式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

144 信長と天下布武

天下布武」とは穏(おだ)やかではない。全く、信長は自分を何様だと思っているのか、天下を統(す)べるのは俺様だ、俺以外いない、とでも思っているのか、と咬みつきたくなる様なこの言葉。彼の戦歴や成し遂げた事業を列挙してみると、成程そう思っても仕方がない、と納得してしまう所があります。

けれど、本当にそうなのか、と立ち止まって考えますと、そこに腑に落ちないものが有ります。信長が「天下布武」の印章を使い始めたのは、まだ覇業の始まる前の初期の頃です。それは、覇業どころか、周辺国に圧し潰され兼ねない程の小国の信長が、美濃の斎藤龍興を打倒した頃に使い始めた印章なのです。

 

岐阜城

信長が足利義昭の要請を受けて上洛を援ける為には、どうしても美濃を通らなければなりません。通る為には美濃の斎藤龍興を退(ど)かさなければならず、旧来からの紛争も有って、両者は激突します。結果、信長は龍興を討ち倒して勝利します。

信長は義龍の居城の稲葉山城に入り、城の名前も地名も「岐阜」と改称しました。改称の際、どういう名前にしたら良いかを相談したのが、沢彦宗恩(たくげん そうおん)という禅宗のお坊さんでした。沢彦和尚は信長の教育係でした。和尚を教育係に選んだのは、信長の傅役(もりやく)だった平手政秀です。信長から、地名と城の改称の相談を受けた沢彦和尚は、中国古代の周王朝の立国の地・岐山「岐」と、孔子生誕の地である曲阜(きょくふ)から「阜」の文字を採用し、「岐阜」と名付けたと、言われています。そして、更に信長から、発給文書に押印する判子の言葉を何にしたら良いかの相談を受け、天下布武の文字を提案したと言われています。

周の文王(ぶんおうorぶんのう)(紀元前1125‐紀元前1052)は、岐山の麓に「周」を開き、儒教に基づいた仁政を行い、聖王として長く尊敬されている人物です。孔子は言わずもがなの聖人です。聖王、聖人のそれぞれゆかりの地の一字を取り、「岐阜」と名付けた沢彦和尚。それを採用した信長。その二人が善(よ)しとした「天下布武」の四文字が、「天下を征服してやるぞ」の意志表示と受け取るのは、みそ汁にとんかつソースを入れた様な気分になり、どうも不味くて呑み込めません。

(沢彦宗恩は平手政秀の菩提寺・政秀寺の開山。後に、臨済宗妙心寺の第39世住持になります)

 

七徳の「武」

武は戈(ほこ)を止める、と書きます。「武」という漢字は、武器を収めて戦いを止める事を意味します。

天下布武」を、武力を以って天下を制する、と婆は理解していました。ところが、よくよく調べてみると、そうでは無さそうです。

天下布武」は「七徳の武」と一緒にして語られる事が多いようです。「武」には七つの徳があって、「武」を布(し)く事は善政である、と言う風に受け取るのが、本来の意味である、とか・・・えっ本当っ ウソでしょ

という訳で、「七徳の武」の出典とされる『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)『宣公』の章の『12年』を見てみました。

 

『春秋左氏伝』

国立国会図書館デジタルコレクションに『春秋左氏伝』が収められています。

『春秋左氏伝・上』の内、問題の箇所は『宣公12年』の項で、コマ番号にして254、該当文章があるのはコマ番号264です。原文は各頁の上段に、書き下し文は下段に載っています。

さて、そこで『春秋左氏伝』の武の七徳と言われる箇所の書き下し文を、下記に転載します。旧漢字が見つからない場合は、新漢字や平仮名に置き換えています。また、旧仮名遣いで書いてある箇所は( )内に現代仮名遣いを併記しています。ふりがなも( )内に書いているので、煩雑になってしまって、ごめんなさい。

 

紀元前700年頃~紀元前300年頃迄の春秋戦国時代と言われる中国の話です。

が戦争をして、楚が勝ち晋が敗けました。楚子(そし)の家来の潘黨(はんとう)が楚子に聞きました。「どうして敗者の屍を積み上げて塚(京観)にしないのですか? 塚をつくれば敵に勝った証(あかし)を子孫に示す事が出来るのに」と言うと、楚子は「お前の知る所ではない。武と言う文字は戈を止めると書く。昔、周の武王「商」と言う国に勝った時、頌(しょう)を作ったことがある・・・

以下、読み下しの本文(太字)

 

『潘黨曰(いわ)く、君いづくんぞ武軍を築きて晋の尸(し(=屍))を収めて以て京観を為(つく)らざる。臣聞く、敵に克(か)ちては必ず子孫に示して以って武功を忘るヽこと無からしむと。楚子曰く。汝が知る所に非(あら)ざるなり。夫(そ)れ文に戈(くわ(か))を止(とど)むるを武と為す。武王商に克(か)ち、頌を作りて曰く。載(すなわ)ち干戈(かんくわ(かんか))を をさめ、すなは(わ)ち弓矢(きうし(きゅうし))をつつむ。我れ懿徳(いとく(→良い徳))を求めて、つひ(い)に時(ここ)において夏(おほい(おおい)(→盛ん))なり。允(まこと)に王として之(これ)を保てりと。又武を作る。其卒章に曰く、汝の功を定むることをいたすと。其三に曰く、鋪(し)きて時(こ)れ繹(たず)ぬ。我れ徂(ゆ)きて惟(これ)定まらんことを求むと。其六に曰く、萬邦を緩(やす)んじて屢(しばしば)豊年なりと。()れ武は暴を禁じ兵を戢(おさ)め、太(たい)を保ち功を定め、民を安んじ衆を和(やわ)らげ、財を豊にする者なり。 (以下略)

 

アンダーライン部分の原文 夫武禁暴戢兵。保太定功。安民和衆。豊財者也。

 

天下布武」の成語由来は?

上記アンダーラインを基に、「武に七徳あり(武有七徳)」の成語が出来たようです。
1. 暴を禁ず。 2. 兵を戢(おさ)む。 3. 太を保つ 4. 功(こう)を定む。 5. 民を安んず。 6. 衆を和(やわ)らぐ。 7. 財を豊かにす。

この七つの徳目が挙げられています。が、「天下布武」の様な四文字の成語は、春秋左氏伝にはどこにも書かれていませんでした。

戈を止めるという文字を合成すると「武」。ならば、この二文字を並べて書くとどうなるかと調べてみましたら、「止戈(しか)」と読み「戦争を止めること」と、辞書に出ていました。因みに「止」は、歩くのをやめてそこに留まっている足首から下の、足の象形文字だとか。いや、面白いです。「武」が平和的な意味を持つとは、夢にも思いませんでした。コペルニクス的逆転の発想です。

天下布武」の出典を求めてその他を検索してみましたが、「天下布武」の四字熟語そのものを見つける事は出来ませんでした。中国の古典を精査して読めばどこかにあるのかも知れません。が、ここ迄が婆の限界、お手上げです。

 

天下布武とは?

天下布武」の出典元が分からないので、婆は大胆に妄想します。これはきっと、沢彦和尚が「武」の徳目を善しとして、それを天下に広める事を願って造語したのではないかと。

七つの徳目の中で、婆が注目したのは、「保太」です。

「太」って何? 「太」って「大」を二つ重ねた字です。大ヽ←繰り返し記号のチョン点が大の中に入ってしまっている字です。大よりももっと大きい事を表します。太平洋、太陽、太白(=金星)、太河(=黄河)、太極(→宇宙の根源)・・・と辿(たど)って来ると、「太」を保つ、と言う事は、余程大きい事を保つ、維持すると言う事だろうと、想像する訳です。

宇宙や大地を保とうとしても、それは人間がどうのこうのして保てるものではありませんから(治山治水を除いて)、保つものは人間世界の事でしょう。そこから考えられる事は、国を保つ、国家を保つ、体制を維持する、或いは、治安を保つ、乱れた世を正し平和な世を保つなどなど連想ゲーム式に色々な言葉が浮かんできます。

 

天下静謐(てんかせいひつ)

1567に、信長が稲葉山城岐阜城と改め、「天下布武」の印章を用い始めましたが、その時より遡ること90年前の文明9年(1477年)11月20日応仁の乱終結を祝い、「天下静謐の祝宴」室町幕府によって開かれました。西軍の山名宗全が病死、東軍の細川勝元も病死し、次世代の山名政豊細川政元の間で和議が成立しました。厭戦気分の各武将も本国へ引き上げ、乱を起こした首謀者が誰だかうやむやの内に処罰される者も無く、何となく治まった「天下静謐」でした。

