式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ

何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びも無し   足利義政の辞世

露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢 豊臣秀吉の辞世 

位人臣を究め、天下の栄華を掌中に収めたかと思われた人が、私の人生は夢まぼろしであったと申されるとは、どんな景色が心の内に広がっていたのでしょう。

「夢は枯れ野を駆け巡る」ような寂寞(せきばく)とした風景の只中に、独りぽつねんと立って、人影に出会うでもなく、鳥や獣を見かける事も無く、温もりのある生きとし生けるものの全てから隔絶された壮絶な寂しさが、そこから立ち昇ってきます。

そういう寂しさの中で、「友遠方より来る」時、どんなにうれしい事か!全身弾けるような喜びに包まれ、あゝ、嬉しや、何しようか、どうやって持て成そうか、あれや、これやを考え、「そうだ、先ずはお茶を一服」と嬉々として浮足立って動き出す心と体が・・お茶の本質かも知れません。

 

同じ趣味でも色々ありまして

茶の湯の楽しさに嵌(はま)ってしまうと、もう、抜けられなくなってしまう様です。古田織部など、当初、茶の湯は嫌いだったようですが、後には名人上手と謳われ、天下の茶頭にまでなってしまいました。

入り口は「お茶を服す事」という単純な行為でしかありませんが、やればやる程広がりがあり、奥深さがあります。それを追求していくと、もう止められません。罠にかかった様にのめり込んでしまいます。

とは言え、のめり込む動機は人様々です。骨董蒐集が主でお茶は二の次の人も居ます。蘊蓄(うんちく)を垂れる教え魔も居れば、ストイックに修業に励む人も居ます。仕事上の人脈作りに不可欠な芸事と割り切る人も居ます。当世風の教養だからと盲目的に習う人も居れば、儲けの種にする人、文化を学ぼうと勉強する人、人それぞれあって面白いです。

彼等の追う道は千差万別、デルタ地帯のように川の流れは分流し、また、それが一層茶の湯の世界に広がりを与えています。そして、やがてその流れは「侘茶」と言う海に注いで行きます。

 

殿上の茶の湯

「殿上の茶の湯」は婆の造語です。侘茶が現れて来る以前に、足利将軍家を始めとして大名や公家達の間で行われていた「茶の湯」の事を指して、そう名付けました。大名茶と言うと、千利休の侘茶の影響を受けた多くの大名達が居ますので、それ等と区別する為です。

殿上の茶の湯を行う場所は、回遊式庭園や禅宗の庭園など、それなりに立派に整えられた庭園内に立つ殿舎の中で行われました。東山殿(足利義政の山荘。後の慈照寺(銀閣))には会所があり、その会所には6畳と10畳の大小二ヵ所の茶室が隣接していたそうです(前項138参照)。それに加えて東求堂同仁斎という四畳半の書院がありました。同仁斎には炉が切られていました。この様な事から推し量ると、少なくとも義政は公の茶室と私の茶室の都合三つの茶室を持っていたと思われます。

彼に仕えていた能阿弥・芸阿弥・相阿弥の親子三代にわたって、将軍が持つに相応しい唐物の軸や焼物などを、宝物として選び、書院飾りや台子飾りを完成させて行きます。

この三人はいずれも優れた芸術家です。絵を究め、書を能くし、文学に造詣が深く、連歌の達人でもあります。そういう彼等が茶の湯にも深くかかわって行きます。

殿上の茶の湯は格式を重んじ、唐物で道具組をして行う茶の湯です。

ただ、惜しい事に、応仁の乱や義政の趣味三昧の為に、幕府の財政は破綻(はたん)をきたしていました。義政の妻・日野富子が蓄財に奔(はし)っても焼け石に水でした。結果、歴代の足利将軍達が集めてきた唐物の蒐集品は、相阿弥の頃になると、資金繰りの為に順次手放す様になってしまいました。こうして流出した大名物(おおめいぶつ)は、新興大名や富豪たちの手に渡って行きます。

   参考:20 室礼の歴史(5) 同仁斎

      80 室町文化(7) 庭園

      81 室町文化(8) 水墨画

      82 室町文化(9) 東山御物

 

 

侘数寄(わびすき)の茶

侘数寄の茶は、名物の茶碗や高価な茶道具を持たないで行う清貧の茶の事で、殿上の茶の対極にある茶です。村田珠光が侘数寄者の一人と言えるでしょう。

山上宗二記』『南方録』によると、珠光は圜悟(えんご)墨蹟徐熙(じょき)の「鷺の絵」などの名物を数々持っていたそうです。が、『清玩名物記』という足利義晴の時代の頃に書かれた本によると、珠光が所持していたのは珠光茶碗が四つだけだったとあるそうです。最近では、この記述の信用性が高くなり、珠光が名物を多数持っていたと言う話は影が薄くなっているいるようです。

同じ様な侘数寄者の一人に丿貫(へちかんorべちかん)が居ます。彼は反骨の茶人です。

丿貫は武野紹鴎(たけの じょうおう)の門下生で、千利休と兄弟弟子です。丿貫は千利休をライバル視しており、利休を鋭く批判しておりました。

二人は二者二様の茶の道を歩みました。一人は権力に近づき、一人は真の侘茶へと歩みます。権力に近づいた方が茶道の全盛を築き、真の侘茶に進んた方が、変人という烙印を押されて埋没してしまいました。丿貫の茶は、高価な茶碗も特別の茶釜も無く、ありふれた茶碗と、煮炊きの釜との兼用の釜で湯を沸かし、極めて質素な道具立てでお茶を点てていました。

これぞ侘しい、正に寂しい、うらぶれた茶の湯。けれどそれは貧乏ったいものでは無く、全ての無駄を省いた清冽な美しさが漂っていたのではないかと、婆は想像しています。

 

余談  東山殿

東山殿は8代将軍・足利義政が隠居所として造営した山荘です。山荘は、京都の東山の麓にあった浄土寺の跡地に建てられました。隠居はしても政治の実権は手放さなかった義政らしく、或る程度の政治的機能が果たせるようなミニ将軍御所の構えをしておりました。大きな建物が10棟ぐらいあったそうですが、足利義晴と義輝の親子二代にわたり三好勢との攻防があり、天文(てんぶん)19年(1550年)、足利義輝&細川晴元三好長慶の中尾城の戦いの時、その多くが焼亡してしまいました。中尾城は東山殿の裏山にありました。その時、焼失を免れたのが現在ある銀閣と東求堂です。

    参考:79 室町文化(6) 銀閣

 

余談  圜悟墨蹟(えんごぼくせき)

宋の時代に圜悟克勤(えんごこくごん)(1063-1135)と言う臨済宗の高僧がおりました。その圜悟が書いた墨蹟を圜悟墨蹟と言います。圜悟克勤は幼少の時に出家、雪ちょう重顕(ちょうけんorじゅうけん)の百則の公案を基に評唱を加えて『碧巌録(へきがんろく)10巻を表しました。碧巌録は禅宗第一の典籍(てんせき)と言われています。圜悟克勤は圜悟禅師、仏果禅師、真覚禅師と尊称されています。

   参考: 48 鎌倉文化(4) 禅語

       49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

 

余談  徐熙(じょき)(生年不詳-975)

南唐の画家。水墨画に淡い彩色を施した様な畫境を拓き、花鳥や魚や果実の絵を得意としたそうです。宋の太宗が徐熙の絵を評して「花果の妙、吾れ独り熙あるを知るのみ」と讃えたと言われています。徐熙の白鷺の絵を見て茶道の真髄を悟ったと言う話があります。水墨画に漂う神韻とした空気観に、仄かな色気が滲み出ているのを見て、そのように悟ったのでしょうか。徐熙の鷺の絵は兵乱で焼失したと聞いたことがあります。

 

 

138 東山殿のお茶

初期の頃の茶の湯は、別室でお茶を点ててお客様の下に運ぶ形式になっておりました。

(参照 : 「127 絵で見る茶の湯(1) 厩図」、「128 絵で見る茶の湯(1) 調馬図」)

それはきっと、水屋仕事は汚れ物などを扱うので人目に付く場所でするものでは無い、という考えから、そうしていたのだ、と思っておりました。ところが、色々調べていく内に、そうでは無く、表に出られない事情があると、気が付きました。それは、家の造りに関係しています。

 

君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

足利義政に仕えていた能阿弥・相阿弥という父子の同朋衆が、将軍の小川御所や東山殿(後の鹿苑寺(銀閣寺))が所有している宝物リストを作りました。そのリストが「御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)」と「君台観左右帳記」と言います。

「君台観左右帳記」には優れた絵画などの列挙の次に、書院には何をどのように飾ったら良いのか、という六つの事例の絵図と共に、茶湯棚飾の図が載っています。

以下の右図は、国立国会図書館デジタルコレクションから「君台観左右帳記」の茶湯棚飾を描き写したものです。(参考:左図は式正織部流の真台子の点前で時々行う跪座(きざ)の姿勢)

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茶湯棚飾の図に書いてある事

上段右 建盞(けんさん)六台に座る中に大海袋に入 (建盞は建窯で焼かれた天目茶碗の事。又、大海とは大振りの茶入れの事。袋は仕服の事)  上段左 うがい茶碗大小二つ同臺(同じ台)方盆(四角いお盆)に座る(単に茶碗と言ったら天目茶碗以外の茶碗を言う)  中段  食篭(じきろう)、具(菓子)  下段右 火搔きと羽箒と炭こ立て掛ける・水指、蓋置・火箸、杓子立、杓子(ひさこ)  下段左 三建盞  中に肩衝  盆座る  畳の上 炭斗(すみとり)・釜据え  胡銅の物 畳に置くべし・大茶碗  下水  畳の上に置かる

そして、茶湯棚飾の次の頁にはこう書かれています。

「一間ノ茶湯棚是ハ御會所ノ御飾ニテ候此外二ハ色々取合テ飾可有之候」

御覧になれば分かる様に、高さは天井まで有り、幅は一間幅の造り付けです。そういう大きな棚に、色々な茶道具が載っています。立たなければ手が届かない様な上段の棚に、天目茶碗や茶入れが大きなお盆に載っているとなると、そこでお点前するのは大変です。

 

茶湯棚点前

この様な棚でのお点前は、亭主は壁の棚に向かって座る様になります。つまり、客に背中を向けます。又、亭主は上の物を取る為に、立ったり座ったり動かなければなりません。

式正織部流に「六天目点て」という秘伝があります。道具立てはこの図にかなり近いですが、真台子で行うので、これより簡略化されています。

式正織部流の真台子は他流の真台子よりも一回り大きく、幅も丈も有ります。天板の上に六つの天目茶碗をお盆に載せて、なお余裕があり、色々なものが載ります。けれど、天板へ茶碗やお道具を上げたり降ろしたりする度に、跪座(きざ)になったり、正座になったりして大変です。

この図の茶湯棚ですと、跪座では済まず、完全に立ち上がらなければ用が足りないでしょう。亭主が後ろ向きのまま立ったり座ったりして点前するなんて、そんな事は有り得ないよなぁと悩んでいましたら、当時の茶室は邸宅内ある会所の付属施設としてあった、と分かり納得しました。

 

会所

会所と言うのは、集会所の様なものですが、集会所と言うより迎賓館に近い建物です。その会所の主座敷の次の間に続いて茶室があった事が分かりました。

建築家・堀口捨己(ほりぐち すてみ(1895-1984))氏の研究に依りますと、東山殿の会所の主座敷は24畳あり、主座敷に続く次の間に接続して茶室があった様です。そして、その茶室(茶湯棚のある部屋)は大小二ヵ所あり、6畳と10畳だったようです。

多分そこで同朋衆がお茶を点て、小姓が座敷に運んだのではないかと、想像します。主人は主座敷の正面に機嫌よく着座して客を迎えていたのではないでしょうか。或いは、位の高い賓客に上段の席を譲って歓待していたのかも知れません。

大体、此の頃のお茶は、お茶を振る舞う為にだけで人を招くのではなく、そこには酒肴が出されご馳走があり、能楽を見物し、山ほどの贈物があり・・・という一連の接待の中に組み込まれたものなのです。現在行われている茶事の流れに似ています。が、そこには「侘茶」の様な求道的な精神性は無く、また、無理強いに万人に頭を下げさせるような家の構造物の仕掛けもありません。

