式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

151 姫路の狼狽(本能寺の変)

「光秀謀反」「上様討死」の驚天動地の報せは、全国に激震をもたらしました。

戦国期から江戸時代初期までの様子を著した本に「武功夜話(ぶこうやわ)」があります。その中に「明智日向守謀反の事」という条があり、その混乱振りが書かれています。

その部分は或る任務を帯びて姫路城下に滞在していた一隊の記録です。彼等は姫路城下で兵糧、馬草の準備をし、宿所の手配を行い、凸凹道が無い様に道普請などに励み、信長公動座が円滑に進むように、秀吉の命によって派遣された先遣隊でした。もし、中国大返しが無かったならば問題視しないのですが、秀吉の電光石火の大返しにそれが何らかの役に立っていたとしたら・・・仮に事前に変事を見越してそのような手を打っていたのだとしたら・・・そこにきな臭さを感じてしまいます。

ここに、新人物往来社発行 『武功夜話』前野家文書 吉田蒼生全訳の内の「明智日向守謀反の事」の条を引用します。

 

明智日向守謀反の事』

『一、天正壬午六月二日、亥の刻四つ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部殿(前野長康)、兵部大輔よりの密書を見られ候いて、愕然として声無し。その場に居合い候者、前野三太夫(宗高)、石崎頼母、武藤惣佐衛門、上坂勘解由左衛門、二宮右近大夫、前野清助門(義詮)丹波より夜中の御使者に候えば、上方において異変の出来如何なる急変なるや一座罷り居り候衆、およそ測り難く前将様の顔色を窺い暫時の間聞き糺す者とて無く候。前将様また無言蒼顔なりややあって気息相調え、兵部少輔(細川藤孝)よりの一書の趣申し語られ候なり。「明智日向守(光秀)逆心、洛中の御宿所本能寺に人数差し向け不意を討ち、御運拙く御最期の注進に候なり」、一座の者天下の大事、気転倒して徒に戸惑いなす術を知らずなり。思わず三太夫(前野宗高)口早に謂曰く、「明智の大軍日を追って播州乱入は必定、これを支うるに相抱えの人数慮るに播州これなく候。筑前様は備中表に罷り在り、姫路在番の人数と我等一千足らず、播州の進退殿には如何に御思案候哉」と、膝乗り出し詰め寄り候。その場の御詰めの者他に意見申す者これなく候。ただ魂魄を奪われ呆然、自らを失い様体浅間敷く候なり。この場において下知候事。

一、「兵部少輔殿よりの注進、よもや相違いある間敷く候。明智日向殿へ同心これなきの覚悟明白、斯くなる上は悪戯に逡巡して、天下後世にそしりを招く、これ武者の本意にあらざるなり。本能寺の出来、急度備中陣の筑前様に注進の事」

一つ、直ちに此処に散在の者ともを呼び寄せ、陣用申し付けるべき事。

一つ、姫路御在番、真野右近(助宗)の元までこの旨至急注進の事。

一つ、手利(てきき)の者撰び摂津表へ罷り立ち、諸将の動き細作候て、上方の明智日向の進退見究めの事。

一つ、右の如く前将様御指図なされ、御具足を御守備先罷り出で候者、明けて三日寅七ツ半の頃合いに候なり。素走りの前野九郎兵衛(行宗)、古田吉左衛門備中おもてへ罷り立ち候は卯六ツ刻に候。酉四ツ刻までには御馬場先に参集の人数、二百有余人急変出来に付き眠る事も能わず詰め居り候。

一、大坂摂津表罷り立ち候者。

上坂勘解由左衛門   児玉左衛門

小野木重之衛門    前野伝左衛門

田尻右近大夫

右の者ども首(かしら)にて十三人、身支度調え卯の下刻出で立ち候。

                              (以下略)』      

※ なお、「出来」は「しゅったい」と読みます。

 

この後、摂津表に放った上坂勘解由左衛門はじめ斥候達が戻って来て現地の報告があったり、前将様が指示を出そうにも、陪臣の身で勝手に動くわけにもいかず、筑前様へご注進したもののその返事を待つまでの間、徒(いたずら)に時間が過ぎて行くのを口惜しがったりしている描写が続きます。又、国元の領国に一揆蜂起があったらどうしようとか、播州一千の人数では明智軍の侵攻を支えきれないが、兎にも角にも武備を怠らず警戒を最大限にと・・・切羽詰まった様相が書き綴られています。

 

武功夜話」について   

武功夜話』は、研究者の中には偽書の疑いの目で見る人も有り、第一級資料としては見なされていない様です。

武功夜話』は、尾張国丹羽郡前野村の庄屋・吉田雄翟(よしだ かつかね)が、家に伝えられてきた前野家文書を整理・編集したもので、織田信長豊臣秀吉の頃の事情が書かれています。

雄翟(かつかね)の祖父は、元の名を前野宗吉と言っていましたが、母の実家である吉田城主・小坂家の跡を継いで小坂孫九郎宗吉と名乗りました。その後、織田信雄(のぶかつ)に仕え、雄の偏諱(へんき)を賜って雄吉(かつよしorおよし)となります。雄吉は、太田孫左衛門(=太田牛一(『信長公記』の著者))とも昵懇の間柄だったそうです。

雄翟の父は、小坂助六雄善(こさか すけろく かつまさ)と言って、織田信雄に仕えていました。その後、松平家に仕えますが浪人します。浪人の身分を恥じ、武門の名を汚さない為に名前を小坂から吉田に変えます。父・雄吉(かつよし)が書き残した覚書、伝記、系図、証文などを子の雄善(かつまさ)が整理し纏めますが、完成を見ず志半ばで倒れ、その志を孫の雄翟(かつかね)が受け継ぎました。家に残された「前野家文書」を子々孫々に伝えるべきものとして編集し、纏めたのが「武功夜話」です。まだ、家に仕えていた古老が存命だった事も有り、夜物語に聞いた彼等の話なども取り入れたりなどしたので、「夜話」という表題になったと思われます。

この作業は関ケ原の戦いから34年後の1634年(寛永11年)に、雄善が着手し、雄翟に受け継がれました。公家の日記と違い、その日に書いたという同時制がありませんが、祖父がその時々の覚書や証文などを書いたものを基に、子孫が「武功夜話」として纏めたと言われていますので、元になった基礎資料には同時制があったと思われます。

編集作業は年月が経ってから行われたという点、編纂の過程で創作的な加筆が有ったらしいという疑点などで、信頼度が今一つ足りないと言われています。「武功夜話」の資料的価値について否定的な意見もあれば、肯定的な意見も有り、研究者の間で、侃々諤々(かんかんがくがく)の様相を呈しています。

 

光秀、なぜ謀反を?

本能寺の変のおよそ1年前から直近までの日本中の動きを見てみますと、信長麾下の武将達の動きや対抗勢力の動きなどは一刻として留まっておらず、同時多発的に、実に複雑に流動しています。この全体像を把握し、人員の配置などの指令を次々と飛ばして統括している信長って、なんて凄い人なのだろうと、感心してしまいます。

光秀は、初め将軍義昭に仕えていました。彼は義昭の「信長を倒せ」の檄に呼応して信長を討ったのでしようか? 婆はそうとは思いません。何故なら、光秀が義昭から信長へ主君替えをした時に、既に彼は義昭を見切っていたと、婆は見ています。信長の出した17ヶ条の意見書の話半分だとしても、到底義昭が将軍の器に値するとは思えません。義昭は旧習に固執した名誉欲の塊です。御神輿の鳳凰に祭り上げるには打って付けですが、統治能力は皆無に近いのです。義昭を傀儡政権にして光秀が力を伸ばしたとしても、いずれは将軍の我欲と能吏の光秀は衝突します。義昭と信長が敵対した様に、同じ権力の相剋が再現されたでしょう。

この事件には、恨み説、野望説などを基にした単独犯説、主犯が何処かに居て彼等に踊らされた黒幕説、共謀説等々諸説50を超えるほどあり、謎の解明は未だもって成し遂げられていません。

 

もしも婆が光秀ならば・・・彼の心を探って

光秀は、本能寺の変を起こす丁度1年前の6月2日、明智家の「明智家法」の後書きに「信長様への奉公を忘れてはならない」と書いているそうです。と言う事は、1年前までは謀叛を考えていなかった、と言う事になります。尤も、それを忘れそうになるから戒めとしてスローガンの様に提示する場合も有りますが・・・婆が注目したのはそう書いてから2か月後に「御ツマキ」が亡くなった事です。「御ツマキ」とは「御妻木の方」或いは「御妻木殿」と呼ばれていた信長の愛妾で、光秀の妹 or 義妹です。彼女は奥向きでかなりの力を持っていたらしいです。光秀と共に興福寺東大寺の争いを調停したり、公家衆も彼女に贈り物などをしています。信長と光秀の間がギクシャクしても、彼女が潤滑油か接着剤の役目をして上手くバランスを保っていたのではないかと思います。

ところが、彼女が亡くなってしまいます。『言経(ときつね)卿日記』によると、光秀は彼女の死に「比類なく力を落した」そうです。「いたく悲しむ」なら理解できますが「比類なく」と言う表現は尋常ではありません。光秀は重大な精神的ショックを受け、全てを悲観的に捉える様になってしまったのではないでしょうか。三好長慶が良い例です。長慶は肉親を立て続けに3人失い、鬱病に罹り、気が狂って弟を城に呼び出して殺してしまいました。自分の罪に自暴自棄になり、落胆の余りその一か月半後病死してしまいます。

四国攻めの時、長曾我部を調略するにも和平に持ち込むにも、必要欠くべからざる手駒として斎藤利三(さいとう としみつ)を、稲葉一鉄から引き抜いて自分の家臣にします。ところが、一鉄はそれに抗議して信長に訴えます。信長は利三を一鉄に返す様に命じますが、光秀はそれを拒否します。光秀は内心こう思ったでしょう。「四国攻めに最適の人材を得たのに、それを手放せと言うのか?それが出来ぬのなら、利三を殺せと? 利三を抜擢したのはこの儂だ。利三に何の顔向けができようか?」光秀の拒否が信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じてしまいます。しかも、光秀が命ぜられたのは四国攻めではなく、備中に居る秀吉への援軍です。

斎藤利三の異父妹は長曾我部元親の正室です。四国征伐の渡海の予定日が6月2日。事態は切迫していました。事態を悪い方へ悪い方へとネガティブ思考に転がり落ちる光秀。逃げ場のない隘路(あいろ)の先に見たのは、信長の身辺の軍事的空白・・・万に一つも無い奇跡のエアポケットの出現です。

 

戦場の棋譜

戦国時代の武将と言うものは、戦場を将棋の盤面を見る如くに何十手先を読んだ上で、今の一手を打ちます。例えば、武田信玄上杉謙信が戦った川中島の妻女山の戦いです。相手の心理を読み、その裏を搔いて行動しています。三方ヶ原の戦いの末に家康が「空城の計」をもって信玄を翻弄させた話などはそのいい例です。

