式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

132 武家茶人 略列伝(2) か行 さ行

大学入学共通テストの初日、東大前の路上で刺傷事件が起きました。東京大学の医学部に入りたいと言う高校2年生が、成績不振を苦に、テスト受験生を無差別に刺したそうです。成績不振から、どのように考えたら他人を傷つける行動へと結びつくのか、何とも理解しがたい事件です。

よく、勝ち組・負け組と人生を色分けし、他人をも自分をも叱咤激励する人を見かけますが、そのような二者択一でしか人間を見る事が出来ない人は、なんと色彩の乏しい人生を送っているのでしょう。一次元か二次元の世界に閉じ込められて、視界が平べったくなっているとしか思えません。

このブログで取り上げている武家茶人列伝に登場している人物達は、殆どが武将と言われる人達です。大名となり、万石の領地を得、大勢の家臣を従えて一見成功者に見えても、それが真に幸せかどうかは分かりません。

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」で「人間万事 塞翁(さいおう)が馬」と言います。高望みせず、平凡に生きるのが良いです。中には平凡を是とする人を、負け犬と呼ぶ人も居ます。負け犬と呼ぶなら呼べば宜しい。負け犬も善き哉です。平凡に徹し切るのは、大悟に通じるほどに難しいのですよ。

「ボーイズ ビィ アンビシャス」「少年よ、大志を抱け」の、本当の意味を知って欲しいです。

Boys, be Ambitious. Be Ambitious not for money or, for Selfish Aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame.

Be Ambitious for the attainment of all that a man ought to be.”   Dr.Clark

「少年よ、大志を抱け。それは金銭や我欲のためではなく、また人呼んで名声という空しいもののためであってもならない。人間として当然備えていなければならないあらゆることを、成し遂げる為に大志を持て」   クラーク博士

さて、話題が脱線してしまいました。本線に戻しましょう。織部が生きていた時代の人間群像を、鈍行列車でトコトコと描いて参りましょう。

 

か行

片桐貞昌(石州)(1605-1673) 桑山宋仙の弟子

片桐且元の甥。且元の人質として板倉勝重に預けられる。1624年従五位下・石見守に叙任。故に石州と呼ばれる。河川の土木建設などで功績を挙げた。知恩院普請の際、金森宗和、小堀遠州松花堂昭乗松平忠明、奈良衆などと茶の交流を重ねる。桑山宋仙に茶の湯を習う。慈光院創立。慈光院は書院と茶室が一体となった造りである。徳川家綱の茶道師範になる。石州流確立。享年69歳

※ 桑山宗仙は千道安の弟子。千道安千利休の先妻との間に生まれた嫡男。

 

加藤嘉明(かとう よしあきら)(1563‐1631)) 古田織部の弟子

三河国の生まれ。秀吉の子飼いの家臣。賤ケ岳の七本槍の一人。三木城攻め、山崎の戦、賤ケ岳、小牧長久手、雑賀攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めなど歴戦。文禄・慶長の役では水軍を率いて参陣。秀吉薨去後、朝鮮より撤収する。家康の会津攻めに参陣、関ケ原で東軍所属。伊予松山藩藩主。大坂夏の陣では秀忠軍に従う。後、会津藩へ移封。享年69歳。

紛らわしい人物に加藤清正(1562-1611)がいる。清正は尾張国中村の出身。清正も賤ヶ岳の七本槍の一人で、文禄・慶長の役朝鮮出兵している。清正は熊本藩藩主。

 

金森長近(1524‐1608) 千利休千道安の弟子。古田織部と親交

土岐氏内紛の頃、長近の父・大畑定近が美濃を離れて近江の金森に移住。以降金森姓を名乗る。長近はやがて近江を離れ尾張織田家に仕える。長篠の戦で軍功を上げ、越前一向一揆の鎮圧の一翼を担う。信長より越前大野郡を与えられ、「長」の字を賜い、長近と名乗る。信長没後秀吉と柴田勝家の対立の中、長親は勝家側に立つ。勝家滅亡後、秀吉傘下に入り、以後、秀吉の天下統一の戦いに従って歴戦を重ねていく。飛騨高山城主。伏見で没。享年85歳。

千利休七哲の一人に数える人も居る。

 

金森可重(かなもり ありしげ or よししげ) (雲州) (1558‐1615)千道安の弟子、古田織部の高弟。

美濃出身。父は長屋景重。越前大野城主・金森長近の養子になる。本能寺の変の時、義兄・金森長則が討死、養父・長親は剃髪。織田家の主導権争いの時、可重は柴田勝家側に立つ。賤ケ岳の戦いで寝返り秀吉側に就く。九州征伐小田原征伐など歴戦。関ケ原では東軍側で戦う。飛騨高山藩藩主。利休切腹後、その長男千道安を高山に保護。道安にも師事する。可重は藩の茶堂に岡部(大野)道可を召した。大坂夏の陣でも東軍に立ち、息子・重近と意見が対立。即刻重近を勘当する。大坂城落城の1年後、京都伏見で急死。毒殺説、切腹説など死因に不審な点が取沙汰されている。享年58歳。

 

金森重近(宗和)(1584‐1657) 千道安の弟子

飛騨高山藩主・金森可重の長男。大坂夏の陣で、どちらの陣営に就くかで父と対立。徳川方につく父・可重を批判した為、即刻廃嫡された。重近は戦列を離れ宇治の茶師の家に滞在、大徳寺に参禅する。剃髪して宗和と号す。古田織部小堀遠州の影響を受け乍ら独自の茶風を確立。茶道の宗和流の祖となる。

 

蒲生氏郷(がもう うじさと)(1556‐1595) 千利休の弟子。利休七哲の一人

近江国蒲生郡に生まれる。人質として織田信長に送られたが、信長は、彼の優れた資質を気に入り、将来次女を嫁がせる約束をした。元服は信長の手によって行われた。氏郷と父・賢秀(かたひで)は信長に仕え、柴田勝家の与力になる。14歳で初陣。信長の娘を娶り、以降、信長の天下統一に向けての各地の戦に参陣する。本能寺の変の時、父と共に安土城の信長一族を保護・退避させる。柴田vs羽柴の賤ケ岳の戦いでは秀吉側に就く。小牧・長久手の戦いで戦功を挙げ、伊勢松ヶ島に転封。海岸近くの松ヶ島に城を築くが、場所を内陸の四五百森(よいほのもり)に移し、改めて築城する。築城2年後、会津に転封される。文禄の役では名護屋城に参陣しているが、陣中で病を得て次第に衰え、会津に帰国。翌年春に上洛し養生に努めた。秀吉の命により前田家や徳川家の名医が派遣されたが、薬効験なく3年後死亡。享年40歳。

毒殺説があるが否定されており、病状の進行や症状の記述から癌が疑われている。キリシタンで洗礼名はレオン。利休切腹の時、利休の婿養子・千少庵会津で保護している。

木村宗喜(きむら むねよし or そうき)(生年不詳-1615) 古田織部の茶堂

古田織部重臣大坂夏の陣豊臣氏に内通、京都の町を放火する計画を立てたとの罪で徳川方の板倉勝重に捕えられ、処刑された。

古田織部もこれに連座織部は一切弁明せず、切腹する。享年73歳。

桑山貞晴(小傳次)(宋仙)(1560-1632) 千道安の弟子 古田織部の高弟 

甥に同姓同名の人物がいる。甥の桑山貞晴は加賀守だったが、夭折する。

茶人の貞晴は通称小傳次、又は桑山左近大夫と言う。大和国主・豊臣秀長に仕える。秀長没後、秀長の婿養子・秀保(ひでやす)に仕え、秀保没後秀吉に仕える。文禄・慶長の役では水軍を率いる。関ケ原や大坂両度の戦いでは東軍に属する。千道安(利休長男)と古田織部から茶の湯を学ぶ。通称小傳次。茶名宋仙、号道雲。片桐石州の師である。享年73歳。

 

桑山元晴(直晴)(1563-1620) 古田織部の弟子

桑山貞晴(小傳次・宗仙)の兄。大和国御所藩初代藩主。豊臣秀長→秀保→秀吉に仕える。朝鮮渡海。秀吉薨去後、関ケ原大坂冬の陣では東軍・藤堂高虎の配下、夏の陣では水野勝成に従って戦い、戦功を挙げる。徳川秀忠の前で茶を点てる。享年58歳。

 

黒田孝高(くろだ よしたか)(官兵衛)(如水)(1546-1604) 千利休の弟子

黒田官兵衛、又は如水がよく知られている名前で、その外に祐隆(すけたか)・孝隆(よしたか)・シメオン(洗礼名)がある。名軍師。秀吉の参謀となり、秀吉の天下統一事業を支える。

黒田官兵衛茶の湯に関心を示さなかったが、秀吉に「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、茶室ならば人に疑われる事もない」と言われ茶に興味を示す様になり、利休の弟子になった。茶人、教養人、風流を好み、人脈は広く深い。病没。享年59歳。

小早川秀秋(1582-1602) 古田織部の弟子

秀吉正室・寧々(高台院)の兄・木下家定の子。寧々にとっての甥。秀吉の養子になり、羽柴秀俊と名乗る。7歳で元服し、丹波亀山城の10万石取りになる。秀吉後継者の一人として目(もく)され、阿(おもね)る者数知れず、供応により幼少期より酒浸りになり、12歳ですでにアルコール依存症発症。秀吉に秀頼が誕生したので、秀俊は小早川家に養子に出され、筑前国30万7千石の国主になる。慶長の役で渡海、その時、秀秋に改名する。朝鮮より帰国後、減封され越前国に転封、秀吉薨去後、徳川家康など五大老から筑前筑後に復帰、59万石になる。関ケ原では西軍から東軍に寝返って西軍の大谷吉嗣を攻撃し、戦況の趨勢を決した。関ケ原合戦の2年後、急死。アルコール中毒による肝臓病が死因と言われている。享年21歳。

 

小堀政一(まさかず))(遠州)(1579‐1647) 古田織部の高弟

大和郡山城主豊臣秀長家臣・小堀正次の長男。秀長→秀保(ひでやす(秀長の婿養子・関白秀次の実弟))の二代に仕えた。秀長は茶の湯に熱心で、千利休に師事、又、山上宗二を招いたり、茶会も多く開いた。秀保病没後(横死の説も有り)、政一は秀吉に仕え、伏見に移る。古田織部茶の湯を師事。秀吉薨去後、関ケ原の合戦の時、東軍側につく。父・正次、戦功により備中松山城番になる。父没後、政一もそれを継ぐ。政一、駿府城普請し、功により遠江(とおとうみ)守に叙任され、以後、小堀遠州と呼ばれる様になる。侘茶に「きれい寂び」の世界を開く。城の再建、修復、御所造営などの作事に秀で、又、優れた作庭家でもあった。近江国奉行、伏見奉行を歴任。茶の湯に余生をかける。伏見で没。享年69歳。

