338)

神皇正統記』著者・北畠親房の嫡男。美貌にして優秀。舞の名手。3歳で叙爵。12歳で従三位参議。陸奥守。義良親王(=後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城に着任。北条氏残党を平らげ東北を統治す。17歳で鎮守府将軍に任ぜらる。後醍醐天皇足利尊氏追討令に従い、東北より鎌倉に攻め入り、更に近江坂本まで進軍、新田義貞楠木正成に合流、この間、約600㎞を半月余りで駆け抜く。(秀吉の中国大返しでは200㎞を10日)。敵地通過、幾筋もの大河渡河を敢行。兵站は現地略奪。因(よ)って、顕家の通過後は人家も草木も無くなったと言われる。義貞・正成・諸将連合で尊氏を九州に駆逐後、奥州帰還。

九州の尊氏、京に攻め上るの報に顕家再度出陣。美濃国青野原で土岐頼遠を破るが、義貞と合流の約は果たせず、進路を伊勢に採る。更に河内・摂津へ進み、北朝勢力と交戦。善戦を続けるも敗色濃し。戦死する7日前、後醍醐天皇へ『北畠顕家上奏文』を遺す。後醍醐天皇を諫めるもので、率直かつ名文。時すでに兵200騎に激減する中、堺の石津で高師直と衝突。戦死。享年21歳。

 

足利尊氏(1305-1358)

鎌倉幕府を倒し室町幕府を樹立。初代将軍となる。後醍醐帝の南朝に対し、光明天皇を擁立して北朝を樹(た)てる。弟直義(ただよし)を討ち、甥の直冬と戦う。真言・天台・臨済各宗を信仰。夢想疎石に深く帰依、後醍醐帝供養の為天龍寺船を出して費用を捻出。天龍寺を建立。書画骨董など輸入。歌人。腫物の悪化で死去。一説では矢傷の化膿とも。享年54歳。

 

足利直義(あしかが ただよし)(1307-1352)

尊氏の同母弟。政務の最高統括者。歌人。直義は清廉実直で万人から信篤く、幕府に法治主義を置く。法学者・是円、真恵他数人を召して建武式目制定を主導。高師直と対立し抗争。第1ラウンドで直義失脚。第2ラウンドで尊氏&高師直と交戦し摂津打出浜で勝利。第3ラウンドで尊氏と戦い敗北。幽閉中毒殺さる。享年47歳

 

高師直(こう もろなお)(=高階(たかしな)師直)(?-1351)

足利家の家宰(執事)。権力絶大。バサラ大名。石清水八幡、金峰山蔵王堂など焼討す。権力闘争で直義を失脚さす(観応の擾乱)。直義との抗争第2ラウンドで師直は尊氏と結び、打出浜で直義と交戦し敗北、京へ護送中殺害さる。一族滅亡。文化人・闘茶好き。好色家。歌舞伎「忠臣蔵」の高師直のモデル。

 

佐々木道誉(=佐々木高氏=京極道誉or京極高氏)  (1296-1373)

鎌倉幕府相伴衆検非違使などを務める。室町幕府引付当人、評定衆政所執事。バサラ大名。鎌倉幕府討幕と室町幕府樹立に関わる功臣。門跡寺院妙法院を焼討、流罪になるも盛大な行列で賑やかに流罪先へ下向す。立花・茶道・香道連歌の達人。他に破天荒な逸話多々有り。道誉の闘茶の会は豪華で有名。享年78歳

                            (次号へ続く)

 

 

余談  参考までに

何時もご愛読ありがとうございます。

このシリーズでは、今回の項目に関連した記事を以前にも扱っておりますので、下記の様にご案内申し上げます。

14 栄西、鎌倉に下る

22 源氏の諸流

24 血で血を洗う 源氏三代

34 執権北条氏(8) 元寇 時宗

42 南北朝への序曲

43 後醍醐天皇

44 鎌倉幕府滅亡

60 建武の親政(1) 荘園制度からの考察

61 建武の親政(2) 綸旨連発

62 建武の親政(3) 中先代の乱

63 建武の親政(4) 矢作川合戦

64 建武の親政(5) 箱根・竹之下合戦

65 建武の親政(6) 楠木正成湊川合戦

66 建武の親政(7) 南朝樹立

67 南北朝 北畠顕家

68 南北朝(2) 観応の擾乱

69 南北朝(3) 正平一統と破綻

70 南北朝(4) 明徳の和約

71 南北朝時代の年表

76 婆沙羅(バサラ)

77 闘茶

上記の記事を開く場合、次の様にして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。

このシリーズのメインタイトルは「式正織部流「茶の湯」の世界」で、各記事毎にサブタイトルが有ります。各サブタイトルには通し番号を付けております。

この記事の場合は120です。120の番号の下にある小さな四角い薄青色の枠「茶の湯」をクリックして頂くと、全ての目次が出て参ります。(薄青色の枠「茶の湯」は見落とし易い程小さいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