秀吉は、乱世を生き抜き天下の頂点に立った人物です。AIコンピューターの棋士の様に、先のあらゆる手筋を読んでいたでしょう。

信長が僅かな供回りで京都にやってきて京都に軍事的空白が生まれました。そのエアポケットの危険性を秀吉は十二分に承知していたと思われます。何しろ義昭が狙われた「本圀寺(ほんこくじ)の変」という前例があります。義昭の兄・義輝が殺された「永禄の変」もあります。将軍の警備が手薄だった、と言う点では万人恐怖の義教の「嘉吉の乱」があります。光秀特定でなくても、三好氏、六角氏、一向宗丹波衆など、虎視眈々と狙っている勢力がありました。

京都の信長に万一があった場合にすぐ備中から引き返せるように、姫路城下に兵糧などの備蓄をさせたり、道路工事をさせたりしたのかも知れません。いやいや、もっと秀吉の腹の中を探れば、エアポケットの罠を仕掛け、そこに誰かが嵌る事を念頭に、次の一手でソイツを倒すことくらい考えていたかもしれません。謀反人襲撃に持ち堪(こた)えて上様がご無事ならば、一番に駆けつけた秀吉は「でかした!」と褒められるでしょう。もし上様御最期ならば、ソイツをやっつければ天下を望む事が出来ます。また、何事もなく平穏無事ならば、上様御動座恙なく誠に大慶至極で「愛(う)い奴」と覚え目出度い事でしょう。秀吉は、両面作戦どころか多方面作戦を打ったのではないかと、婆は邪推しています。

 

秀吉は腹黒

秀吉は腹黒い人物です。稀代(きだい)の「人たらし」と呼ばれる程腹は真っ黒です。人たらしは、つまり表面はお人よしで真面目で如才無く見えますが、腹の中は極上の策士です。そして、策士は名優も驚くほどの名演技をします。

「敵の総大将・毛利輝元が間も無く出陣」と信長に報告し、秀吉は信長の出陣を要請しました。つまり、動座を促して京都に軍事的空白を創り出したのは秀吉です。その空白の罠に嵌ったのが光秀。秀吉は教唆(きょうさ)も何もせずに、光秀を自発的に動かしました。勿論、光秀が謀反に動くかどうかは確率の問題。全く動かなかったとしても、秀吉にとっては何の痛痒(つうよう)も無く、目出たい事なのです。

と、まあ、これは婆が妄想して描いたシナリオです。感情面だけで推理したものなので、論拠は穴だらけ。お笑い下さい。

 

余談  春日局

斎藤利三本能寺の変の後、捕らえられ、処刑されました。利三の娘・福は、稲葉一鉄(良通)の外孫です。利三が処刑された後、稲葉家は福を引き取り育てました。後に、稲葉家の親戚の三条西家に預けられ、公家の教養を積みます。そして、徳川竹千代(=家光)乳母として出仕し、竹千代を三代将軍に就ける様に努力します。徳川幕府盤石の礎を築いた功は大きく、朝廷から春日の局の名号を賜ります。

 

150 信長年表6 本能寺の変

前号では、室町幕府滅亡、浅井・朝倉滅亡、伊勢長嶋一向一揆討伐、長篠の戦いで織田・徳川連合軍勝利、そして、1576年3月25日(天正4年2月25日)に信長が安土城に入ったところまでを年表にしました。

今号は、手取川の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦い、高松城の水攻め、四国攻め、そして、本能寺の変までを扱います。

信長は、毛利と天下統一に向けて協力関係を築いていましたが、天正3年以降、膨張する毛利氏を抑える為に、毛利包囲網を構築する方向に動きます。

信長は、毛利勢力圏と織田勢力圏の境界にある緩衝地帯・播磨地方に手を伸ばします。二者に挟まれて揺れ動く播磨地方に割拠する小国領主達。オセロゲームの様に向背が変わります。そんな中で起きた上月城の戦いで秀吉側が勝利します。が、言う事を聞かなかったらどうなるか、見せしめのために秀吉が行った降伏した城兵皆殺しと、女達の磔、子供らの串刺しなどの凄惨な虐殺が、播磨人を凍り付かせ、却って織田からの離反に拍車を掛けます。領民に一向宗徒を抱える三木城の別所長治も、有岡城荒木村重も、織田のやり方に従えませんでした。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:天正元年→天正01)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。羽柴秀吉→秀吉。毛利輝元→輝元等々外にも。

 

年表

1576(天正04.05) 信長、本願寺討伐の為出陣、四天王寺一向一揆衆を破る。

1576(天正04.05中旬) 上杉謙信、義昭の要請により石山本願寺と講和する。

これにより、謙信、上洛の道が開け、謙信と信長の同盟は破綻する。

1576(天正04.09) 謙信、一向一揆支配下の諸城を攻め落とし、越中を平定する。

1576.10.05(天正04.09.13) 義昭の求めにより武田勝頼が上杉氏と講和する。

1576(天正04.11) 信長、正三位に叙せられ、内大臣になる。

1576(天正04.11) 上杉謙信能登に侵攻し七尾城を攻囲。(第一次七尾城の戦い)

1576.12.14(天正04.11.24) 義昭、毛利輝元に足利家の家紋の桐紋を与える。

1576.12.15(天正04.11.25) [三瀬の変] 信長、伊勢の北畠氏を乗っ取る。

信長は次男・信雄(のぶかつ)を伊勢の北畠氏に婿養子として送り込む。後に信雄は、義父・具教(とものり)と義兄弟を殺害、更に北畠氏家臣達を供応し謀殺。北畠氏を乗っとる。

1577,03.20(天正5.03.01) 信長、雑賀・鈴木孫一の居城を攻撃。孫一ら一揆勢降伏。

1577(天正5.06) 信長、安土城下に13ヶ条の掟書を出し、安土城下の繁栄を図る。

1577.07.21(天正5.07.06)  信長、新造の二条屋敷に正式に入居する。

1577.11.03(天正5.09.23) [手取川の戦い] 織田vs上杉。織田大敗北。

能登の守護・畠山義隆の跡を継いだのは幼児の嫡男・畠山春王丸である。実権は重臣の長続連(ちょう つぐつら)と綱連(つなつら)父子が握っていた。家中は親織田派と親上杉派とに分かれていた。上洛を意図する謙信は、親織田派の長父子の存在は排除すべき勢力だったが、七尾城は難攻不落の城で攻め落とせなかった。関東の北条の動きも有り、謙信は一旦春日山城に戻った。その間、畠山軍は上杉方の城を次々と落とした。謙信、再度七尾城に出陣し攻囲する。長氏、信長に救援を求め、七尾城に籠城する。同年8月、織田軍は、総大将・柴田勝家の下、滝川一益丹羽長秀前田利家佐々成政、など錚々たる武将達が4万の兵を率いて出陣する。途中、羽柴秀吉、戦列を離れ、引き上げてしまう。

一方、七尾城内に疫病が蔓延し、城主・春王丸は病死。謙信は遊佐続光(ゆさ つぐみつ)と内通して、長一族を皆殺しにし、落城させる。織田軍、同年9月23日手取川を渡河。織田軍が七尾城落城を知った時には、いきなり上杉軍とぶつかり、陣形を立て直す暇も無く算を乱して退却。折から増水していた手取川に足を取られ、討死する者や溺死する兵が多く出た。

1577(天正05.08) 松永久秀、信長に背き、信貴山城に立て籠る。

1577.11.19(天正05.10.10) 織田信忠信貴山城を落す。松永久秀・息子と共に自害。

1577.01.30(天正05.12.23) 謙信、次の遠征に向けて、大動員令を発した。

1578(天正06.01) 信長、正二位に叙せられる。

1578.04.19(天正06.03.13)  上杉謙信、病没。享年49

1578.04.20以降(天正06.03.14以降) 「御舘の乱」上杉謙信死去に伴い、後継者争いが起きる。

御舘の乱に乗じて、武田勝頼、北信濃へ出兵し、乱に介入する。

1578(天正06.06) 九鬼嘉隆、信長の命により鉄船造船、雑賀の水軍を破る。

鋼鉄船を手にした事に拠り、信長、大阪湾の制海権を握り、本願寺の補給路を完全遮断に成功。

1578.09.12(天正06.08.11) 細川忠興明智たま、勝竜寺城で結婚する。

1578.12.04(天正06.11.06) 九鬼嘉隆、甲鉄船6隻が、毛利水軍600隻を木津川河口で破る。

1578(天正06.12) 輝元、出陣を決意。出陣は天正7年1月16日と定めた。

輝元、武田勝頼徳川家康を攻撃し、織田の兵力を惹き付ける様に要請するも、毛利家臣・市川元教と松山藩主・杉重良の謀反が勃発。毛利氏、出陣を取り消し、上洛を断念する。その後の輝元は、義昭の再三の督促を無視。動かなかった。

1579(天正07) 秀吉、美作(みまさか)宇喜多直家を毛利から離反させ、織田側に服属させた。

1579(天正07) 安土城天守、竣工。

1579(天正07)  長曾我部元親、十河軍(十河存保そごう まさやすorながやす)に大勝。三好康俊も降伏。

1579(天正07.06) 光秀、丹波八上(やがみ)城を攻撃し、落す。

信長の命により、光秀、天正3年より丹波を攻略。堅城の八上城を光秀は完全に包囲し、兵糧攻めにする。天正7年6月、ついに落城。城主・波多野秀治とその兄弟3人は安土に連行され、処刑される。なお、光秀の母が波多野側の人質になり、波多野兄弟が処刑された時に磔にされて殺されたという悲劇の物語がある。が、史実では無い、と言われている。

1579(天正07.01) 毛利氏の重臣・杉重良が大友氏の調略で謀反。

杉氏、毛利氏の背後を脅かした。

1579.02.26(天正07.02.01) 上杉家の後継者争い、景勝に定まる。

景勝(長尾家血筋)が、御館の景虎(北条氏の血筋)に総攻撃を掛けた。北条方が雪に阻まれて救援困難の中、上杉憲政上杉景虎、道満丸が和議を求めて出頭する途中捉えられ、殺害された。

1579(天正07.05) 安土城天守閣完成。

1579(天正07.05) 浄土宗と法華宗による安土宗論が行われる。

1579(正7.08) 柴田勝家、加賀へ侵攻す

1579(天正07.09.) 伯耆の南条元続(なんじょう もとつぐ)、輝元に叛旗を翻す。

1579(天正7.09) 家康、北条氏と同盟を結ぶ。

1579.10.05(天正7.09.15) 家康嫡男・信康、切腹

1580(天正8) 有子山城の山名尭煕(やまな あきひろorたかひろ)父と意見が対立し逃亡。

尭煕、秀吉の陣営に赴き、帰順する。父の山名祐豊(やまな すけとよ)、秀吉に降伏後死去。自刃とも病死とも言われている

1580(天正8) 光秀、丹波平定の功で、丹波一国29万石を加増されて、計34万石を領する。

1580(天正8) 長曾我部元親、阿波・讃岐の両国をほぼ制圧する。

1580(天正8) 信長、長曾我部元親に臣従を迫る。元親、これを拒絶。

 

三木城の戦い (三木の干殺(ひごろ)し)