さ行

斎藤道三(利政) (1494‐1556) 不住庵梅雪の弟子。梅雪は足利家の書院茶を伝える

室町幕府美濃国守護代。父は長井新左衛門尉。父は出家した後、還俗して美濃の長井弥二郎に仕え、息子(後の道三)が長井の姓を名乗る様になる。息子は、才覚と謀略で美濃守護代の斎藤氏の名跡を継ぎ、更に土岐頼滿を毒殺、美濃の国主・土岐 頼芸(とき よりあき or よりなり or よりのり or よりよし)とその子・頼次を尾張へ追放。美濃国主に成る。娘を織田信長へ嫁がせる。不住庵梅雪から書院茶の茶室の置き合わせを伝授される。茶の湯は陣中でも行っていた程熱心であった。嫡子・龍興と対立し、長良川河畔で交戦し、討死。享年63歳。

 

榊原康勝 (1590‐1615) 古田織部の弟子

上野(こうずけ)舘林藩2代藩主。徳川四天王榊原康政の三男。大坂の陣では東軍方に就く。大坂冬の陣の時に痔を患う。夏の陣の時、若江の戦い、天王寺・岡山の戦いで豊臣方に押される。病を悪化させ、大量出血しながら激戦を続け、京都に引いて、病没。享年26歳。

 

佐久間実勝(真勝(さねかつ)・直勝・将監(しょうげん)) (1570-1642) 古田織部の高弟

茶道・宗可流の開祖。豊臣秀吉の小姓。徳川家康、秀忠、家光に仕える。名古屋城築城の普請奉行を務める。晩年、大徳寺龍光院内に寸少庵を造り、隠居。烏丸光広から伝紀貫之の色紙12枚を入手、帳に仕立て直した。『寸少庵色紙』として有名。号・山隠宗可、

 

佐久間勝之 (1568-1634) 古田織部の弟子

常陸北条藩藩主。叔父・柴田勝家の養子になり、佐々成政の婿養子になる。更に、佐々成政が秀吉に敗れると、佐々の娘を離縁し、小田原の北条氏に仕えた。秀吉の小田原攻めて北条氏が滅びると身を隠した。後、秀吉の命により、蒲生氏郷に仕える。氏郷死後、関ケ原で東軍に所属、戦功により信濃長沼藩の初代藩主となる。姓を佐久間に戻す。京都南禅寺へ6m、熱田神宮へ8m、江戸の寛永寺へ6mの大灯篭を寄進。日本三大灯篭と呼ばれている。享年67歳。

 

佐竹義宣(さたけ よしのぶ)(1570-1633) 古田織部の弟子

出羽久保田藩藩主。伊達氏と睨み合っていた為、秀吉からの小田原征伐動員令に遅参。以後秀吉に従い、秀吉から常陸国・下野(しもつけ)国・南奥羽を安堵される。秀吉の力を背景にして伊達氏を抑え、居城を太田城から水戸城に移し、領主の支配を強化、安定化を図る。朝鮮出兵の時は名護屋詰めになる。石田三成が、武断派の面々によって襲撃を受けた時、義宣は三成を救出、宇喜多秀家の家に避難させる。家康の会津・上杉征伐軍に消極的であり、秀忠軍に300騎を送っただけだった。関ケ原の合戦には不参加。戦後、50万石から出羽国秋田郡20万石に減転封。大坂の陣では東軍側に立ち、戦功を挙げる。江戸で没。享年64歳。

芝山監物(しばやま けんもつ) (生年不詳-没年不詳) 利休七哲の一人 

初め荒木村重の下に居たが、村重が信長に対して謀反を起こすと、村重を離れ信長に帰順した。

信長の馬回り役(親衛隊)を務め、後に秀吉の馬回りになる。小田原攻め参陣。後、1万石のお伽衆となる。千利休と近しく接し、監物と利休間の書簡が、弟子の中では一番多い。

 

島津義弘 (1535-1619) 千利休古田織部の弟子

薩摩国の武将。島津本家・15代島津貴久の次男として生まれる。生涯にわたり50数度の合戦を歴戦、猛将で知られ、朝鮮の役では「鬼石曼子(グイ シーマンズ)(鬼島津)」と、朝鮮軍や明軍に呼ばれて恐れられた。中でも関ケ原の戦いで東軍の敵中突破を敢行した戦いは、「島津の退(の)き口」として有名。この時、義弘300人の手勢の内生還できたのは80数名だったと言う。医術を学び、学問を好み、情に厚く、茶の湯にも関心を持っていた。

朝鮮の陶工を連れて来て、薩摩焼の礎となした。島津義弘古田織部宛に薩摩で焼いた茶入れを送り、指導を仰いだのに対し、織部から釉薬の使い方や形を指導した書状が現存している。義弘から利休への茶の湯についての質問状「惟新(いしん(義弘))様より利休へ御尋之條書」もある。享年85歳。

瀬田正忠(掃部(はけべ)) (1548-1595) 利休七哲の一人

豊臣秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いに従軍。九州平定、小田原征伐にも従軍。古田織部と共に相模国玉縄城の守備に就く。関白秀次事件に連座し処刑される。享年47歳。

 

 

131 武家茶人 略列伝(1) あ行

武士がお茶を嗜(たしな)んでいたからと言って、その人が茶人と言えるかどうか判断が難しいのですが、茶の湯を趣味としていた武士達がこんなにも居た、と言う証として、その名前をピックアップして列挙してみました。

但し、取り上げるのは戦国時代後半から江戸時代初期までの武士達です。それ以前の室町時代前半や鎌倉時代については省略します。名前の姓はあいうえお順です。(中には「武将の人生」等他の項目と重なる人も居ます。)

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青山幸成(あおやまよしなりorゆきなり) (1586-1643) 古田織部の弟子

徳川譜代、遠江(とおとうみ)掛川藩藩主。後、摂津尼崎藩藩主。文治政策を取り、新田開発に力を注ぐ。病没。享年59歳。

 

秋月種実 (あきづき たねざね) (1548-1596)

筑前国の国人。毛利氏と大友氏の争いの中、毛利氏に与する。豊臣秀吉九州征伐の時も秀吉に抵抗したが降伏。「楢柴肩衝(ならしばかたつき)(→茶入れの銘)」と国俊の刀を秀吉に献上、更に娘を人質にして死を免れた。

 

秋田実(あきたさねすえ) (1576-1660) 古田織部の弟子

男鹿半島の脇本城主・安藤愛季(あんどう ちかすえ)の子。12歳で家督相続。日本海沿岸の港争奪を巡って諸族と戦う(湊合戦)。南秋田領有。秀吉・秀頼に仕え、関ケ原では東軍側に立つ。常陸国宍戸に転封。54歳の時、幕府より伊勢国朝熊に蟄居を命ぜられた。享年85歳。

 

浅野幸長(あさのよしなが) (1576-1613) 古田織部の弟子

浅野長政嫡子。和歌山藩主。小田原征伐出陣。文禄の役慶長の役に渡海。朝鮮の蔚山(うるさんじょう)の激戦で負傷。秀吉薨去後帰国。武断派福島正則などに与し、石田三成と対立。家康に随い会津攻めに向かう。家康と秀頼対面の時には警護を担う。病死。享年38歳。

 

足利義政(1436-1490)

室町幕府第8代将軍。6代将軍足利義教日野重子の間に生まれた。治世中に応仁の乱が起こる。政務から逃避、東山に東山山荘を造営する。鹿苑寺銀閣の東求堂に四畳半の同仁斎を造る。茶の湯などの趣味に生きる。享年55歳。

参考  「19 室礼の歴史(4) 武家文化」 2020(R2).06.13 up

   「20 室礼の歴史(5) 同仁斎」     2020(R2).06.16 up

         「79 室町文化6) 銀閣寺」         2021(R3).01.20 up

         「82 室町文化(9) 東山御物」     2021(R3).02.04 up

         「89 趣味天下を制す 足利義政」 2021(R3).03.13 up

         「93 応仁の乱(4) 乱の前夜」     2021(R3).04.03 up

         「95 応仁の乱(5) 開戦」             2021(R3).04.10 up

 

足利義輝 (1536‐1565) 武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子

室町幕府第12代将軍。父・義晴が管領細川晴元と対立していた為、幼い頃から幾度も京都から近江への逃避が繰り返されていた。堺公方足利義維(あしかが よしつな)と対立、三好長慶と戦う。将軍親政を志すが、三好三人衆により殺害される。剣豪将軍と呼ばれ、紹鴎の弟子で茶人でもある。享年30歳(満29歳) 

参考  「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」    2021(R3).06.02 up

    「103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」    2021(R3).06.12 up

         「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」     2021(R3).06.19 up

         「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」       2021(R3).11.13 up

 

足利義昭(1537‐1597)

室町幕府第15代将軍。兄・義輝が殺害されたのち、還俗して15代将軍となる。権力闘争が激しく、政権は不安定。その為。居所が定まらず流浪。織田信長に推されてようやく京都に落ち着くが、後に信長と対立。追放される。信長死後、豊臣秀吉の麾下(きか)に入る。

参考  「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」      2021(R3).11.13 up

 

荒木村重(道薫) (1535‐1586) 武野紹鴎千利休の弟子。

茨木城城主。信長の中国攻略の時、羽柴軍側に居たが、突如、有岡城で信長から離反。村重は包囲網の中を一人脱出。残された122人の女房衆が処刑され、村重一族など重臣36人も六条河原で斬首される。村重自身は毛利氏に亡命。信長死後堺に移り、茶人として生きる。

参考  「125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる (余談  岩佐又兵衛)」2021(R3).11.23 up

 

有馬豊氏 (1569‐1642) 千利休古田織部の弟子

名門有馬一族の出で、室町幕府管領・細川澄元の孫。文禄・慶長の役の時は名護屋城に詰める。遠江(とおとうみ)横須賀3万石を領す。関ケ原では東軍に立つ。福知山藩主を経て筑後久留米に転封、21万石になる。島原の乱に出陣。手痛い打撃を受ける。享年74歳。

石田三成 (1560‐1600)

豊臣秀吉の子飼いの臣。近江出身。佐和山城主。能吏。頭脳明晰にして経理に明るく、後方の兵站(へいたん)に優れた才能を発揮。秀吉の天下統一に貢献する。関ケ原の合戦で西軍の将になり敗北。徳川軍に捕えられ処刑される。

参考:「119 式正の茶碗  (余談  大谷吉嗣(刑部)と茶会)」2021(R3).10.01 up

 

稲葉良通(一鉄) (1515‐1589) 斎藤道三の弟子、不住庵梅雪の孫弟子

美濃出身。稲葉通則の六男。初め臨済宗崇福寺(そうふくじ)で僧侶となるが、父と兄弟全員が戦死した為還俗、家督を継ぐ。主君は土岐氏→斎藤氏→織田信長豊臣秀吉と何人も変わる。外孫に福(後の春日局)が居る。斎藤道三から「茶の座敷置き合わせ」伝授される。道三は不住庵梅雪(足利義輝の側近)から伝授されている。良通は不住庵の孫弟子に当たる。享年74歳。