足利義尚が政務を執り始め、義政が隠居して東山に山荘を建て、平和が訪れたかに見えましたが、権力闘争はまたぞろ頭を擡(もた)げ始め、争いは止む事を知りません。室町幕府凋落の果てに、最後の将軍となった足利義昭が頼ったのは、織田信長でした。

信長が自分の印章に「天下布武」の文字を用いたのは、天下静謐を願っての事かも知れません。義昭を援(たす)け、足利将軍家を中心にした秩序ある武家社会を打ち立てようと軍務に忙殺されている間に、将軍と信長との間にある権力の二重構造にヒビが入り、義昭は信長に叛旗を翻しました。義昭を駆逐して後の信長は、次第に力の信奉者になって行き、仕舞には自身を「魔王」とまで自称する様になって行きます。

沢彦和尚はひょっとして「武」の持つ平和と武力の二面性を喝破して、天下布武の文字にそれを仕込んだのかも知れません。戈を止めて戦いを無くすには、戈を止める武器が必要です。でなければ、無手勝流の真剣白刃取りで立ち向かうしかありません。人徳で靡(なび)かせ、交渉術で歩み寄り、慰撫して陣営に取り込み、皆の憧れの国を築いて我も我もと押し寄せて来る様な、そういう国を造れば・・・うーん、大変なこっちゃ!

 

 

 

143 会合衆 茶の湯三宗匠

婆が若い頃、会合衆を「えごうしゅう」と読むと学校で習いました。今は、「かいごうしゅう」と読むのですね。検索して初めて知りました。このごろ時々、昔習った言葉が今では通用しなくなったという事態に遭遇します。昭和は昔に成りにけりです。やれやれ、です。

 

会合衆

戦国時代、町の商人達が、寄合によって自分達の地域を治め、領主に頼らず自治を行っている所がありました。や、宇治山田・大湊などの町がそれです。そこの自治を担っていた人達を会合衆と呼びました。会合衆は、その土地に住んでいる者なら誰でも成れるものでは無く、その土地の特権的な有力者などが就いていました。

 

堺の歴史

会合衆で最も有名なのは堺の会合衆です。

堺は鎌倉時代の頃からの漁港として栄えていましたが、室町時代足利義満により勘合貿易が開かれ、博多から遣明船が出る様になりました。外航貿易は主に博多、長崎、平戸など九州の各港が関わっていました。堺もそれに絡まる様に、九州琉球と活発に交易をしました。1474年には室町幕府の命により堺港から遣明船が出航しています。堺は大変な賑わいを見せる様になりました。

1521年室町幕府10代将軍・足利義材(あしかがよしき(=義稙(よしたね))が政争に敗れ都落ちし、堺から沼島へ渡り、1523年阿波国撫養(むや)(現鳴門市)で没します。義稙(=義材)を後押ししていた細川澄元とその家臣の三好一族は、阿波讃岐に地盤を持っていました。三好一族は、11代将軍・足利義澄の実子にして10代将軍の義稙の養子・義維(よしつな)を将軍に推戴(すいたい)し、彼等が四国から都へ上る時の通り道として出入港していた堺に、幕府を打ち立てます。義維は堺公方となり、京都の将軍・足利義晴と対立します。その後の歴史の推移は、明応の政変永正の錯乱流れ公方、大物崩れ(だいもつくずれ)永禄の変と目まぐるしく変わって行きますが、何時でも堺と三好一族は繋がりが深く、堺は彼等の軍事力を頼みにしていました。

交易によって財力を得た堺商人達は、その富を狙われない様に開港口を除いて三方に濠を巡らし、自警団を養い、万全の態勢を備えましたが、世は戦国時代真っ只中。尾張の小国・織田信長が台頭、強大な軍事力を見せ付けながら堺に触手を伸ばして来ました。

 

矢銭(やせん)2万貫

1568年(永禄11年)織田信長は堺に2万貫の矢銭(=軍用金)を要求してきました。

2万貫は現代ではどの位の金額なのかを調べましたら、人によって算出基準が違い、かなりのバラつきがありました。6億円、24億円、30億円、60億円、500~600億円とあり、中には8000億円、と言うのもありました。

堺の会合衆は、三好一族の力を背景に徹底抗戦を構え、これを断ります。が、今井宗久は密かに堺を抜け出し、信長と面会しました。そして、帰ってから会合衆を説得しました。結局、堺は信長に屈して2万貫を支払い、この難局を乗り超えました。同じ様な要求を受けた尼崎ではこれを拒否して焼き打ちに遭い、代表者達は処刑されてしまいます。

15689月、信長は6万の大軍を率いて足利義昭を奉じて上洛を開始、1569(永楽12年)、三好長逸(みよし ながやす)は織田軍を桂川で迎え撃ち、敗北してしまいます。三好勢は阿波へ退却し、四国で態勢を立て直して信長軍に向かおうとしますが、三好方の松永久秀や三好義嗣などが寝返りし、織田軍側についてしまい、次第に三好勢は衰退して行きました。

堺は信長の直轄領になり、信長の下で繁栄して行きます。

 

茶の湯宗匠

 

茶の湯を語る上でどうしても避けて通れないのが、茶の湯宗匠と呼ばれる津田宗及、今井宗久千宗易(利休)の三人です。いずれも堺の会合衆です。

 

津田宗及(つだ そうぎゅう)(生年不詳-1591)

津田宗及は堺の天王寺屋の4代目です。茶湯の天下三宗匠の一人でもあります。宗及は、堺の豪商・武野紹鴎の弟子であった父・宗達から教えを受けました。

家業は九州や琉球との交易です。又、石山本願寺の御用も務めていました。

彼は、臨済宗大徳寺大林宗套(おおばやしそうとう)が開山した堺の南宗寺(なんしゅうじ)に参禅、茶禅一味を学びました。この南宗寺は三好長慶(みよし ながよし)が父・三好元長の菩提を弔う為に建てた寺です。その点からも、堺と三好氏の繋がりは深く、信長から2万貫の矢銭を要求された会合衆は、三好氏と敵対する信長のどちらに就くか大いに迷いました。会合衆の結論は支払い拒否でしたが、武器商人の今井宗久が密かに信長と面会し、その流れを「支払う」方へ導きます。こうした策が、信長の蹂躙(じゅうりん)を免れて、更に南蛮貿易への発展に繋がりました。堺の商人達はいよいよ儲け、余ったお金が、茶道具類への投機へと向かわせます。

津田宗及も唐物の茶道具を150点ほど所持していたと伝わっています。天王寺屋の屋敷ではしばしば茶会が開かれ、柴田勝家佐久間信盛など百人ほどが招かれ、宴を張った事もあったとか・・・。また、宗及は岐阜城に唯一人招かれ、信長の茶道具を拝見する事が出来、その上ご馳走されたとも伝わっています。天王寺屋初代・津田宗伯は古今伝授を受けたほどの文化人で、子孫の宗及も和歌・連歌香道・華道を究め、刀の鑑定も優れていたそうです。

宗及の嫡男・宗凡(そうぼん)は茶人として活躍していましたが、子が無く、天王寺屋は宗凡を以って断絶してしまいました。宗凡の弟が出家して江月宗玩(こうげつそうがん)と名乗り、大徳寺龍光院に住していました。そして、宗及の遺した茶道具が宗玩に渡りました。その中に後に国宝となった曜変天目茶碗があります。

津田宗達-宗及-宗凡江月宗玩の親子三代にわたって書き綴られた茶会記天王寺屋会記』全16巻は、1548年(天文17年)~1616年(元和2年)まで記録されております。そこには自家茶会のみならず他会記の記録まで含まれており、大変貴重な資料となっています。

 

今井宗久(いまいそうきゅう)(1520-1593)

大和国寺内町今井出身。堺の納屋宗次の家に身を寄せ、商売のコツを学びました。(納屋(なや)と言うのは、倉庫業や金融業を言います)。そして、堺衆の必須の素養として、武野紹鴎に入門し茶の湯を学びます。紹鴎の弟子にはそれなりの人物が大勢いましたが、宗久は紹鴎に気に入られ娘の婿に納まります。