 

茶の湯への道

会所の接待や儀式の大仰なお茶は毎日ある訳ではありません。普段の日常の中で、もっと手軽にお茶を頂きたい、という思いが募るのも人情というものです。尤も、高い抹茶を入手できる様な人は、それなりの地位や財力のある人達ですから、庶民一般にまで喫茶の風習が広がる迄には参りませんでしたが、ただ、そういう流れを後押しする様な動きが出てきました。

それは、和物の陶器の発達です。唐物陶磁器は輸入ものですから、値段が高く、余程の余裕のある人しか手に入れられませんでした。ところが唐物陶器を真似した日本産の茶碗なら、ちょいと手を伸ばせば入手できるようになってきたのです。

君台観左右帳記に書いてあります様に「一間の茶湯棚、これはご會所のお飾りです。此の外には色々取て飾ってもよろしい(ずいよう意訳)」とある事から、お道具の取り合わせや茶湯棚の形も色々あった事が想像できます。この頃、既に持ち運びの出来る半間巾位の小さな茶湯棚が現れていたようです。そして、これが流行り始めます。この移動式茶湯棚が台子の原形ではないかと、考えております。

支配層の茶の湯を、より一般的に馴染めるような茶の湯に変えて行こうと、村田珠光が創意工夫している頃、能阿弥などによって、点前をスッキリ合理的に組み立てていこうとする流れが加わり、武家礼法などの影響もあり、次第に茶の湯が洗練されて行くようになります。

 

 

137 村田珠光

侘茶の創始者村田珠光(むらた じゅこう or しゅこう)と言われております。彼が行った侘茶とはどのようなものだったのか、彼以前の茶の湯はどうだったのかを、少しひも解いてみたいと思います。

さて、ここに茶道具が描かれた一つの絵巻物が、サントリー美術館にあります。「おようのあま」という御伽草子の物語で、法師が女に騙されると言う、まことに滑稽な物語です。何はともあれ、当時のお茶のセッティングの様子を知る為に、おようのあまの物語を紐解いてみましょう。

 

「おようのあま」

昔、「おようのあま」と呼ばれる老女が、日用品を風呂敷に包んで頭に載せ、売り歩いておりました。或る日、歩き疲れて見すぼらしい庵に立ち寄り、少し休ませてもらいました。庵の主の法師はおようのあまにお茶を点てて持て成しました。おようのあまは、、法師の暮らしぶりを見て同情して、こう言いました。「あなた様の世話をする人は居らんのかね。それなら娘を世話するから待っときなせ。」

やがて或る晩のこと、待望の娘御が被り物をかぶり恥ずかし気にやって来ました。二人はその夜結ばれました。翌朝、法師が嫁様の顔を見たら、なんと、あの「おようのあま」でした。

さてさて、その後の二人はどうなったかと言いますと、まぁ、仏縁と申しましようか、末永く連れ添ったそうです。

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上図は、「おようのあま」の絵巻物を婆が模写したもの。おようのあまは「御用(およう)はありませんか」と物を売り歩く女の事を意味します。前置きで申し上げました様に、その絵の中には茶道具のセットが、押し入れらしき戸の横隣りにある引っ込んだ空き場所に、何気なく置かれています。ひょっとして、この空いた場所は物置代わりの板の間で、庶民の床の間の前身かも・・・

この絵に描かれている茶道具セットが侘茶の原点と言われております。

長板の上に朱塗りの盆があり、盆の上に何かが置いてあります。茶碗か、茶筅か、棗か、判然としません。長板の真ん中に風炉風炉の上に鉄瓶、その右手に曲げ物の水桶、水桶の中に柄杓が無造作に入っています。

侘茶の創始者と言われる村田珠光というお坊さんの茶の湯は、この様な形だったのではないかと言われております。

 

村田珠光(1423‐1502)

村田珠光は、足利義政が将軍位に就く20年前に奈良で生まれました。

11歳の時、奈良の浄土宗の称名寺に入り珠光と言う法名を頂きました。修行に励んで寺を任されるまでになりましたが、やがて寺を出奔、放浪の末、京都にやって来ます。彼はそこで禅宗に出会い、大徳寺の真珠庵で一休宗純の下で禅の修行を始めたそうです。

一休宗純足利義満の代に活躍した禅僧で、生まれは後小松天皇の御落胤一休さんのお墓は酬恩庵(在京田辺)にあります。「宗純王墓」の名で宮内庁が管理しており、陵墓になっています。お墓は塀に囲まれ、入り口の門には菊の御紋が入っています。一般人は参拝できません。

という訳で大変やんごとない御身分ですが、ご本人はハチャメチャ坊主で、肉食妻帯、薄汚れたよれよれの墨染の衣に朱鞘の木刀を指して街中を闊歩していた、とか。「釈迦と言ういたずら者が世にいでて おほくの人をまよわするかな」や、「世の中は起きて稼いで寝て喰って、後は死ぬを待つばかりなり」「女をば法の御蔵(みくら)と云うぞ実に 釈迦も達磨もひょいひょいと生む」等々説いておりました。権威や常識や慣習などを、屁とも思わず破ってしまう御仁です。

村田珠光は、その一休宗純の膝下で禅を修行したと言われ、茶の湯の教えも受けたと伝え聞いていますが、どうでしょうかね。一休の生き様を見ると、師と弟子で相対して真面目に教える様な関係性があったのかどうか、いささか疑問です。禅の印可状さえ、弟子の誰一人にも与えていないのですから。

むしろ珠光は、禅林の清規に則った茶礼を日々経験している内に、茶の心に達したのではないかと、愚考する次第です。

 

禅林の茶

禅林の清規(しんぎ)に則(のっと)ったお茶の礼とは、明菴栄西が宋から持ち込んだ禅寺の規律の中の一つで、お茶に関しての作法です。

茶礼(されい)には色々あって、大別して日常の茶礼と大切な儀式の時の茶礼があるようです。

日常の茶礼は、朝昼夕の食事の時と、午前・午後の作務の休憩時間のお茶の時に行われます。その時は修行僧が僧堂に集まり、揃って番茶やほうじ茶などを頂くそうです。先ずは本尊にお茶を捧げ、お茶の入った薬缶を捧げ持った係りの僧が、各自の手持ちの湯飲み茶わんにお茶を注ぎ分けて行き、全員に配り終わったら一斉に頂く、と言うのが日常の茶礼だそうです。「一つ薬缶のお茶を分け合って飲む」という所がミソで、これが、侘茶の「一碗を分け合って飲む」作法に通じている様です。

儀式の茶礼は格別で、本尊や開山の頂相(肖像画)の前に設えを整え、お香を炷(た)き、お経を上げます。それから、係りの僧が、天目台に載った天目茶碗(その中には抹茶がすでに入っています)を正客や相伴衆に配り、そのあとから、これも係の僧が浄瓶(じょうびん)という薬缶のお湯を注いで行きます。注ぐ時、その係りの僧は、手に持った茶筅でその都度攪拌して行きます。日常の茶礼も儀式のそれも、簡単に言うとこの様な形だそうです。

そこには色々と作法があるようですが、要するに、一つお湯を分かち合う事、それが修行に挫けそうになる心を一つにして「一緒に頑張りましょう」と言う励みになる事、そして、お茶の薬効で眠気覚ましと気分転換や爽快な心持になる事などが狙いで、禅宗では無くてはならない礼の一つです。

 

珠光の茶

村田珠光が、東大寺の近くの田舎に庵を結び、訪ねて来る人にお茶を点てて持て成したと言われています。その様子は正に「おようのあま」の絵にある通りだったようです。

茶道具類は、さほど広くもない部屋に、仕舞もせず隠しもせず、常に手近に置いておき、客が訪ねて来れば、まぁとにかく茶を飲んで帰れ「喫茶去(きっさこ)」と、珠光茶碗に茶を点てて振る舞ったとか。

珠光茶碗は、珠光が使っていた抹茶茶碗の事を指し、中国の同安窯で作られた普段使いの茶碗です。還元焼成青磁に成る筈の仕上がりが、技術不足で青磁になりそこない、茶色ともひしお色とも、オリーブ色とも土色とも、何とも言えない微妙な色に焼き上がってしまった物です。珠光はその茶碗を手に入れて、それで茶を点てていました。同安窯製と見られる陶片が、福岡での発掘調査では結構いっぱい出土しているようで、普及品だったように見受けられます。

山上宗二の記録によれば、珠光はそのような茶碗を4碗持っていたそうです。珠光はその外にも唐物の逸品を沢山持っていたそうですが、逸品についてはどうも眉唾の話らしいです。侘茶の祖・村田珠光が愛した茶碗というと、それだけで値が吊り上がるようです。小山雅人氏によると千利休は、所持していた珠光茶碗を、三好実休に1千貫文で売ったそうです。因みに現在国宝になっている「曜変天目茶碗」は、珠光茶碗より十分の一の100貫文だったとか。値段と言うのは、何が値打ちか、婆にはさっぱり分かりません。

 

心の文

村田珠光が一の弟子・古市澄胤(=古市播磨)に宛てた手紙があります。以下がそれです。

この道、第一わろき事は、心の我慢・我執なり。功者をばそねみ、初心の者をば見下すこと、一段勿体無き事どもなり。功者には近つきて一言をも歎き、また、初心の物をば、いかにも育つべき事なり。この道の一大事は、和漢この境を紛らわすこと、肝要肝要、用心あるべきことなり。また、当時、ひえかるると申して、初心の人体が、備前物、信楽物などを持ちて、人も許さぬたけくらむこと、言語道断なり。かるるということは、よき道具を持ち、その味わいをよく知りて、心の下地によりて、たけくらみて、後まて冷え痩せてこそ面白くあるべきなり。また、さはあれども、一向かなわぬ人体は、道具にはからかふべからず候なり。いか様の手取り風情にても、歎く所、肝要にて候。ただ、我慢我執が悪きことにて候。または、我慢なくてもならぬ道なり。銘道にいはく、心の師とはなれ、心を師とせされ、と古人もいわれしなり。

ずいよう ぶっとび超意訳

お茶の道で悪い事は、第一に増長し、我に捉われる事です。そして、上手な人を嫉み、初心者を馬鹿にする事です。そんな事をするなんてとんでもなく畏れ多い事です。達人には近づいて教えを乞い、また、初心の人がいたら育ててやるべきです。お茶の道で一番大切な事は、和のものも中国のものも分け隔てなく用いて、混然一体としてその境目を無くすのが肝要で、そこに心を用いるべきです。また、「冷え枯れる」と言って初心の人が備前信楽の焼物を使い、人も許さない様な馬鹿な使い方をするなど言語道断です。「枯れる」と言う事は、良い道具を持ち、その道具の味わいを良く知り、心の豊かさや厚みによってそれなりに到達した境地こそ、「冷え痩せ」た世界であり、面白いものです。また、そうは言っても、一向に上達しない人は、道具に拘(こだわ)ってはいけません。どんなに上手になったように見えても、教えを嘆願するのが肝要です。天狗になったり我(が)に捉われてはいけません。けれども、誇りも矜持も求道(ぐどう)の心も全く無くして、ぼんやり過ごしていては、茶の道は大成しません。名言に「自分の意志で自分の心を高みに導きなさい。自分の心に隷従してそれに流されてはいけません」と古人も言っています。

 

余談  三好実休(みよし じっきゅう)

父は三好元長。兄に三好長慶がいます。武野紹鴎(たけの じょうおう)の弟子で茶人。父が敗戦して自害後、兄に従い阿波の軍勢を率いて歴戦。畠山高政と久米田(現岸和田市)で戦い討死しました。

 

余談  古市澄胤(ふるいち ちょういん)

古市澄胤興福寺の宗徒で武将です。古市播磨法師の名で細川陣営に属し、畠山尚順(はたけやま ひさのぶor ひさより)と戦って敗走、自害しています。

 

 

 

136 武士の生死報告書

このブログのシリーズで、最初の項から「135武家茶人  略列伝  ま行や行」までに取り上げた武士達を数えてみると、580名おります。

記事として大きく扱った武士だけでは無く、1回でも名前が出て来た人物を含めての数です。そこで、これ等の集大成として、彼等の生死を集計し、数値化してみました。

 