 

岩成友通(いわなり ともみち) ( ?-1573)

石成(いわなり)とも書く。出自不明。三好三人衆の内の一人(三好三人衆三好長逸(みよし ながやす)三好宗渭(みよし そうい)・岩成友通)。室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害。松永久秀と対立し抗争。織田信長と山城淀城で戦い、戦死。享年は不明。多分40代。

 

石川貞清(宗林) (生年?-1626) 古田織部の弟子

美濃出身。石川備前守犬山城主。豊臣秀吉に仕え、秀頼側近となる。関ケ原では西軍に就く。敗戦後龍安寺に入り、竜安寺から妙心寺に移り、池田輝政に投降。黄金千枚で助命され、剃髪して商人に成り、茶人として過ごす。後、徳川幕府の家人となり、500石取りになる。

 

石川貞道(生年不詳-没年不詳)

石川備後と通称され、石川貞清と混同されている。小牧長久手の戦い、小田原の陣に出陣。文禄の役では名護屋に駐屯。関ケ原では西軍に所属。故に改易され、盛岡藩に預けられる。古田織部小堀遠州金森可重(かなもり ありしげ or よししげ)、堺・京の茶人達と交流。

 

石川康 (1554‐1643) 古田織部の弟子

信濃松本藩・石川数正嫡男。家督を受け2代藩主となる。古田織部茶の湯を学び弟・康勝と共に免許皆伝。文禄の役名護屋城詰め。会津攻めでは転戦して徳川秀忠に従い、真田昌幸上田城を攻め大敗する。徳川幕府になってから大久保長安事件(佐渡金山等の不正蓄財)に連座、改易され豊後佐伯に流罪。配所で没。享年89歳。

 

石川康勝(員矩(かずのり)) (生年不詳-1615) 古田織部の弟子

信濃松本藩・石川数正次男。家康の次男・秀康が秀吉の人質になるのに随行して、秀康に仕える。文禄の役の時、名護屋城に詰める。古田織部茶の湯を学び免許皆伝。関ケ原では東軍に就く。徳川秀忠軍で上田城攻撃に参加。大久保長安事件で改易。大坂の陣では豊臣方に就く。真田信繁隊に属し、戦死。

 

板倉重宗(1586‐1657) 古田織部の弟子

板倉勝重の嫡男。関ケ原では秀忠に従う。大坂両度の戦に出陣。徳川の世では書院番頭に任命され、後、京都所司代を務める。裁可は慎重・公平。下総(しもふさ)関宿藩主。享年71歳。

 

井上正就(いのうえ まさなり) (1577‐1628) 古田織部の弟子

大坂夏の陣に参陣。遠江横須賀藩主。江戸幕府老中職に就く。正就嫡子・正利と、大坂町奉行の娘との縁談が破談になり、仲人をした幕府目付・豊島信滿の恨みを買い、江戸城中で殺害される。正就と信満と、止めに入った蕃士が死亡。縁談相手の父親も自害した。享年51歳。

 

猪子一時(いのこ かずとき)(1542‐1626) 千利休古田織部の弟子

初め織田信清に仕え、後に信長に仕え、赤母衣衆になる。信長没後秀吉に仕え、黄母衣衆になる。関ケ原では東軍側で戦う。戦功により茶入「常陸肩衝」を賜う。大坂冬・夏の両陣で戦う。徳川秀忠のお伽衆になる。享年85歳。

 

上田重安(宗箇) (1563‐1650) 古田織部の高弟

尾張出身。丹羽長秀の家臣。猛将。本能寺の変の時、大坂城を預かっていた丹羽長秀の臣・重安は、明智光秀方と目される津田信澄が守っていた同城の千貫櫓を単独攻撃し、彼を討ち取る。丹羽家没落の時、秀吉の家臣になる。方広寺大仏殿普請分担、小田原出陣、文禄の役では名護屋駐屯。関ケ原で西軍側に属する。敗戦後剃髪。浅野家に仕える。千利休古田織部に茶道を学び、上田宗箇流を起こす。茶道と共に造園に力量を発揮。享年88歳。

参考:126「武将の人生(7) 書状」2021(R3).11.30 up

 

大久保忠隣(おおくぼ ただちか) (1553‐1628) 古田織部の弟子

徳川譜代。相模小田原藩初代藩主。10歳の頃から徳川家康に仕え、姉川、三方ヶ原、小牧・長久手小田原征伐と歴戦。本能寺の変の時、家康と共に伊賀越えをする。関ケ原の時、秀忠軍にあって上田城の真田と戦う。老中就任。大久保長安事件翌年突如改易され、近江に配流。出家の後、没。享年75歳。

 

大久保長安(1545‐1613) 古田織部の弟子

元は猿楽師。後、武田信玄の家臣になり、家老・土屋昌続(つちや まさつぐ)の与力となり、土屋姓を名乗る。武田氏滅亡後、徳川家康に仕官し、老中・大久保忠隣の配下となる。土木工事、鉱山開発に才能を発揮。釜無川笛吹川、浅川などの堤防工事。甲州街道、川越街道、鎌倉街道が交わる交通の要衝・八王子に陣屋を構え、武田氏滅亡後の牢人達を組織化して江戸防衛の備えにした。大久保忠隣は土屋長安へ大久保の姓を与える。長安は、甲州街道を真っ直ぐにし、東海道中山道に宿場町と一里塚を整備、更に、石見銀山佐渡金山、伊豆金山などの開発し、掘削道を改善する。各鉱山の代官を務める。西洋のアマルガム法を取り入れ、金産出量を格段とアップ。徳川幕府の財力を盤石なものにした。中風で病没。享年69歳。

(現在、佐渡能楽が盛んなのは、大久保長安の貢献に依っている。) 

 

大久保藤十郎(1577‐1613) 古田織部の弟子

大久保長安嫡男。古田織部より免許皆伝を受ける。奈良奉行稲富流炮術皆伝。天下の総代官と呼ばれた父・長安死後、横領が発覚。それを追及され、答えられず死罪になる。享年37歳。なお、弟達も全員切腹になる。大久保家は断絶する。

 

大野治長(おおの はるなが)(1569‐1615) 古田織部の弟子

豊臣氏重臣。母は淀殿の乳母・大蔵卿局。秀吉薨去後は秀頼側近になる。家康暗殺未遂事件の関係者として下総(しもふさ)流罪関ケ原の時は東軍で戦う。後、大阪に戻り、片桐且元の後を受け豊臣方の中心となる。織田有楽斎と共に徳川方と和睦交渉に臨むが、主戦論者の弟・治房側から襲撃される。大坂城落城の際は秀頼と、母と嫡男共々に自害する。尚、秀頼は大野治長淀殿の子であるとの噂が、『多門院日記』『看羊録』と、内藤隆春の書状に書かれている。※『看羊録』は朝鮮の役人が、日本の捕虜となって伏見に抑留された時の手記。

 

大野治房(生年不詳-没年不詳)) 古田織部の弟子

大野治長の弟。豊臣秀頼の近習。大坂夏の陣では大和郡山城を攻撃、又、出撃して前田軍と交戦、徳川秀忠軍を混乱させたが、敗色濃くなると撤退。落城時に逃亡し行方不明となる。

 

小笠原秀政(貞政)(1569‐1615) 古田織部と山田宗偏の弟子

下総古河藩から信濃飯田藩を経て信濃松本藩初代藩主になる。武家礼法の小笠原家子孫。古市澄胤の子孫を迎えて小笠原茶道古流を起こす。父は、貞政を石川数正に人質にして徳川家康家臣になったが、数正が豊臣秀吉側に就いた為、親子共々豊臣側になった。貞政、秀吉から一字を賜り秀政と改名。関ケ原では東軍に就く。夏の陣で重傷を負い間もなく死亡。享年47歳。

 

小川祐滋(おがわ すけしげ)(兼々庵)(生年不詳-1605) 古田織部千道安の弟子

伊予の国分城主・小川祐忠の子。関ケ原の時、西軍側に立つが東軍に内応、小早川秀秋に続いて東軍に寝返った。その5年後病死。

 

岡部宣勝(おかべ のぶかつ)(1597‐1668)) 古田織部の高弟。

大坂両度の戦いで戦功有り。大垣藩藩主→播磨龍野藩藩主→高槻藩藩主を歴任し、最後は和泉岸和田藩藩主となる。民政に尽くし善政を敷く。

 

岡村百々之介(おかむら どどのすけ)(生年不詳-1614) 古田織部の弟子

豊臣秀頼に仕える。190石。『古織伝』著者。織部風炉の茶席に招かれ、正客・大野治房、次客に岡村百々之介が務め、三客以降は京の豪商が居並ぶ。大坂冬の陣で討死。

 

織田信秀 (1511‐1552)

織田信長の父。尾張勝幡城城主。後に今川氏の那古野城を奪い城主となる。松平清康と抗争してこれを下し、今川氏と対峙。美濃の斎藤道三と戦うが大敗。松平広忠と戦い、竹千代(後の徳川家康)を人質に取る。西三河を今川に次第に蚕食され、ついに嫡男・信長と美濃の斎藤道三の娘の縁談を纏めて備えとしたが、病没する。享年42歳。

 

織田信長(1534‐1582)

幼名・吉法師。「大うつけ」と呼ばれる。父死後家督を継ぎ、尾張美濃を平定。斎藤道三の娘と結婚。桶狭間の戦い今川義元を倒し、徳川家康と同盟。鉄砲を本格的に戦に導入。破竹の勢いで足利義昭を奉じて上洛戦を敢行、義昭の上洛を成功させる。堺を抑え、伊勢に侵攻、姉川の戦い(対浅井・朝倉連合軍)、比叡山焼き打ち等々各地で戦を展開。また、義昭が信長に叛旗を翻したのでこれを破り追放。室町幕府を滅亡させる。数々の戦功を挙げ、天下統一目前にして本能寺の変明智光秀に討たれる。茶の湯御政道に見られる様に、茶の湯に関心が深く、自身も茶の湯を楽しんでいる。

参考: 「105 平蜘蛛の釜」                              2021(R3).06.25 up

            「106 信長、茶の湯御政道」               2021(R3).06.30 up

            「111 桃山文化5 南蛮貿易(2) 鉄砲」 2021(R3).08.07 up

            「112 桃山文化6 南蛮貿易(3) 影響    2021(R3).08.14 up

            「124 武将の人生(5) 足利将軍家2」  2021(R3).11.13 up

 

織田長益(おだ ながます)(有楽斎(うらくさい))(如庵(じょあん))(1547‐1622)  千利休七哲の一人

父は織田信秀。信長の弟。織田信忠(信長嫡子)の下で甲州征伐、上野国(こうずけのくに)出兵に従軍。本能寺の変の時、明智軍に攻められた二条城を脱出。織田信雄(おだ のぶかつ)の配下になる。小牧・長久手の合戦では徳川家康に助力。関ケ原では東軍側に立つが、その後は大坂城に入る。大坂夏の陣の前、大坂城を出て豊臣側から離脱。京都で茶の湯に専念。茶室如庵を建てる(国宝)。享年75歳。