宗久は武野家の商売である皮屋を継ぎ、納屋宗次の下から独立、皮革製品の販売を始めます。皮革製品は軍需物資です。馬具や鎧を作るのになくてはならない物で、これによって大いに儲けました。

種子島鉄砲が伝来すると一早くその有効性を見抜き、鉄砲鍛冶を堺に興しました。当初の鉄砲は非常に高額でしたが性能が極めて低かったことから、宗久は分業による大量生産と品質保持の両立を図りました。努力の甲斐あって、堺産の鉄砲は評判が良く、戦国武将達からの注文を大量に受ける様になりました。信長が堺に2万貫の矢銭を課した時、宗久は信長と手を結びます。信長は堺を直轄領とし、宗久を堺の代官に任命します。

宗久は鉄砲を作ると同時に、火薬の原料である硝石を独占的に輸入する権利を得、硝石と鉄砲を抱き合わせで売りました。信長が堺を直轄領にした為に、武田信玄上杉謙信は鉄砲も硝石も入手困難になり、戦いに不利になりました。

更に生野銀山の開発などの権利や数々の特権を得て、今井宗久は信長と結びついた政商・武器商人として巨万の富を築きました。また、武野紹鴎死後、紹鴎の持っていた茶器類は宗久が受け継ぎました。後に、武野紹鴎嫡子・武野宗瓦(たけの そうが)との間に遺産相続争いが起きます。この争いは信長の裁定により宗久が勝訴。武野宗瓦は徳川家康に見出されるまで歴史に埋もれて行きます。

宗久は、黄梅庵と言う数寄屋造りの茶室を持っていました。八畳敷の広間と小間と水屋からなっています。彼は83回もの茶会を開いたと記録があります。宗久の全盛は信長の本能寺の変で翳(かげ)りを見せ始め、羽柴秀吉が台頭してくると千宗易(利休)が表舞台に立ち、宗久の活躍の場は次第に消えて行きます。

 

千宗易(せん そうえき)(利休)(1522‐1591)

利休は茶湯の天下三宗匠の内の一人で侘茶を大成し、茶聖と言われています。

堺の商人。幼名・田中与四郎。法名千宗易。号は抛筌斎(ほうせんさい)。後に、「利休」の号を朝廷より勅賜されました。

利休の祖父は山城国の出身で、将軍・足利義政同朋衆で、田中専阿弥と名乗っていました(義政の同朋衆だったという点については時代が合わないとの疑問が呈されています)。

その専阿弥が一大決心をして職を辞し、泉州堺にやって来ます。専阿弥の子の与兵衛はこの時名字を専阿弥のセンの音をとって「千」に改め、商売を始めます。塩魚などを扱う問屋(といや)で、屋号を魚屋(ととや)と言いました。堺商人の中では新参者でした。

千与兵衛の子・与四郎(後の利休)は堺商人の倣(なら)いに従い、17歳の時に茶の湯北向道陳(きたむき どうちん)の弟子になって習い始めます。身に合っていたのか彼は茶の湯にのめり込んでいきます。与四郎は更に辻玄哉(つじ げんさい)の下で茶の湯を学び始めます。 

(南方録(なんぼうろく)では宗易は武野紹鴎に師事したとなっていますが、山上宗二は、宗易は辻玄哉に習ったとあります。南方録は利休の100年後に書かれたものと言われていますので、利休の弟子の山上宗二が書いた記録の方を信用して辻玄哉としました。)

ところが与四郎は19歳で父を亡くしました。更にその後を追う様に祖父も亡くなってしまいました。家督を継いだ与四郎は途方に暮れてしまいます。豪商が掃くほど居る堺の町では、与四郎の「魚屋」は中小企業でしかなく、祖父の七回忌の時にお金が無くて法要が出来ず、涙を流しながら墓掃除をした、と日記に残しているそうです。

恐らくこの経験が、与四郎(利休)をして侘茶に向かわせたのだと、婆は考えます。茶道具を投機的に扱い、ビジネスの道具やステイタスの証として茶の湯に奔る人々を、貧乏と言う別の視座から眺めてみると、「お茶って、そうではないだろう。もっと別の何かがある筈だ」という視点が生まれてきます。与四郎が、一国を動かす程の豪商のボンボンだったら、恐らく侘茶は生まれてこなかったと、婆は妄想します。

彼は堺の南宋に参禅し、南宋寺の本山・京都の大徳寺にも参禅して茶の奥義を窮(きわ)める道を進みます。一方、商売も手抜かりなく、堺の大旦那である三好氏を顧客に得て、順調に伸ばして行きます。

1544年(天正13年)2月27日、宗易は堺に奈良の松屋久政などを招き、初めて茶会を開きます。松屋久政は奈良の塗師(ぬし)で、村田珠光侘茶を継承している人です。久政は松屋三名物の「徐熙の鷺の絵」「松屋肩衝」「存星(ぞんせい)の盆」を持っていました。

これを手始めに、宗易は茶会を頻繁に行う様になりました。彼は幾度か珠光茶碗を使って茶会を開いています。この頃には既に与四郎改め宗易と名乗る様になっています。

   (参考:137 村田珠光 2022(R4).02.27   up)

   (参考:139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ 2022(R4).03.15   up)

珠光茶碗は言うなれば出来損ないの青磁の茶碗です。それを三好実休に1000貫で売りつけるなど、商売人の顔をも持った宗易は、茶の人脈を最大限に生かし、堺の会合衆にまで上り詰めます。彼は、津田宗及や今井宗久と並び、信長に茶堂として取り立てられる様になります。宗易は信長の為に鉄砲の玉を用意したりして、何かと信長の便宜を図っていましたが、

天正10年6月2日(1582年6月21日)本能寺の変が勃発し、信長は自刃してしまいました。

天下は、明智光秀を討った羽柴秀吉の手に渡り、宗易も秀吉に仕える様になりました。宗易は秀吉の依頼で茶室「待庵(たいあん)」を作り、更に翌々年、大坂城内に茶室を作ります。

1585年(天正13年)10月、秀吉による正親町天皇へ献茶に、宗易は宮中に上がって奉仕します。この時、無位無官の町人の宗易が宮中に参内(さんだい)するのは如何か、と言う話があり、「利休」居士号を賜ります。黄金の茶室を設計したり、北野大茶湯をプロデュースしたり、大活躍をしますが、突然秀吉の勘気に触れ、閉門蟄居を命ぜられます。北政所や弟子、大名達が助命に動きますが、ついに切腹を命ぜられます。享年70歳。

下記は利休辞世の句です。

遺偈(ゆいげ)

人生七十 力囲希咄   人生七十 力囲希咄(りきいきとつ)

吾這寳剱 祖佛共殺   吾がこの寳剱 祖佛ともに殺す

堤我得具足一太刀    ひっさぐ我が得具足(えぐそく)の一太刀

今此時天抛       今この時 天に投げ打つ

( 力囲希咄は、エイヤーッ!と言う様な掛け声)

[ずいようぶっ飛び超意訳} 人生70年、エエエーイッ! こん畜生! この宝剣で先祖も仏も何も皆殺しにしてやるわい。手にした武器の一太刀、今、此の時に天に投げ打ってやるーーツ!

遺偈とあるので禅の問答の様です。本当の意味する所はもっと別の事かも知れません。他の方の訳を見ると、解釈が色々あります。切腹に臨んでの利休の心境がなんとなく推し量れるような・・・

 

余談  宇治山田と大湊(おおみなと)会合衆

宇治山田と大湊の会合衆について、前置きで少し触れましたが、宇治山田という所は、宇治の平等院のある京都では無く、伊勢の国に在ります。

宇治と言う地域は伊勢神宮天照大神を祀っている内宮の有る所、山田は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っている外宮(げくう)の有る所です。伊勢神宮は昔からお伊勢参りで大変賑わっておりました。門前町の両地区は、中世の頃から自治を始めていました。

大湊と言う地名は全国に3ヵ所あります。日本海側の青森県北東部と新潟県で、両方とも北前船の寄港地です。残りの一か所の大湊は、伊勢湾の出入り口にあります。太平洋側の沿岸航路の拠点の一つで、伊勢神宮の外港の役割も果たし、廻船問屋達が会合衆による合議制を取り入れていました。大湊は造船業も盛んで、北条早雲などの大名達の軍用船を受注したり、秀吉の朝鮮出兵などにも大量の船を供給したりして、武家社会とも密に関わっておりました。

 