集計ルール

生死の分類は、婆の独断で次の様にして分けました。

Ⅰ類 自然死に含まれるもの (後半に載せた人名リストでは黒字表示)

① 明かに病気で亡くなった者。以前から患っていて、それで亡くなったと推定できる者を病死とします。( )内の数字は享年の歳です。

② 病気で亡くなったか、老衰で亡くなったか分からないけれども、没年齢が判明していて、死因が人為的でない者。いわゆる畳の上で普通に亡くなったと思われる者。その場合は享年の数字のみを(  )に表示。

③ 死因が自然死と推定できて、没年齢が分からない者を「定命」と表示。若くして亡くなった場合でも、定められた命と言う考え方に因り、定命と言う言葉を使いました。勿論、天寿も夭折も定命です。

Ⅱ類 人為的に死亡した、或いは死亡させられたもの(人名リストでは赤字表示)

① 討死。戦場で戦って敵に討ち取られて死亡した場合。

② 敗自。戦に敗北して自害した者。例として楠木正成織田信長

③ 殺害。暗殺、謀殺、誅殺、毒殺、喧嘩などなど

④ 刑罰。処刑、斬殺、磔刑、流刑、幽閉などなど。流刑が許されてその後を生きた場合は、直接的死因にはならないので処刑表示は無し。幽閉されて結局殺された場合は、殺害の部類に入れて赤表示。例:護良親王

⑤ 自害。賜切腹切腹、詰腹、刺し違え、殉死、焼身、投身自殺などなど

Ⅲ類 不明  人名リストでは紫字表示

① 表舞台から引退し、逼塞して人知れず亡くなった者

② 敗走、逃亡、流浪などで消息不明、生死不明の者

③ 死亡説と生存説が両方ある者。

④ その名前でインターネットで検索できなかった者や、本などで調べても分からなかった者。(婆の努力不足!)

一応武士に限ってカウントしていますが、公家、僧侶であっても、武士的な生き方をした人達は、武士の範囲に入れております。例えば、護良親王とか、安国寺恵瓊などがそれに当たります。また、東勝寺合戦などで北条氏が集団自決をした数が870人余と言われておりますが、この様な場合は指揮官だけをカウントし、家臣・家の子郎党などの人数は入れておりません。合戦ではこの様な集団自決がよく見られました。

以上のようなやり方で分類しますと下記の様になります。

「Ⅰ自然死」に分類される者           265

「Ⅱ人為的な死」に分類される者      219

「Ⅲ不明」に分類されれる者             96

                       合計                    580

これ等から、彼等の人為的な要因による死亡率は 37.7% に達していた事が分かります。

 

数値化の対象にしたのは、殆どが歴史上に名を残した人物達です。将軍や執権、管領守護大名戦国大名、武将、家老、城代、地方領主、などの上級管理職、或いは一騎当千の兵達です。佐野源左衛門常世の様な一兵卒も居るにはいますが、稀です。

集計した個々の名前を、Ⅰ類、Ⅱ類、Ⅲ類に色分けしてリストアップします。

名前の色分けは、の印字がⅠ類の「自然死の人達」です。の印字はⅡ類の「人為的に死亡した、或いは死亡させられた人達」です。の印字はⅢ類の「不明」の人達です。

Ⅱ類の④刑罰では、例えば流刑に処せられた場合、流刑先で天寿を全うすれば自然死の部類に入るので黒字で表示し、流刑中に殺されれば人為的な死になるので赤字で表示しています。幽閉も同じ考えで、幽閉中の殺害は赤字です。殺害が無ければ黒字表示にしています。

 

名前のリストは「あいうえお順」にしております。従って、同じ氏族が固まって載っていますので、どの氏族に「赤」がどのくらいの密度で広がっているのか、色ですぐ分かる様になっています。「源」姓の死亡率が抜きんでているのが、一目瞭然で分かります。血を流したように真っ赤です。また、「北条」の死亡率も想像以上に高いのが分かります。TVの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の内、天寿を全うできるのは果たして何人いるのか・・・

こうして色分けして見てみると、死亡率の氏族別地図が見えてきます。そればかりではありません。この名簿を「あいうえお順」では無く、人物達を時代順に並べるとか、死亡年齢別に分けてみるとかすると、又、違った様相が見えて参ります。

 

この様な作業を通して婆は何を言いたいのか、と申しますと、武士が抱く死生観と富豪層が抱く死生観とでは、立脚している土台が全く違う、と言う事を言いたいのです。

親ガチャ、氏族ガチャで生まれてきてしまった侍の子供達は、言うなれば致死率の高い運命を背負わされています。一方、戦乱に巻き込まれて偶発的に殺されてしまうケースがたまにあったにせよ、凡そは金で解決でき、「儲かりまっか?」の視点で安全圏に居住している商人とでは、「わび」「さび」の意味合いが違ってきます。

 

さて、「わび」「さび」などの話へ進める前に、先ずは、武士の名簿をご覧ください。

 

あ 青木五郎左衛門(不明)、安積行秀(敗自)、安達泰盛(敗自)、安達義景(44歳)、葦堀七郎(不明)、青山幸成(病死59)、赤沢朝経(敗自57)、秋田実季(85)、秋月種実(49)、明智光秀(殺害55)、浅井長政(敗自29)、浅野幸長(病死38)、朝倉貞景(40)、朝倉孝景(56)、朝倉義景(敗自41)、足利成氏(64)、足利直冬(不明)、足利直義(殺害47)、足利茶々丸(自害)足利藤氏(不明)、足利政知(病死57)、足利持氏(敗自42)、足利持仲(敗自18)、足利基氏(病死28)、足利義昭(病死61)、足利義詮(病死38)、足利義氏(67)、足利義量(病死19)、足利義勝(病死10)、足利義材(義尹・義稙)(病死58)、足利義澄(清晃・義高)(病死32)、足利義嗣(殺害25)足利義維(病死65)、足利義輝(殺害30)、足利義教(義円)(殺害)、足利義晴(病死40)、足利義尚(病死25)、足利義栄(義親)(病死31)、足利義政(病死55)、足利義視(義尋)(病死53)、足利滿兼(不明)、足利満隆(敗自29)、足利義満(病死51)、足利義持(病死43)、足利義持(病死43)、阿野全成(殺害)、荒木村重(52)、有馬豊氏(74)、有馬則頼(70)、有馬晴信(自害46)、有馬元家(殺害)、赤松貞村(不明)、赤松時勝(23)、赤松則繁(自害49)、赤松則祐(病死59 or 61)、赤松則村(74)、赤松教康(自害)、赤松政祐(晴政)(53)、赤松政則(病死42)、赤松満祐(敗自61or69)赤松光弘(不明)、赤松満政(討死)、赤松持貞(自害)、赤松義則(70)、赤松義雅(自害45)、赤松義村(殺害)、安宅冬康(自害) 

 飯尾常房(64歳)、石川直経(不明)、石川康長(89)、石田三成(処刑41)、石丸利安(殺害)、石丸利貞(不明)、石丸利高(自害)石丸利綱(不明)、石丸正信(不明)、石丸(斎藤)利光(敗自)、伊賀光季(敗自)、伊勢貞国(59)、伊勢貞孝(討死)、伊勢貞為(51)、伊勢貞親(57)、伊勢貞継(83)、伊勢憲忠(不明)、伊勢貞陸(59)、伊勢盛時(北条早雲)(定命)、板倉勝重(79)、板倉重宗(71)、一色詮範(67)、一色教親(33)、 一色藤長(不明)、 一色義有(病死26)、 一色義貫(敗自41)、 一色義直(不明)、伊東貞藤(不明)、伊東祐親(自害)、稲葉良通(一鉄)(74)、井上正就(殺害52)、猪子一時(85)、今川氏親(病死56)、今川貞世(了俊)(87~96)、今川範政(70歳)、今川義元(討死42)、岩成友通(討死)、 上杉景勝(69)、上杉定正(病死)、上杉重能(殺害)、上杉憲顕(63)、上杉氏憲(禅秀)(敗自)、上杉憲定(38)、上杉憲実(57)、上杉憲忠(殺害23)、上杉憲基(27)、上杉房方(55)、政実(不明)、上杉政虎(謙信)(病死49)、上杉政憲(自害)、上杉持朝(52)、上田重安(宗箇)(88)、宇都宮持綱(殺害28)、浦上村宗(討死)  塩谷高貞(自害)、  大内教幸(道頓)(不明)、大内政弘(病死50)、大内持世(殺害48)、大内義興(病死52)、大内義隆(敗自45)、大内義弘(討死45)、大久保忠隣(75)、大久保藤十郎(自害37)、大久保長安(病死69)、太田資長(道灌)(殺害55)、太田資清(78)、太田資康(討死38)、大友(立花)貞載(殺害)、大友義鎮(宗麟) (病死58)、大野治長(自害47)、大野治房(不明)、大野持種(不明)、大野義敏(不明)、大畑(金森)貞近(不明)、大村純忠(病死55)、大村純前(不明)、小笠原秀政(討死47)小笠原長秀(59)、岡部宣勝(72)、岡村百々之介(討死)、小川祐滋(不明)、小栗満重(敗自)織田長益(有楽斎)(75)、織田信雄(73)、織田信忠(敗自26)織田信長(敗自49)、織田信秀(病死42)、織田信行(信勝)(殺害)、織田秀信(自害26)織田寛広(不明)、織田寛村(不明)、越智家栄(定命)  海北綱親(不明)甲斐将久(常治)(病死)、梶原景時(敗自)、片桐貞昌(石州)(69)、加藤清正(病死50)、加藤嘉明(病死69)、金森可重(雲州)(58)、金森重近(宗和)(84)、金森長近(85)、金森長則(討死19)懐良親王(不明)、甲斐将久(常治)(病死)、上泉信綱(不明)、蒲生氏郷(病死40)、蒲生賢秀(51)、川波新左衛門(不明)  菊池武房(41)、木沢長政(討死)、義昭(ぎしょう)(大覚寺)(自害)、北畠顕家(討死21)、北畠顕信(不明)、北畠顕能(不明)、北畠材親(病死50)、北畠親房(62)、木村宗喜(処刑)、京極高数(殺害)、京極隆清(乙童子丸)(79)、京極高詮(49)、京極政光(24)、京極持清(64)  桑山貞晴(宗仙)(73)、桑山元晴(直晴)(58)、楠木正成(敗自43)、楠木正儀(不明)、工藤祐家(病死)、工藤祐隆(定命)、工藤祐継(43)、工藤佑経(殺害)、工藤祐泰(殺害)、国枝興国(不明)、栗生左衛門顕友(不明)黒田長政(病死56)、黒田孝高(官兵衛)(如水)(病死59)、国枝氏為(不明)  香西元長(討死)、香西元盛(自害)、高師直(殺害)、高師夏(殺害13)、高師泰(殺害)、郡宗保(敗自70)後藤基綱(76)、小西行長(処刑43)小早川秀秋(病死21)、小堀政一(遠州)(69)、  斎藤龍興(討死27)、斎藤利安(長井長弘)(殺害)、斎藤利国(妙純)(討死)、斎藤利藤(定命)斎藤利親(討死)、斎藤利春(病死)、斎藤利三(処刑49)、斎藤道三(討死63)、榊原康勝(病死26歳)、佐久間実勝(将監)(73)、佐久間勝之(67)、佐々木道誉(78)、佐々木持清(病死64)、佐竹義宣(64)、佐々成正(自害53)真田昌幸(病死65)、佐野源左衛門常世(定命)、 篠塚重広(34)、斯波高経(63)、斯波滿種(52)、斯波義廉(不明)、斯波義重(病死48)、斯波義健(病死)、斯波義種(57)、斯波義敏(74)、斯波義将(61)、柴田勝家(敗自)、芝山宗綱(監物)(定命)、島津義久(病死79)、島津義弘(85)、少弐景資(討死40)少弐頼尚(78)、成身院光宣(80)、神保国宗(殺害)、神保長誠(病死)、 