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

文中、参考として過去に取り上げた項目を提示しておりますが、古いものも有り、目次を繰って見つけるのも大変かと思います。そこで、今開いている項目の右側に「月別アーカイブ欄がありますので、upした年月をクリックして頂ければ、その年の目次が出て参ります。そこからお望みの項目を選んでクリックして頂ければ、辿り着く事が出来ます。

例えば下記の様に

参考  「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」    2021(R3).06.02 up

ならば、2021(R3).06.02の表示ですので、月別アーカイブの2021(54)を選択して頂ければ、2021年upした54項目の目次が出て参ります。

なお、直近のものについては右の欄の「最新記事」をクリックして下さい。

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130 茶色のお茶から緑のお茶へ

昔々のその昔・・・

昔々のその昔、お茶の色は茶色でした。それが今では緑色に代わっています。そこには茶葉の製造方法に大きな変化がありました。

唐の時代、8世紀の頃、茶祖・陸羽(りくう)がその著書『茶経(ちゃきょう)の中で、お茶は滋養や体調回復に良い薬と書いております。その頃の中国の茶は、団茶と言うものでした。

団茶と言うのは、茶葉を蒸してから搗(つ)き固め、それから型に入れて形を整え、日干しして乾燥させて作ったものです。

飲む時は、焙(あぶ)って、飲む量だけ削り取り、臼や薬研(やげん(漢方薬を作る道具))や擂鉢(すりばち)で粉砕して細かい粉茶にし、それから煮出して頂きます。或いは熱湯を注いで頂きます。当時の人達は、粉末茶に塩やネギ、ショウガ、橘皮(きっぴ)、ハッカなどを入れて飲んでいましたが、陸羽は、それらの「薬味」を入れて飲むのは良くないと批判しており、純粋に茶だけを味わう事を推奨しています。この頃のお茶の水(すいしょく)は茶色でした。

団茶には次の様な形のものがあります。

餅茶(びんちゃ or へいちゃ or もちちゃ)  直径20cm位の円盤形で鏡餅の一段目の様な形。

沱茶(とうちゃ or だちゃ)      お饅頭の様な形。或いは瓜や南瓜のような形等。

磚茶(じゅあんちゃ or せんちゃ or とうちゃ or ひちゃ)   煉瓦状の四角い形。

今でも、中国茶は団茶の形で販売されているものが有ります。

 

釜炒り茶

鎌倉時代臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあん  えいさい or ようさい)(1141‐1215)は、南宋へ留学して茶の種を日本に伝えました。

その頃、大陸では上記に述べた様に団茶を粉にしてお茶を飲んでいました。禅宗寺院では清規(しんぎ)という生活習慣のルールがあり、大陸の習慣をそのまま日本に持ち込んでいましたので、禅林でのお茶の飲み方も大陸の遣り方と同じ様にしていたと、思われます。

唐-五代十国-遼(りょう)北宋南宋-金-元と時代が下り、洪武帝(=朱元璋)が元を倒してを打ち立てた時、団茶は転機を迎えます。余りにも高額になった団茶を、洪武帝が禁止したのです。団茶の中でも超高級茶は金2両出しても買えなかったそうです。また、茶商が私腹を肥やし、賄賂がはびこり、政界に腐敗が蔓延したのも禁止の理由でした。(参考:「85  元滅亡と朱元璋 2021(R3).2.18 up)

そこで、団茶の製造に急ブレーキがかかり一時お茶が衰退します。その代りに新たに興きたのが「散茶」と言うお茶でした。散茶は、蒸してから、搗き固める工程を抜かしたもので、茶葉が一枚一枚ばらけているお茶の葉の事を言います。

お茶の葉は、木から摘み取ると直ぐ酸化 (発酵) が始まります。その酸化を止める為に蒸していたのですが、それを釜で炒る方法に変えました。この散茶も浸出液の色は茶系の色でした。

 

隠元禅師、散茶を伝える

江戸幕府の3代将軍・徳川家光の治世の頃、明の禅僧・隠元隆琦(いんげん りゅうき)(1592年―1673年) が1650年に渡来し、日本に明の臨済宗を伝えました。

隠元禅師は京都府宇治市黄檗萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)を開き、黄檗宗という禅宗を開きました。

隠元禅師は日本にインゲン豆普茶料理などを伝え、また、釜炒り法による散茶をも伝えました。散茶が伝わったことにより、お茶が手軽く飲めるようになりました。茶葉を急須に入れて湯呑に注ぐ、今に通ずる茶の淹れ方の始まりです。隠元禅師は煎茶道の開祖でもあります。散茶によるお茶の水色は、やはり焙じ茶の様な茶色でした。

お茶の色が爽やかな緑色系になるのは、江戸時代の中頃、8代将軍・徳川吉宗の頃まで待たねばなりませんでした。

 

永谷宗圓、緑の茶に挑戦

1738年(元文3年)、宇治の農民・永谷宗円(1682-1778)が新たな製茶法「青製煎茶製法」を編み出しました。その頃、身分の高い人達や富裕層の人達は、碾茶(てんちゃ)を抹茶にして飲んでいました。値段が高く、到底庶民の手の届くものではありませんでした。庶民は釜炒り茶の、茶色い煎じ薬の様なお茶を飲んでいました。

永谷宗円は、茶葉の発酵を抑え、豊かな旨味のある、美しく爽やかな緑色の浸出液を求めて、栽培方法を研究しました。干鰯(ほしか)や油粕など窒素や養分の多い肥料を使い、炒る代わりに蒸して乾燥させるなど、苦節15年の工夫を経て、ようやく「青製煎茶製法」を完成させたのです。永谷宗圓は、この方法を独占する事無く、一般に公開しました。そして、江戸の取引先である山本嘉兵衛に卸した所、大いに評判になりました。こうして「宇治の煎茶」は日本を代表するお茶になりました。明治時代になっても工夫が続き、蒸し上がった茶葉を熱い鉄板の上で揉みながら乾かすなどの工程が加わりました。

因みに、永谷宗圓は現在の「永谷園」の祖です。また、山本嘉兵衛は、現在の「山本山」の先祖です。

 

碾茶(てんちゃ)とは

碾茶の碾とは石臼の事です。碾茶とは、石臼で碾(ひ)く為に作られた茶葉の事を言います。つまり、抹茶用の茶葉の事です。

抹茶用の茶葉は、収穫20日くらい前に藁や葦簀(よしず)で覆って光を遮断して育てます。光が当たると苦み成分が出てきてしまいますので、光合成をさせない為です。これを覆い下栽培と言います。玉露もそうして育てますが、覆うタイミングや期間が違います。

(参考: 「11お茶を知る(1) 旨味成分」2020(R2).5.16up 。 「12 お茶を知る(2) 渋味成分」2020(R2).5.19.up)

そうして育てた若葉を摘み、蒸します。蒸して乾燥させます。その工程で、茎などを取り除き、良葉を選んで仕上げたのが碾茶です。揉む事はしません。葉は広がったままで緑色を色濃く残しています。碾茶は、青海苔の様ないい香りがします。

覆い下栽培は安土桃山時代に行われるようになったそうです。覆いに使う藁や葦簀が、今では寒冷紗になり、蒸しや乾燥の作業が機械化されていますが、やっている事は、昔と変わらないそうです。

 

 

余談  『喫茶養生記』による製法

栄西が著した喫茶養生記には、茶の製法が書かれています。

以下の文は、喫茶養生記の上巻「五、採茶様」と、同じく上巻の「六、調茶様」から抜粋したものです。

原文

五、採茶様

茶經曰。雨下不採茶。雖不雨雨又有雲不採。不焙。不蒸。用力弱故也。

六、調茶様

宋朝焙茶様。則朝採卽蒸即焙之。懈倦怠慢之者。不可為事也。焙棚敷紙。紙不燋様。誘火工夫而焙之。不緩不怠。竟夜不眠。夜内可焙畢也。卽盛好瓶。以竹葉堅封瓶口。不令風入内。則經年歳而不損矣

ずいようぶっとび超意訳

5、採茶する方法

(陸羽が)茶經の中で言っております。雨が降っている時は茶摘みをしてはいけない。雨が降らない時でも雲があったならば採茶してはいけない。焙(あぶ)れず、蒸せず、(天気が悪く湿度が多いと)焙る力も弱く蒸す力も弱くなってしまうから。

6、お茶を作る時の方法

宋の国での茶を焙るところを見ていると、則ち、朝に茶摘みをして即刻に蒸し、それから蒸したものを焙ります。怠け者はこの作業をしてはなりません。焙る棚には紙を敷きます。紙が焦(こ)げない様に火を誘導し、工夫してこれを焙ります。緩(ゆる)めず、怠らず、夜っぴて眠らず、夜の内に焙り終えます。終えたら直ぐ好(よ)い瓶(かめ)に盛り入れます。そして、竹の葉でもってしっかりと口に封をし、中に風が入らない様にすれば、歳月が経っても損なわれる事はありません。

 

 

 

 

129 名馬の条件

前項、前前項の「絵で見る茶の湯」の中で、馬の絵をダシにして茶の湯の話へ進めました。

馬と言えば、武士と切っても切れない縁があります。馬の善し悪しは、武士の生死を左右すると言ってもいい程ですので、もう少し馬の話をしてみましょう。

 

三大始祖

婆達がよく知っている名馬と言うのは、大体がサラブレッドの競走馬です。ハイセイコーシンボリルドルフディープインパクトなどは競馬界の一世を風靡した名馬でした。

全てのサラブレッドの父方のご先祖様を辿って行くと、ダーレーアラビアンという名前の馬か、ゴドルフィンアラビアンと言う馬か、バイアリータークと言う馬かの、どれかの馬に行きつくそうです。その三頭はいずれも「アラブ」と言う馬種です。アラビアのベトウィン族が馬を交配させながら管理を徹底し、作り出した馬です。

「アラブ」は、肩までの高さが140~150cmくらいで、耐久性があります。その馬をイギリスなどヨーロッパに連れて来て、速さに特化して選びに選び、300年以上交配を重ねて完成させた馬種がサラブレッドです。血統重視で長年の血縁交配の結果、病気に弱く、骨折し易いと言う宿命を負ってしまっています。

 

速いばかりが名馬では無い

サラブレッドは速さを誇りますが、馬場馬術には不向きです。

馬場馬術や障害物競技では、跳躍力を含めた運動能力全般が求められ、しかも、賢さや勇気や従順さが要求されます。儀典用の馬では賢さや、物事に動じない冷静さ、忍耐強さが必要とされ、見た目の「容姿」や「気品」なども重要なポイントになってきます。