119 式正の茶碗 

前号で織部焼きの茶碗について触れましたが、式正織部流ではいわゆる「織部茶碗」と言う歪(ひず)んだ茶碗は使いません。また、織部釉(緑色)の茶碗も「織部流だから」と言って使かわばならない、と言う決まりもありません。

式正織部流で使う茶碗は、ご飯茶碗の様な形をしたもの(井戸形(いどなり))や、汁椀の様な形をした物(椀形(わんなり))、そして、天目茶碗(天目形(てんもくなり))を使います。

天目形というのは、前項でも申し上げましたが、口造りを少しすぼめて、口縁に金輪を嵌め込んだ茶碗の事を言います。大体が茶褐色か黒色で絵柄は付けず無地です。禾目(のぎめ)天目とか油滴天目と言うのも有ります。

式正織部流が用いる茶碗から察して頂ければ分かる様に、侘茶が興ってくる以前の、唐物趣味の時代の様式を残しています。

 

茶托と茶碗台

式正織部流を名乗りながら、何で織部茶碗を使わないのかと言いますと、要は歪んだ茶碗は「使ない」のではなく「使ない」のです。

事はこうです。話は「今」に飛びます。

もし、あなたの家にお客様がいらっしゃった時、先ず居間にお通ししてお茶を差し上げます。その時、あなたは湯呑のお茶をそのまま出しますか? それとも、茶托に載せてお出ししますか? 紅茶の場合はカップだけ? それともソーサー(受皿)をつけてセットでお出ししますか? 

茶托やソーサー無しの対応は、身内か、かなり気楽な友達付き合いの範囲です。茶托やソーサーが付いていると、ちょっと一目を置く相手と言う事になります。

さて、式正織部流ではお茶を必ず茶托に載せてお客様にお出しします。茶托と言っても特別仕様の茶托でして、抹茶茶碗が載る様な大振りの漆塗りの茶托です。それを茶碗台と言います。

茶碗台に載せて客様にお茶を差し上げ、決して直に畳にお茶碗を置くような事はしません。

 

茶碗台の形

そこで、織部焼きの歪んだお茶椀ですが実を申せば、あの様な茶碗は茶碗台に載らないのです。糸底が大き過ぎて茶碗台に納まりが悪かったり、腰の張った茶碗の側面が茶碗台の羽根の曲面にぶつかったり、或いは腰が張り過ぎて羽根の曲面に茶碗の腰が乗っかってしまい、高台が浮いてしまう事態になったり・・・と言う物理的な問題があって、織部茶碗は使えません。と言う訳で、式正織部流ではオーソドックスな茶碗を用いています。

茶碗台には3種類の形があります。

薄茶用茶碗台、濃茶用茶碗台、そして天目茶碗用の天目茶碗台です。

薄茶用茶碗台は、普通の茶托を大振りにしたものです。羽根の直径が135㎜、高台を置く内径が56㎜、高さが35㎜あります。

濃茶用茶碗台は、普通の茶托を大振りにしたもので、底が抜けています。真ん中の丸い窪地、つまり、高台を置く平らな場所がそっくり抜けていて、向こう側が見えています。濃茶の場合ですと、茶碗台の上に古帛紗を敷いてその上に茶碗を載せるので、中央が抜けていないと、古帛紗の厚みなどで茶碗の納まりが悪いのです。濃茶用茶碗台の大きさは、羽根の外径が135㎜、中央の抜けている部分の内径60㎜、高さ30㎜です。

天目茶碗用茶碗台は、台座の上に羽根があり、更にその上に球体の台座が付いています。球体は空洞で天地が抜けています。太鼓の、革の両面が張られていない状態です。天目茶碗は高台が低くて小さいので、倒れない様に高台をすっぽり球体の中に納め、球体の台座の縁で支える様な構造になっています。

天目茶碗で薄茶を点てる時は古帛紗を用いませんが、濃茶の時は茶碗台に古帛紗を敷きます。

天目茶碗に濃茶を点て、台座+羽根+丸い台座の三段重ねの天目茶碗台に、更にその上に古帛紗を敷いて濃茶を差し上げると、「殿様になった気分です」と皆様は喜んで下さいます。因みに、式正織部流の濃茶は練りません。薄茶同様に、細かくクリーミィに泡立てて服し(飲み)易くしています。

天目茶碗台の大きさは、羽根の外径が150㎜、球体の直径が70㎜、全体の高さが70㎜です。

 

各服点て(かくふくだて)

式正織部流では濃茶の場合でもその人の為にだけ一碗のお茶を点てます。三人のお客様ならば三回お茶を点てます。回し飲みは絶対にしませんので、安心して服して頂けます。こういうやり方を各服点てと言います。近頃感染症の話題で持ち切りですが、400年以上も前に、清潔第一にして各服点てを考案した織部も凄いと思います。

それは又、師・千利休に対する反抗の狼煙(のろし)でもあります。

利休は一座建立の精神に則(のっと)って、主客共にその場の雰囲気を作り上げ、そして、一碗を啜(すす)り合って互いの仲間意識を養い、平等を確認し合う、と言う事に意義を見出しています。