余談  存星の盆

存星」と言うのは黒地や赤地や黄地の漆を塗った上に、別の色漆を使って模様を描き、細い線彫りを施して、その線の溝の中に金泥を埋め込んだもの。(沈金に似ていますが色漆などが使われますので華やかです))

 

 

 

142 茶の湯(4) 紹鴎の茶

みわたせば花ももみぢもなかりけり  浦のとまやの秋の夕暮れ   藤原定家

 

晩秋を詠んだこの歌を思い出す時、ふっと、もう一つの詩を思い浮かべる事があります。それは、フランスの詩人・ヴェルレーヌの詩の「落葉」です。上田敏の名訳で、ご存知の方が大勢いらっしゃると思いますが、敢えてご紹介します。

 

            落 葉

1   秋の日の         2 鐘の音に       3 げにわれは

 ヴィオロンの        胸ふたぎて        うらぶれて

 ためいきの         色かへて         ここかしこ

  ひたぶるに        涙ぐむ          さだめなく

  身にしみて           過ぎし日の        とび散らふ

 うら悲し。         おもひでや。       落葉かな。

 

この和歌と詩には、それぞれが醸し出す寂し気な気配があり、心打たれます。ただ、口に出してみて漂う音の語感からは、かなり印象が違っています。その違いが何処にあるかと申しますと、「言う」か「言わない」かの違いだと思います。

和歌では「ためいき」も「悲しい」も「胸ふさぐ」も「涙」も、そういう心情を直接的に表す言葉を一切使わずに、秋の静かな佇(たたず)まいを写生しています。写生していながら、それを読む者の胸深くに、静かなもの寂しさを呼び覚ましています。言わず語らず、静寂の余韻に全ての想いを籠めています。

 

言葉の余白

実は、武野紹鴎(たけの じょうおう)は、定家のこの「みわたせば・・・」の歌でお茶の真髄に触れ、悟りを開いたと伝えられています。

言葉を尽くして思いを表現する方法と、言外の余白に心情を吐露する技があります。その二つの内、どちらが読者の心を捉え感動させる事が出来るのかと問われれば、それを受け取る人の人生や文化の背景、その時の心の状態によって違うので、一概にこうだと決められません。けれども、お茶で言えば、微に入り細に入る説明的な装飾を一切こそげ落し、あるがままの自然を写して、そこから広がる宇宙を五感で味わう事こそお茶の極意だと、紹鴎は感じたのではないでしょうか。

それは言葉の世界だけではなく、絵画でも同じです。

 

絵画の余白

古典派の西洋絵画では、四角いカンバスの上下左右の隅から隅までの背景を、まるで空白恐怖症の様に細かく埋め尽くして描き切り、その場のシチュエーションや画中の人物の心の動き、時には小さな小道具に秘められた比喩(ひゆ)なども提示します。宗教画・神話画・人物画・静物画などなど皆そうです。それを破ったのが、ジャポニズムに触れた近世の画家・エドゥアール・モネが描いた「笛を吹く少年」です。この絵は、何百年も続いた西洋絵画に衝撃を与え、革命を起こしました。何故なら、少年の背景には何も描かれなかったからです。背景は無地でも良い、という認識が、この記念碑的作品によって西洋の画壇に生まれました。

長谷川等伯の松林図を見ると、冥界に誘い込むような鬼気迫る空白を墨で描いています。牧谿にしても雪舟にしても余計な加筆は無く、必要最低限の運筆で対象物を描き切っています。

   (参考:室町文化(8) 水墨画    2021(R3).01.30.  up)

 

茶席の余白

春」をテーマに茶会を開きたいと思い、古今集の春の歌の掛け物を飾り、梅の花を活け、鶯(うぐいす)を模(かたど)った香合(こうごう)を使い、「初花」写しの茶入れを用い、梅花のお菓子をお出しし、仁清風の梅模様の茶碗を用いたら、最高の「春」の演出になると思うのですが・・・一寸待って下さい。それではあまりにも「春」が満載し過ぎて煩わしくなります。余情を誘う余白、想像を遊ばせる余地が失われ、却って食傷気味になってしまいます。

テーマに沿って満艦飾(まんかんしょく)に飾りたい気持ちは分かりますが、その心を抑えて、何処かに別の雰囲気のものを入れた方がいい様な気がします。その方が「秘すれば花」の奥床しさが滲み出てきて影が現れ、奥行きのある茶席になります。これは、落ちこぼれ弟子の婆の主観です。もっともっと良い工夫があると思います。工夫せよ、稽古せよ、が紹鴎の教えです。

 

紹鴎の「侘しき」と「寂しき」

絵画を視る目で茶室などを見る時、二次元の余白は三次元の空間の間合いに置き換わります。露地の景色、中待合、蹲(つくばい)、遠景、茶室の佇まい、床の間、お道具の置き合いなど、余白の工夫の余地は、立体だけに無限に広がります。

又、意外な事に、紹鴎が使っていた「わび」「さび」の言葉の意味は、利休が説いた「わび」「さび」とは異なり、非常に具体的な物を指して言っている様です。

紹鴎の「わび」は、「侘しい」と言う形容詞の略では無く、「侘敷(わびしき)」の事だそうです。「侘敷」とは名詞で、どうやら畳の敷き具合を言っている様です。

「侘敷」は3畳半や二畳半の小さい間取りの部屋の事を言うそうです。同様に、

「寂敷(さびしき)」は4畳半以上の間取りを言うそうです。

今回、これを書くに当たり調べて行く内に、ウィキペディアでそれを発見しました。

「侘(わび)しい」には「心細い」「貧しい」というイメージがあります。「侘敷」を婆流に言い換えると、狭くて心細くて貧乏ったい部屋だ、と言う所でしょうか。

「寂(さび)しい」には、「心細い」「悲しい」「満たされない」と言うイメージがあり、貧乏のイメージはありません。宮殿に住んでいても寂しい気持ちは湧きます。人それぞれで、決め付ける事は出来ませんが、「寂敷」は、もうちょっと広い方がいいけど、ま、これでも良いか、と言う妥協点の広さの部屋ではないかと、婆は受け取りました。独身者用アパートの最低限の間取りは四畳半か六畳の一間が一般的。それを考えると、「寂敷」の広さは丁度いい塩梅(あんばい)の部屋かと思います。同仁斎の部屋も四畳半です。これが書院の原形です。

「寂敷」は四畳半以上の広さ、と言う事ですので、お客さんの人数をある程度呼べますし、空間をかなり自由に使えます。

紹鴎は「寂敷」の部屋で、唐物を使った書院の茶の湯を行っていた、と思われます。

 

利休の「わび」と「さび」

武野紹鴎の弟子の千利休は、この「侘敷」と「寂敷」を、「侘しい」「寂しい」に置き換えてしまいました。そこから、単なる部屋の広さだったものが、精神論に替わって行きました。そこに禅宗的な修行の道が持ち込まれ、「わび」「さび」の究極を求める道の「茶道」へと突き進んでいくようになります。そして、「わび」「さび」が審美の一つの基準になり、そこから日本独自の文化が生まれ、今日に至っています。

(式正織部流では「書院の茶」「公の茶」を旨としています。ですので、季節を取り入れたりはしますが、この「わび」「さび」を余り意識していません。)

 

三次元の余白

全ての余計な物を捨て去って精髄だけを残し、「冷え枯れた」極致の場に居住まいを正して座る時、なんだかぞくぞくっとする寒気に襲われる事があります。緊張します。婆の人間が不出来な為に、恐ろしくなってしまうのです。そして、要らんことを考えてしまいます。

例えば、床の間に「無」と言う禅語を掛けたとしましょう。「無」と書いた墨蹟を掛けるならば、極端な話、何も書かれていない白紙を表具して掲げても良いのではないか、いやいや、それなら掛物さえいらず、床の間に何も掛けず、花も置かず、究極、床の間さえ無くても良いのではないかと、ひねくれ婆は妄想します。

何もない茶室・・・となると、野原にゴザを敷いて点てる野点がそれに近いのかしら? とも思えてきます。季節は野の草花が教えてくれ、光と風が時の移ろいを教えてくれます。正に「日日是好日」です。生きていてよかった!と思える一瞬です。が、野点は、無駄を削ぎ落して突き詰めた世界では無く、ゴザ一枚の上に森羅万象が押し寄せてる雑多な世界です。蟻んこが足元を歩き回り、蚊が飛んできて刺し、1/fの気まぐれな風が時には埃や塵を運んでくる。有り余る空間には間の抜けた緩みがあり、その雑多な世界に温もりがある、安らぎがある・・・