トルクメニスタン原産の「アハルテケ」と言う種類の馬は、乳白色に輝く色です。「黄金の馬」と呼ばれるほど非常に美しい光沢を放つ被毛に覆われており、運動能力と持久力が優れているそうです。この馬は三国志に出て来る「汗血馬(かんけつば)ではないかと考えられています。アハルテケは4,152㎞を84日間で走破したと言う記録があるそうです。「アハルテケ」はトルクメニスタンの国章になっています。

「リピッツァナー」という馬種も、オーストリア王室御用達だったそうで、今では馬場馬術や、馬の集団演技などにその能力を発揮しているそうです。プロイセンでは優秀な軍馬育成牧場を作り、「トラケナー」という馬種を創り出しました。軍馬の必要が無くなった今では馬場馬術用に活躍しています。スペイン産の「アンダルシアン」という馬種も運動能力抜群で従順、馬術の高等演技もこなす品種だそうです。オリンピックの馬術競技には、これらの馬が活躍しています。

 

日本在来馬

日本在来馬はサラブレッドとは見た目が大分違います。どの生息地域の馬も背は低く、体高(肩までの高さ) は大体100cm~135cmの範囲に収まっています。足が太いです。全体的にずんぐりむっくりで、馬体はがっちりしています。力が強く、持久力があり、忍耐強く、従順で農耕や軍馬に向いています。

在来馬としては南部馬、木曽馬などが有名ですが、その外に、北海道の和種馬・いわゆる道産子、対州馬(対馬)、野間馬(今治市野間)、御崎馬(都井岬)、トカラ馬(鹿児島県)、与那国馬(沖縄県与那国島)、宮古馬(沖縄県宮古島)などがあります。

この中で、武士が主に騎乗した馬種と言えば、やはり南部馬か木曽馬でしょう。

源義経は南部駒を最高の馬と褒め讃えています。

明治天皇が愛された御料馬「金華山号」も南部馬です。「金華山号」は賢明で沈着、豪胆な気質を持ち、数々のエピソードを持っています。明治天皇が北陸巡幸の時、或る橋の手前で金華山号が立ち止まり動かなくなったそうです。不審に思い調べてみると橋の一部に朽木があったので、そこを修繕したら金華山号は安心して渡った、と言う逸話があります。また、近衛師団の大演習の時、大砲の音に驚いた馬達が騎兵を振り落としたり、駆け出したりして大混乱に陥ったそうですが、明治天皇がお乗りになった金華山号だけは泰然自若として動かなかった、と言われています。金華山号は公務を130回も務め、死後剥製にされて聖徳記念絵画館に収められているそうです。

けれども残念ながら、南部馬に限らず、在来種はすっかり数を減らしてしまいました。

日清・日露・太平洋戦争など戦争に駆り出されたのもその原因の一つです。それから国策で優秀な軍馬に改良すべく、体格の大きい外国種の馬と掛け合わせ、更に日本の牡馬(ぼば(オス))を去勢してしまいました。これも、数を減らした大きな原因です。この去勢は全国的に行われました。その難を逃れたのは、住民の努力によって、軍部の目の届かない山の奥地に密かに隠された馬と、離島の馬などです。

南部馬は外国産馬と交雑され、純血種が失われてしまいました。今では南部馬と呼ばれる馬は存在しません。

 

木曽馬

何時だったかテレビで聞いた話ですが、木曽の黒駒は重量に耐え、長距離行軍にへこたれず、急発進、急停止、急旋回に俊敏に反応する、と言っておりました。これは武士にとって大変重要な能力です。何しろ、馬上で存分に戦う為には、馬が、乗り手の思う様に瞬時に反応してくれなければなりません。そうでなければ生死に直結します。意のままに動かない様な駄馬に騎乗していては、命が幾つあっても足りません。

山之内一豊の妻が、夫の為に持参金10両を出して名馬を買った、という逸話があります。『仙台より馬売りに参り候』と表現されている事から、これは南部馬だったと推定されますが、馬は命を託すものですから、名馬は喉から手が出るほど欲しいものです。

明治時代以前は、日本には数十万頭の馬がいたそうですが、令和2年の在来馬は、木曽馬や道産子、御崎馬など全種類合わせて1,683頭のみになってしまったそうです。

 

伝説の名馬

赤兎馬(せきとば)

三国志演義に出て来る「赤兎馬」は、名馬中の名馬と言われています。

元は蕫卓(とうたく)の持ち馬でしたが、呂布(りょふ)に与えられます。赤兎馬は手に負えない暴れ馬でしたが、呂布はそれを乗りこなし、数々の武勲を挙げました。呂布曹操(そうそう)に討たれ、赤兎馬曹操の手に渡ります。ところが、赤兎馬を乗りこなせる者がおりません。

その頃、曹操劉備玄徳(りゅうびげんとく)の義兄弟・関羽(かんう)を捕虜にしていました。曹操は、関羽劉備から寝返らせ何とか自分の部下にしようと説得を試みていましたが、関羽は靡(なび)きませんでした。そこで、曹操関羽赤兎馬を贈り、彼の心を掴もうとしました。関羽赤兎馬を受け取ると大いに喜び、早速それに騎乗しました。驚いたことに、赤兎馬呂布以外に人を脊に乗せない馬でしたのに、関羽には大人しく従いました。関羽赤兎馬に跨(またが)ると「赤兎馬は1日に千里を走ると言う。この馬に乗って兄貴(劉備)の所へ行く」と言って走り去ってしまいました。曹操は地団駄踏んで悔しがりました。

この物語は『三国志演義の創作と言われています。けれど、歴史書後漢書三国志にその名前が出てきますので、赤兎馬は実在した馬です。赤兎馬は汗血馬だったと言われており、前述した「アハルテケ」だったのではないかと推察する人も居ます。アハルテケは気難しい馬で、乗り手は一人しか許さず、気に入った人でないと寄せ付けないと言われています。また、赤兎馬は馬個体の名前では無く、馬種の名前だと言う人も居ます。

 

ブケパロス

ブケパロスはアレキサンドロス大王(紀元前356年―紀元前323年)の愛馬です。

ブケパロスは悍馬(かんば(暴れ馬))で誰も乗りこなす人がいませんでした。アレクサンドロス王子は、ブケパロスを観察すると馬が自分の影に怯えているのを知り、影が馬の視界に入らない様に向きを工夫しながら乗りこなしました。これを見た父王ヒリッポス2世は、アレキサンドロス王子の非凡さを知り、恐れ、「そなたは自分の王国を探すがよい」と言った、と伝わっています。

父王は王子に、アリストテレスという最高の学者を家庭教師に付けます。アリストテレスの学識や哲学、帝王学などを生涯にわたって学びながら、アレキサンドロスは父王の跡を継ぎ、マケドニアの王となります。それから小アジア、エジプト、ペルシャ、インドへの一大遠征を行います。その間連戦連勝を続け、征服地はかつて無い様な広大な領地に広がりました。

この大遠征は、世界史上に大きな変化をもたらし、日本にも影響を強く及ぼしました。

例えば、仏像ですが、これはアレキサンドロス大王の賜物と言えるでしょう。それまで、仏教ではお釈迦様の像を作るなどと言う事は、とても畏れ多い事で、誰も成し得ませんでした。インドでは、釈迦の偉大さを仏足や法輪という車輪の様な形をもって表していました。ところが、大王は、アリストテレスの教えに従って、征服地の文化融合を図りました。遠征軍に兵士のみならず、技師や彫刻家、詩人や文化人などを連れて行ったのです。

ギリシャの彫刻家達はパキスタン西北部にあるガンダーラに達した時、仏教の話を知り、早速、ギリシャ神話の神々を彫る様に仏像を彫り始めました。もともとガンダーラには西方民族が住んでいましたので、そう言う文化的土壌がありました。ガンダーラの仏像はインドに広まり、中国を経て日本にやって来ました。

また、ギリシャではコスモ(宇宙・秩序)の考え方があり、一つ一つの独立したものが一つに連合して秩序を保つのを理想の世界としていました。一つ一つの都市国家が中央に集まって平和な世界を作る姿を、コスモの複数形コスモスとし、それに似ているコスモスの花が喜ばれました。コスモスは菊の花に通じ、菊の花は高貴な花としてペルシャ帝国に伝わりました。菊の図柄は中国を経て日本に入り、やがて皇室の花として定着します。

このアレキサンドロス大王の遠征に、終始付き従っていたのがブケパロスです。ブケパロスの馬はアハルテケだったと言われています。

 

余談  馬の色

馬の色には次の様なものが有ります。

鹿毛(かげ)                     赤茶色、鬣(たてがみ)や尾や四肢は褐色や黒。

黒鹿毛(くろかげ)           褐色。鬣や尻尾や足が黒っぽい。

青鹿毛(あおかげ)         青光りする程黒に近い。目や鼻の周りが褐色。

青毛(あおげ)                  全身真っ黒。季節により茶色になる事もある。

栗毛(くりげ)                   黄茶色。鬣や尾は濃い色から淡白色まで有り。

尾花栗毛(おばなくりげ) 栗毛の鬣が白く透き通った馬。

栃栗毛(とちくりげ)          濃い茶色。鬣・尾も茶色。四肢の先は白い。

芦毛(あしげ)                    灰色や茶色に生まれ成長するにつれ白くなる。

佐目毛(さめげ)                象牙色。ほんのりピンク。目は青。

河原毛(かわらげ)             クリーム色、亜麻色、淡い黄褐色。

薄墨毛(うすずみげ)           灰色っぽい色。薄墨色。

月毛 (つきげ)                    クリーム色、淡い黄褐色、目は茶色。

白毛 (しろげ)                    生まれた時から全身白。目は茶色や黒。稀に青。

粕毛 (かすげ)                     白っぽい茶色。所々に白が混ざる。

白墨毛 (しろすみげ)             白茶色に灰鼠色を混ぜた様な色。鬣や尾は茶系。

駁毛(ぶちげ)                       茶色と白、褐色と白、黒と白など色がブチている。

 

余談  アレキサンドロスの名前

アレキサンドロスはギリシャ語読みの名前です。ドイツ語読みではアレサンダー とかアレサンダーと読みます。アラビア語読みやペルシャ語読みではイスカンダルと読みます。なんだか、宇宙戦艦ヤマトイスカンダルを連想してしまいませんか。

 

年の瀬も押し詰まり、あと数日で来年になってしまいます。

締めに、干支の今年の牛の話や、来年の虎の話になれば良かったのですが、馬の話になってしまいました。これにガッカリしないで、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

どうぞ、よいお年をお迎え下さいませ。

 

128 絵で見る茶の湯(2) 調馬図

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『調馬図』

滋賀県多賀大社(たがたいしゃ)という神社があります。そこに重要文化財の六曲一双の屏風があります。

『調馬図・厩馬図(ちょうばず・きゅうばず)』と言って、左隻に厩舎に繋がれている六頭の馬が描かれており、右隻には騎乗して馬を走らせている侍とそれを部屋から眺めているお殿様が描かれています。その場面にお茶を点てている宗匠が居ますので、ちょいと取り上げてみました。