 1580.02.02(天正8.01.17) 羽柴秀吉、播磨の三木城を落す。三木城の別所長治が自害する。

三木城の戦いとそれに関連した動きを、過去に遡って辿り、落城迄をここに纏める。

[経過]

三木城の干殺しと呼ばれる籠城戦は1年10ヵ月に及んで落城、城主・別所長治の自害をもって終止符が打たれた。信長は毛利膨張に歯止めをかけるべく、毛利との協力関係を見直し、政策を毛利封じ込めに転換、1574(天正1)年に、浦上宗景備前・播磨・美作の統治を認める朱印状を出した。これは毛利勢力圏に織田の楔(くさび)を打ち込むようなものである。毛利氏と宇喜多氏これに反発し、浦上氏と敵対。そして、

1576.06.09(天正04.05.13)に、輝元、領国の諸将に、義昭の「信長打倒の挙兵」の命令を受ける事を伝える。

義昭は、毛利軍を幕府軍と位置付けた。

1576.08.07(天正04.07.13)、毛利、織田水軍を破って本願寺に兵糧搬入に成功。反織田の旗色を鮮明に出す。

1577.12.02(天正5.10.23) 信長、羽柴秀吉に、山陽道山陰道の攻略を命ず。

姫路城代・小寺孝高(こでらよしたか)(=黒田官兵衛)、姫路城を秀吉の軍事拠点に提供する。

1577(天正5.12) 羽柴秀吉宇喜多直家の支城・播磨国上月城(こうづきじょう)攻略。

上月城が落城した時、秀吉は降伏した城内の将兵や婦女子に対して、残酷な虐殺を行い、皆殺しにする。落城後、秀吉は上月城尼子勝久と幸盛を入れる。

1578(天正06.02) 別所長治が織田から離反し、毛利氏に付く。

東播磨の諸勢力がこれに同調。

1578.05.05(天正6.03.29) ~1580.02.02(天正8.01.17) 秀吉、三木城包囲を始める。

1578(天正6.04) 輝元、吉川・小早川と共に播磨に進軍。輝元も備中高松城に入る。

1578.05.07(天正6.04.01)  別所長治、織田に協力的だった細川庄の領主・冷泉為純・為勝を攻撃。秀吉からの援軍が来ず、冷泉父子自害。

1578.05.09~1578.05.12(天正6.04.03~6.04.06) 秀吉、別所支城の野口城を落とす。

1578.05.24~1578.08.06(天正6.04.18~6.07.03) 毛利氏、尼子氏残党が籠城する上月城を包囲。

毛利軍(30,000)と尼子(2,300)+秀吉(10,000)で戦い、尼子・織田側敗北、上月城落城。

1578.08.09(天正06,07,06)、尼子氏残党、降伏。尼子勝久と弟・氏久は切腹

この戦いで輝元は、安芸・周防・長門備前・備中・備後・美作・因幡伯耆・出雲・隠岐・石見・讃岐・但馬・播磨・豊前の領土を支配するようになる。

1578.06.04(天正6.04.29) 光秀、播磨へ派遣され、神吉(かんき)城攻めに加わる。

1578(天正6.10) 摂津有岡城荒木村重が、信長に謀反。[有岡城の戦い]

村重の領国・摂津国の南側は瀬戸内海に面していて良港があり、海上輸送の便がある。ここから三木城への補給路を繋げば、三木城へ兵糧搬入が可能になる。その重要な交通の要衝にいる荒木村重が毛利へ寝返った。

謀叛を起こした村重に、高山右近中川清秀、塩川国満、能勢頼道、吹田村氏等が与し、小寺氏、櫛橋氏、在田氏、宇野氏らも毛利方に就く。高山右近には宣教師のオルガンティノなどが説得に当たり、中川清秀には古田織部が説得に当たった。説得工作の結果、同年11月16日に高山右近が降伏し高槻城を開城、同月24日に中川清秀が降伏して茨木城を開城、安部仁右衛門の大和田常も開城した。

1578(天正6.11) 荒木村重黒田官兵衛の説得も効果無く、逆に官兵衛が幽閉される。

1579(天正07.05) 宇喜多直家、東美作の後藤勝基などを、信長方内応の理由で滅ぼした。

1579(天正07.06) 宇喜多直家、毛利氏に対して叛旗を翻し、信長に従った

1578.12.12(天正6.11.14) 信長、5万の兵で有岡城を取り囲み、総攻撃を命ずる。

中川清秀と、古田重然(=織部)はこの戦いに参陣、原田砦に配置される。

1579(天正7.05.02) 山科言経(やましな ときつね)、御ツマキに贈物をする。

(※ 御ツマキは明智光秀実妹or義妹にして信長の愛妾)

1579.09.29(天正07.09.10) 平田砦の戦い(三木城包囲砦の一つ。織田側が構築したもの)

織田軍の鉄壁の包囲網に、三木城では兵糧が尽きた。毛利側の食糧補給の作戦はことごとく失敗。毛利の大将・生石中務少輔が雑賀衆を率いて夜陰に乗じて平田砦を襲撃、大混乱になり、守備隊の将兵の多くが討死している。一夜明けて翌日、城に更に近い大村砦に戦場が移った。食料受け渡しの為に城から打って出てきた別所義親軍は、毛利と合流をしたが、駆けつけてきた秀吉軍と衝突。数の上では別所・毛利軍の方が上だったが、別所軍の餓えた兵の体力が持たず劣勢に転じ、別所側が大敗北をした。この時、平田砦で古田重則(秀吉側)も討死。(古田重則は古田織部の伯父と言われている。重則嫡男に重勝がおり、重勝は重然(=織部)と混同される事がある。)

1579(天正07.10) 宇喜多直家が毛利から離れる。

1579.09.22(天正07.09.02) 荒木村重有岡城から脱出し、嫡男・村次の居城・尼崎城に行き、雑賀衆などに救援をも求めるも、成功せず。

1579(天正7.09.25) 吉田兼見明智光秀館訪問の際、御ツマキに酒と食籠(じきろう)を渡す

1579.11.03(天正07.10.15) 織田軍、有岡城に総攻撃を掛ける。

1579(天正07.11) 荒木村重に与していた高山右近中川清秀、小岸存之やその他幾つかの城が織田方に帰順、村重孤立する。

1579.12.07(天正07.11.19) 有岡城、城守備の荒木久左衛門により開城す。

1579(天正07.12) 荒木村重、花隈城へ移り、なおも戦闘を続ける。

1579.12.30(天正07.12.13) 有岡城の家臣の妻子122名磔の上、銃殺。更に、男124名、女388名を4軒の農家に押し込め、火を放って焼き殺した。

1579.01.02(天正07.12.16) 村重一族と重臣の家族36人京都市中引き回しの上斬首。

1580.01.07(天正07.12.21) 信長、播磨から京都へと帰陣する。

1580.02.02(天正8.01.17) 別所長治とその一族、切腹

 

別所長治辞世

  今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかわる 我が身と思へば

 

1580(天正08.07) 荒木村重、万策尽き毛利へ亡命。

 

 

1580(天正08.閏3.05)      顕如が信長と勅命講和に応じ、大坂退去。石山合戦終結

1580(天正08.05) 但馬と播磨の毛利方勢力、織田に降伏。

1580(天正08.06) 長曾我部元親、阿波岩倉城の三好康俊を服属させた事を信長に報告する。また、康俊の父・三好康長が長曾我部に対して敵対しないよう、信長に依頼。信長了解す。交渉役は明智光秀が担当。

1580(天正08.08) 信長、丹波明智光秀に、丹後を細川藤孝に与える。

1580(天正08.08) 本願寺顕如、退城。その後石山本願寺焼失。

1580(天正08.08) 信長、近衛前久を頼り、島津・大友と和平を図る。

1580(天正8.08) 信長、林通克親子・佐久間信盛親子を追放

1580(天正8.10) 光秀、大和検知奉行として奈良に派遣される。

津田宗久と光秀の交流有り。

1580(天正8.11) 柴田勝家加賀一向一揆を平定

1581(天正9) 信長、京都で馬揃えを行う。光秀、馬揃えの運営責任者を任される。

1581(天正9.) 家康、高天神城を奪還する。徳川家康 vs 武田勝頼

1581(天正09) 秀吉、淡路侵攻。岩谷城落城

1581(天正09.02) 長曾我部元親、土佐国主・一条内政を追放。

この頃、秀吉と三好康長が接近。秀吉は三好氏の水軍と連携し、毛利水軍に対抗しようとしていた。

1581(天正09後半) 光秀、1580(天正08)年、信長から発せられた「信長に臣従せよ」の命令に、長曾我部元親を従わせることが出来ず、説得失敗する。

1581(天正09.02) 信長、天覧・馬揃えを行なう

1581(天正09.02) 宣教師ヴァリニャーノ、黒人従者を連れて信長と謁見

1581.03.18(天正9.02.14) 宇喜多直家岡山城で病死。死は伏せられた。

1581(天正09.03) 再度馬揃えを行なう。

1581(天正09.03) 長曾我部元親、信長の支援を受けた三好康長・十河存保から反攻を受ける。元親に服属していた三好康俊(康長の嫡男)、元親から離反する。

1581(天正09.06) 羽柴秀吉因幡へ侵攻

1581.07.02(天正9.06.02) 光秀、「明智家法」の後書きに、「信長様への奉公を忘れてはならない」との感謝の文を書く。

1581(天正09.08) 信長、前田利家能登国を与える。

1581(天正09.08)  信長、安土城で馬揃えをする

1581(天正09.08)  信長、西国平定を決意し、細川藤孝明智光秀に兵糧の準備をさせ、鳥取川に停泊させる。

1581(天正09.09) 織田信雄ら伊賀平定

1581.09.04 or 05(天正9.08.07 or 08) 光秀の実妹or義妹の御ツマキが死去。

この時「光秀比類なく力を落す也」と「言経(ときつね)卿記」に書かれている。

 

鳥取城の戦い(鳥取の渇(かつ)え殺し)

1581.11.21(天正09.10.25) [鳥取城の戦い] 羽柴秀吉(織田軍)vs吉川経家(毛利軍)

(経過)

前年の1580(天正8年6月)、信長の命により中国攻略に出陣した羽柴秀吉は、この月因幡に侵攻、鳥取城を3か月にわたり攻囲した。鳥取城内では徹底抗戦派が支配的だったが、城主・山名豊国だけが降伏を主張。ついに家臣達によって追放され、豊国単身で秀吉陣営に赴き、同年9月に降伏した。翌年1581年(天正9年3月)、家臣達は新しい城主に毛利家から吉川経家を迎え、戦争継続する。

「第二次鳥取城攻め」秀吉は商人に指示して、因幡国周辺の米を高値で買い取り、更に、経済封鎖をする為70か所以上に砦を構築、12㎞に及ぶ封鎖線を張る。また、海上より物資搬入を阻止すべく、港も封鎖。港から鳥取城に至るルート上の城も落とし、万全の備えをしていた。吉川経家鳥取城に入った時、第一次鳥取籠城戦3か月の後だったので食糧備蓄は底を尽き掛けており、経家が更なる備蓄を増やそうとした時には、既に秀吉の包囲網が完成していて、叶わなかった。毛利が海上から支援しようと、鳥取城近くまで物資を運んだが、秀吉の無敵の防備に阻まれてしまった。