茶室という「わび」「さび」に縛られた狭い空間に客人を招き入れ、同じ世界観を共有しようとするのは、亭主のエゴではないか、と落ちこぼれ弟子の婆は悩んでいます。

 

141 茶の湯(3)  利休以前

茶の湯や茶道には色々な流派があります。どういう流派があるかをご紹介します。

ここでは流名のみで、流内にある各派は省略し、また、明治以降に興った流派も省略し、古い順から並べました。

珠光流(じゅこうりゅう)小笠原家茶道古流・志野流・紹鴎流(じょうおうりゅう)・瑞穂流(みずほりゅう)表千家裏千家武者小路千家・松尾流・南坊流・式正織部流・織部流・石州流・有楽流(うらくりゅう)御家流・薮内流(やぶのうちりゅう)・鎮信(ちんしん)流・久田流・遠州流・三斎流・宗箇流・不昧流(ふまいりゅう)・庸軒流(ようけんりゅう)・古市流・小堀流・大口樵翁流(おおぐちしょうおうりゅう)・三谷流・宗偏流(そうへんりゅう)中宮寺御流・渭白流(いはくりゅう)・不白流・速水流・・・

茶の世界の流派には百花繚乱の趣があり、流派の名前を数えるだけでもお茶の隆盛が思われ、頼もしい限りです。

この様に沢山の流派がありますが、初期の頃の茶の湯を大雑把に分けますと、京都派、奈良派、堺派、武将派に分類できます。

 

京都派

京都派は、公家衆の間で行われていたものや、東山山荘などで能阿弥が主導していた茶の湯で、これ等は殿上の茶の湯、いわゆる書院茶(大名茶)です。京都の町人などが行っていた茶の湯も、侘茶が流行る前は堂上衆の茶の流れを汲んでいました。

 

奈良派

奈良派は、興福寺を中心とした寺院、塔頭(たっちゅう)などで行われていた茶の湯で、村田珠光古市澄胤(ふるいち ちょういん)などがその代表でしょう。村田珠光は初め浄土宗の僧侶でしたが、京都に出て禅宗に帰依し、後に古巣の奈良に戻って東大寺近くの田園に庵を結び、侘茶を始めます。

古市澄胤興福寺の僧侶(衆徒)で武将でした。古市澄胤は、淋汗(りんかん)茶の湯を盛んに行いました。淋汗茶の湯と言うのは、一度に何十人もの客を呼び、客にお風呂(蒸風呂)を振る舞い、湯上りに御馳走し、唐物の道具類の展示会を催すと言う様な、ど派手な茶の湯の事ですが、珠光に諭されて侘茶へと変わって行きます。

大和郡山豊臣秀長が入封すると、秀長は千利休山上宗二を招いたりしてお茶を盛んにしました。

   (参考:「137 村田珠光)

 

堺派

堺は海外との貿易で繁栄した港町です。日本の経済を動かす程の豪商達が多く、自治をもって町を運営していました。この自治を行っている商人の組織を会合衆(えごうしゅう)と言い、会合衆の集まりには茶会がよく利用されました。堺の茶会は単なる趣味の集まりではなく、自治会の会議の様相を呈していました。信長が堺の財力を狙って戦費(矢銭(やせん))供出を強要しますが、その可否の話し合いも茶会で行った様です。と言う事は、堺の商人ならばお茶の心得が無いと除(の)け者に成り兼ねず、「お茶が出来る」は必須条件だったようです。堺は武野紹鴎(たけの じょうおう)津田宗及(つだ そうきゅう)今井宗久千利休など、茶史に残る錚々(そうそう)たる茶人達を輩出しています。

また、財力がある人達が競って茶を行った副作用として、茶器名物の蒐集(しゅうしゅう)に奔(はし)る様になりました。手元不如意の足利家から売りに出される大名物や名物を買い、交易で唐物の道具を入手し、侘茶の先駆と言われる村田珠光の弟子や、その影響を受けた者達が多くいるにもかかわらず、堺の茶は侘茶から程遠いいものになっています。

   (参考:「 79 室町文化(6) 銀閣寺」)       2021(R3).01.20   up

   (参考:「111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲」)     2021(R3).08.07   up

   (参考:「112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響」)     2021(R3).06.14   up

   (参考:「117 桃山文化11 焼物(2)・茶の湯」)    2021(R3).09.17   up

   (参考:「118 桃山文化12 焼物(3)・織部焼」)    2021(R3).09.23   up

   (参考:「119 式正の茶碗」)                                  2021(R3).10.01   up

 

 

武将茶

武将茶には二つの流れがあります。

一つは、足利将軍家が行っていた書院茶の流れを受けた茶で、美濃の斎藤道三武井助直(=夕庵(せきあん))などです。夕庵は斎藤道三・義龍・義興に右筆(ゆうひつ)として仕え、その後、信長の右筆になった有能な文官で武士です。魔王と恐れられていた信長に、度々諫言をした唯一の人物と言われています。

もう一つは、千利休古田織部などの弟子になった武将達が、その後自分なりの一流を立てたもので、武家茶を創始した古田織部や、その弟子の小堀遠州遠州流上田宗箇(うえだそうこ)の宗箇流など数多くの流派が派生しました。

 

利休以前の茶人達

 

藤田宗里(生没年不詳)

茶の湯の系譜を辿って行くと、藤田宗里という人物が浮かび上がってきます。どういう人物だったのか、調べてもなかなか分からず、壁に突き当たってしまいましたが、武野紹鴎の師だったとも言われており、放って置く訳にもいきません。

宗里の生没年は不詳です。京都に住んでいて、茶歴としては元々書院茶の流れを汲んでいた人の様です。宗里は侘茶の村田珠光の弟子だったと言われています。村田珠光は1423年から1502年の人で、晩年になってから京都に出たそうですから、宗里は京都時代の珠光に弟子入りしたのかも知れません。宗里は竹の蓋置を作ったと言われております。

 

鳥居引拙(とりい いんせつ)(生没年不詳)

引拙は村田珠光の高弟で、堺の豪商の天王寺屋の縁戚の人です。天王寺屋と言えば、天下三宗匠の一人・津田宗及がいます。

引拙は村田珠光の弟子です。武野紹鴎と並び称される程の達人だったとか。特に目利きに優れていて、名物茶器を多く所持していました。代表的なものに「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」「初花肩衝」「引拙茶碗」「緑桶水指」等があります。それらの多くは豊臣秀吉の手に渡ったそうです。

彼は引拙棚を作り、それを愛用したと言われています。引拙棚と言うのは、茶器などを飾る飾り棚です。台子大の大きさ位で、引き違い戸が付いた地袋があり、地袋に水指を仕舞っておきます。また、道幸(=洞庫)と言う小さな押入れを点前座の傍に造り、そこに点前に必要な物を入れて置き、点前の助けにしたと言われています。後に、武野紹鴎が引拙棚を改良して、袋棚を作ったと言われています。

   (参考:81 室町文化(8) 水墨画)

   (参考:82 室町文化(9) 東山御物)

 

荒木道陳(あらきどうちん)(北向道陳)(1504-1562)

堺出身。医師、或いは商人だったとも言われています。家の造りが北向だった事から、北向道陳と称していました。

道陳は、足利義政に仕えていた能阿弥の弟子・空海(本名・島右京と言い、弘法大師空海とは別人)から東山流の茶法を習いました。道陳は武野紹鴎と近所付き合いをしており、その縁で自分の弟子だった千宗易(利休)を紹鴎に紹介しました。そして、宗易を紹鴎の弟子に推薦します。こうして宗易は、最初に道陳の弟子になり、次に紹鴎の弟子になります。

道陳は能阿弥の孫弟子で「書院の茶」「台子の茶」の流れを受け継いでいました。彼は多くの名物を所持していました。

 

辻玄哉(つじげんさい)(生年不詳-1576)

玄哉と書いて「げんさい」と読みます。堺の辻家に養子に入り、後、京都で禁裏御用を務める呉服商になりました。連歌師で茶人です。

玄哉は武野紹鴎の一の弟子で、紹鴎から小壺(唐物茶入)の秘伝を授かっています。そしてまた、千利休はその玄哉に師事して、台子の点前の相伝を受けたそうです。つまり、小壺と台子の点前は、武野紹鴎 → 辻玄哉 → 千利休と伝わりました。辻玄哉はお茶の松尾流の始祖です。