上図がその部分です。下手を顧みず、再び婆が模写しました (お笑い下さい)。

お殿様が八畳間の縁側近くにお座りになって、馬場を走る家来達の様子をご覧になっています。片膝立を崩して座り、脇息(きょうそく)にもたれかかり、如何にも寛(くつろ)いでいる様子。傍(かたわ)らには太刀持ちの小姓が侍(はべ)り、もう一人の小姓が「あれを御覧(ごろう)じ下さいませ」とでも言いたげに、お殿様のご機嫌を取っています。

次の間に家臣達が控えて座っています。小姓が一人、手に茶碗を持って歩いています。家臣が控えている同じ部屋の、お殿様の視野に入らないような襖の陰に、茶の宗匠らしい人物が居ます。宗匠は後ろ向きに座ってお点前の仕舞い支度をしています。

何故、仕舞い支度だと分かるのかと言いますと、この場面でお茶を召し上がるのはお殿様お一人です。家臣にはお茶を供さないでしょう。お殿様には、宗匠が点てたお茶を小姓が既に運んでいますので、その後に次々と点てる事は無いと判断しました。

宗匠の手元を見ると、茶碗の中に茶筅(ちゃせん)を立てて入れて、何やらしています。これは茶筅濯ぎと言って、仕舞い茶碗に新しい水を汲み、その中に汚れた茶筅を入れてシャカシャカと振るい、濯(すす)いでいる所と、婆は見ました。

宗匠が点てたお茶は薄茶です。ネット画像をかなり拡大しないと分からないのですが、画像をよく見ると、台子の前に棗(なつめ)が置いてあり、茶杓(ちゃしやく)がその蓋の上に載せてあります。棗を使う時は、薄茶を入れると決まっています。(茶入れを使う時は濃茶を点てると決まっています。)

 

道具立て

宗匠が点てているお茶の道具立ては、真台子(しんのだいす)の様です。

黒漆塗りの地板にこれも黒漆塗りの4本の支柱を立てています。その上に天井板がある筈ですが、天井板の部分は建物の屋根の下に隠れていて見えません。

風炉はどうやら三本足のついた朝鮮風炉鬼面風炉鐶付きが無いので多分朝鮮風炉でしょう。茶釜と風炉は、釜の底面と風炉の口径のサイズがぴったりと一致している作りの様です。

杓立(しゃくたて)水指(みずさし)は、焦げ茶色の様な色をしています。なので、背景の黒漆の台子にかなり融け込んでいます。良く見ないと分からないのですが、二つは同じ材質の様です。多分、備前などの陶器では無く、唐銅(からがね)作りではないかと・・・

杓立と言うのは、花瓶の様な形をした物で、柄杓を挿しておくものです。水指は、お水を入れておく器です。杓立・水指・蓋置を同じ材質でおなじ意匠で作ったものを皆具(かいぐ)と言って、格付けが高いお点前に使います。皆具の格付け順位は陶器製<磁器製<唐銅製となります。

杓立の前に、丸いお皿の上に白い小さなものが有ります。恐らく、茶巾台と茶巾でしょう。茶巾と言うのは細い麻布で出来ていて、布巾と同じ役割をするものです。

これ等の道具立てを見ると、式正織部流の真台子を使って行うお点前とそっくりです。

 

直進・直角

お小姓が持っている茶碗は黒い色をした茶碗です。侘茶でよく用いる黒楽茶碗に似ています。茶碗台はありません。真台子を使っての「侘び点て」の様です。

さて、お小姓。前項で取り上げた「厩図」のお小姓はしずしずと歩んでいましたが、「調馬図」のお小姓は、足首が出る短めの袴で、結構大股で歩いています。

あらあら、ちょいと待ちなさい。お小姓さん、真っ直ぐ行ったら家来の前に行ってしまうでしょうに。お殿様を差し置いて、先に家来へお茶を供したら「無礼者!」って手打ちにされ・・・いやいや、これは武士の作法。進む時は畳幅の真ん中を直進し、曲がる時は直角に曲がるのが決まりです。敷居を斜めに跨(また)いだり、畳を斜めに横切る事はありません。式正織部流の作法もそうしています。お小姓が進行方向へまっすぐ進み、それから、くるっと90度曲がって敷居を跨ぎ、其の儘進むと丁度具合よく殿様の御前に出ます。

 

帯刀

この建物の中にいる武士達は全員が帯刀しています。羽織や衣服に隠れて刀を差しているかどうか分からない御仁もいますが、原則刀は常に腰に差しています。「敵襲」「謀叛」「暗殺」等々いつ何時、緊急事態が発生しないとも限りません。お殿様が寛いでいる時でも、家来は常住武備です。

千利休が大成した侘茶の茶室では、刀を腰に差していない状態で席に臨みますが、城中では誰も無腰にはなりません。これと同じで、武家茶の、書院の式正のお茶では、刀は差したまま行います。客も差したままです。(現代は違います。刀の替わりに扇子を差します。)

従って、侘茶では袱紗を左腰に付けますが、武家茶の式正織部流では袱紗を右腰に付けます。左腰には刀。左腰に手をやると言う事は、刀に手を掛けると同じ動作です。その様に誤解されたら、忽ち修羅場に成り兼ねません。なので、左腰には袱紗を付けないのです。

 

調馬図から見える茶の湯

お茶のお点前が客の目の前で行われる様になったのは、恐らくこの調馬図が描かれた頃かと思われます。この絵の中の宗匠は、開け放たれた襖の陰という半ば裏、半ば表の中途半端な位置に居ます。唐物の道具立てでお茶を点てながら、用いる茶碗は天目茶碗や青磁の茶碗では無く、侘茶で用いる和物の黒茶碗を使っています。これはお茶のお点前が陰点てから表点て(婆の造語です)に移行する過渡期のスタイルかも知れません。

お茶は、元来お茶を飲む為だけのもの。お点前の手順も所作も関係ありません。ですから、『厩図』の様に、お茶を水屋(みずや(=台所))か庫裏(くり(=台所))から運んできて供する遣り方になっています。

ところが、侘茶が発達し始め、狭い部屋で親しい人とお茶を飲むとなると、それなら一層の事お茶を点てる時間の流れを共に楽しもう、と言う事になります。「飲む」事が主だったお茶に「見せる」要素が加わってきます。パフォーマンス度が上がり、動きの手順、所作の美しさ、お道具の配置の美的センスが追及され、より洗練された「お点前」が現れる様になります。

と、まあ、ここまでは陰点てから表点てへの、一本筋の流れの様に書きました。が、実はそれ程単純な流れでは無く、幾筋もの流れが並行したり絡み合ったりしていて、一概にこれはこうだと断定できません。室町幕府8代将軍・足利義政が東山に山荘を築き、趣味三昧に耽(ふけ)っていた頃は既に、侘茶の原形が出来ていました。

書院の走りと言われる東山銀閣の同仁斎は、非常に簡素な室内です。付け書院に違い棚のある四畳半です。将軍の居間としては金碧障壁画も無く、建具の金具も特に無く、内装そのものは質素で、これをして「侘び」と称するのかも知れません。けれど、義政がそこで行ったであろうお茶は、後世に国宝となる様な超一級の品々を用いて行っていました。それらのお道具は金銀極彩色の対極に有り、静謐で地味な雰囲気を湛(たた)えていますが、これぞ贅美を尽くしたお道具類で、うらぶれて侘しく、冷え枯れて寂しいものでは決してないのです。大陸の物であれ日本の物であれ、それらは時代が渾身の力を込めて作った傑作の芸術作品群です。

清規(しんぎ)、闘茶、淋汗茶の湯、書院のお茶、草庵のお茶、縁側のお茶など多彩な形のお茶がありますが、やがて「侘茶」一つに集約されて行きます。お茶と言えば侘茶。侘茶以外は考えられない、という世の中になって来ています。

式正織部流は、古田織部がそうであったように、利休の「侘茶」の影響を受けつつも、なお独自の道を歩んでいると言えましょう。

 

毒殺回避

陰点てから表点てに代わる事によって、詰り、お点前を人の視線に晒す事によって、パフォーマンス性に磨きが掛かると同時に、毒殺の危険が軽減される、という利点も生まれました。

式正織部流に「六曲屏風点て」というお点前があります。毒を盛られない様に屏風で囲って鍵を掛けて置くもので、お点前開始の時に鍵を開けて使用します。歌舞伎で伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』の乳母の政岡が、命を狙われている幼君・鶴千代君の為に、この六曲屏風を使ってご飯を炊く場面があります。

お茶は、時には毒殺などの手段に使われる事もありました。六曲屏風に限らず、毒殺を防ぐ手段に、仕覆(しふくor(仕服))の緒を華やかに結ぶ方法を採るようになりました。棗や茶入れに着せる仕覆(袋状のカバー)の緒(閉じ紐)を、梅や桜、蝶などの形に結びます。当事者以外の人が一度ほどいたら、元に戻せなくなるような複雑な結び方です。封印代わりです。

 

 

余談  お道具説明

茶筅・茶筌(ちゃせん)  

竹で出来た物で、湯に入れた抹茶を掻き混ぜる道具。茶筅は一般名詞。茶筌は和歌山県生駒市高山町で生産された物に対して限定的に使います。

仕舞い茶碗

仕舞い茶碗は全てのお点前が終わった後に、茶筅濯ぎの為にだけ使う茶碗です。仕舞茶碗はお客様にお出ししません。

茶巾台・茶筅

茶巾台と茶筅台は同じものです。侘茶では茶筅を畳に直に置き、茶巾は釜蓋の上に直接置いたりしますが、式正の茶では、清潔を保つ為、或いは漆塗りのお道具などを湿気で痛めない為、台子点てでは陶器製の小皿の上に茶巾や茶筅を載せて使います。

朝鮮風炉と鬼面風炉  

朝鮮風炉も鬼面風炉もいわゆる風炉の一種で、足が三本あります(→鼎(かなえ)。鼎立(ていりつ))。

鬼面風炉は鐶付きと言って、持ち運びに便利なように両脇に金具の輪っか(=鐶)が付いています。その輪っかが通っている穴があり、その穴に鬼の顔や、龍などの装飾が施されています。それで鬼面風炉と呼びます。

真台子

真台子とはお点前の中でも最も格式の高いお点前です。式正織部流のお稽古では入門から奥伝まで次のような流れになります。

平点前(風炉・炉それぞれに普通の点て方の外に、太閤点てや畳紙点てなど幾種類もの点て方があります。) → 棚点前(四方棚(よほうだな)・二重棚・三重棚・高麗卓(こうらいじょく)等々それぞれ風炉点てと炉点てがあります。) → 長板(風炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 袋棚(炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 竹台子(風炉を使用・普通点てと天目点て等々) → 真台子(風炉を使用・主に天目点てで、一天目から六天目迄あります。六天目は秘伝。献茶様式や正月用の歳旦点て六曲屏風点てなども真台子を使って行われます。) 特殊なものに弓箭台子(きゅうせんだいす)や、鎧櫃(よろいびつ)を使っての点て方(立礼)も有ります。全て式正で行い、茶碗台を使います。