秀吉は次の一手でダメ押しをした。それは、領民を攻撃して無傷のまま城に追い込んだのである。城内の備蓄はたちまち空になり、飢餓が始まった。鳥取城の渇(かつ)え殺し」として歴史に有名なこの兵糧攻めで、城内は馬も木も草もことごとく食べ尽くした。1581年(天正9年8月)には餓死者が出るようになった。しまいに死者の人肉も食する様になり、更に衰弱した者を殺して食べるまでになり、城内は凄惨を極めた。

吉川経家は、この状態を見て降伏を決断。自分の命と引き換えに、兵と領民を救う様に懇願した。秀吉は。経家の将としての器を惜しみ、生きる道を選ぶように説得したが、経家は承知せず、覚悟の切腹を果たした。

開城後、秀吉は生き残った者に粥を与えたが、空腹に駆られてガツガツと食べた者は、胃が受け付けず、却って体が拒否反応を起こして多くの者が死んで行ったと言う。

この鳥取の渇え殺し」は、「三木の干殺し」高松城の水攻め」と共に、秀吉の攻城戦の中で最も有名な三つの戦いである。

 

吉川経家辞世

  武夫(もののふ)の取り伝へたる梓弓 かへるやもとの栖(すみか)なるらん

 

1581(天正9.11) 羽柴秀吉、淡路島を平定。

1581.12.29(天正9.12.04)  光秀、「明智家中法度」五か条を制定。

儀礼、武人の公論禁止、喧嘩の厳禁。違反者即時成敗・自害を命ずる掟。

1582(天正10) 天正遣欧少年使節マドリードフェリペ2世に謁見

1582(天正10) 信長、長曾我部元親と断交

1582(天正10.01) 光秀、正月の茶会で信長の自筆の書を床の間に掛ける。

1582(天正10.01) 追放された佐久間信盛病死。息子信栄を赦免し、安堵す。

1582(天正10.01) 信長、伊勢神宮の修築に3千貫寄進

1582(天正10.02) 四国遠征軍・神戸信孝(かんべのぶたか or のぶのり)の先陣として、三好康長が阿波に侵攻。(※ 神戸信孝織田信孝(信長三男))

1582.02.01(天正10.01.09) 宇喜多直家の死亡を公式に発表。

1582(天正10.02) 信長・家康、本格的に武田領を侵攻。

1582(天正10.02) 毛利軍と宇喜多軍、備前八浜城で合戦する。

毛利氏、宇喜多直家病没後、その隙を突いて侵攻。毛利氏勝利、宇喜多氏大敗。宇喜多氏、毛利の侵攻を秀吉に報告。秀吉、この報告を受けて、中国地方への出陣を決意。

1582(天正10.03) 織田信忠信濃高遠城を落す。

信長、信忠の高遠城攻略の褒美として、刀を譲り、天下の支配権を信忠に譲る。

1582(天正10.03) 武田勝頼、信長や家康に攻められて自害。(甲州征伐)

 

武田勝頼辞世

  おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ 晴れて行くへの 西の山の端(は)

 

1582.04.25(天正10.04.03) 甲斐の恵林寺の快川紹喜(かいせんじょうき)、火中に滅す。

快川和尚、織田に敵対した佐々木次郎(=六角義定)、義昭家臣、三井寺の上福院を匿い、織田からの引き渡しを拒否。寺が焼き打ちにあった。快川和尚、は臨済宗妙心寺派の禅僧。和尚が美濃に在る時、稲葉一鉄、その膝下に学ぶ。

1582(天正10.03.08) 秀吉、信長の命により、中国征伐に出征して備中を攻める。

1582(天正10.03.17) 於次丸秀勝(=信長四男・秀吉養子・羽柴秀勝)、初陣を果たす。

初陣は備前児島の常山城(つねやまじょう)攻めで、高松城攻めにも参加。

1582(天正10.04) 秀吉、備中高松城攻略。水攻め

1582(天正10.05) 信長、神戸信孝を総大将にして四国攻撃軍が編成される。四国攻撃の為の渡海は6月2日予定。

長曾我部元親、事前に斎藤利三宛に信長への恭順を示した書状を出している。(元親の正室斎藤利三(さいとうとしみつ)の異父妹。斎藤利三稲葉一鉄(信長家臣)の家臣であった。明智光秀が一鉄から無断で利三を引き抜いたので問題を起こしていた。)

1582(天正10.05) 羽柴秀吉高松城水攻め。毛利元就吉川元春小早川隆景救援に駆けつけるも、手も足も出ず。(船の調達が出来なかった)

1582(天正10.05) 信長、阿波国織田信孝(=神戸信孝)に与える。

1582(天正10.05.12) 光秀、家康饗応の為の調度を奈良興福寺から借り、安土城に運び込んだ。

1582.06.05~1582.06.07(天正10.05.15~05.17) 信長、徳川家康穴山梅雪(=武田信君(たけだ のぶただ))安土城で接待。明智光秀饗応役を務める。

信長と光秀の間に饗応に対する意見の食い違いがあったようだが(フロイス記)、料理が腐っていたという「川角太閤記」の話は伝聞・風説を基にしたものと思われ、「信長公記」にも一次資料にも載っていないそうである。

穴山梅雪武田勝頼の従兄弟。甲州攻めの時、信長側に寝返る。よって許される。家康は駿河国拝領の御礼、梅雪は赦された御礼で二人揃って安土に参上。なお、梅雪、この時金2千枚(現時価200億円)を献上)

1582.06.09(天正10.05.19)  信長、家康らと能を観る

1582.06.11(天正10.05.21)  家康一行、安土より上洛。28日まで京都見物。

織田側から案内人として長谷川秀一(はせがわ ひでかず)がつく。

1582(天正10.05下旬) 斎藤利三(さいとう としみつ)、信長より切腹を仰せ付けられる。

明智光秀斎藤利三稲葉一鉄から引き抜き、自分の家臣とした。更に、光秀は斎藤利三以外にも引き抜こうとしたので、それに抗議した稲葉一鉄が光秀の所業を信長に訴えた。信長は利三を稲葉一鉄に返す様に命じたが、光秀はそれを拒否。この事で信長の逆鱗に触れ、信長は利三に切腹を命じた。

1582(天正10.05.26) 明智光秀中国出陣の為坂本を出発。

1582(天正10.05.27) 明智光秀愛宕山へ参詣。

1582.06.19(天正10.05.29) 信長、上洛。

1582(天正10.05.29) 家康一行、堺見物。6月1日には堺の豪商の茶会に招待される。

1582(天正10.06.) 丹羽長秀、三好康長、蜂谷頼隆と共に、織田信孝6月2日に予告された四国派遣軍の副将を命ぜらる。

1582(天正10.05.30) 信長が滞在する本能寺に、多くの人々が表敬訪問してきた。信長は、進物を受け取らない旨を事前に知らせていた。

1582.06.21(天正10.06.02) 光秀、早朝に出陣する。

その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐を告げる。

1582.06.21(天正10.06.02) 本能寺の変 信長享年49

1582.06.21(天正10.06.02) 家康一行総勢34名、京都に戻る途中、茶屋四郎次郎から本能寺の変を知らされる。家康、帰途ルートを変更する。

「神君伊賀越え」の決死の脱出行がここから始まるが、実は伊賀越えルートは諸説あり、中には甲賀越え、或いは大和越えと言う説も有り、実際に辿ったルートは分っていない。

家康と共に安土に招かれた穴山梅雪は、家康一行と離れて別行動を取り、途中、宇治田原で一揆勢に襲撃され殺害された。

1582.06.21(天正10.06.02) 瀬田城主・山岡景隆、瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転する。

これにより、光秀、仮設橋の設置に3日間取られる。

1582.06.21(天正10.06.02)およそ午後10時頃(亥の刻四つ半) 細川藤孝より姫路の前野長康本能寺の変を知らせる急使有り。

前野長康、秀吉の命にて姫路城下に駐屯し、信長の西国動座に備えて準備をしていた。将と侍53名、足軽鉄砲隊60余人、外にも多数。動座に伴う路次の宿駅、兵糧の手配などの任務に当たっていた。これが中国大返しの時に役に立つ。

1582.06.23(天正10.06.04) 備中高松城は講和により開城。清水宗治切腹

 

清水宗治辞世  

浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して

 

 中国大返し

 

1582(天正10.06.02) 神戸信孝(=織田信孝)、摂津にて四国征伐出航間際に本能寺の報せが入る。手元の軍隊から逃亡者が相次ぐ。

1582(天正10.06.03) 柴田勝家越中国を攻撃中、3日に魚津城を陥落させた。

1582.06.23(天正10.06.04) 光秀、坂本城に入り、4日までに近江をほぼ平定する。

1582.06.24(天正10.06.05) 毛利、本能寺の変を知る。

1582.06.24(天正10.06.05) 光秀、安土城に入る。信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与える。

1582.06.26(天正10.06.07) 誠仁親王(さねひとしんのう)吉田兼和を勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を光秀に任せる。

1582.06.28(天正10.06.09) 義昭、帰京の為、備前、播磨に出兵する様に輝元に命ずるも、輝元動かず。

1582.06.28(天正10.06.09) 光秀、宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上。京都五山大徳寺にも銀100枚献納、勅旨の兼見にも銀50枚を贈った。

1583(天正10.06.11) 秀吉、中国大返しで戻ると、摂津尼崎に着陣。信孝、秀吉と会い、弔い合戦の総大将に就く。実際の采配は秀吉。

1582.07.02(天正10.06.13) 山崎合戦 羽柴軍27,000 vs 光秀軍17,000

秀吉、山崎の戦いで光秀を破ると、輝元、戦勝祝いに安国寺恵瓊を使者として派遣した。

1582.07.02(天正10.06.13) 光秀敗戦。戦場を落ち延びる時に地元民に襲撃されて横死。

1582.07.16(天正10.06.27) 清須会議

柴田勝家は信長の三男・織田信孝を推す。

羽柴秀吉は信長の嫡男・三法師(織田秀信)を推す。

妥協案で、三法師の後見人を織田信孝にする、と言う案で決着。

 

 

 

長文を読んで下さって有難うございます。もっと短くする積りでしたが力不足で叶わず、申し訳ございません。

この年表を書くに当たり、下記の様に色々な本やネット情報を参考に致しました。

『戦国合戦大辞典(6)  京都・兵庫・岡山』『前野家文書・武功夜話』「ウィキペディア」「刀剣ワールド」「コトバンク」「年表」「地形図」「古地図」『和暦から西暦変換(年月日)高精度計算サイト-Keisan」「地域の出している情報」「観光案内」等々、その他に沢山の資料を参考にさせていただきました。有難うございます。

 

 