 杉原下総守(不明) 諏訪時継(敗自)  諏訪頼重(敗自)  陶晴賢(敗自)、

 瀬田正忠(掃部)(処刑)  宗義智(48)、宗助国(討死)、十河一存(病死)、曽我祐成(殺害)、曽我時致(処刑)、  平景隆(敗自)平宗綱(流刑)、平頼綱(敗自)、高山右近(病死63)、武井助直(夕庵(せきあん))(不明)、高田頼明(不明)、高田頼遠(討死)高田政春(不明)、高田義遠(不明)、高田遠春(不明)、武田勝頼(敗自37)武田信栄(病死28)、武田晴信(信玄)(病死53)、武田元明(殺害21or31)、武田元信(61)、武田元光(58)、武田義統(42)、竹中重利(54)、伊達政宗(病死70)、種子島時堯(52)、  千草忠顕(討死)千葉秀胤(敗自)  塚原卜伝(83歳)、津田信澄(討死25)、筒井順永(討死58)、筒井順賢(不明)、筒井順慶(病死36歳)、筒井定次(自害54歳)、土屋宗俊(定命)、妻木頼忠(59歳)、  土井利勝(病死72歳)、十市遠治(定命)、藤堂高虎(75歳)。富樫氏春(不明)富樫幸千代(討死)、富樫昌家(定命)、富樫政親(敗自)、富樫滿家(不明)、富樫滿成(殺害)、富樫滿春(定命)、富樫泰家(定命)、土岐成頼(56)、土岐政房(68)、土岐政康(不明)、土岐滿貞(島田滿貞)(不明)、土岐元頼(敗自)、土岐持頼(敗自)、土岐康行(定命)、土岐頼芸(81)、土岐頼武(病死49)、土岐頼忠(75)、土岐頼遠(処刑)、土岐頼直(不明)、土岐頼康(71)、徳川家康(病死75)、徳川忠輝(.流罪92)、徳川忠直(流罪56)、徳川忠吉(病死28)、徳川信康(自害)徳川秀忠(病死54歳)、徳川秀康(結城秀康)(病死34)、徳川頼宣(70)、徳川頼房(病死59)、豊臣秀次(自害28)豊臣秀保(17)、豊臣秀吉(病死62)、豊臣秀頼(敗自23)、  内藤国貞(討死)、内藤忠利(如安)(77)、内藤政長(信斎)(67)、永井尚政(82)、中尾真能(不明)中川清秀(討死42)、中川秀政(討死25)、長塚藤兵衛(不明)、長浜六郎左衛門(不明)長屋(金森)景重(定命)、成田弥左衛門(殺害)、南部利直(57)、 二階堂貞藤(処刑68)、仁木高長(不明)、仁木義長(不明)、仁木義政(不明)、仁木頼章(不明)西尾光教(73)、新田義顕(敗自20)、新田義興(殺害28)、新田義貞(討死38)、新田義宗(討死)、丹羽長重(67)、丹羽長秀(自害51)  橋本正督(不明)支倉常長(52)、畠山国清(不明)、畠山重忠(討死42)、畠山重保(殺害)、畠山高政(50)、畠山直宗(殺害)、畠山尚順(48)、畠山政国(不明)、畠山政長(敗自52)、畠山滿家(62)、畠山基国(53)、畠山持国(58)、畠山持冨(病死)、畠山持永(討死)、畠山弥三郎政久(定命)、畠山義堯(敗自)、畠山義忠(74)、畠山義豊(討死)、畠山義就(54)、長谷川宗仁(68)、波多野元清(病死)、蜂須賀家政(81)、蜂須賀至鎮(35)、花井吉成(定命)、馬場氏為(不明)、林秀貞(68歳)、林通具(討死)、原田宗馭(83)、伴野彦二郎(自害)、  比企能員(殺害)、平賀朝雅(殺害)、平手政秀(自害)  船越景直(72)、船越永景(74)、古市澄胤(敗自57)、古市澄栄(不明)、古田勝信(討死)、古田重勝(病死47)、古田重隆(不明)、古田重忠(討死)、古田重次(不明)、古田重恒(病死46)、古田重然(織部)(自害73)、古田重則(討死)古田重治(病死48)、古田重頼(不明)、古田友春(不明)、古田信清(討死)、古田彦左衛門(不明)、古田頼春(不明)、藤田三郎左衛門(不明)、藤田四郎左衛門(不明)、藤田六郎左衛門(不明)淵辺義博(討死)、藤原定員(不明)、藤原為佐(不明)、藤原泰衡(殺害35)、不破光春(不明)、 北条氏政(自害53)北条氏盛(31)、北条(金沢)貞冬(敗自)、北条(金沢)実時(53)、北条(大仏(おさらぎ))貞直(討死)、北条貞時(41)、北条貞顕(敗自56)北条重時(病死64)、北条(名越(なごえ))高家(討死)、北条高時(敗自31)、北条(名越)時章(殺害58)、北条時氏(病死28)、北条時実(殺害16)、北条時輔(殺害25)北条時政(78)、北条時益(討死)、北条時宗(病死34)、北条時行(処刑)、北条時頼(病死37)、北条(名越)朝時(53)、北条経時(病死23)、北条仲時(敗自28)、北条長時(病死35)、北条教時(討死38)、北条煕時(病死37)、北条政村(69)、北条(名越)光時(定命)、北条宗時(討死)、北条宗宣(54)、北条基時(敗自48)、北条守時(敗自39)、北条師時(37)、北条泰家(不明)、北条泰時(病死60)、北条義時(病死62)、北条(赤橋)義宗(25)、保科正光(71)、細川顕氏(病死)、細川興元(53)、細川氏綱(51)、細川勝元(病死44)、細川清氏(討死)細川成之(78)、細川澄元(病気32)、細川澄之(敗自19)、細川高国(敗自48)、細川忠興(三斎)(83)、細川尹賢(殺害)細川晴元(幽閉50)、細川尚春(殺害)、細川藤孝(幽斎)(77)、細川政賢(討死)、細川政春(病死63)、細川政元(殺害42)、細川満元(49)、細川持隆(殺害37or38)、細川持常(病死41)、細川持春(67)、細川持之(43)、細川之持(27or48)、細川義春(病死27)、細川頼元(54)、細川頼之(病死64)、  前田利家(病死62)、前田利常(66)、前田利長(病死53)、牧村利貞(病死48)、松井康之(63)、松井友閑(不明)、松浦隆信(72)、松平定綱(60)、松平信綱(病死67)、松平正綱(73)、松永久秀(弾正)(敗自68)、松長久道(敗自35)          三浦泰村(敗自)、水野忠元(45歳)、三渕藤英(自害)、源一幡(殺害6)、源義円(討死27)、(源)公暁(殺害20)、源実朝(殺害28)、源朝長(殺害18)源範頼(幽閉)、源栄実(自害14)、源希義(殺害)、源光家(殺害)源行家(処刑40)義門(不明)、源(木曽)義高(殺害12)、源義経(敗自31)、源(木曽)義仲(討死31)、源義弘(自害)、源義平(処刑20)、源頼明(不明)、源頼家(殺害23)、源頼氏(敗自)、源頼兼(不明)源頼茂(敗自41)、源頼朝(事故死52)、源頼保(不明)、宮田時清(不明)、三善康持(不明)、三好義嗣(敗自25)、三好康長(不明)、三好一秀(討死)、三好之長(処刑63)、三好長秀(敗自31)、三好長慶(病死43)、三好政長(討死42)、三好元長(敗自32)、三好長逸(不明)、三好宗渭(不明)、三好義長(不明)、三好実休(討死36)、三好義興(病死22)、三好義継(重存)(敗自25)、  村井貞勝(討死)、村井貞成(討死)、村井清次(討死)、 も 毛利季光(敗自46)、毛利高政(70)、毛利輝元(病死73)、毛利(小早川)秀包(病死35)、毛利秀元(72)、森可成(討死48)森忠政(病死65歳)、森長氏(討死15)、森長可(討死27)、森成利(蘭丸)(討死17)、森可隆(討死19)、桃井宣義(討死)、護良親王(殺害28)、  柳本賢治(殺害)、柳本甚次郎(討死19)、山上六郎左衛門(不明)、山名氏家(不明)、山名氏清(討死)、山名氏冬(不明)、山名氏之(不明)、山名是豊(不明)、山名祐豊(病死70)、山中為俊(不明)、山名時氏(69)、山名時煕(69)、山名豊国(79)、山名教清(不明)山名煕貴(殺害)、山名政豊(59)、山名滿幸(殺害)、山名持豊(宗全)(病死70)、山名持煕(討死)山名師義(49)、山名義理(不明)  遊佐長直(敗自)、遊佐長教(殺害)  六角高頼(病死)、六角定頼(58)、六角久頼(周恩)(病死)、六角政堯(討死)、六角滿綱(敗自45)、六角持綱(敗自)、六角時綱(敗自)、六角義賢(承禎)(78歳)、  脇屋義助(病死38)、脇屋義治(不明)、和田惟長(殺害23)、和田惟政(討死42)

以上580名

 

 

これ等のデータはWikipediaコトバンク、刀剣ワールド、Weblio、ユニオンペディアなどなどを参考にしています。

 

135 武家茶人 略列伝(5) ま行 や行

今回は、次の武将達を紹介します。

前田利長牧村利貞、松井康之、松井友閑(徳庵)、松平定綱、松平正綱松永久秀(弾正)、水野忠元、三好実休(みよし じっきゅう)、三好政長(宗三)、三好康長(咲岩(しょうがん))、村井貞勝毛利秀包(もうり ひでかね=小早川秀包)、毛利秀元森忠政森成利(蘭丸)、山名豊国

なお、「ら行」と「わ行」は省略します。

 

ま行

前田利長(1562-1614) 利休七哲、利休十哲

前田利家の嫡男。加賀前田藩の初代藩主。父と共に織田信長に仕えていたが、信長死後、秀吉に仕えた。戦歴を重ねて父とは別に北陸の地に徐々に地歩を固めて行き、やがて、父・利家より家督と金沢領などを受け取る。父没後、父の就いていた豊臣の五大老の職を継ぐ。

やがて徳川と対立、利長は母・芳春院を徳川に人質に差し出し、養嗣子・利常と徳川秀忠の娘・珠姫(3歳)と婚約させ、両家の和睦を図った。玉姫輿入れの為、江戸から金沢までの道中の橋を整備し、一里毎に茶屋を設置するなどしたと言う。

関ケ原の時、利長は北陸で丹羽長重と戦い、辛勝。関ケ原で東軍勝利の報に長重と和睦。この時、途中から利長と行動を別にした弟・利政の領地が利長に加えられ、122万石になった。大藩になった加賀藩は、家臣の寄り合い所帯になり、家臣の対立が激しくなる。利長は、尾張時代からの家臣と北陸時代からの家臣から家老を選び、藩の運営に当たらせたが、融和は難しかった。利長は病を患い隠居する。死期を悟り高岡城の破却など身辺整理を始めるが、志半ばで没する。病名梅毒。享年53歳。

参考:  「126 武将の人生(7) 書状」              2021(R3).11.30  up

 

牧村利貞 (1546‐1593) 利休七哲 台子(だいす)七人衆

キリシタン大名。名前を幾つも持つ。政治、政吉、高虎、秀光等。

織田信長に仕え、後、豊臣秀吉に仕える。小牧・長久手の戦い四国征伐九州征伐に参陣、伊勢に20,650石を得る。文禄・慶長の役に参陣し渡海、現地に於いて病で客死。享年48歳。

参考:  「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」  2021(R3).08.07  up

            「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」   2021(R3)08.14   up

 

松井康之 (1550-1612)

松井家は代々足利将軍家に仕えてきた。父・正之は足利義晴重臣、兄・勝之は足利義輝に仕える。義輝が永禄の変で殺害され、叔父・新三郎が討死、兄の勝之が殉死。家督を次男の康之が継ぐ。足利将軍家衰亡の時、細川藤孝と共に行動、織田信長の家臣になり、羽柴秀吉を将とした中国攻めに従い、秀吉方の城に水軍を率いて兵糧を運び込み、軍功を挙げる。享年63歳。

参考:  102  戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」   2021(R3).06.02  up

            「103  戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」    2021(R3).06.12  up

            「104  戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」     2021(R3)06.19  up

 