 

十四屋宗伍(or宗悟)(生年不詳-1552)

室町時代末期の茶人で京都の人。村田珠光の弟子で、武野紹鴎に茶法を伝授したと言われています。人物についての詳しい事はよく分からないのですが、大徳寺に宗伍像があるそうです。

 

余談  天下三宗匠

天下三宗匠とは、千利休今井宗久、津田宗及の事です。

 

余談  肩衝(かたつき)とは

肩衝と言うのは茶入の事で、肩が張った様な形をした物を言います。(肩衝の外に、茶入には茄子の形をした物や、下膨れをした文林と言う形のものもあります。)

「楢柴肩衝「初花肩衝、それに「新田肩衝(にったかたつき)の三つを天下三肩衝と言い、それぞれ名立たる人達が所有し、数奇な運命を辿(たど)っています。

楢柴肩衝の来歴  足利義政村田珠光-鳥居引拙-芳賀道祐-天王寺屋宗伯-神屋宗伯-鳥井宗室-信長(信長の手に渡る予定でしたが本能寺の変が勃発し実現せず)-秋月種実-豊臣秀吉徳川家康-明暦の大火で焼損-修復-行方不明

初花肩衝の来歴  伝楊貴妃の油壷-足利義政-鳥居引拙-疋田宗観-信長-信忠-松平親宅-家康-宇喜多秀家―家康-松平忠直-松平備前守-綱吉-柳営御物-徳川記念財団所蔵

新田肩衝の来歴  新田義貞村田珠光三好政長-信長-大友宗麟-秀吉-秀頼-大坂夏の陣で焼損-修復-家康-徳川頼房(水戸)-彰考館徳川博物館所蔵

 

 

140 茶の湯(2) 侘茶への道

茶の湯は禅寺を母源としています。それだからでしょうか。茶人と呼ばれる人達の多くは禅宗の寺に入って修行する様です。村田珠光(むらた じゅこう)一休禅師の下で禅の修行をしたと言われていますし、武野紹鴎(たけの じょうおう)千利休も堺の南宗寺に参禅しました。

お茶の文化は、栄西禅師がお茶を日本に持ち込んだ事から始まりましたが、それにしても、禅と茶人の結びつきがその後もずっと続いているのは何故なのか、不思議に思います。

禅の修行をし、人間本来無一物と思い至っても、なお、物への執着から離れられない茶人達が大勢います。茶道具の来歴(らいれき)云々誰それ様のお好み、お値段の詮索、季節に沿った演出、季節に合わせた茶碗や花入れやお軸など、その為に必要なお道具の数々、それ等の購入費用・・・茶席の格がそれで決まってしまうような風潮が、「侘茶」の世界に漂っています。

珠光が愛用した珠光茶碗を、利休は三好実休(みよし じっきゅう)に1,000貫文で売っています。三好十休は久米田(くめだ)の戦いで討死し、名物狩りを行った信長は、多くの茶器と共に本能寺で滅びてしまいました。これ等の動きを見ると、まるで船底にびっしりこびり付いたフジツボの様に、俗世の欲を削ぎ落すのは困難なのではないかと、思う様になってしまいます。茶禅一味の本質は何処にあるのか、それを見抜く透徹した目が欲しいです。

 

唐物(からもの)

足利将軍家の書院には唐物の超一級品が飾られていましたが、これには朝貢(ちょうこう)貿易が関わっています。日本の特産品を山ほど積んで、中国の皇帝に貢(みつ)ぎますと、皇帝は日本の臣従を愛(め)で、皇帝の力を見せつける為に立派な品々を、お返しに下賜します。「属国」を靡(なび)かせ、繋ぎ止める為の国策ですから、ヘボなお宝は寄こしません。下賜されたものは、献上した貢物の数倍から数十倍もする様なお宝の品々でした。その為に、朝貢貿易の正式の相手は朝貢使節を派遣できる国王にのみにその資格を与えたのでした。使節の乗った船は倭寇では無く正式の船である、と言う証拠に「勘合符」を持っていました。

日本国王と名乗ったのは、初めは後醍醐天皇の八の宮・懐良(かねよし)親王です。彼は日本国王・良懐と名乗り、日明貿易を行いました。足利義満日明貿易がもたらす莫大な利益に目を付け、日本国王の称号が欲しくて懐良親王を滅ぼし、「国王」を僭称しました。そして、足利氏は、その中でも選りすぐりの物を手元に置いて、それ以外の物を十倍にも二十倍にもして日本国内で売り捌いていきました。こうして室町幕府は財を成し、現代にも残る国宝級の宝物を数多(あまた)手に入れたのです。

(参考:「82   室町文化(9) 東山御物」       2021(R3).02.04   up)

(参考:「122 武将の人生(3)」の内、足利義満足利義持今川了俊菊池武光)

                               2021(R3).10.23   up)

 

話は脇道に逸れますが

話は脇道に逸れますが、婆の母方の祖母の話をします。

祖母は明治30年代に東北地方に生まれました。家は貧しい小作農でした。働き者で、田畑の仕事をまめにやり、糸取り(繭から糸を取る事)が上手、機織りも名手だったそうです。何々小町と呼ばれる程の美人だったそうです。或る日、赤い腰巻姿で田植えをしていた時、旧家の三男坊に見初められたのが縁で、嫁に行ったそうですが・・・いやはや大変だったとか。何しろ、行儀作法の躾がなっていないと、何かにつけて「がさつ者」と言われたそうです。戸はピシャンと閉めるし、茶碗を洗えば時々ガチャン、と言う訳で機織り名手も小町美人も形無しだったと、後年祖母は笑いながら話していました。祖母のお姑さんは、所作(しょさ)が美しく、どこにいるか分からない位に静かなのに、てきぱきと家の中を取り仕切っていたそうです。

婆は「がさつ者」の孫。野育ちの伝統にどっぷりと浸かっていました。それだからでしょうか。お茶を習い始めて気付いたことがあります。お茶の所作には、安全に美しくお道具を扱うノウハウがたくさん詰まっている、と。

 

所作(しょさ)

茶の湯での所作は、何事も大切に、丁寧に扱う事から始まります。

室町時代の頃、南宋皇帝から下賜された最高傑作の芸術品の数々、又、渡来の禅僧や留学生がもたらした多くの作品群など、優れた絵画、墨蹟、陶器、工芸品に対して、尊敬の念を込めて手厚く扱うように、所作の一つ一つの動き方が定められます。これは、禅宗寺院で行われている厳格な作法の影響を受けているのかも知れません。或いは、日本的に全ての物に神が宿ると言う考えにより、何事も徒(あだ)や疎(おろそ)かにしない所から来ているのかも知れません。兎に角、相手は無機質の物なんだからどうでも良いでしょ、とばかり、ヒョイと置いたり、ザザザァーと置き並べる様な事はしません。

どうすれば、お道具に対して失礼のない様に取扱えるのか、その為には、何処に何を置き合い、どのような所作が理に適っているか、を考えます。漫然と平面に道具を並べても、美しくありません。空間構成の緊張感が緩んでしまって間の抜けた雰囲気になり、折角のお道具の良さが台無しになってしまいます。考え無しに無駄な動作を繰り返せば、道具類を引っ繰り返したり破損したりし易くなります。

無駄が無く合理的で美しい動線・体の移動・足の動き・手の動きは、能を連想させます。今風に置き換えれば、フィギアスケートや床運動に通じる所があります。体の傾きや指先の角度、安定した体幹、乱れの無い動き、隙の無い演技の構成、それらは見る人を感動させます。洗練された美しい振る舞いは一つの芸術作品にもなり、一碗の茶と同じく御馳走にもなるのです。

 

能阿弥と茶の湯

能阿弥(のうあみ)が生まれた1397年は、足利義満が北山山荘(後の鹿苑寺・通称金閣寺)を造営した年でした。

彼は初め朝倉氏の家臣になりましたが、後に室町幕府足利義教に仕えました。彼は墨絵を能くし、阿見派という一派をなしました。そればかりか連歌に大いに才能を発揮、宗祇などの文化人とも交流を持ち、また、表装の腕も良く、幕府が所有する絵画や墨蹟に対しても優れた鑑定をしました。その彼が、書院の飾り方や、茶の湯の台子飾りなどを定め、点前のやり方も、武家作法を取り入れながら定めて行きました。 