149 信長年表5 包囲網(2) 幕府滅亡・長篠合戦

「式正織部流「茶の湯」の世界」と標榜しながら、武士の歴史ばかりを述べているなんて、表紙と中身が違うではないかと、お叱りを受けそうです。が、式正織部流は武家茶です。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見れば分かる様に、或いは某国の軍事独裁国家の粛清を視れば分かる様に、武家社会のトップと№2の争いは血みどろです。3位4位の争いも、49位と50位の争いも大同小異です。力対力の相剋の歴史にしばらくお付き合い下さい。利休も「武家社会」と言う軍事独裁国家の内政№2の権力者でしたから。

 

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。 〇超有名人は氏を省略する事も有り。織田信長→信長。足利義昭→義昭。武田信玄→信玄。上杉謙信→謙信。徳川家康→家康等々外にも。

 

1572(元亀3.09)     信長、足利義昭17条の異見書を突き付ける。

足利義昭織田信長の後押しを得て1568年に将軍に就いたが、4年後の1572年には二人の蜜月の関係は終わった。切っ掛けは、信長が義昭に突き付けた『異見17ケ条』だと言われている。その意見書は大変長い手紙になっている。内容は簡単に言うと次の様なものである。

1、宮中参内を怠らない様に。  2、諸大名に馬をねだるな。信長が用意する。  3、忠節の者を粗略にするな、新参者を贔屓するな。  4、宝物を二城御所から他所へ移したのは何故か? 折角御所を建ててやったのに残念である。  5、加茂神社の領地を召し上げて、岩成友通に与えるのは良くない。  6、信長に友好的な者を冷たく扱うな。  7、真面目に奉公する者への扶持は増額すべしと具申したが、未だ誰一人加給されていない。  8、若狭の代官への告訴を何時までも放置するな。  9、喧嘩で死んだ者の刀や脇差を将軍が没収したと聞いている。みっともない。 10、「元亀」の改元の費用を滞納するのは良くない。 11、烏丸光康を赦免した際、賄賂を取って許したのは嘆かわしい。  12、諸国から金銀を集めながら、公に役立てないのは何故?   13明智光秀が徴収した税収を、延暦寺領のものだと差し押さえたのは不当である。14、昨年の夏、兵糧米を換金したそうだが、将軍が商売するとは前代未聞。  15、寵童に扶持を与え、職を任じ、訴訟に肩入れすると言う悪評が有る。  16幕臣が武具や兵糧に気を遣わず貯蓄に励んでいる。それは将軍の蓄財ぶりを見て、さては将軍が出奔する積りらしい、と失業の不安に駆られるからである。  17、将軍の事を下々は「悪御所」と呼んでいる。足利義教様の例があるので、よく考える様に。

この17ケ条は公開意見書で、何枚も書写されて方々に配られた。義昭が17条の意見書に激怒した。

1572.11.08(元亀03.10.03) 武田信玄、西上作戦開始 

それ迄矛先を北の信濃へ向けていた信玄は、目を南の遠江駿河三河へ転じた。四方を山に囲まれた甲斐は、上洛するには西に立ちはだかる山脈を避けて北か南に出るしかない。信玄は信長との同盟を破棄。彼は軍を三手に分け、信玄本隊は諏訪から中央構造線上に沿った秋葉街道(塩の道・国道152号線)を南下、先遣隊の山県隊は伊那街道を通って三河へ、別動隊の秋山隊は美濃へと侵攻した。

家康は信長に救援を求めたが、信長は、浅井・朝倉、石山本願寺と対決中で、家康の要請に充分に応じられず、3,000の兵を援軍として送るにと止まった。信長、この危機に上杉謙信と同盟す。

1572.01.22(元亀3..12.19.) 徳川方の遠江北部の二俣城、武田によって陥落。

1572.01.25(元亀3.12.22)   三方ヶ原の戦い

武田信玄徳川家康領に入る。これを阻止せんと浜松城から打って出た家康は、三方ヶ原で命からがら壊走。生涯最大の敗北を喫す

1573(元亀4.02) 足利義昭、信長に対して挙兵。

信長の盟友・徳川家康武田信玄に敗れたのを見て好機到来を確信し、信長に対して挙兵する。義昭側近・細川藤孝が信長にこれを知らせる。これを知り、信長は義昭に和平を求める。

1573.03.16.(元亀4.2.13) 義昭、浅井・朝倉・本願寺・武田に御内書を下し、挙兵を促す。

1573(元亀4.03) 信長、義昭と和平を求むるも、義昭断り、信長と関係を断つ

同年4月、信長、上京に放火して脅しをかけ、義昭に和平を求むるも応じず。信長、洛外に(or上京に)放火し更に和平を求めるも、義昭応じず。ついに信長、二条城を軍勢で取り囲む。下旬、義昭と和平成る。

1573(元亀4.04初旬) 武田軍、進軍停止後甲斐に撤退開始。

1573.05.13(元亀4.04.12) 武田信玄病没。享年53歳。

1573.05.26(元亀4.04.25) 上杉謙信、越後に帰国。

武田信玄が背後の安全を確保する為に、上杉謙信越中に釘付けしていた一向一揆の首領・椎名泰胤、松倉城を1月に開城するも、謙信が帰国の途に就くと忽ち叛旗を翻す。謙信引き返し、これを駆逐、一揆勢敗走する。これより神通川以東は、謙信支配下になった。

1573.07.31(元亀4.07.03) 義昭、槙島城で再び挙兵。

1573.07.09(元亀4.07.12) 二条御所を守っていた三渕藤英、柴田勝家の説得に応じ二条御所を開城。信長、この殿舎を破却す。

1573.08.10(元亀4.07.13) 信長、毛利輝元に義昭の振る舞いを報せる。

信長は、「将軍が挙兵し天下を乱したので、将軍の代わりに自分が天下を鎮めた、将軍家の事に関しては万事相談しながら対処していきたい」と伝える。

1573.08.15(元亀4.07.18) 信長、槙島城を攻める。義昭、子の義尋を人質として投降。

1573.08.15(元亀4.07.18) 足利義昭を追放、室町幕府滅亡

1573.08.16(元亀4.07.19) 義昭、真木島城を退去。

1573.08.18(元亀4.07.21) 義昭、本願寺兵に警護され、三好義嗣の若江城に入る。

1573.08.21(元亀4.07.24) 義昭、毛利輝元吉川元春小早川隆景に援助を要請。

1573.08.25(元亀4/天正1.07.28) 元亀から天正改元

1573(元亀4.08) 謙信、越中へ出陣して、椎名氏・神保氏・一向一揆を撃破。

上杉謙信、更に加賀国に足を延ばし、一向一揆の朝日山城を攻撃、越中の過半を制圧した。

1573.08.28(元亀4/天正1.08.01) 義昭、毛利輝元に援助を依頼。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 朝倉氏滅亡。

8月に入って信長、朝倉攻めに出陣。同月3日信長大勝。同20日朝倉義景、賢松寺で自刃。

1573.09.16(元亀4/天正1.08.20) 義昭、三好義継・三好康長と畠山氏との間で講和を図る。

1573.09.23(天正1.08.27) 浅井氏滅亡。

信長、浅井氏を攻め、小谷城落す。浅井久正・長政父子自害。

1573.10.02(天正1.09.07) 毛利輝元から義昭へ、挙兵拒否の返書が届く。

1573.10.19(天正1.09.24) 信長、伊勢長嶋一向一揆討伐の為岐阜を出陣。

攻撃一ヵ月に及び諸城落すが、伊勢の大湊を抑えられず撤退。岐阜に帰城する。

1573.11.28(天正1.11.04.) 信長、佐久間信盛に命じて、若江城の三好義継を攻める。

1573.11.29(元亀4/天正1.11.05) 義昭、和解の説得に応じず、城を出て堺へ行く。

信長側から羽柴秀吉と朝山日乗が義昭の下に遣わされ、毛利輝元からは安国寺恵瓊と林就長が派遣されて、義昭を和解に動く様に説得するも、和解成立せず。安国寺恵瓊、義昭へ「義昭様の西国下向は、毛利輝元様にとって迷惑である」と伝えて、帰国する。

1573.12.03(元亀4/天正1.11.09) 義昭主従20人、畠山氏の勢力下の紀伊に下る。

1573.12.10(元亀4/天正1.11.16) 信長、光秀・細川藤孝若江城攻撃を命ず。

義継家臣達と織田側が内通。三好義継敗北。義継は一族を殺害し、自害。

1574.01.03(元亀4/天正1.12.11) 義昭、畠山氏の重臣・湯川直治に自分への協力を命ず。

1574.01.04(元亀4/天正1.12.12) 義昭、上杉謙信武田勝頼北条氏政加賀一向一揆と講和し、自分への協力を命ず。

1574(天正2.01) 信長、越前一向一揆討伐の為、羽柴秀吉を派遣。

1574.01.23(天正2.01.01) 信長の重臣達が年始の祝賀の為に岐阜城登城。

1574.02.07(天正02.01.16) 義昭、紀伊への動座を六角義賢に報せ上洛に協力を命ず。

1574(天正02.01下旬)      武田勝頼、美濃明知城を攻める。

1574(天正02.02.) 義昭、熊野本宮の宮司に対し、上洛に協力する様に命ず。

1574(天正02.02) 信長、明知城救援に向うも間に合わず、明知城落城。

1574(天正02.03) 謙信、関東の膳城、女渕城、深沢城、山上城、御覧田城を落とす。

1574(天正02.03) 信長、従三位に叙任する。

1574(天正02.03) 織田信長上杉謙信洛中洛外図屏風を贈る。

1574.04.11(天正02.03.20) 義昭、信長包囲網を画策し、武田勝頼北条氏政上杉謙信三者に対し、講和を呼びかけた。

1574.04.18(天正02.03.27) 信長、勅許を得て、東大寺正倉院の名香・蘭奢待を賜る。

1574.05.04(天正02.04.14) 義昭、島津義久武田勝頼の進出を伝え上洛協力を命ず。

1574.05.04(天正02.04.14) 信長、石山本願寺を攻撃。

1574(天正2.05~2.06.18) 第一次高天神城の戦い。

武田勝頼 vs 小笠原長忠(信興)(徳川方)  信長の救援間に合わず、城は降伏開城。

1574(天正2.06~09)信長、伊勢長嶋一向一揆討伐。一揆勢男女2万人を焼き殺す。

伊勢長嶋は揖斐川木曽川が伊勢湾に注ぐ河口に位置し、両河原に広がる中州のような七つの島(七島)が訛って長嶋と呼ばれる様になった地域である。輪中のこれらの島は一向宗徒で固まっており独立性が強く、信長のような俗世領主に対して反抗的だった。信長は、第一次、第二次と派兵したが、一向一揆勢の武力は強く、信長、6月23日に大動員令を掛け、12万の兵をもって伊勢長嶋の一向一揆征伐に出陣、第三次総攻撃を仕掛けた。進撃開始は7月14日である。陸上・海上ともに蟻の出る隙もない程に取り囲み力攻めをした。幾つもの城を攻め落とし、残るは五つの城になった。攻城と兵糧攻めを併せて行い、餓死者が相当数出るようになった。一揆側は命乞いをし、降伏開城したが、信長は船で退城する門徒衆を一斉に射撃、討ち取った。一揆側はこれに怒り、猛烈な反撃を行い、織田側にも名立たる武将にかなりの戦死者が出た。信長、残る2城を取り囲み四方から火を放った。焼死者2万人と言われている。