 

127 絵で見る茶の湯(1) 厩図

何時の時代でも何々自慢と言う者はいるもので、武士であれば先ず自慢するのが「馬」。刀剣自慢も「馬」に劣らずおりますが、絵画に描かれているのは圧倒的に「馬」です。厩(うまや)図屏風は数多く描かれています。神社にある「絵馬」も馬ですし、加茂神社の流鏑馬(やぶさめ)神事も「馬」抜きには語れません。

 

厩図屏風(うまやず びょうぶ)

室町時代の頃、武士達は自慢の馬を厩(うまや)に連れて来て集い、馬の披露かたがた社交の場にしていました。今で言うなら、馬主クラブのクラブハウスの様なものでしょうか。

下図は、室町時代に描かれた『と言う六曲一双の左隻の、その一部分を婆が写し取ったものです。本物は東京国立博物館に収蔵されていて、重要文化財になっています。拙い絵で申し訳ないですが、話の都合上、載せました。

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馬とお茶。この絵の何処にその繋がりが有るかと申しますと、一番右端に居る前髪姿のお小姓に注目して下さい。

彼は、躓(つまず)きそうなほど袴の裾をずるずる引いて、畳廊下をしずしずと歩んでいます。肩衣を着て、美しく装った彼は、両手に天目茶碗台を捧げ持って、お客様にお茶を運ぼうとしています。茶碗台の上にはお茶碗が載っています。お茶碗の縁が二重線で描かれているので、この茶碗は覆輪を持つ天目茶碗だと分かります。

足元に、小姓の方に手を伸ばして寄って来る猿が居ます。これから小姓に抱き着こうとしているのか、悪戯しようとしているのか、赤いちゃんちゃんこを着た猿は無邪気に「土足」で廊下に上っています。えっ? 何でここに猿? 檻に入れておかなければいけないじゃないの。

いやいや、御心配なく。猿は日枝神社のお使い、馬の守り神です。それ故、猿は厩に無くてはならぬ動物で、武士の家では大切にされています。牧谿猿猴(えんこうず)をはじめ長谷川等伯狩野山雪、雪村周継、狩野興以(かのうこうい)などなど、名だたる絵師が猿を絵にしています。『猿猴捉月(えんこうそくげつ)』の戒めを込めての意も有りますが、もっと単純に、馬を大切にする→馬の守護神は猿→猿の絵を飾る→という流れで、猿の絵は武士の間で持て囃されておりました。上記の様な有名な絵師の作品ばかりでなく、無名の絵師達が世の需要に応えて数多くの猿絵を描いております。

それにしても、猿に跳びかかられたら、天目茶碗を落してしまうじゃないの。危ないねぇ。天目茶碗って舶来物で、高いのよ。なんで、こんな厩で天目茶碗でお茶を出すの。もっと安物でお茶を出したっていいのに。それとも、この館の主人は、割れても気にしない程の財力を持っている人物なのかしら。客人は天目茶碗に相応しい程の身分の高い人なのかしら。

 

茶室無しの茶の湯

第一、厩舎(きゅうしゃ)でお茶とは何事ですか! お茶は茶室で頂くものです。こんな、むさい所で・・・失礼、立派な厩で、しかも、馬房続きの廊下で、臭くありませんか? 馬糞や尿の臭いとか、藁の臭いとか・・・普通ならそこで飲み食いするなんて、耐えられない筈ですが・・・あれ、まぁ! 気が付きませんでした。この厩、見れば見る程立派ですね。まるで御殿みたいです。(全体像を見るには東京国立博物館所蔵の「厩図」を検索してみて下さい。)第一、屋根が檜皮葺(ひわだぶき)。馬房は厚い板敷き。分厚い板敷きの馬房は清潔そのもので、藁屑や馬糞一つも落ちていません。現代競馬場の厩舎は、コンクリート打ちの地面に直接藁を敷いて馬房としていますが、時代が違えば景色も変わるようで・・・

庭に石を組み、泉水を巡らし、右隻の厩には松を、左隻の厩には桜を配し、鶴亀が遊び、これは大本山寺院の庭か、将軍家の館かと思われるような造り。こういう場所に、自慢の馬を引いて来て、見せびらかして、日がな一日将棋や双六に打ち興じるなんて、中々優雅です。と考えると、この厩は馬の住居では無く、駐車場ならぬ来客用の駐馬場の様です。

 

お茶は陰で点てるもの?

ところで、この画面には茶室がありません。水屋らしきものも見当たりません。別棟でお茶を点てたものを、お小姓が庭伝いに歩いて廊下に上がって運んだ様子でもなさそうです。多分、廊下伝いに奥の部屋から運んできたのでしょう。お茶を点てた亭主は何処に居るのやら。

「お客人、ここで存分に寛(くつろ)いで楽しんでいかれよ。お茶でも進ぜよう」と、館の主は顔を出さず、訪ねて来た人達の気ままにさせているのでしょうか。それとも、「お茶を持て参れ」と小姓に命じ、自分は客人と一緒になって将棋や双六に興じているのか・・・

ただ、事情はどうであれ、お茶は陰点(かげだて)(=お客様の見えない所(別室など)でお茶を点てる事)されている事は確かです。

当時の茶の湯は、客人の前でお点前をお見せしながらお茶を振る舞うのではなく、別室でお茶を点てて出していたようです。多賀大社の『調馬図』も襖の陰で茶頭がお茶を点ておりますし、淋汗茶の湯の絵図を見てもお茶は別室で点てて客人に運んでいます。思うに、水屋は今でいう台所。お持て成しの楽屋裏は見せないのがスマートな遣り方だったのかも知れません。

 

茶の湯にも色々ありまして

楽屋裏を見せない茶の湯に対して、客人の目の前で茶を点てるやり方も有ったようです。

東山の銀閣寺境内に同仁斎という四畳半の書院があります。且つてそこに炉が切られており、そこで足利義政がお茶を嗜んでいた、と言われています。少人数の友と炉を囲みながらお茶を点てる・・・そんな光景が繰り広げられていた事でしょう。

火と水が部屋の中にあれば、台所で無くてもお茶は点てられます。その為に炉があります。火と水の設備が無かった場合、「風炉」という火鉢の様な道具を使って茶の湯を愉しみます。

鎌倉時代から武士の嗜(たしな)みとしてきた茶の湯。初期には禅宗寺院で行われていた清規(しんぎ)に沿っての作法が行われてきましたが、次第に様々に変化してきました。

『厩図』で描かれているのは茶室のお茶ではありません。書院のお茶でもありません。むろん闘茶でもありません。縁側のお茶です。気楽なお茶です。この絵を見ると、こういうお茶もあったのかと、知る事が出来ます。

当時、抹茶のお値段は高かっただろうと思われます。その高いお茶を使ってお持て成しを受けている侍達。きっといい気分になった事でしょう。極上のワインを振る舞われたみたいに。

 

厩図の人物像は

厩図に登場する人物達はどういう人達なのでしょう。右端に描かれている馬具掛けを見ると、馬の鐙(あぶみ)や、房の付いた胸飾り(胸繋(むながい))や尻飾り(鞦(しりがい))などから、かなり偉い侍の物の様に見受けます。鞍の前側(前輪(まえわ))に武田菱の紋が付いていますので、武田氏の物と分かります。武田信玄? いえ、信玄は上洛していませんから、信玄ではないでしょう。武田氏は、甲斐武田氏の外に京都武田氏、安芸武田氏、若狭武田氏と幾つも流に分かれており、いずれも清和源氏の流れを汲みます。ついでながら、茶の湯の大家・武野紹鴎(たけのじょうおう)も若狭武田氏の出身です。厩図の登場人物の中に武野紹鴎がいるかと言うと、彼は、父が武士を止めて商人になったのに従っているので、この場面に馬に乗って登場する事はありますまい。

将棋をしているお坊様は、後ろ襟を高々と三角に上げているので、大僧正様かしら? 。 彼等の着ている衣服、烏帽子の形等々から推察しますと、この厩の縁側に集う面々は、それ相当のエライ人達の様です。寵童や従者も侍(はべ)っています。

お茶を運ぶ小姓は、奥の水屋と厩を何度も往復して、この人達全員にお茶を運ぶのでしょうか。いやはや、大変ですね。ご苦労様です。

 

 

余談  猿猴捉月(えんこうそくげつ)

猿猴は猿の事です。捉月とは月を捉(とら)えると言う事です。猿猴が月を取る、と言う意味で、禅の教えの一つです。

人間界で暮らしていた猿が、或る月夜の時に井戸を覗いてみました。井戸にはお月様が映っていました。「大変だ、お月様が井戸に落っこちている!」と思い、500の猿を集めてお月様救出作戦を開始します。互いの手を握り合い、井戸の中のお月様に手を伸ばしますが・・・

木の枝が折れて、猿全員が井戸の中に落ちてしまい、死んでしまいました。

猿猴捉月』とは、人間の愚かさを戒め、実力不相応な望みや欲望を持つと身を亡ぼすという教えです。

 

126 武将の人生(7) 書状(手紙)

近頃では、ペンを取って便箋に手紙を書く、と言う行為はすっかり廃(すた)れてしまっています。スマホに顔文字や記号を駆使して伝えるのが今の流行ですが、婆の若い頃は、遠くにいる相手に伝えるのは固定電話や手紙が主流。少しでも良い印象を与えようと、言葉遣いや筆跡の美しさに拘(こだわ)ったものです。それはさて置き、ここで紹介するのは武将の書状(手紙)です。

書状には人柄や人生が滲み出ますので、なかなか興味深いものが有ります。

この項で扱うのは、丹羽長秀  豊臣秀吉  です。

 

丹羽長秀   (1535-1585)

長秀より秀吉宛ての書状(遺書)

(わずら)いの儀二ついて、度々仰せ下さるるの趣(おもむき)、承り届き候。先書に申し上げ候ごとく、煩(わずらい)(つい)に験(げん)これなきにつきて、罷上(まかりのぼ)り候事、遠慮いたし候。殊に五三日(ごさんにち)以前は、此の頃罷上るべしと申し上げ候へ共、二三日いよいよおもり、枕もいさヽかあがらず候条、猶(なお)五三日見合わせ、路次にて相果て候とも罷上るべきと存じ候。誠に日来は、自余(じよ)に相替わり御目にかけられ、いか程の国をも仰せ付けられ候ところ、御用にも立ち候はで口惜しく候へ共、それもはや是非に及ばず候。跡目の儀は、せがれ共、ならびに家中の者共などをも御覧じ合わされ、其れに随(したが)って仰せ付けられ候て下さるべく候。此の式如何に候へ共、あらみ藤四郎の脇差、大かうの刀、市絵、進上仕り候。我等と思召候様こと存じ候。委細、成田弥左衛門、長塚藤兵衛申し上げるべく候。恐惶(きょうこう)

   卯月十四日             惟住(これずみ)越前守長秀

秀吉様

  参る人々御中

(ずいよう意訳)