松井友閑(徳庵) (生年不詳-没年不詳) 武野紹鴎(たけの じょうおう)の弟子

松井康之の叔父。信長の懐刀と言われ、織田政権の文官にして茶人。室町幕府に仕え、将軍義輝が三好三人衆によって殺害されると、信長の家臣になった。信長上洛後は右筆になり、政務に当たる。堺や京都の豪商と太いパイプを持ち、名物茶器などを供出させ、信長の茶会では茶頭を務めたりした。宮内卿法印で正四位下になり、信長政権の文官トップに成る。本能寺の変後、堺の代官を務めるが、1586年突然罷免され、消息不明になる。

参考:  「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」          2021(R3)06.19  up

            「106 信長、茶の湯御政道」                          2021(R3).06.30  up

 

松平定綱 (1592-1652) 古田織部の弟子

徳川家康の異父弟・松平定勝を父に持つ。一時期他家の養子になるが、家康の命により松平姓に戻った。関ケ原の戦い後、11歳の時に家康にお目見えし、秀忠に仕える様に命じられた。下総国山川領を手始めに順調に出世、大坂両度の陣に出陣し、常陸国下妻藩2万石に成る。掛川藩、淀藩、大垣藩と転封を重ね、最後は桑名に転封され初代桑名藩藩主(11万石)に成る。

小幡景憲(おばたかげのり)に甲州流軍学を学ぶ。文化人としても知られ、武士から歌人になった木下勝俊(北政所の甥)、小堀遠州林羅山などとの交流がある。享年60歳。

 

松平正綱 (1576-1648) 古田織部の弟子

日光の杉並木を24年かけて植え続け、寄進した事で知られる人物である。(日光街道日光例幣使街道(にっこう れいへいし かいどう)会津西街道の三街道合わせて全長35.41㎞。当初20万本の植樹が行われたが、令和2年現在では12,126本である。国の特別史跡並びに特別天然記念物に指定され、世界最長の並木道に認定されている)。

正綱は、もと大河内正綱と言う。松平氏には幾つもの系統があり、上記松平定綱は久松松平家、正綱は大河内松平家である。正綱は江戸幕府勘定奉行を務めた。家康と秀忠に仕え、家康の遺言を聞いて久能山から日光に改葬した。家光の代になり、勘定方首座を失職。日光東照宮造営の時、お祝いに杉の苗木を贈ろうとしたところ、諸大名から「ケチな奴」と非難された。その後、24年をかけて杉を植え続け、家康33回忌までに完成。なお、正綱の養子に知恵伊豆と言われた松平信綱がいる。正綱享年73歳

 

松永久秀(弾正) (1508-1577) 武野紹鴎の弟子

松永久秀は、三好長慶(みよし ながよし)の右筆として仕え、次第に台頭、将軍・義輝の側近にまでなった。長慶が没すると久秀は三好氏内部で孤立して対立し、抗争に発展する。

三好三人衆足利義栄(あしかが よしひで)を将軍に擁立した上、将軍・足利義輝を殺害。久秀の息子もこれに加担していた。長慶の家督を継いだ義継は、三人衆から軽んぜられ、久秀陣営に入る。ここに久秀と彼等との本格的な戦いが始まるが、久秀は劣勢に立たされる。

三人衆が大和に侵攻し東大寺に陣を敷いたので、久秀はそこに奇襲をかけて勝利した。が、東大寺が焼失してしまった。

久秀は、信長の上洛を機に、人質を差し出し、名物の茶器「九十九髪茄子」を献上して臣従し、信長の援軍を得て大和を平定する事ができた。彼は信長の朝倉討伐や石山本願寺攻めに参陣し信長に協力する。ところが将軍・足利義昭は、幕府直轄領の山城の地を久秀が進出した事に不快感を示して筒井順慶と手を結んだ。久秀は筒井順慶の筒井城を攻撃、戦いは久秀側の大敗北に終わった。やがて、信長-義昭ラインに亀裂が生じ、義昭は信長打倒に動く。義昭は信長包囲網を作り、久秀とも和睦する。久秀は信貴山城に籠城。信長側の総攻撃を受けて、自ら天守に火を放ち自害した。その時、平蜘蛛の釜も焼失した。享年68歳。

三好三人衆とは、三好長逸(みよしながやす)、三好政康(宗渭(そうい))、岩成友道(いわなりともみち)の三人を指す。

参考: 「103戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」   2021(R3).06.12  up

            「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」 2021(R3)06.19  up

            「105 平蜘蛛の釜」                               2021(R3).06.25  up

            「106 信長、茶の湯御政道」                2021(R3).06.30  up

            「107 桃山文化1 城郭建築」              2021(R3).07.04  up

 

水野忠元 (1576-1620) 古田織部の弟子

徳川秀忠の側近。小姓組番頭(こしょうぐ みばんがしら)。大坂両度の戦いに参陣、西丸書院番頭になる。下総(しもふさ)、下野(しもつけ)、近江の三箇所から3万5千石の領地を得る。享年45歳。

 小姓組とは将軍親衛隊の事で軍事部門の役職。常に将軍の傍に居て警護する役目。戦場では騎馬隊で本陣内を守る。1組は番頭1名と与頭1名に番士50名で構成する。本丸に6番、西の丸には4番までの組があった。書院番も役割は小姓組と同じで親衛隊であり、小姓組より守備範囲が城全体に及び、広い。指揮官の番頭1名に、番士50名、与力10騎、同心20名の編成で、これで一組になる。当初4番だったが後に6番になり、朝・夕・泊の三交代制で、休暇もある。

 

三好実休 (1527-1562) 武野紹鴎の弟子

実休は法名。俗名は之相 or 義賢 or 之康。三好元長の次男。兄に三好長慶、弟に安宅冬康(あたふゆやす)十河一存(そごう かずまさ)、野口冬長が居る。

父を早くに亡くし、少年の頃から兄を助けて政治や戦に染まり、合戦に明け暮れする。久米田(現岸和田市)の戦いで根来衆の援軍を受けた畠山高政に敗れ討死する。享年36歳。

山上宗二が、武士でありながら数寄者であると評した唯一の人物、それが三好実休である。名物を50も所有していた。中でも「三日月の壺」を天下無双の名物と宗二が称賛した。これ等は信長の手にわたり、本能寺の変で焼失した。

参考:下記の4項目は、三好政長、三好康長にも共通します。

            「101 戦国乱世(1) 大物崩れ」            2021(R3).05.26  up

            「102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)」 2021(R3).06.02  up

            「103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)」 2021(R3).06.12  up

            「104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変」 2021(R3).06.19  up

 

三好政(宗三) (1508-1549) 茶人。

政長は三好一族の分家。三好本家嫡流の元長とは対立関係にある。政長が細川高国を追い落として堺に上陸すると、元長は足利義維(あしかが よしつな)を擁して堺に幕府を作った。政長はその中枢に入った。元長が将軍・足利義晴と和睦に動くとこれを妨害し、逆に、政長が高国に攻められて窮地に陥ると、元長の出動を求めた。元長が高国軍を大物崩れで滅ぼして元長の勢力が台頭してくると、政長は一向一揆を起こさせて元長を挟撃、元長を討ち取ってしまった。

政長が三好家中を掌握し、勝手放題の振る舞いをする様になった。娘の嫁ぎ先の摂津池田城城主・池田信正を切腹させ、信正の宝物を奪った。元長の嫡子・長慶は政長排斥を決意、政長が進出した江口城を長慶は攻めた。この江口の戦いで政長は討ち死にした。享年42歳。

政長は天下三肩衝(てんか さん かたつき)「新田肩衝を所有していた。(肩衝は茶入れの事)

 

三好康長(咲岩(しょうがん)) (生年不詳-没年不詳)

三好一族。父は本家嫡流の三好長秀。兄に元長がいる。長慶の叔父。三好実休に仕える。また、豊臣秀次は、一時期、三好康長の養子になっている。

松永久秀三好三人衆が信長に下った際に、三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月の茶壷」を献上した。

※ 秀吉の甥(後の秀次)は浅井長政の家臣・宮部継潤(みやべ けいじゅん)の人質兼養子になって宮部吉継となり、更に三好康長の養嗣子となって三好信吉となった。秀吉の鶴松が夭折したので、更に秀吉の養嗣子になって羽柴秀次となった。

 

村井貞勝 (生年不詳‐1582)

織田政権の時の京都所司代。文官。朝廷・貴族・寺社・町方の行政、治安などをこなした有能な官吏。公文書などの発給、土地の調査、係争などを担当。信長の命で二条城とは別の「二条新御所」を普請。本能寺の変の時、本能寺向かいに住んでいた貞勝は、いち早く妙覚寺に居た信忠に報せ、信忠と共に二条新御所に立て籠って戦い、討ち死にした。貞勝の子・貞成と清次も一緒に討死している。

 

毛利秀包 (もうり ひでかね)(小早川秀包) (1567-1601) 古田織部の弟子

毛利元就の9男として生まれる。備後国人・太田英綱の養嗣子となり、太田元網と名乗り、更に小早川隆景(実兄)の養子となり、小早川元総(こばやかわ もとふさ)と改名。

吉川広家と共に羽柴秀吉の人質となり大坂に送られ、秀吉の「秀」の字を賜り、秀包と名乗る。小牧・長久手の戦いを始め、数々の戦に従軍。伊予宇和島郡の大津城で3万5千石を与えられる。その後も数々の武功があり、久留米城を築く。大友宗麟の娘を妻として、受洗。洗礼名はシマオ。朝鮮出兵の際、渡海。先鋒隊になる。実兄にして養父の隆景の下に、秀吉の養子・木下秀俊(=小早川秀秋)が養子として来たために、秀包は弾(はじ)き出されて廃嫡にされた。関ケ原では西軍に与する。小早川秀秋の寝返りにより、小早川家の姓を捨て毛利姓に戻る。大徳寺で剃髪。領国へ帰国途次、喀血し病没。享年35歳。

 

毛利秀元 (1579-1650) 古田織部の高弟

7歳の時、毛利輝元の養嗣子となる。14歳の時に文禄の役で渡海、それが初陣の舞台となる。毛利輝元に実子・松寿丸(秀就(ひでなり))が生まれたので、養嗣子を辞退する。慶長の役の時も再び毛利軍3万を率いて渡海する。

関ケ原の戦いの時、大坂城に入った毛利輝元に代わり、秀元が関ケ原に出陣し、家康の後方を窺う絶好の位置・南宮山の頂上に陣取った。が、西軍の勝利を危ぶむ秀元の家老・福原広俊や後見役の吉川広家などが秘密裏に、本領安堵を条件に徳川に敵対しない事を約束していた。若き毛利軍大将・秀元を、山の上に押し上げて、老練な家臣達はその麓に陣取った。家臣達が動かなければ、頂上の秀元は攻め下れない。いわば籠の鳥にしたのである。結局戦況を静観した為に、同地域に布陣していた安国寺恵瓊や長曾我部盛親の南宮山グループは、毛利が動かないので動く事が出来なかった。大坂両度の陣の時、毛利は東軍側で城を攻囲した。

戦後、徳川は毛利との密約の本領安堵を反故にし、大減封に処した。秀元も毛利家から分け与えられていた領土が没収されてしまった。大幅に削減された領地を、家臣団に再分配し、人員削減のリストラを断行した。輝元は隠居、秀就が後を継ぎ、秀元は幕府との交渉役になった。やがて、秀就と秀元の間に溝が出来たが、和解。秀元は江戸に出て、家光の御伽衆となった。享年72歳。

 

森  忠政 (1570-1634) 古田織部の弟子

森可成(もり よしなり)の6男。兄に森蘭丸(成利)がいる。

天正10年(1582年)春、13歳の時、信長に小姓として出仕するが、先輩小姓と喧嘩して「小姓として能(あた)わず」と母の下に返される。為に、同年6月の本能寺の変に巻き込まれなかった。