1574(天正2.10) 信長、尾張国内の道路・橋・水道等のインフラ整備を命じる。

1574(天正2.12.) 尾張国の分国中の道路・橋・水道などの整備が整う。

これによって領民が暮らし易くなったが、もう一つ重要な事がある。それは、軍事行動を素早く展開できるようになった事である。

1575(天正3) 信長、越前・加賀一向一揆を鎮圧する。

1575(天正3.04.06~) 信長、高屋城(義昭側)の三好康長と石山本願寺の攻略に出陣。

1575(天正3.04) 武田勝頼、大軍を率いて三河に侵攻す。

1575.06.20(天正3.05.12) 信長、長篠城救援の為出陣。その後家康と合流。

1575.06.22(天正3.05.14) 長篠城の500人、救援要請の密使を岡崎城に派遣。

密使・鳥井強右衛門(とりいすねえもん)夜陰に紛れて城脱出。岡崎城で信長・家康軍38,000の出撃寸前を知り、取って返すも敵手中に落ち、死を賭して長篠城に救援到来を伝える。城側意気回復。

1575.06.26(天正3.05.18) 信長軍、設楽原(したらがはら)に着陣。

信長、土塁や馬防柵など野戦用の砦を構築。

1575.06.28(天正3.05.20) 信長、鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を強襲させる。

信長、長篠城を包囲している鳶ケ巣山砦を落す為、酒井忠次を呼び別動隊を組織。武田陣を大きく迂回してその背後に回り、武田陣後方奥にある鳶ケ巣山の砦を全て落とし、長篠城を解放。武田軍は全面に信長・家康連合軍、後方に酒井隊に挟撃される形になる。

1575.06.29.(天正3.05.21)  長篠の戦いで織田・徳川連合軍が圧勝する。 

長篠の戦の主戦場となったのは、長篠城からおよそ3㎞離れた連吾川(れんごがわ)沿いの細長い丘陵地だった。信長は大軍を擁していたにもかかわらず、兵の配置を隠した寡兵弱小を装った作戦により、勝頼は織田・家康軍を一気に潰そうと設楽原におびき出され、術中に嵌って大敗した。

1575(天正3.07) 信長、正親町天皇の昇叙の勧めを辞退。

1575(天正3.08) 信長、越前一向一揆を討伐

1575(天正3.10) 信長、京都妙覚寺で茶会を開く。千利休が茶頭を務める

1575.11.23(天正3.10.21) 石山本願寺光佐、和睦を願う。信長これを承諾。

1575(天正3.11.04) 信長、権大納言に叙任。3日後右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼任。

1575(天正3.11.28) 信長、嫡男・信忠に尾張・美濃を与え、家督を譲る。信長42歳。

1576(天正4.正月) 安土城建設に取り掛かる。信長の京都屋敷の造営が始まる。

1576(天正04.02) 義昭、紀伊を出て毛利輝元を頼り、備後国の鞆(とも)に動座。

1576.03.08(天正04.02.08) 義昭、吉川元春に、輝元が幕府再興をする様に御内書を出す。

1576.03.25(天正4.02.25) 信長、安土城に移る。 

 

 

余談  長篠の戦いの真実は?

長篠の戦いで信長は、武田騎馬軍団に対して3千挺の鉄砲を三段撃ちにして集中砲火を浴びせ、勝利した、と言われております。ところが、最近の研究では、どうも違うらしいという話が出て参りました。そもそも武田騎馬軍団と言われる様な組織化された馬部隊は、武田には無かったそうです。また、織田側にも3千挺の鉄砲は無かったそうで、三段撃ちも後世の創作と言われ始めました。

これ等の話は、江戸時代に書かれた小瀬甫庵(おぜ ほあん)小説信長記」に基ずいたもので、太田牛一の「信長公記」にはそのようには書かれていないそうです。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「織田信長の歴史年表」「御館様 織田信長の年表」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

148 信長年表4 包囲網(1) 姉川合戦・比叡山焼打

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)  〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

前号で、足利義栄が病没(享年31)し、義昭が将軍就任。義昭就任早々の翌年1569.01.31(永禄12.01.05)に本圀寺の変が起こった事までを記しました。信長はこの為、将軍御所の防備を万全にすべく、二条城を造り直しました。

1568(永禄11) 若狭武田氏、朝倉義景の侵攻を受ける。

若狭武田氏の当主・武田元明は、内紛に乗じて朝倉氏に侵攻され、朝倉義景により越前一乗谷に拉致された。元明の母は足利義昭の妹である。つまり、義昭と元明は伯父と甥の関係になる。義昭は将軍就任前に縁を頼って若狭へ赴いた。が、若狭武田氏の内紛の最中で支援を得られず、止むを得ず越前の朝倉を頼ったと言う経緯がある。信長の朝倉征討は、信長の上洛命令に従わない朝倉氏を討伐すると言う目的もさることながら、義昭の元明救済の願いにも拠っている。

1568~1571(永禄11.12~元亀2.12) 武田信玄駿河侵攻。北条氏と全面戦争。

武田信玄が北条と長期にわたり争った。この為信長包囲網形成の時、武田の一画が手薄となった。信長としては軍事的にも時間的にもこれによって余裕が生まれ助かった面がある。

1569.01.30(永禄12.01.14) 信長、殿中御掟の9ヶ条を義昭に承認させる。

殿中御掟(でんちゅうおんおきて)は1月14日に9ヶ条、更に同月16日に追加7ヶ条、再々度追加5ヶ条が出され、計21ヶ条の政治を行う上での方針が示された。これは、従来から室町幕府が行って来た政府内秩序を保つための規範を纏めたもので、政治初心者の義昭にとって指針となるものであった。

1569(永禄12.03) 上杉謙信と北条氏が同盟。

北条氏と同盟して関東の憂いを除いた上杉謙信は、越中の椎名康胤(しいなやすたね)の城を攻囲する。

1569.03.18(永禄12.03.01) 朝廷は信長を副将軍にする勅旨を下すが信長応えず。

1569.04.30(永禄12.04.14)  室町幕府の政庁の二条城が出来上がる。

1569(永禄12.05.) 家康、今川氏真を降(くだ)

家康、今川氏真を降し、遠江(とおとうみ)を支配下に置いた。

1569(永禄12.10.) 信長、北伊勢を平定する。

伊勢国・大河内城(おかわちじょう)の北畠具徳(きたばたけとものり)・具房(ともふさ)親子と戦い、信長次男・茶筌丸(信雄)を養嗣子にする事、城を明け渡すことを条件に、義昭の仲介で和睦した。義昭、この条件に不快感を持っていた。(この時より7年後の1576年(天正4年)に、北畠一族は信長と信雄の手により皆殺しにされた。北畠親房を先祖に持つ村上源氏の名門・北畠氏はここに滅亡する。→三瀬の変)

1570(永禄13/元亀1)  上杉政虎、出家して不識庵謙信と号する

1570(永禄13/元亀1) 家康、浜松城を築き、今川氏真を庇護する。

1570.02.08~1570.03.03(永禄13.01.04~13.01.27) 信玄、武田水軍を編成する。

信玄、今川の花沢城 (現焼津市)を降伏させ、海に面した地を手に入れ、水軍を作る。

1570.05.24(永禄13.04.20) 信長、越前の朝倉義景への討伐軍を発す。

信長、朝廷や将軍への御用を務める為に上洛せよと、各大名に命令を出した。朝倉義景はこれを無視した。朝倉氏の不服従行動が波及する事を恐れた信長は、義昭の甥の若狭・武田元明領内の内紛を鎮圧する名目で、越前へ征討軍3万の兵を起こす。

1570.05.27(永禄13.4.2/元亀1.04,23) 改元元号が永禄から元亀(げんき)になる

1570.05.29(元亀1.04.25) 織田・徳川連合軍、越前の朝倉義景領を侵攻し、朝倉側の城を攻撃

1570.05.30(元亀1.04.26) 信長の朝倉攻めに対して六角義賢が挙兵。

1570.05.30(元亀1.04.26) 織田・徳川連合軍、金ケ崎城を降(くだ)す。

信長、落城した金ケ崎城に木下秀吉を入れる。

金ケ崎の戦い

世に名高い「金ケ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」と言われる撤退戦である。信長の若狭攻めは順調に勝ち進んでいた。信長は、妹「お市」が嫁いでいる浅井家と硬い絆で結ばれている、と思い込んでいたが、浅井家の裏切りにより、朝倉と浅井に挟撃される危機に陥った。それと察した信長は、直ちに撤退した。殿(しんがり)を務めたのは木下藤吉郎明智光秀池田勝正と言われている。松永久秀や朽木元網(つくきもとつな)の援護により、信長は4月30日に無事京都に帰還した。

1570.06.24(元亀1.05.21) 信長、21日岐阜到着

兵を立て直す為、信長、京都から更に岐阜を目指す。ルートは六角氏や浅井氏の勢力が及ぶ関ケ原を避け、近江から鈴鹿山脈の雨乞岳を越えで伊勢四日市に出る千種街道を通り、揖斐川長良川沿いに北上、21日に岐阜へ到着する。信長挟撃を朝倉・浅井が琵琶湖東岸で仕掛けようとし、六角軍も待ち構えていたが、信長はそこに柴田勝家佐久間信盛を配置して押さえた。六角軍は柴田や佐久間に攻撃され敗退する。この千種(ちぐさ)街道の山中で、信長は杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)という鉄砲の名手に狙撃されるという事件が起きた。岐阜到着から約1か月後、改めて浅井攻撃のため岐阜を進発し、関ケ原ルートを通って近江に向かう。

1570.07.21(元亀1.06.19) 信長、浅井討伐に出陣。

近江と美濃の国境の城・長比(たけくらべ)城を事前の調略により、進発その日に陥落させた。

1570.07.23(元亀1.06.21) 信長、小谷城の目前の虎御前山(とらごぜやま)に布陣。

城下を焼く。

1570.07.26(元亀1.06.24) 信長、姉川の南にある横山城を包囲。

信長は竜ケ鼻に布陣。徳川家康、竜が鼻に着陣し信長と合流。

1570.07.30(元亀1.06.28) 姉川の合戦 (織田・徳川 vs 浅井・朝倉)

信長・家康連合軍29,000 対 浅井・浅倉連合軍13,000が姉川を挟んで激突。徳川軍は朝倉軍の脇を突いて朝倉軍を敗走させ、織田軍と戦っていた浅井軍も潰走した。横山城も降伏。信長、横山城に木下秀吉を城番として入れる。