私の病気の事について、度々ご心配下さり周りの方々にお訊ね下さっているご様子を、伺って知っております。前の書状で申し上げました様に、病気はついに薬効の験が無く、参上して秀吉様にお目にかかるのを遠慮いたします。殊に5~3日以前は、参上いたしますと申し上げましたが、2~3日いよいよ病が重くなり、枕も上げられない状態になりました。なお、5~3日見合わせ休んでから、途中で死んでもいいから罷り上るべきと思います。誠に今までは、身に余る程にお目にかけて頂き、どのような大国の領地をも仰せ付けられて参りましたのに、お役に立てず、悔しく思いますが、それももはや致し方ない事でございます。私が亡くなった後の跡目につきましては、息子共、並びに家臣の者達などをご覧になって、秀吉様のご判断に従って差配して下さいませ。この式、どのようになりましょうとも、新見藤四郎の脇差、大剛の刀、市絵を秀吉様に進上致します。私(の形見)と思って下さいませ。詳しい事は成田弥左衛門、長塚藤兵衛が申し上げます。   恐惶(謹言)

  卯月14日             惟住越前守長秀

秀吉様

  お傍に仕える皆々様御中

 

この書状を書いた二日後、長秀は長い間の腹の激痛に耐えかねて、ついに自ら腹に刀を当て(切腹。但し介錯はせず、しばらく存命)、病巣を取り出したそうです。病名は積聚(しゃくじゅ)といって、寄生虫(回虫)だったそうです。他にも胃癌説が有力です。胆石説もあります。長い間、激痛に苦しめられた長秀は、取り出した病巣を秀吉に送ったそうです。それは石亀の様に硬く、鳥のような嘴(くちばし)を持った白い塊だったとか・・

 

長秀と秀吉の関係

幼名は万千代。丹羽長秀。羽柴筑前守長秀。惟住(これずみ)長秀。あだ名は、鬼五郎左(おにごろうざ)米五郎左(こめごろうざ)。

秀吉が天下を手にする時には、清須会議で秀吉の為に動き、それを実現しました。一方秀吉は長秀を父の様にも思って何くれとなく気を使い、そして、全幅の信頼を置いて頼っていました。が、それは秀吉の本心では無い、と婆は深く疑っています。信頼していたのではなく、利用していただけなのだと。これは婆の個人的な意見です。以下は婆の想像です。

 

秀吉の丹羽長秀対策

信長亡き後、信長の二人の遺臣・丹羽長秀柴田勝家。信長の跡を襲った秀吉にとって、自分の真の政権を樹立するには二人の信長の遺臣は邪魔な存在です。秀吉は、先ず柴田勝家を攻め滅ぼしました。残る一人の長秀をどう料理するか・・・丹羽長秀は温厚で思慮深く、人望があり、しかも勇猛果敢。信長や秀吉、家康からも絶大な信頼を得ていた人物で、安土城築城の総奉行を務める程の有能な人物。その彼を追い落とすにはどうすればよいのか。

秀吉の立場に立って考えてみると、一番の上策は「褒め殺し」です。

「その方は儂の身内と思っている。どうだ、儂の「羽柴」の名前を上げよう」

「そちは今まで戦で敗けた事が無い。だから是非とも今度の大事な戦に出陣して貰いたい」

秀吉は他の大名にも、これはと思う大名に「羽柴」の姓を与えています。けれども、丹羽長秀にとって「羽柴」には特別の想いがあります。上から目線で「羽柴」の名前を授与して長秀の誇りを奪い、丹羽軍を激戦地の真っ只中に次々と投入して消耗させて行く秀吉の戦略は、長秀の身心を蝕んで行ったに違いありません。賤ケ岳の戦いからは、病気で出陣できず、嫡男の長重(12歳)が父名代で出陣します。小牧長久手の戦いも、越中佐々成政討伐戦も長重の出陣です。秀吉にとって、長秀は既に「役立たず」の域に入っていました。

 

加賀百万石の誕生

秀吉は長秀に何くれと見舞いの品を届けさせたり、優しい言葉を掛けたりしていましたが、

1585年(天正13年4月16日)に長秀が自害しました。嫡男の長重が14歳でその家督を継ぎます。が、その同じ年、秀吉は、越中佐々成政攻撃中に、丹羽家家臣の中に成政に内通した者が居たと疑いをかけ、丹羽長重から越前国加賀国を没収し、更にその2年後には若狭国を召し上げて、松任(現白山市)4万石にまで落としてしまいます。そして、丹羽家から没収した越前・加賀・若狭の123万石を秀吉は、竹馬の友とも言うべき前田利家に与えます。前田の加賀百万石はこうして生まれました。減封されると言う事は、大量の失業者が出る事を意味します。主家没落で職を失った家臣の中に、上田重安(宗箇)が居ます。

上田重安は通称佐太郎。出家して宗箇と名乗ります。千利休に学び、古田織部の弟子となり、武家茶の上田宗箇流の流祖となります。丹羽家から放出された有能な家臣達は秀吉に抱えられる事になります。秀吉は丹羽家から土地と人材を奪いました。

その後、長重は関ケ原の合戦で西軍側に就き敗北。改易され、牢人になります。彼は地道に努力を重ねて、ついには陸奥白川藩10万石の大名にまで復帰します。

 

豊臣秀吉  (1537-1598)

豊臣秀吉より秀頼宛の手紙

文給候御うれしくおもひまいらせ候 昨日も状をもて申入候ごとく こヽもとふしん申つけ候に 仍存(じょうぞん)ながら 不申候 やがてさいまつに参候て可申候 そのときくちをすい申まいらせ候 たれたれにもすこしも御すわせ候まじく候 そなたの事こなたへ一だんとよく見え申候 かへすかへす御ゆかしさ申候 御かかさまへも文にて可申候へとも 御心もて給候へく候

めでたくかしく

   十二月二日    秀吉  (花押)

                  秀よりさま        とヽ

 

(ずいようぶっ飛び意訳)

お手紙有難う。昨日もお手紙でお知らせした様に、私は(伏見城)普請を申し付けています。だから(仍)そういう事があ(存)るので(あなたに会って)お話も出来ません。やがて、歳末にそちらへ参り、お話ししようと思います。その時キスしたいです。誰にも誰にも絶対にキスさせてはいけません。あなたの事、私には一段と可愛く見えます。返す返すあなたがゆかしく思えています。お母様(おかかさま→淀君)へも文で申し渡しますが、あなたも心してください (あなたも用心してかか様にもキスをさせてはなりません。あなたは私だけのものですから、の意か?)。

めでたく かしく

   十二月二日   秀吉(花押)

     秀頼さま      父

 

この書状は秀吉が62歳の時、5歳の秀頼に宛てたものです。62歳と言えば、秀吉の死の前年です。いずれも数え年なので、秀頼は満年齢で言うと4歳。年取ってから出来た子なので、目に入れても痛くないような溺愛ぶりが目に浮かびます。微笑ましい限りの文面ですが、地位も富も天下も思いのままに手に入れた秀吉も、子供だけは思い通りになりませんでした。正に、秀吉の人生の集大成は子供にかかっていた、と申せましょう。

秀吉は若い頃「猿」と呼ばれ、美男とは言い難い面相だったようです。

ルイス・フロイスの手記によれば、『身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった、目が飛び出しており・・・』とあり、朝鮮使節の記録では、『秀吉は顔が小さく色黒で猿に似ている』とあります。信長からは「禿鼠」だの「六つめ」とも呼ばれていました。身長はおそらく140㎝位だったと言います。忖度抜きの外国人の観察は、信じていいように思います。

一方、秀頼の成人した様子は、身長180cmの偉丈夫。立派で品があり、見るからに君子然としている秀頼に、家康は、警戒を一層強めたと言われています。

父と子で、これほど違う外見であっても、秀吉は一途に秀頼を我が子と思っていました。と言うか、自分の血を受け継いでいようがいまいが、憧れの「お市様」の血を引く茶々が生んだ子ならば、種は誰であれ、もうそれだけで満足だったのではないでしょうか。「お市」は主君の妹君で絶世の美女。いくら秀吉が懇望しても、普通に考えれば、家臣の「猿」と呼ばれる男の側室(既に秀吉には正室の寧々がいたので側室のポストしか空いていないと言う事情がありました。)に成る筈もありません。ましてや、「お市様」の娘・茶々ならば、父母を殺した「猿」の閨所(ねや)に入るなど、悍(おぞ)ましい限りと思う筈ですが・・・秀吉は、あらゆる手を尽くして不可能を可能にし、茶々を手に入れました。

昔は、側室が生んだ子は全て正室の子と遇していました。正室の子ならば、秀吉の子でもあります。それに、秀頼を我が子では無い、と否定すれば、養子の秀次を殺害した今となっては、豊臣政権は秀吉一代で滅びる事になります。何としてもそれは避けなければならず、天下大乱を招かない為にも、又、自分が打ち立てた事業の後継者を保護する為にも、秀頼は失ってはならない掌中の珠でした。

彼は、二人の親子関係を揶揄するような落書に激昂し、犯人を探し出して関連した人達も含めて老若男女70人を磔にし、さらに100人を超える人達を処罰しました。異常なまでの執念で残酷な処刑をしたのは、秀吉の心の奥底に潜む黒い琴線に触れたからだと、婆は見ています。

 

 

余談  書状の読み方

昔の紙は和紙で、紙を漉くのに手間暇がかかり、大変貴重な物でした。そこで、書状などでは特殊な書き方をしていました。普通は縦書きで右から左へ文面が移って行きますが、書き切れなくなって紙が足りなくなった場合、元に戻って、最初に書き出した文章の間に書いて行きます。詰り、行間に書き綴って行きます。それでも、書き終わらない時は、最初の文章の出だしの前の開いた空間に、返し書きをします。形としては下記の様になります。番号は読む順番です。

  7       〇〇〇・・・・ (返し書き)

  8       〇〇〇・・・・ (返し書き)

  1   〇〇〇(以下略)・・・・ (本文書き出し。一行目)

  4  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字位上から書く。文字は小さめ)

  2   〇〇〇(以下略)・・・・ (二行目)

  5  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)

  3   〇〇〇(以下略)・・・・ (三行目)

  6  〇〇〇(以下略)・・・・・・・・ (折り返しは一文字上から書く。文字は小さめ)

  9        恐惶謹言  or  かしくなど                          

       10   月日

  11          署名(花押)

  12    宛名

 

 

余談  書状の記号

書状では、良く使われる言葉は記号化されています。

例えば「申す」は英語の「P」に似た文字を使います。また、「申し候」は英語の「P」と平仮名の「し」が合体した様な文字です。「P」の先っぽが少し右に丸まった様な形です。筆が走って早い時には、チョンと点が棒にくっついたようなものもあれば、異様に短く、文字のハネにしか見えない場合もあります。「し」と読んだら「候」だったなんて事も有ります。「恐惶謹言」等も、草書を越えてもはや記号化しており、一見柳の枝の様に見える事も有ります。