兄・長可が小牧・長久手の戦いで討死後、忠政が家督を受け、岐阜の金山城を継ぐ。豊臣政権下になり九州と小田原征伐に参陣、朝鮮の役は名護屋に詰める。秀吉亡き後、徳川と関係を強化、兄・長可の旧領・川中島を継ぐ事を希望して、海津城に入城する。兄の治世の時、兄を裏切った高坂昌元の一族を徹底的に探し出し、数百人を磔刑に処した。また、検地を行い増税。苛政に苦しんだ百姓の一揆が勃発した。忠政は彼等を磔にした。その数600余人。兄への恨みで儂への報復の機会を待っていたであろうと、海津城を待城(まつしろ(→現代の松代))と改名する。

関ケ原の戦いでは真田の抑えで信州に残る。小早川秀秋改易で美作国(みまさかのくに)津山藩に転封。津山藩では忠政入府に反対する者多く、迎撃の態勢を取ったが、忠政は彼等を調略し、難なく入る事が出来た。13年の時をかけて津山城を完成。町割りや道路整備などを行い藩の基盤を作る。病死(食中毒)。享年65歳。

 

森  成利 (蘭丸) (1565-1582)

森可成の3男。信長の近習。甲州征伐に貢献した功により、美濃岩村城主5万石を与えられた。成利は、兄・長可(ながよし)の家老・各務原元正(かがみ もとまさ)に城代を任せていたが、城主になった同じ年の6月、本能寺の変にて明智光秀軍に囲まれ、奮戦空しく、二人の弟と共に討死した。享年18歳。

 森可成(もり よしなり)と6人の息子達の死因は下記の通り。

  可成・浅井朝倉攻めの時、宇佐山城の戦いで討死。享年48歳。

  長男・可隆(よしたか) 朝倉の手筒山城攻撃の時、討死。享年19歳。

  次男・長可(ながよし) 小牧・長久手の戦いで討死。享年27歳。

  三男・成利(なりとし)(=蘭丸) 本能寺の変で討死。享年18歳。

  四男・長隆(ながたか)(=坊丸) 本能寺の変で討死。享年17歳。

  五男・長氏(ながうじ)(=力丸) 本能寺の変で討死、享年15歳。

  六男・忠政(ただまさ)(=仙千代丸or千丸) 病死、享年65歳。

なお、可成は側室を置かず、上記の兄弟達は全て同母兄弟である。

 

山名豊国 (1548-1626)

日本六十四州の内十一州を治め、六分の一殿と呼ばれた名族山名氏の末裔。先祖に山名宗全がいる。新田源氏の流れで、家系の格は徳川家康より上である。豊国の生母は細川高国の娘。

羽柴秀吉因幡国に攻めてきた時、豊国は鳥取城に立て籠ったが、徹底抗戦を主張する家臣達を置いて一人秀吉方に出奔、降伏する。秀吉の二度目の鳥取兵糧攻めに城は陥落、豊国はこの戦いに参陣するが、戦後、豊臣氏への帰属を断り、浪人する。関ケ原では東軍に加わり、翌年但馬の七美郡(しつみぐん)全域の6,700石を与えられる。名流の子孫に相応しく、有職故実(ゆうそくこじつ)、和歌や連歌茶の湯など文化教養面に造詣が深く、将軍・足利義晴から賜った羽織を、着た切り雀の様に生涯大事にして着ていた、と言われている。享年79歳。

参考:  「91 応仁の乱(2) 続・お家騒動」                  2021(R3).03.24  up

             「95 応仁の乱(6) 終結への道」                     2021(R3).04.16  up

 

ら行、わ行は省略

 

参考までに

何時もご愛読いただいて有難うございます。

文中に、参考として例えば「126 武将の人生(7)  書状」と書いておりますが、

次の様にクリックして頂ければその項に飛ぶことが出来ます。

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 なお、本文中の「参考に書かれている文字列」を直接クリックしても、お望みのブログの記事にはたどり着けません。

 

 

134 武家茶人 略列伝(4) は行

梅是百花魁 (梅これ百花のさきがけ)と申します。住宅街のあちこちの庭にちらほらと梅のつぼみを見る様になりました。日陰の霜柱も心なしか低い様な・・・

古田織部はウニのよう」と書き始めたこのブログは、4月で丸2年を迎えます。ようやく織部が生きていた時代に差し掛かって参りました。ウニを取り巻く海に譬(たと)えて、織部が生きた武士世界の人間群像を見ますと、商人や職人達の市井(しせい)の人々、農民達などとは違った生き様が浮かび上がって参ります。

 

は行

長谷川宗仁 (はせがわそうにん)(1539‐1606) 武野紹鴎(たけのじょうおう)の弟子

堺の町衆の一人。後、武士になり織田信長に仕える。当時、中国地方では毛利氏、尼子氏が争い、山名氏も内紛を抱えて分裂していた。そのような時、山名祐豊(すけとよ)が但馬(たじま)生野に銀山を発見する。今井宗久と長谷川宋任は山名祐豊を助け、織田家の力を引き込み、織田家の銀山を確保、但馬の生野銀山経営に手を伸ばす。秀吉の代にはフィリピン貿易の責任者となり、「ルソンの壺」の買い上げ独占を行う。関ケ原では西軍側に立ち、細川幽斎の田辺城を包囲。後、徳川家康に仕える。武野紹鴎の門人。『古瀬戸肩衝茶入(長谷川肩衝)』を所持。茶人にして絵師。享年68歳。

 

蜂須賀家政 (1558-1639)

家政は蜂須賀小六正勝の子で、尾張の宮後城(みやうしろじょう)で生まれた。織田信長羽柴秀吉に仕えた。山崎の戦いや賤ケ岳の戦いの功で、播磨国の内、3千石を得る。その後、紀州征伐、四国攻めなどで武功を挙げた。それにより阿波18万石の大名となる。一宮城の主となり、更に徳島城を築城。城の竣工を祝って領民に「好きに踊れ」と促して始まったのが「阿波踊り」の原点だと言う。その後も九州、朝鮮の役で活躍。家康の会津征伐には息子の至鎮(よししげ)を派遣。家政自身は大坂城に居て豊臣側を監視した。が、大坂城に入った毛利輝元に逼塞させられ、阿波は毛利軍の侵攻を受ける。関ケ原の戦いで至鎮所属の東軍が勝利した事に因り、阿波は家康により安堵された。戦後家督を至鎮に譲り、隠居。が、至鎮が35歳で夭折したので孫の忠英(ただてる)を後見する。享年81歳。

 

花井吉成 (生年不詳-1613) 古田織部の弟子

初め徳川家康の近習として仕え、後に、家康6男の忠輝が川中島藩の藩主になり、海津城に入った時、付け家老として忠輝に仕える。忠輝が越後国高田藩の藩主になり、川中島藩と兼務する様になると、花井吉成は海津城の城代になってその地を治めた。北国街道の整備、犀川(さいかわ)水系の治水、用水路や水田開発など民政に力を注ぎ、領民から感謝された。花井神社として、息子と共に祀られている。

 

林 秀貞 (1513-1580)

佐渡守秀貞。織田信長の後見役。信長とその弟・信行(=信勝)が対立し、柴田勝家や林通具(はやし みちとも(秀貞の実弟で林美作(はやしみまさか)守))がお家騒動を起こし、稲生(いのう)で衝突した時、これを静観。戦後、秀貞と勝家は赦され、織田家宿老に復帰する。晩年、突如信長より追放処分を受け、京都に隠棲。追放2か月後卒。享年68歳。

 

平手政秀(1492‐1553)

織田信秀に仕える。織田信長の傅役(もりやくorふやく)。次席家老を務める。信長と斎藤道三の娘・濃姫との縁組を決めた。信秀の死から約1年後、若き日の信長の行状を諫める為に切腹。文化人。茶の湯や和歌に通じていた。享年62歳。

 

船越景直(ふなこしかげなお) (1540-1611) 古田織部小堀遠州の弟子

水軍を率いて、三好長慶の弟・安宅冬康に仕えた。三好滅亡後、信長の旗下に入り、信長亡き後秀吉の直臣に成る。各地の戦いに参陣し武功を挙げる。関ケ原の時には東軍に属し、摂津や河内、大和等を合わせて最終的に6千石を領する様になる。茶席で使う古帛紗などの織物に、船越間道と言う布があるが、これは彼の使っていた織物(明代の製作)に由来する。享年72歳。

※ 間道(かんとう)とは織物の柄の名前で、縦縞、横縞、格子縞など、縞模様の事を云う。

 

船越永景(ふなこしながかげ) (1597-1670) 古田織部小堀遠州の弟子

父は船越景直。父の跡を継ぎ、摂津・河内・大和の6千石の江戸幕府旗本。普請奉行。片桐石州との交流あり。享年74歳。

 

古市澄胤 (ふるいち ちょういん)(1452-1508) 村田珠光弟子

興福寺衆徒。古市播磨法師と呼ばれ、大和に勢力を拡大。山城国一揆を鎮圧。博打好き。茶の湯・謡・連歌などに通じ文化人。茶人・村田珠光(むらたじゅこう)の第一の弟子。山上宗二から「和州古市澄胤 茶の名人」と讃えられている。澄胤の弟子に松屋久行が居る。澄胤は河内国高屋城主・畠山尚順(はたけやま ひさのぶ or ひさより)を攻撃し、敗走途中で自害する。享年57歳。

参考:117桃山文化11 焼物(2) 茶の湯  古市澄胤

 

古田重然(しげなり)(織部)(1544-1615) 利休七哲の一人

安土桃山時代から江戸初期にかけての部将にして茶人。生国美濃。名は佐介、景安、重然。通称織部(おりべ)。古織(こしょく)。信長の配下になり、使番(つかいばん→伝令や使者)になる。信長の仲介で中川清秀の娘・せんと結婚。山城国久世荘の代官となる。信長に従い数々の戦に出陣、荒木村重謀叛の時、舅・中川清秀を説得し信長側に引き戻す。信長没後は秀吉に仕える。賤ケ岳の戦いで清秀が戦死した為、清秀の息子の秀政の後見役に成る。小牧・長久手紀州や四国攻め等に中川秀政と共に参陣。従五位下織部助に叙任され、山城国西岡に3万5千石を与えられ大名になった。小田原の陣では千利休と交流を持ち、竹花生けを作る。この頃から、頻繁に奈良衆を招き茶会を開く様になる。時には、利休と熱海で温泉につかったりしたが、利休が秀吉の勘気を蒙り追放された時、細川三斎(忠興)と共に淀川で見送った。文禄の役では肥前名護屋に詰めた。関ケ原の戦の前に佐竹義宣を調略、功により家康から1万石を加増された。

家督を重広に譲り、隠居料3千石を得て茶三昧の生活に入る。朝廷、公家、寺社、堺や博多・大阪などの富豪層、各地の窯元の職人達への作陶指導などと、その人的交流も広くなり、利休亡き後の茶の湯界の頂点に立った。太閤秀吉の筆頭茶堂になり、徳川秀忠の師匠にもなった。

大坂夏の陣の時、織部の家老・木村宗喜が豊臣側に内通し謀反の疑いが有るとの理由で、織部切腹を命じられた。彼は一言も弁明せずそれに従った。享年73歳。

  参考:「115 桃山文化9 漆工芸                    2021(R3).09.01  up

             「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯   2021(R3).09.17  up

             「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼      2021(R3).09.23  up

             「119 式正の茶碗」                                 2021(R3).10.01  up

 

古田重勝 (1560-1606) 古田織部の弟子

伊勢松坂藩藩主(5万5千石)。従五位下兵部少輔重勝古田織部の従兄弟。しばしば古田織部と混同される。重勝の父・古田重則は秀吉の腰母衣衆の一人。重則の子に、嫡男・重勝(徳川方)、次男・重忠(豊臣方)、三男・重治(徳川方)がいる。重則は三木城の戦いで討死。嫡男重勝家督を継ぎ、重勝も秀吉に仕える。

関白秀次事件で伊勢松坂藩の服部一正が連座して切腹した後を受け、松坂城に入る。家康の会津征伐に従い、関東まで行くが、石田三成謀叛の報せと共に、松坂城、津城が三成方の手に落ちたとの知らせを受け、家康の許しを受け、津藩の富田信高と共に折り返し本国に馳せ帰り、これを奪還する。関ケ原時、東軍に立つ。なお、重勝の三人兄弟の内、重忠は豊臣秀頼付の側近である。大坂の陣では兄弟が東西に分かれて戦う事になる。大坂夏の陣前に、重勝は病没しているので、大坂城の重忠に対峙したのは末弟の重治である。重勝享年47歳。