これは凄い事です。実際に点前をやってみると分かるのですが、何処か一か所順序を間違えてしまうと、それから先の手が交差したり、所作が混乱したりして後が続かなくなってしまうのです。婆の失敗に、お釜の蓋が開いていないのに、柄杓を取ってお湯を汲もうとしたことがありました。その他の失敗は数知れず・・・と言う訳で、実に合理的に点前の流れが組み立てられています。

その能阿弥が、奈良に村田珠光というお坊さんが茶の湯をやっていると聞き、彼を招いて交流したと言われています。

連歌師心敬(しんけい)(1406-1475)が著した「心敬僧都庭訓」には、「雲間の月を見る如くなる句がおもしろく候。八月十五夜のつきなるは、面白からず候」とあるそうですが、この美意識を村田珠光も共有していたとか。又、同じく心敬が「言わぬところに心をかけ、冷え侘びたるかたを悟り知れりとなり。境に入り果てたる人の句は、この風情のみなるべし」と言った事に対して、武野紹鴎もその通りだと共感していたそうです。

色々調べて行くと、彼等のお茶の共通項に「連歌」というキイワードがあるようです。

 

余談  連歌の七賢人

連歌の話が出てきましたので、連歌の七賢人を列挙してみます。

宗砌(そうぜい)(生年不詳-1455)

大和の出身で山名宗全の家臣。俗名を高山時重と称し、村田珠光と親交がありました。

宗伊(そうい)(1418-1486)

足利義政の近習をして仕えていました。俗名・杉原賢盛

心敬(しんけい)(1406‐1475)

天台宗の僧侶。和歌と連歌の達人。主著「ささめごと」「老いのくり言」「ひとりごと」があり、連歌集・歌集に「心玉集」や「心敬僧都十体和歌集」があります。侘茶の村田珠光に影響を与えています。

行助(ぎょうじょ)(1405-1469)

比叡山の僧侶。連歌を宗砌に学びました。「連歌口伝抄」の著書があります。

専順(せんじゅん)(1411-1476)。

柳本坊、春陽坊とも号します。連歌師にして華道家池坊(いけのぼう)26世

能阿(のうあ)(1397‐1471)

能阿弥の事。室町幕府に仕えました。同朋衆。絵師、連歌師、鑑定家、表具師、茶人

智薀(ちうん)(生年不詳-1448)

俗名・蜷川親当(にながわ ちかまさ)。雅名・智薀(ちうん)。通称・新右衛門。アニメ「一休さん」に出て来る「新右衛門さん」で有名になりましたが、室町幕府の政所の役人です。

宗祇(そうぎ)(1421-1502)

号・自然斎。宗砌、専順、心敬に連歌を学びました。室町幕府の奉公衆で、和歌の二条流の弟子でもある東常縁(とう つねより)から、古今伝授を受けました。

(参考:「83 室町文化(10) 連歌」        2021(R3).02.07   up) 

 



139 茶の湯(1) 東山殿から侘数寄へ

何事も夢まぼろしと思い知る 身には憂いも喜びも無し   足利義政の辞世

露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢 豊臣秀吉の辞世 

位人臣を究め、天下の栄華を掌中に収めたかと思われた人が、私の人生は夢まぼろしであったと申されるとは、どんな景色が心の内に広がっていたのでしょう。

「夢は枯れ野を駆け巡る」ような寂寞(せきばく)とした風景の只中に、独りぽつねんと立って、人影に出会うでもなく、鳥や獣を見かける事も無く、温もりのある生きとし生けるものの全てから隔絶された壮絶な寂しさが、そこから立ち昇ってきます。

そういう寂しさの中で、「友遠方より来る」時、どんなにうれしい事か!全身弾けるような喜びに包まれ、あゝ、嬉しや、何しようか、どうやって持て成そうか、あれや、これやを考え、「そうだ、先ずはお茶を一服」と嬉々として浮足立って動き出す心と体が・・お茶の本質かも知れません。

 

同じ趣味でも色々ありまして

茶の湯の楽しさに嵌(はま)ってしまうと、もう、抜けられなくなってしまう様です。古田織部など、当初、茶の湯は嫌いだったようですが、後には名人上手と謳われ、天下の茶頭にまでなってしまいました。

入り口は「お茶を服す事」という単純な行為でしかありませんが、やればやる程広がりがあり、奥深さがあります。それを追求していくと、もう止められません。罠にかかった様にのめり込んでしまいます。

とは言え、のめり込む動機は人様々です。骨董蒐集が主でお茶は二の次の人も居ます。蘊蓄(うんちく)を垂れる教え魔も居れば、ストイックに修業に励む人も居ます。仕事上の人脈作りに不可欠な芸事と割り切る人も居ます。当世風の教養だからと盲目的に習う人も居れば、儲けの種にする人、文化を学ぼうと勉強する人、人それぞれあって面白いです。

彼等の追う道は千差万別、デルタ地帯のように川の流れは分流し、また、それが一層茶の湯の世界に広がりを与えています。そして、やがてその流れは「侘茶」と言う海に注いで行きます。

 

殿上の茶の湯

「殿上の茶の湯」は婆の造語です。侘茶が現れて来る以前に、足利将軍家を始めとして大名や公家達の間で行われていた「茶の湯」の事を指して、そう名付けました。大名茶と言うと、千利休の侘茶の影響を受けた多くの大名達が居ますので、それ等と区別する為です。

殿上の茶の湯を行う場所は、回遊式庭園や禅宗の庭園など、それなりに立派に整えられた庭園内に立つ殿舎の中で行われました。東山殿(足利義政の山荘。後の慈照寺(銀閣))には会所があり、その会所には6畳と10畳の大小二ヵ所の茶室が隣接していたそうです(前項138参照)。それに加えて東求堂同仁斎という四畳半の書院がありました。同仁斎には炉が切られていました。この様な事から推し量ると、少なくとも義政は公の茶室と私の茶室の都合三つの茶室を持っていたと思われます。

彼に仕えていた能阿弥・芸阿弥・相阿弥の親子三代にわたって、将軍が持つに相応しい唐物の軸や焼物などを、宝物として選び、書院飾りや台子飾りを完成させて行きます。

この三人はいずれも優れた芸術家です。絵を究め、書を能くし、文学に造詣が深く、連歌の達人でもあります。そういう彼等が茶の湯にも深くかかわって行きます。

殿上の茶の湯は格式を重んじ、唐物で道具組をして行う茶の湯です。

ただ、惜しい事に、応仁の乱や義政の趣味三昧の為に、幕府の財政は破綻(はたん)をきたしていました。義政の妻・日野富子が蓄財に奔(はし)っても焼け石に水でした。結果、歴代の足利将軍達が集めてきた唐物の蒐集品は、相阿弥の頃になると、資金繰りの為に順次手放す様になってしまいました。こうして流出した大名物(おおめいぶつ)は、新興大名や富豪たちの手に渡って行きます。

   参考:20 室礼の歴史(5) 同仁斎

      80 室町文化(7) 庭園

      81 室町文化(8) 水墨画

      82 室町文化(9) 東山御物

 

 

侘数寄(わびすき)の茶

侘数寄の茶は、名物の茶碗や高価な茶道具を持たないで行う清貧の茶の事で、殿上の茶の対極にある茶です。村田珠光が侘数寄者の一人と言えるでしょう。

山上宗二記』『南方録』によると、珠光は圜悟(えんご)墨蹟徐熙(じょき)の「鷺の絵」などの名物を数々持っていたそうです。が、『清玩名物記』という足利義晴の時代の頃に書かれた本によると、珠光が所持していたのは珠光茶碗が四つだけだったとあるそうです。最近では、この記述の信用性が高くなり、珠光が名物を多数持っていたと言う話は影が薄くなっているいるようです。

同じ様な侘数寄者の一人に丿貫(へちかんorべちかん)が居ます。彼は反骨の茶人です。

丿貫は武野紹鴎(たけの じょうおう)の門下生で、千利休と兄弟弟子です。丿貫は千利休をライバル視しており、利休を鋭く批判しておりました。

二人は二者二様の茶の道を歩みました。一人は権力に近づき、一人は真の侘茶へと歩みます。権力に近づいた方が茶道の全盛を築き、真の侘茶に進んた方が、変人という烙印を押されて埋没してしまいました。丿貫の茶は、高価な茶碗も特別の茶釜も無く、ありふれた茶碗と、煮炊きの釜との兼用の釜で湯を沸かし、極めて質素な道具立てでお茶を点てていました。