ところが、これは武家社会では相容れない仕草です。何故なら、武家社会は軍隊組織。命令系統が上意下達(じょういかたつ)の完全ピラミッド型です。つまり、垂直思考です。

平等思考はピラミッドを根底から覆(くつがえ)す原動力になり得ます。その思想を秘めた茶道が、公家・大名・武士・町衆に至るまで無邪気に持て囃されて全国に蔓延する危険性は、キリスト教と同じ位危険なものと、秀吉の目には映った事でしょう。

秀吉は、利休の水平思考に危うい臭いを嗅ぎ取って、古田織部に「武家に相応しい茶を創始せよ」と命じました。その言葉を裏返せば、利休の茶は武家に相応しくないお茶であると、秀吉は断じたのです。

 

利休切腹の背景

今迄このブログでは、茶道の話題に余り触れてきませんでした。武士の勃興から天下大乱の歴史に重点を置き、大部分の頁をそこに割(さ)いて参りました。その意図は、武家政権内の権力の相克(そうこく)を焙(あぶ)り出し、武士とは何かを探る旅でした。武士の世界では、お山の大将は唯一人でなければならず、二人は要らないのです。

利休は逆に、皆が平等になり、和敬清寂を実践すれば天下に平和がもたらされると、考えます。

利休が切腹を命ぜられた根底には、この水平思考が潜(ひそ)んでいると、婆は見ています。大徳寺の木像事件があろうが無かろうが、いずれは秀吉から退場させられる運命にあった、木像事件はたまたまの口実に過ぎないと、婆は考えます。

これは秀吉と利休の、思想と思想の激突です。ですから、互いに言い訳もしなければ、許しもせず、命乞いもしません。木像の不始末を謝っても、それは明後日(あさって)の方向違いですから、解決にも何もならなかったと思います。周りはそれが分からないから混乱し、利休に「頭を下げて謝りなさい」とか、太閤に「許してあげなさい」と忠告を繰り返すばかりです。いずれ、これについては項を改めて取り上げる積りです。

 

 

余談  井戸形(いどなり)

井戸形というのは、井戸茶碗の形をした茶碗の事を言います。

井戸茶碗と言うのは、朝鮮の庶民が使ったご飯茶碗の様な焼物です。朝鮮では大した焼き物では無いと思われていましたが、日本の茶人達がそこに興趣を覚え、珍重しました。

井戸茶碗の特徴は、土の地肌をした素朴なもので、ビワ色の釉薬を掛け、高台とその周辺に梅花皮(かいらぎ)というブツブツが湧いている点です。

梅花皮と言うのは、元は刀の柄(つか)に巻く鮫の皮の鰄(かいらぎ)から来ています。白い小さな丸いブツブツが梅の花に似ているので、鰄に梅花皮の当て字をしてそう呼んでいます。

 

 

余談  大谷吉嗣(刑部)と茶会

或る時、大坂城内で茶会が開かれ、集まった豊臣の武将達はお茶の回し飲みをしました。大谷吉嗣もその席にいましたが、彼は重い病に罹っており、常に白い頭巾で顔を隠していました。吉嗣の飲んだ茶を受けるのを誰しも嫌った中で、只一人・石田三成だけがそれを受けて美味しそうに飲んだそうです。大谷吉嗣は三成に感激し、関ケ原の戦いで西軍側に付いたと、言われております。

これは有名なエピソードです。が、婆は疑り深いですから、ホントかいな、と信じていません。

回し飲みについて

回し飲みは、例えばお客様が30人居れば、30人分のお茶を一つの茶碗に点てるのか、と言うと、そうではありません。そんな事をしたら茶碗は鍋の様な大きなものになってしまいます。

回し飲みの場合、小丼位の大きさの茶碗を幾つか用意し、何人分かずつ一纏めにしてお茶を差し上げます。3人ずつ一纏めにする事も有れば、5人ずつ分ける事も有ります。例えば、正客-次客-三客を一括(くく)り、次正客-次次客-次三客で二括りと言う風にして、正客や次正客など、何正客と名のつく正客ごとにお茶を差し上げます。そして、そのグループ内での回し飲みをするのです。大谷吉嗣が客人に来ていれば、彼をグループ内の最後の席次にすればいい訳で、そうすれば彼の後を受けて続けて飲む人はおりません。そう言う配慮を、亭主はする筈です。

この時の亭主は誰が務めたか分かりませんが、亭主が回し飲み推奨の利休なら、グループ分けして行うでしょうし、織部なら各服点てをするでしょう。秀吉か、或いは別の人であっても、いずれも利休か織部の弟子。そうするに違いありません。

茶会は、お茶を運ぶ人や陰点ての人など裏方のスタッフを合わせると結構な人数を要します。総指揮を執る亭主は万事に目配せして、落ち度のない様に取り計らいます。病気の人が居れば、互いに嫌な思いをしない様に、それとは気付かれない様に配慮します。それが茶人です。お持て成しです。

大坂城の茶会なら草庵の茶会では無く、書院の茶です。各服点てが本筋です。と、婆は考えますので、大谷吉嗣と石田三成のこのエピソードは、作り話ではないかと疑っているのです。