1570(元亀1.07) 信長、戦勝報告の為上洛

1570.09.19(元亀1.08.20) 三好三人衆、四国より渡海し、摂津の野田城・福島城で挙兵する。

義昭、この事態に信長に出陣を要請。河内・紀伊・和泉にも動員を掛け、義昭自身も出陣した。

1570.10.11~(元亀1.09.12~) 石山本願寺顕如(けんにょ)、三好三人衆に呼応して蜂起。

1570.10.15~ (元亀1.09.16 ~ ) 志賀の陣。

信長の摂津出兵の留守に乗じて、浅井・朝倉連合軍が、織田の琵琶湖西岸の拠点・宇佐山城に迫った。城将・森可成(もりよしなり)、これを阻止すべく坂本で街道を封鎖。兵千をもって敵軍3万と戦い、これを押し戻すも、石山本願寺の要請で延暦寺の僧兵が連合軍に加勢、奮戦空しく織田信治(信長弟)・森可成(森蘭丸の父)・青地茂綱(蒲生氏郷の叔父)が討死。が、将無くも家臣達が戦いを続行、落城は免れた。

1570.10.15(元亀1.09.23) 信長、志賀の陣の報せを聞き、摂津の戦線を撤収し、坂本に救援に駆けつける。

1570.10.15(元亀1.09.25) 浅井・朝倉軍比叡山に逃げ込む 

1570.11.01(元亀1.10.04) 石山本願寺門徒衆に檄文を飛ばし、その煽動で西岡や宇治で一向一揆発生。義昭、徳政令を出す。

1570(元亀1.11)  伊勢一向一揆が、尾張小木江城を落す。織田信興(信長弟)自害。

1570(元亀1.11.) 浅井・朝倉、比叡山延暦寺に立て籠もる。

1570(元亀1.11.) 信長、敵対勢力と次々と講和する。

11月11日六角氏と講和。 同13日本願寺と講和。 同18日三好三人衆と講和。松永久秀と篠原長房との間で人質交換する。 同28日信長、義昭に朝倉氏へ講和説得を依頼する。

1570(元亀1.12) 正親町天皇勅命により、信長、浅井・朝倉両氏と和解

9月からの志賀の陣は、約3か月で一区切りついたが、火種は依然燻(くす)ぶり続けている。

1571(元亀2) 義昭、各地有力大名に御内書を出す。

1571.01.27(元亀2.01.02) 信長、大坂と越前を結ぶ道と海上の交通路を封鎖する。

1571(元亀2.02) 交通路封鎖により孤立した佐和山城(浅井方)が信長に降伏する。

1571(元亀2.02) 義昭、豊後の大友宗麟に安芸の毛利氏との和睦を命じる。

1571(元亀2.02) 徳川家康、新年を賀して上杉謙信に太刀を贈る。.

1571(元亀2,02~03) 上杉謙信、第五次越中出兵。越中大乱。

上杉謙信越中に出兵し、松倉城、新庄城、富山城、など椎名康胤(しいなやすたね)や一向一揆勢の城を軒並み落し、越中東部・中部・西部まで進撃した。が、武田信玄が再び関東や東海地方に出兵した為、謙信は越後に帰還する事になり、越中攻略は中途半端に終わった。

上杉謙信は、武田信玄のもぐらたたきゲームに付き合わされるような形で、常に振り回されていた。武田が関東に侵略する時は、謙信を越後や越中に釘付けにする必要があった。その為、越中で騒動を起こした。逆に上杉と、越中にいる武田勢力が戦う時は、武田勢力が有利になる様に信玄が関東で戦を始め、上杉を関東に引き付ける、という作戦を採り続けた。

これが可能になったのは、武田信玄石山本願寺の強い結びつきがあったからである。石山本願寺顕如正室・如春尼の実姉は武田信玄正室・三条夫人、つまり、顕如武田信玄は義兄弟である。信玄は石山本願寺一向宗徒を動かし易い立場にあった。

1571(元亀2.02~05) 武田信玄遠江三河侵攻を始める。

1571(元亀2.04) 武田勝頼加賀一向一揆の杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中一揆勢が協力して上杉謙信に反攻する様に求めた。

1571(元亀2.05) 浅井と一向一揆軍が姉川に再び出陣。秀吉、国人領主・堀秀村を援けこれを退ける。 

1571.06.04(元亀2.05.12) 信長、5万の兵を率いて伊勢に出動。長嶋一向一揆の村を焼き払う

1571.07.11(元亀2.06.19) 三好義継・三好三人衆が結託。畠山攻めを開始。義昭から離反する。

1571.08.24(元亀2.08.04) 松永久秀、義昭・信長に叛旗を翻すが、辰市城で筒井氏に大敗す。

1571.09.07(元亀2.08.18) 信長、小谷城浅井長政を攻める。

1571.09.17(元亀2.08.28) 松永久秀三好三人衆、摂津の和田貞興を討ち取る。

1571.09.19(元亀2.09.01) 柴田勝家佐久間信盛に命じて、六角勢と一向一揆勢の拠点の城(志村城・小川城)を攻めさせる。志村城は全滅して落城。小川城は投降。

1571.09.25.(元亀2,09.07) 天台座主・覚恕(かくじょ)(=正親町天皇の弟)、朝廷に参内して相談。

1571.09.27(元亀2,09.09) 覚恕、参内して重陽(ちょうよう)節句に参加。

1571.09.29(元亀2.09.11) 信長、三井寺まで進軍し、三井寺の中に本陣を置く。

 信長と比叡山延暦寺は、寺領を巡って争っており、関係が悪化していた。

1569(永禄12)に比叡山は、信長が寺領を横領したと言って朝廷に訴え、その返還を求めていた。朝廷は寺領を元に戻す様に信長に綸旨を下したが、信長はそれに従わなかった。そんな経緯がある中、浅井・朝倉軍が比叡山に逃げ込んだのである。

信長は延暦寺に浅井・朝倉軍を引き渡す様に要求し、山全体を包囲した。そして、信長は寺側に3つの条件を出し、その内のいずれかを選ぶように申し渡した。その条件とは、1,織田に味方をする。 2.中立を保つ。 3.浅井・朝倉方を支持する。の3つだった。そして、もし、浅井・朝倉を支持するのなら、寺を焼き討ちすると通告した。寺はその通告を無視、返事をしなかった。

1571.09.30(元亀2.09.12) 信長、全軍に比叡山総攻撃を命ずる。

1571.10.01(元亀2.09.13) 午前9時頃、信長、後始末は明智光秀に任せ、自身は現場を離れて上洛する。

 

 

余談  比叡山焼き打ちについて

信長は、比叡山を火の海にして僧俗老若男女の区別なく虐殺した、と言われています。が、実は現代ではその話は盛大に盛られた文学的誇張ではないか、と考えられる様になってきました。

太田牛一の「信長公記」や、「言継(ときつぐ)卿日記」の山科言継や、「御湯殿上(おゆどののうえ)日記」を書いた宮中の女房達にしても、それを書いた人は、野次馬の様に実際に比叡山炎上を現地で見て書いた訳では無く、後々に伝聞したものを書いている訳です。記述の正確さを割り引いて考える必要があります。

最近の発掘調査では、焼土層の状態から信長の時代に焼けたと明確に分かるのは、根本中堂と大講堂だけだそうで、それ以外に信長時代と思われる大規模火災の痕跡は見当たらず、また、人骨などの物的証拠も見つかっていないそうです。その他の地域にある焼土層は時代が更に古い地層だった、と報告されているそうです。

比叡山延暦寺は、宗祖を最澄とする天台宗のお寺です。仏教の大学の様な所で、多くの高僧を輩出してきました。けれども、時が経つに従って、傲慢不遜(ごうまんふそん)の振る舞いが目立ち始め、白河法皇をして「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆かせたほどです。又、延暦寺園城寺(おんじょうじ(=三井寺))と仲が悪く、園城寺延暦寺から攻撃されて数十回も焼き打ちに遭っています。その内、全山焼失したのが10回もあります。

延暦寺も、信長が焼き打ちする前に2度焼失しています。足利義教の時、義教の仕置に抗議して僧侶達が焼身自殺しました。その火が元で全ての堂宇が焼失しました。更に管領細川政元延暦寺を攻めて焼き討ちをしています。その為か、比叡山を発掘すると、三つの焦土の地層が出て来るそうです。

朝廷にも幕府にも従わない延暦寺は、治外法権の独立国家の様な存在でした。信長が、ピラミッド型の武家政権を確立しようとする時、治外法権延暦寺の存在は、支配体制内に出来た癌の様なものです。仏罰を恐れ祟りに震える当時の人々にとって、その問題に手を付ける事は出来ませんでした。信長が現れて初めて可能になりました。彼は比叡山だけでは無く、一向一揆を操(あやつ)石山本願寺も、討滅の対象としました。

因みにこの時の天台座主の覚恕は、重陽節句の行事に参加する為に、たまたま宮中に参内(さんだい)していたので、被害に遭わずに済みました。

 

余談  大規模火災について

大規模火災の場合、例えば、1955年(昭和30年)10月に発生した新潟の大火や、1976年(昭和51年)10月の酒田の大火では、懸命な消火活動のお蔭で大体半日で鎮火しています。最近では2016年(平成28年)12月に発生した糸魚川市大規模火災では、他県の消防隊の応援を得て、消防車235台や様々な支援を投入して、組織的に懸命な消火に当たり、30時間で鎮火しました。

延暦寺焼き打ちでは、積極的な消火活動は行われなかっただろうと思われます。又、山の上で水利が無かったと思われます。巨大な木造建築群の火災であるにもかかわらず、信長が一晩明けたら現場を離れた、という事から考えると、火の範囲は限定的だったのではないかと、婆は考えます。もし、伝承されている様に、比叡山塔頭(たっちゅう)全てに火を放てば、木造建築物だけでは無く、山林にも燃え広がったでしょうし、そうなると、熱で生じた上昇気流が琵琶湖から吹き上げる風を呼び起こし、それこそ大規模な森林火災を引き起こしてしまったでしょう。カルフォルニアの森林火災やオーストラリアの森林火災の様に手が付けられなくなってしまう可能性がありました。

比叡山延暦寺が何日間も燃え続けていたと言う記述が何処にも見当たらないので(婆の検索不足かも知れませんが)、多分、巷で言われている程では無かったかと、勝手に想像しています。

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-keisan」、地域の出している情報、観光案内等々。その外に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

147 信長年表3 二つの上洛戦

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。〇元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1) 〇年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります

 

1560(永禄3.) 松平元康、自害を思いとどまる。

松平元康、今川義元桶狭間で討死した後、義元に与した身の前途を悲観し、菩提寺大樹寺で自害に及ぼうとするが、住職に諭されて思いとどまる。

1560(永禄3.06) 信長、美濃に侵攻し斎藤義龍と戦う。

1560(永禄3.08)  信長、再び美濃に侵攻する。

1561(永禄4) 将軍・足利義輝、各地争乱の和睦を求める。

1561(永禄4.02) 信長、三河の松平元康と和睦

1561(永禄4.04) 松平元康、今川から離反して尾張に就く。

1561.06.18(永禄4.05.06) 三好長慶細川晴元と和議に動く。

和議のため細川晴元を京都に迎え、将軍・義輝と晴元が対面した。が、三好長慶はその直後、晴元を捉えて普門寺城に幽閉、更に晴元の長男・昭元も幽閉してしまう。

1561.06.23. (永禄4.05.11) 斎藤義龍、病没。享年33 or 35

1561(永禄4.08) 木下藤吉郎、寧々と結婚。

1561.10.27.~1561.10.28(永禄4.09.09 ~永禄 4.09.10) 第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)