 

古田重治 (1578-1625)

松坂藩、浜田藩の藩主。上に、重勝、重忠の兄がいる。

秀頼側近の重忠は、関ケ原合戦後に、二人の息子を兄・重勝と弟・重治にそれぞれ分けて養子に出す。重勝没後、重勝遺児希代丸(まれよまる(後の重恒))が4歳故に家督を継ぐに堪えられずと見た家康が、重治に兄の跡を継ぐ様に命じる。重治は、それは希代丸が継ぐべきとして固辞したが、家康は重治を、兄の「兵部少輔」の役職を空席にし、「大膳大夫」の役職にして松坂藩藩主に任じた。更に石見国浜田藩(5万4千石)に転封。初代浜田藩藩主にする。

大坂の陣に重治は東軍側で出陣、大坂方の重忠は落城の前日に城内で討死する。希代丸改め重恒が成人すると、重治は家康に願い出て家督を重恒に譲り、空席だった兵部少輔を重恒に就け、浜田藩2代藩主とした。又、重忠遺児・重良と重昌の二人を徳川直参旗本にした。重治自身は隠居して、隠居料も土地も、茶道具類なども財産全てを重恒に渡して江戸に出る。「其身は物寂しきさまにて在江戸に侍(はべり)き」と『太閤記諸士之伝記』に書かれている。家康は、重治を称して「今世(きんせい)まれなる者かな」と絶賛した。が、この家督の流れが、後の古田騒動の遠因になっていく。重治、江戸にて没。享年48歳。

 

北条氏盛 (1577‐1608) 古田織部の弟子

北条氏規(うじのり)の長男。正室はこの項でも取り上げている船越景直の娘。秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、氏盛は父・氏規と従兄弟の氏直と共に高野山に上ったが、約2年後に赦免された。氏盛は、氏直の養子となり、氏直没後下野(しもつけ)4千石を与えられた。朝鮮の役の時は肥前名護屋に詰めた。又、父の遺領・河内国狭山7千石を継ぎ、都合1万1千石の大名になった。初代狭山藩主。享年31歳。

 

保科正光 (ほしな まさみつ) (1561-1631) 古田織部の弟子

武田氏滅亡の時、武田の人質になっていたのを救出され、徳川に従う。高遠城(たかとおじょう(現長野県伊那市))を預かり、小牧・長久手の戦い小田原征伐の時も徳川傘下で戦う。下総国の多胡(たこ)に1万石を領する。文禄・慶長の役でも家康傘下、関ケ原も東軍と立場は一貫していた。内政に力を注ぎ、功により高遠藩2万石になる。徳川家からの信頼殊の外篤く、秀忠の内諾を得て、秀忠の隠し子・幸松丸(後の正之(まさゆき))を養子にする(秀忠正室お江の嫉妬が激しく、秀忠の手元で育てるのは危険だった)。その後の種々の功績により、加増され、最終的には3万石の大名になった。享年71歳。

 

細川忠興(三斎) (1563-1646) 利休七哲の一人。千道安にも学ぶ。

細川藤孝(幽斎(ゆうさい))の嫡子。忠興は初め織田信忠(信長嫡男)に仕える。信長の意により明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。光秀は信長に忠勤に励んでいたが、突然謀叛を起こし本能寺で信長を殺した。忠興は父・幽斎と共に剃髪し、玉を幽閉した。父・藤孝は隠居して丹後南半国だった領国を忠興に譲る。忠興は光秀側に就いていた丹後の北半国の一色氏を明智光秀と連携して滅ぼし、丹後一国を平定。秀吉より丹後一国の領有を許された。その後、九州征伐小田原征伐などを戦い、朝鮮の役にも渡海。関ケ原では東軍に与した。為に、妻の玉は三成の人質になるのを拒否、殺害される道を選ぶ。関ケ原の功により、豊前国中津に転封、豊後杵築(きつき)と合わせて39万9千石に成る。小倉城を築城し、居城とした。大坂夏の陣に参陣後、熊本藩54万石になった三男の忠利に家督を譲り、隠居料9万5千石を貰って悠々自適の暮らしをする。著書に『細川三斎茶書』がある。和歌・能楽・絵画、更には医学に関心を持っていた。茶の湯では利休七哲に数えられる程の達人だった。なお、利休が秀吉から追放された時、古田織部と共に淀川を下る利休を見送っている。享年83歳。

 

細川藤孝(幽斎) or 長岡藤孝(1534-1610) 武野紹鴎の弟子

室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕えていた。義輝が非業の最後の後、足利義昭を将軍にと明智光秀を通じて信長に働きかけ、実現する。義昭と信長の間はやがて冷却、義昭は信長によって追放される。藤孝は信長に就く。信長配下の武将として各地を転戦、功を挙げ、山城国長岡の知行を許される。信長の仲介で光秀の娘・玉と藤孝嫡男・忠興との婚儀が成る。本能寺の変の時、剃髪。幽斎玄旨(ゆうさい げんし)と名乗って隠居。家督を忠興に譲る。

藤孝は、文武両道に優れていた、和歌、連歌、茶道、囲碁、将棋、猿楽などに造詣が深かった。特に、和歌を三条西実枝(さんじょうにし さねき)に学び、古今伝授の唯一の伝承者である。

家康の会津征伐の時、細川家の主力軍が参陣して留守中、手薄の丹後田辺城が石田方の軍勢1万5千の兵に攻囲される。幽斎は籠城戦を敷いたが、手勢は500。寄せ手の中にも藤孝の歌の弟子達が居て、攻撃が鈍(にぶ)り勝ちだったが、なにしろ多勢に無勢で戦う事3か月。この時、細川藤孝を死なすなと、八条宮智仁親王後陽成天皇が動いた。我が国唯一の古今伝授者である藤孝を失っては、日本の和歌が失われてしまう、と言う訳で、勅使が田辺城に遣わされ、勅命により講和がなされた。幽斎悠々自適の暮らしの後、京都で没す。享年77歳。

 

余談  古田三兄弟の動き

古田織部の従兄弟とされる古田重勝・重忠・重治三兄弟の動きは不思議です。

大坂方にいる重忠が、二人の息子の両方とも徳川に与している兄と弟に養子に出してしまいました。何故?

武士の家では家系断絶を最も嫌います。本家嫡流はもとより分家であっても、分家なりの家系を繋げる為に努力します。重忠は自分の大切な継嗣を手放した上に、継嗣に代わるべき次男をも養子に出してしまいました。

重忠は、豊臣側の内情を深く知る立場に居ました。彼は内実を良く知っていたが為に、豊臣の将来を見限ったのではないか、その為に息子を手放すという挙に出たのではないか、と思えてくるのです。養子を迎え入れた兄と弟は、その辺の事情を知っていたのではないかと・・・

古田織部に、大坂方と内通したとの嫌疑が掛けられました。織部茶の湯を通じて大坂側の内部情報を良く知っていたと思われます。その情報元の一つに重忠がいたかどうか、重忠が討死してしまったので分かりません。織部重臣・木村宗喜が逮捕された事件は京都の伏見で起きました。その時、重忠は大坂城に居たのですから、この事件との直接的な繋がりは無いと思いますが、なんとも気になる動きです。なお、古田三兄弟は美濃出身で、家紋は織部と同じ「丸に三両引」。通字は「重」です。

 

133 武家茶人 略列伝(3) た行 な行

戦国時代から江戸時代初期までで、武人の茶の湯に限って取り上げますと、その母集団に偏(かたよ)りがある為、古田織部の弟子達の名前が頻繁に挙がる様になります。

今でも社長がゴルフ好きなら、部下達もゴルフをやる様になります。取引先がそうならば、営業担当者もそれに追随する様になります。それと同じで、信長死後、茶の湯の許可制(茶の湯御政道) の箍(たが)が外れ、武士達の間に茶の湯人口がかなり広がって行きました。師匠について茶の湯を習う者もあれば、見よう見まねで始める者もいます。茶の湯は武士の素養として無くてはならないものになって行きました。

た行

高山右近(南坊)(1552-1615) 利休七哲の一人

10歳で洗礼を受ける。洗礼名・ジュストorユスト。摂津高槻城主・和田惟政(わだ これまさ)に仕えた。和田惟政が討死すると、右近は惟政の子・惟長を補佐したが、和田家臣達に疎まれ暗殺の罠にはまる。乱戦で首を斬られる瀕死の重傷を負ったが奇跡的に助かる。和田惟長は逃亡。右近は高槻城の城主となる。生還を神の恩寵(おんちょう)と感じ以後、キリスト教に更に傾倒、領内の神社仏閣を破壊し尽くす。事件後荒木村重に従う。村重の謀反に説得を試みるが失敗、右近は信長に降る。信長没後、羽柴秀吉に就き、各地転戦。右近に影響されて、蒲生氏郷黒田官兵衛牧村利貞などが洗礼を受ける。秀吉の伴天連追放令が出た時、右近は全財産を放棄して前田利家の下へ身を寄せる。小田原征伐の時は前田軍の客将として従軍。徳川家康キリシタン追放令が出ると、家族を連れマニラへ移住。マニラ到着40日後病没。享年63歳。

 

武井助直(夕庵(せきあん))(生年不詳-没年不詳) 足利家の書院茶・利休の侘茶

土岐氏斎藤道三・義龍・龍興3代に右筆(ゆうひつ)として仕え、更に織田信長の右筆になる。重要な案件の発給書などを手掛け、東大寺正倉院蘭奢待(らんじゃたい)の奉行の内の一人になり、又、石山本願寺との講和の際、勅使の奉行を務める。信長の信任極めて厚く、安土城での屋敷は、織田信忠などに次ぐ場所を与えられる。茶人としても活躍していた。

 

竹中重利 (1562‐1615) 古田織部の弟子

軍師・竹中半兵衛(重治)の従兄弟にして義弟(正室が半兵衛の妹)。名を重信、重義、隆重、重隆と幾つも持っている。半兵衛より美濃長松城3千石を分けて貰う。半兵衛亡き後、豊臣秀吉に仕える。小田原征伐では秀吉の馬回役になり、朝鮮両度の役で従軍。豊後高田城13,000石の城主になる。関ケ原では西軍についたが、黒田官兵衛に高田城を攻められ、脅迫じみた説得で東軍になる。これにより所領安堵され、豊後荷揚城(=大分城)35,000石を領する。享年54歳。

 

伊達政宗 (1567-1636) 古田織部の弟子

伊達氏16代・伊達輝宗の嫡男。天然痘により片目失明。18歳の時、小浜城・菊池顕綱を攻撃し、城内皆殺しにした。政宗は南奥州諸侯と戦い、畠山義継との戦闘の時、政宗は敵もろとも父・輝宗を銃撃してしまう。秀吉は私闘の戦争を禁じる惣無事令を発令。しかし、政宗はこれを無視、なお戦を続け奥州に強大な領国を築いた。秀吉は怒り、更に小田原征伐に遅参した政宗を許し難く呼び出したが政宗は白装束で現れる。文禄の役に派手な戦装束を着て京の都をパレード。伊達者と言われる。秀吉薨去後、政宗の娘・五郎八(いろは)姫を徳川の松平忠輝に輿入れさせる。関ケ原では徳川方に味方し、対上杉戦を展開(慶長出羽合戦)、上杉勢が南下して徳川を脅かすのを防いだ。政宗は徳川の許しを貰い仙台に城を築く。また、支倉常長(はぜくら つねなが)など180人をスペイン、ローマに派遣した(慶長遣欧使節団)。大坂夏の陣では真田信繁の攻撃を受けて後退した。また、徳川方の水野配下の神保隊300名を味方討ちにして全滅させた。水野の抗議に対して幕府は政宗に忖度して之を黙殺する。筆まめで知られ、教養人でもある。政宗徳川家光の代まで仕え、食道癌と癌性腹膜炎で死去。享年70歳。