これぞ侘しい、正に寂しい、うらぶれた茶の湯。けれどそれは貧乏ったいものでは無く、全ての無駄を省いた清冽な美しさが漂っていたのではないかと、婆は想像しています。

 

余談  東山殿

東山殿は8代将軍・足利義政が隠居所として造営した山荘です。山荘は、京都の東山の麓にあった浄土寺の跡地に建てられました。隠居はしても政治の実権は手放さなかった義政らしく、或る程度の政治的機能が果たせるようなミニ将軍御所の構えをしておりました。大きな建物が10棟ぐらいあったそうですが、足利義晴と義輝の親子二代にわたり三好勢との攻防があり、天文(てんぶん)19年(1550年)、足利義輝&細川晴元三好長慶の中尾城の戦いの時、その多くが焼亡してしまいました。中尾城は東山殿の裏山にありました。その時、焼失を免れたのが現在ある銀閣と東求堂です。

    参考:79 室町文化(6) 銀閣

 

余談  圜悟墨蹟(えんごぼくせき)

宋の時代に圜悟克勤(えんごこくごん)(1063-1135)と言う臨済宗の高僧がおりました。その圜悟が書いた墨蹟を圜悟墨蹟と言います。圜悟克勤は幼少の時に出家、雪ちょう重顕(ちょうけんorじゅうけん)の百則の公案を基に評唱を加えて『碧巌録(へきがんろく)10巻を表しました。碧巌録は禅宗第一の典籍(てんせき)と言われています。圜悟克勤は圜悟禅師、仏果禅師、真覚禅師と尊称されています。

   参考: 48 鎌倉文化(4) 禅語

       49 鎌倉文化(5) 書・断簡・墨蹟

 

余談  徐熙(じょき)(生年不詳-975)

南唐の画家。水墨画に淡い彩色を施した様な畫境を拓き、花鳥や魚や果実の絵を得意としたそうです。宋の太宗が徐熙の絵を評して「花果の妙、吾れ独り熙あるを知るのみ」と讃えたと言われています。徐熙の白鷺の絵を見て茶道の真髄を悟ったと言う話があります。水墨画に漂う神韻とした空気観に、仄かな色気が滲み出ているのを見て、そのように悟ったのでしょうか。徐熙の鷺の絵は兵乱で焼失したと聞いたことがあります。

 

 

138 東山殿のお茶

初期の頃の茶の湯は、別室でお茶を点ててお客様の下に運ぶ形式になっておりました。

(参照 : 「127 絵で見る茶の湯(1) 厩図」、「128 絵で見る茶の湯(1) 調馬図」)

それはきっと、水屋仕事は汚れ物などを扱うので人目に付く場所でするものでは無い、という考えから、そうしていたのだ、と思っておりました。ところが、色々調べていく内に、そうでは無く、表に出られない事情があると、気が付きました。それは、家の造りに関係しています。

 

君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)

足利義政に仕えていた能阿弥・相阿弥という父子の同朋衆が、将軍の小川御所や東山殿(後の鹿苑寺(銀閣寺))が所有している宝物リストを作りました。そのリストが「御物御畫目録(ごもつおんがもくろく)」と「君台観左右帳記」と言います。

「君台観左右帳記」には優れた絵画などの列挙の次に、書院には何をどのように飾ったら良いのか、という六つの事例の絵図と共に、茶湯棚飾の図が載っています。

以下の右図は、国立国会図書館デジタルコレクションから「君台観左右帳記」の茶湯棚飾を描き写したものです。(参考:左図は式正織部流の真台子の点前で時々行う跪座(きざ)の姿勢)

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茶湯棚飾の図に書いてある事

上段右 建盞(けんさん)六台に座る中に大海袋に入 (建盞は建窯で焼かれた天目茶碗の事。又、大海とは大振りの茶入れの事。袋は仕服の事)  上段左 うがい茶碗大小二つ同臺(同じ台)方盆(四角いお盆)に座る(単に茶碗と言ったら天目茶碗以外の茶碗を言う)  中段  食篭(じきろう)、具(菓子)  下段右 火搔きと羽箒と炭こ立て掛ける・水指、蓋置・火箸、杓子立、杓子(ひさこ)  下段左 三建盞  中に肩衝  盆座る  畳の上 炭斗(すみとり)・釜据え  胡銅の物 畳に置くべし・大茶碗  下水  畳の上に置かる

そして、茶湯棚飾の次の頁にはこう書かれています。

「一間ノ茶湯棚是ハ御會所ノ御飾ニテ候此外二ハ色々取合テ飾可有之候」

御覧になれば分かる様に、高さは天井まで有り、幅は一間幅の造り付けです。そういう大きな棚に、色々な茶道具が載っています。立たなければ手が届かない様な上段の棚に、天目茶碗や茶入れが大きなお盆に載っているとなると、そこでお点前するのは大変です。

 

茶湯棚点前

この様な棚でのお点前は、亭主は壁の棚に向かって座る様になります。つまり、客に背中を向けます。又、亭主は上の物を取る為に、立ったり座ったり動かなければなりません。

式正織部流に「六天目点て」という秘伝があります。道具立てはこの図にかなり近いですが、真台子で行うので、これより簡略化されています。

式正織部流の真台子は他流の真台子よりも一回り大きく、幅も丈も有ります。天板の上に六つの天目茶碗をお盆に載せて、なお余裕があり、色々なものが載ります。けれど、天板へ茶碗やお道具を上げたり降ろしたりする度に、跪座(きざ)になったり、正座になったりして大変です。

この図の茶湯棚ですと、跪座では済まず、完全に立ち上がらなければ用が足りないでしょう。亭主が後ろ向きのまま立ったり座ったりして点前するなんて、そんな事は有り得ないよなぁと悩んでいましたら、当時の茶室は邸宅内ある会所の付属施設としてあった、と分かり納得しました。

 

会所

会所と言うのは、集会所の様なものですが、集会所と言うより迎賓館に近い建物です。その会所の主座敷の次の間に続いて茶室があった事が分かりました。

建築家・堀口捨己(ほりぐち すてみ(1895-1984))氏の研究に依りますと、東山殿の会所の主座敷は24畳あり、主座敷に続く次の間に接続して茶室があった様です。そして、その茶室(茶湯棚のある部屋)は大小二ヵ所あり、6畳と10畳だったようです。

多分そこで同朋衆がお茶を点て、小姓が座敷に運んだのではないかと、想像します。主人は主座敷の正面に機嫌よく着座して客を迎えていたのではないでしょうか。或いは、位の高い賓客に上段の席を譲って歓待していたのかも知れません。

大体、此の頃のお茶は、お茶を振る舞う為にだけで人を招くのではなく、そこには酒肴が出されご馳走があり、能楽を見物し、山ほどの贈物があり・・・という一連の接待の中に組み込まれたものなのです。現在行われている茶事の流れに似ています。が、そこには「侘茶」の様な求道的な精神性は無く、また、無理強いに万人に頭を下げさせるような家の構造物の仕掛けもありません。

 

茶の湯への道

会所の接待や儀式の大仰なお茶は毎日ある訳ではありません。普段の日常の中で、もっと手軽にお茶を頂きたい、という思いが募るのも人情というものです。尤も、高い抹茶を入手できる様な人は、それなりの地位や財力のある人達ですから、庶民一般にまで喫茶の風習が広がる迄には参りませんでしたが、ただ、そういう流れを後押しする様な動きが出てきました。

それは、和物の陶器の発達です。唐物陶磁器は輸入ものですから、値段が高く、余程の余裕のある人しか手に入れられませんでした。ところが唐物陶器を真似した日本産の茶碗なら、ちょいと手を伸ばせば入手できるようになってきたのです。

君台観左右帳記に書いてあります様に「一間の茶湯棚、これはご會所のお飾りです。此の外には色々取て飾ってもよろしい(ずいよう意訳)」とある事から、お道具の取り合わせや茶湯棚の形も色々あった事が想像できます。この頃、既に持ち運びの出来る半間巾位の小さな茶湯棚が現れていたようです。そして、これが流行り始めます。この移動式茶湯棚が台子の原形ではないかと、考えております。

支配層の茶の湯を、より一般的に馴染めるような茶の湯に変えて行こうと、村田珠光が創意工夫している頃、能阿弥などによって、点前をスッキリ合理的に組み立てていこうとする流れが加わり、武家礼法などの影響もあり、次第に茶の湯が洗練されて行くようになります。