土屋宗俊(つちや そうしゅん) (生年不詳-1671) 古田織部の弟子

剣豪・戸田清元(富田勢源)の免許皆伝の弟子。加賀藩前田家に仕えた後に牢人して古田織部の家に寄宿。関ケ原に出陣し負傷。久留米藩に400石で再就職。藩主・有馬豊氏は茶人であったが、茶の湯に粗略な風があったので、宗利はそこを辞し堺に滞在した。その後、福岡藩に出仕。織部流を伝える。孫弟子に立花実山(南坊流・立花流開祖)がいる。

 

筒井定次(つつい さだつぐ)(1562‐1615)

大和筒井城主・筒井順慶の養嗣子。信長没後伊賀上野に転封。伊賀上野城を築城。豊臣秀長の傘下で、小田原征伐などに参陣、唐攻めの時は名護屋に詰める。会津攻めの時、伊賀上野城を西軍に奪われる。関ケ原は東軍で戦い、戦功により伊賀守に叙任される。茶の湯を好み、古田織部と交流。定次は陶工を呼び戻し(かつての信長の伊賀討伐で伊賀の陶工が離散していた)伊賀焼を保護し奨励した。大坂冬の陣の時、内応の疑いを掛けられ切腹を賜る。享年54歳。

 

妻木頼忠 (1565-1623) 古田織部の弟子

美濃国土岐郡妻木城城主。森長可(もり ながよし)の侵攻を受け、敗色濃くなったので降伏の道を選ぶ。森長可の家臣になり、小牧・長久手の戦いでは秀吉側に就く。関ケ原の時は東軍に立ち、東美濃にいる西軍側の田丸直政を攻略した。関ケ原合戦が東軍の勝利に終わると、田丸氏も交戦を止め、東軍に降った。その功により土岐郡内の8ヵ村を与えられた。大坂夏の陣にも出陣。夏の陣の23年後死去。享年59歳。

土井利勝(1573-1644) 古田織部の弟子

幼名・松千代、甚三郎。父は水野信元。(信元の異母妹・於大(おだい)の方は松平広忠に嫁し、竹千代(後の徳川家康)を生んだ。信元と家康は伯父と甥の関係にある。又、利勝は家康の御落胤である、と言う説もある。)

父・信元は、敵方である武田氏に内通したとの嫌疑が掛けられ殺された。利勝は家康の計らいで土井利昌の養子になる。徳川秀忠が生まれると、安藤重信や青山忠成の傳役(もりやくorふやく)と共に、7歳で傳役を命じられた。関ケ原の時は秀忠に従った。行政手腕に優れ、徐々に禄高が上がって行ったが、大坂の陣後、6万5千石になり、家光が生まれると、再び家光の傳役に就いた。家光が将軍位に就くとさらに幕政に関わる様になる。下総国古河(こが)藩16万2千石に加増される。武家諸法度に参勤交代を組み込み、幕藩体制を盤石なものにした。寛永通宝を鋳造し、経済の基盤を整備。老中職に就くが、晩年は中風を患い実務から遠ざかり、名誉職の大老になる。享年72歳。

 

藤堂高虎 (1556‐1630) 古田織部の弟子

近江の土豪の子として誕生。貧しくて戦場での足軽働きで生活していた。

初め浅井長政(あい ながまさ)足軽として雇われるが、浅井家が滅亡。以後転々と主人を替える内、羽柴秀長に出会い、300石で秀長に仕える。秀長は高虎に学問を勧め、また、宮大工の中井正清、大工棟梁・甲良宗弘(こうら むねひろ)、石工集団の穴太衆(あのうしゅう)とも交流、秀長の代理で安土城普請に携わる。高虎は自分を評価してくれる秀長に出会い、忠節を尽くす様になる。秀長に従い各地を転戦。徐々に禄高を上げた。秀長が没すると養嗣子の羽柴秀保に仕え文禄・慶長の役に出陣、朝鮮の高官・姜沆(きょうこうorかんはん)を捕虜にして日本に連れて来る。帰国後大洲城8万石になる。秀保が亡くなると出家。出家を惜しんだ秀吉に説得され、還俗。

秀吉薨去後、家康が会津征伐を反転させて西征の際、木曽川渡河で福島正則池田輝政等と共に西軍織田秀信と戦い、美濃を制圧。関ケ原でも奮戦し、その功により今治城12万石加増され、伊予宇和島城と合わせて20万石になる。江戸城改築や各地の築城を成し、黒田官兵衛加藤清正と共に藤堂高虎は築城の名手と謳われる。足軽時代の攻城経験や大工達との親交が大いに役に立っている。その後の戦績や築城の功により伊勢津藩に転封、27万石の藩主になり、最終的には32万3千石になる。内政に力を入れ、金春流能楽師を保護、文学や茶の湯を楽しむ。晩年失明。享年75歳。

※ 姜沆は『姜羊録』の著者。日本の内政や生活などの情報を細かく書いている。秀吉の相貌の異常さや職人技が尊重される風土、内政や国土など、内容は多岐にわたっている。

参考: 126 武将の人生(7) 書状 2021(R3).11.30 up

 

徳川秀忠 (1579-1632) 古田織部の弟子

秀忠は徳川家康の三男。この頃は未だ長子相続のルールが定まっていなかったが、ポスト家康の有力候補に秀忠が期待されていた。秀忠は、秀吉の計らいで淀君の妹・於江与(おえよ=お江(ごう))と結婚する。

関ケ原の戦いの時、秀忠が真田攻めに手間取って関ケ原に遅れたとの定説があり、家康は遅参した事に激怒した、と言われている。この秀忠の関ケ原合戦遅参が、秀忠は無能な武将であるとの印象を後世まで与える事になってしまった。

『徳川実記』には(前略)(嫡男、次男、四男を指して) おづれも(いずれも)父君の神武の御性を稟(うけ)させられ、御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に、独り台徳院(秀忠)殿には、後幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給い、(以下略)と書かれている。

武略の人よりも文治の人の方が、天下泰平の世には適材だと家康が判断したと伝えられている。家康が引退し、秀忠が2代将軍を襲位すると、地味ながら秀忠は着実に幕藩体制を整えて行き、その後250年以上続く徳川の基礎を築き上げていく。有能な家臣達に支えられながら、公家諸法度、武家諸法度の整備を行い、天皇家との姻戚関係の構築、寺社統制などを実施した。茶の湯織部に学んだ。織部切腹の後、織部遺愛の品々を用いて茶会を開いた、と言う。

昭和33年(1958年)、台徳院霊廟が増上寺に移築された際、学術調査が行われた。身長158㎝、毛深く、筋肉質の大柄な体格で、血液型O型、胃癌など消化器系の癌で亡くなったと、調査で判明している。享年54歳

※ 家康には8人の男子がいた。長男信康(切腹)。次男秀康(秀吉の人質兼養子になり、後、結城家の養嗣子になる)。三男秀忠(2代将軍)。四男忠吉(無子断絶)。五男忠輝(流罪)。六男義直(尾張徳川家の祖)。七男頼宣(紀州徳川家の祖)。八男頼房(水戸徳川家の祖)。

 

豊臣秀次(1558‐1595) 三好康長(養父)と千利休の弟子

関白左大臣豊臣秀吉の甥。叔父・秀吉の出世に翻弄される。4歳の時に宮部継潤(みやべ けいじゅん)の人質、更に三好康長の人質になる。人質生活を終えた後、小牧長久手の戦いの時に壊滅的な敗北を喫したが、その後は各地の戦いで勝利を収めた。やがて関白に就任するも、秀頼出生により追われ、自害に及ぶ。関白秀次事件として知られ、謎が多い。文武両道。古典の蒐集に力を入れ、茶道や連歌を嗜む教養人。享年28歳。

参考:113 桃山文化7 文学    2021(R3).08.20 up

 

豊臣秀吉(1537‐1598) 千利休の弟子

従一位・関白太政大臣。百姓から身を起こして天下人に成る。秀吉の経歴については多くの人が知っているので、ここでは省略する。

彼は、文化的教養を身に着ける為に大いに努力し、茶の湯千利休に、連歌を里村紹巴(さとむら じょうは)に、文学を細川幽斎に、能楽を金春太夫安照にそれぞれ学び、禅の修養も積んだ。能では自作の曲『明智討ち』や『柴田』を作り、演じた。茶の湯では、黄金の茶室を造り、参内してその茶室を宮中に持つ込み、正親町天皇に披露した。利休の侘茶に批判的で、古田織部武家に相応しい茶の湯を創始せよと命じている。また、利休が行ったルソンの壺をはじめとする雑器などの高額の商売を、快く思っていなかった。

 

な行

内藤政長(信斎) (1568-1634) 古田織部の弟子

小牧・長久手の戦いで戦功をあげ、朝鮮出兵名護屋城に詰める。伏見城攻防戦で父が戦死。関ケ原では東軍に立ち、関東に於いて対上杉戦に備える。功により上総(かずさ)佐貫藩の3万石の藩主になる。大坂冬の陣では安房(あわ)国の守備、夏の陣では江戸城留守居役を務める。他に絶家や改易の時の城受け取り役(安房立山藩・柳川藩熊本藩)を果たし、陸奥(むつ)磐城平(いわきたいら)7万石の藩主に加増移封される。享年67歳。

 

永井尚政 (1587-1668) 千利休古田織部の弟子

永井信濃守尚政。関ケ原合戦に従軍。徳川秀忠付の小姓になる。昇進を重ね、上総潤井戸(かずさ うるいど)藩1万5千石になる。老中本多正純が謀反の疑い(宇都宮釣天井事件)で失脚したあと、老中に選ばれた。父・直勝死後、父の下総 古河(しもふさ こが)藩の家督を相続。後、老中を解任され、山城淀藩10万石に移封加増された。尚政は京都や大阪の治安に努め、民政に力を注いだ。

応仁の乱で焼失廃寺になっていた宇治の仏徳山興聖寺(曹洞宗)を、万安英種を招いて再興。又、小堀遠州松花堂昭乗片桐石州、江月和尚、林羅山本阿弥光悦狩野探幽らと親交する。茶人にして歌人。また、信濃守だった彼の屋敷跡が信濃町(新宿区)の町名に残っている。享年82歳

 

南部利直 (1576-1632) 古田織部の弟子

南部氏26代南部信直の長男として生まれる。烏帽子親は前田利家。父死後、南部藩当主となる。関ケ原の戦いの時は東軍側に立ち、出羽山形藩の最上氏と共闘して上杉と戦う。が、山形に出陣している間に伊達政宗が南部に侵略を画策。止むを得ず許しを得て帰国、南部藩を鎮める。白根金山、西通金山という金鉱山に恵まれ、また南部鉄も産出し、財政が潤う。盛岡城を築く。享年57歳。

西尾光教 (にしお みつのり)(1544‐1616)

斎藤道三に仕え、更に織田信長に仕え、羽柴秀吉に仕える。関ケ原では東軍に与し、岐阜城大垣城で戦う。美濃の地理に明るく、戦況を有利にし、揖斐藩(いびはん)3万石の初代藩祖となる。大坂の陣でも活躍。享年73歳。

 

丹羽長重 (にわ ながしげ)(1571-1637) 古田織部の弟子

織田家重臣丹羽長秀の長男。小牧・長久手の戦いの時、病気の父に代わり出陣。父が病没すると、15歳で若狭・越前・加賀の123万石を相続する。が、佐々成政への越中攻めの内通の疑いで若狭15万石に落とされ、更に九州征伐時の落ち度で加賀松任4万石に減俸移封された。

小田原征伐朝鮮出兵で武功を挙げ、12万石まで回復。しかし、関ケ原で西軍に与し、北陸の関ケ原と言われる浅井畷(あさいなわて)前田利家と激戦。本戦の関ケ原で東軍が勝った事に因り、長重は改易され、無禄の浪人になる。

その後、徳川秀忠に拾われ、常陸(ひたち)国の古渡(ふっと)藩1万石の藩主に就いた事を皮切りに、大坂の陣での武功で常陸国江戸崎2万石、更に陸奥(むつ)国棚倉藩5万石に出世した。会津藩60万石の蒲生忠郷に後継ぎが無く改易されると、そこに加藤嘉明丹羽長重が入り、長重は白河10万700石の藩主となった。長重が城持ちに出世すると丹羽家の旧臣達が集まり始め、彼等を召し抱えて、財政が苦しくなった。享年67歳。

参考: 武将の人生(7) 書状  2021(R3).11.30  up