1561年(永禄4.閏3月) 上杉憲政から関東管領職を譲り受けた長尾景虎・改め上杉政虎は、関東各氏族を脅かす北条を討つ為に出陣、北条氏康小田原城を攻囲した。一方、北条は、武田信玄に、上杉の背後を突く様に支援を要請。武田はそれに応えて、信濃の割ケ嶽城(現信濃町)を落し海津城を築いた。この事態に上杉政虎は一旦越後に軍を引き、改めて永禄4年8月に信濃に向け進発し、妻女山に陣取った。信玄は同年8月29日に海津城に入った。同年9月9日、信玄は別動隊を動かして、上杉軍を妻女山から八幡原へ追い立て、「敗走」して来るの上杉軍を八幡原で待ち受けて殲滅するという作戦を立てた。一方、上杉軍は夜陰に乗じて妻女山から八幡原へ動いた。早朝、八幡原で両軍が激突する。結果は勝敗不明。ただ、武田軍の方が指揮官の武田信繁(信玄息)の討死をはじめ、譜代、重臣などの戦死者が多かった。

1561(永禄4.12) 上杉政虎、名を輝虎と改めた。32歳

上杉政虎足利義輝から偏諱(へんき)を賜り輝虎と名を改める。この頃、関東の諸将、風の向き次第で輝虎に靡(なび)いたり、北条に靡いたりしていた。つまり、輝虎が越後へ退いて関東を留守にすると北条に靡いた。輝虎が関東に出兵して来ると、上杉に従うという動きをしていた。

1562(永禄5) 毛利元就石見銀山を手に入れる。

1562(永禄5) 大村純忠は、自領の横瀬浦をポルトガル人に新貿易港として提供。

熱心なキリシタン大名大村純忠は、仏教徒を弾圧。寺社を破壊し、僧侶や神官を殺害した。

1562.02.18(永禄5.01.15) 清須同盟

信長と松平元康、清洲城で会見し,互いに誓詞を交換して正式に同盟を結ぶ。

1562.04.08~1562.06.21(永禄5.03.05.~永禄5.05.20) 久米田の戦い。教興寺の戦い

細川晴元父子幽閉事件に端を発し、戦いが始まる。細川晴元六角義賢(ろっかくよしかた(=承禎(じょうてい))の姉婿(義兄)である。彼は、三好長慶が晴元父子を幽閉した事に激怒。兵を挙げる。三好一族に城を奪われた畠山高政六角義賢に同調。両氏族連携し、三好一族と戦う。久米田(現岸和田市)の戦いでは、三好氏とその一門 対 畠山高政と遊佐氏等+根来鉄砲隊。結果。三好軍総崩れ。総大将・三好実休討死。実休本隊は根来鉄砲隊の集中砲火を浴び全滅する。

教興寺(現八尾市)の戦いでは、三好氏一門+松永久秀等 対 畠山高政+安見宗房+湯川直光+根来鉄砲衆。三好軍は鉄砲の威力を避けて雨の日に戦端を切った。結果は、三好側の大勝利。

三好長慶畿内全域に支配を及ぼし、将軍を凌ぐ勢いだったが、この頃から衰えが見え始めた。久米田の戦いも教興寺の戦いも、長慶自身は出陣しなかった。永禄3年3月に弟の十河一存(そごうかずまさorかずなが)が病没、永禄5年3月に弟の三好実休が戦死、永禄6年8月に唯一の嫡嗣子・義興が22歳で早世し、相次ぐ不幸で鬱病になったと言われており、何を思ったか弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を城に招いて殺害してしまった。鬱病が更に悪化、弟殺害の後悔に苦しみ、2か月後の1564(永禄7.07.04)冬康のあとを追う様に死去した。享年43

1562(永禄5.05)  信長、斎藤龍興と戦う。(この時、信長29歳)

1562(永禄5.06) 毛利元就、出雲侵攻開始。

1563(永禄6) 織田信長、居城を小牧山城に移す。(信長30歳)

1563(永禄6) 松平元康、家康と改名。

1563(永禄6.03) 織田信長の娘・五徳松平家康の嫡男・竹千代(信康)が婚約。

1563~1564(永禄6~7) 将軍・義輝、上杉景虎北条氏政武田晴信等の抗争の調停を図る

1564(永禄7) 三河一向一揆、家康、これを鎮圧。

1564(永禄7) 信長、犬山城を落す。

1565.6.17(永禄8.5.19) 永禄の変。足利義輝暗殺 享年30

三好重存(しげまさ)(=義継)・三好三人衆・松永久通らが、足利義輝を殺害した。松永久秀はこの時大和に居た。久秀は、この報せを受けて義輝の弟で、興福寺一乗院門跡の覚慶を、興福寺に幽閉した。覚慶は元々興福寺の僧侶である。自宅に幽閉された様なものである。久秀は、三好一統の暗殺から覚慶を守る為、厳重な警備を敷いて覚慶を庇護下に置いた。

※1  三好三人衆とは三好長逸(みよしながやす)・三好政康(=宗渭(そうい))・岩成友通(いわなりともみち)の三人である。

1565.07.04(永禄8.06.07)   朝廷、足利義輝従一位左大臣を追贈。正親町(おおぎまち)天皇3日間喪に服す。

1565.08.23(永禄8.7.28) 覚慶(=足利義昭)、興福寺を脱出。

細川藤孝、三渕藤英 (藤孝兄)、和田惟政(わだこれまさ(甲賀七家の内の一人))、一色藤長、米田求政(こめだもとまさ)、仁木義政(六角氏綱の子息)らの手によって、覚慶は奈良を脱出、近江の和田惟政の下に逃れた。これには、朝倉義景、若狭の武田義統(たけだよしずみorよしむね)、織田信長等による松永久秀への根回しがあった。

 

上洛の先陣争い 二つの勢力

 

覚慶支持勢力

第13代将軍・足利義輝が非業の最期を遂げ、将軍位が空位になった。

義輝弟の覚慶は、永禄の変を逃れて近江に身を置いた。彼は兄の跡を継いで将軍になる為に、有力大名に支援を要請した。朝倉、上杉、武田、織田・・・と上洛を促す書状を送ったが、それぞれ内憂外患の事情を抱えており、直ちに上洛できる状態では無かった。織田信長が覚慶の要請に一番応えられる位置に居たが、それでも、美濃の斎藤氏や武田の脅威があった。

足利義栄支持勢力

一方、三好氏は堺公方足利義維(あしかが よしつな)の嫡男・義栄(よしひで(=義親))を庇護していた。義栄の祖父は11代将軍・足利義澄で、実父は義澄次男の義維、義維は10代将軍・義稙(よしたね(=義材(よしき))の養子にもなっている。二重三重の将軍家との繋がりがあり、殺害された足利義輝とは従兄弟同士なのだ。そもそも義輝殺害は、義輝を退け義栄を将軍にする為だったと、山科言継(やましな ときつぐ)や、ルイス・フロイスが見立てて書いている。

三好氏は、家宰の篠原長房が先頭に立って足利義栄を推戴し、上洛作戦を実行し始めた。

 

三好方の上洛作戦

 

1566(永禄9) 松永久秀、三好勢から孤立。足利義栄から追討令が出される。

1566.3.08~08.31(永禄9.02.17~永禄9.08.17) 阿波の三好一族、義栄を推戴し上洛戦を開始。

長慶亡き後、三好氏の本拠地四国に居て氏族を支えていた家宰の篠原長房が、三好勢をまとめあげ、安宅信康(冬康嫡男)に命じて淡路水軍百数十隻の船を出し、軍兵を率いて兵庫に上陸。松永久秀の摂津滝山城を攻囲し、落城させた。松永久秀、大和に退却し、更に堺へ逃亡する。

1566.06.17(永禄9.05.30) 三好軍、堺を包囲。松永久秀は逃亡。一時行方不明になる。

摂津・山城にある松永勢力圏の城、次々と三好方に落とされ、久秀側は劣勢になる。

1566.11.04(永禄9.09.23) 三好軍は、足利義栄を摂津越水城に迎え、主君として遇する

1566.11.14(永禄9.10.03) 義栄、朝廷に太刀や馬を献上した。

1567.02.03(永禄9.12.24) 義栄、朝廷に従五位下・左馬守の叙任を求め、28日に許された。

1567.02.13(永禄10.01.05) 義栄、朝廷から将軍宣下を認められた。

この将軍宣下は消息宣下といって手紙によって認められたもので、略式のもの

1567.03.26(永禄10.02.16) 三好義継、久秀の下へ出奔。

三好義継は三好長慶の後継ぎとして三好氏の旗頭の立場を務めていたが、足利義栄が将軍に推戴されると、何事も義栄を中心に動き出し、彼は居場所を無くして、松永久秀を頼った。

1567.05.26~11.10(永禄10.04.18~永禄10.10.10) 東大寺大仏殿の戦い。

この戦いは、[松永久秀と三好義継]  [三好三人衆筒井順慶池田勝正の連合軍]の戦いである。東大寺近くの松永久秀の居城・多聞山城と、東大寺塔頭に駐屯した三好軍に因り、東大寺境内と市街を戦場にして4月~10月まで戦いが繰り広げられた。その間、畠山高政根来衆などが久秀へ援軍を送った。10月10日夜中、松永軍が東大寺を奇襲、東大寺に火の手が上がり、大仏殿などかなりの範囲が焼け、大仏の仏頭も焼け落ちてしまった。寺で宿営していた三好軍側は総崩れになり、退却した。

1567.06.12(永禄10.05.06) 義栄、将軍として石清水八幡宮の人事に介入、朝廷より制止される。

1567.12.03(永禄10.11.03)、義栄は、正式な将軍宣下を朝廷から拒否された。

朝廷から要求された献金に応じられなかったのが、その原因である。

1568.03.04(永禄11.02.06) 義栄、朝廷に将軍宣下に必要な経費を献上した。

献上した銭に多くの粗悪な銭が混ざっていたので、受け取りの可否を巡って揉めた。

1568.03.06(永禄11.02.08) 足利義栄室町幕府14代将軍に任じられた。

1568.03.11(永禄11.02.13) 足利義栄、将軍宣旨を受け取る。

義栄は上洛することなく、摂津の富田荘(現高槻市)にある普門寺(臨済宗)で宣旨を受け取った。勅使は山科言継である。

1568.03.24(永禄11.02.26.) 三好一族は、堺の津田宗及の屋敷で150人も集まって祝賀会を開いた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて上洛の途に就く。

1568.10.02(永禄11.09.12) 信長、三好勢方だった六角義賢の箕作城(みつくりじょう)1日で落とし、翌13日に義賢居城の観音寺城を、これも1日で落城させた。

三好軍は信長の前にひとたまりもなく敗北を重ね、義栄在所の富田も信長によって焼き払われた。この頃、義栄は病気を患っており、阿波に退いた。

1568(永禄11.10) 義栄病没。享年31。

義栄 将軍在位 1568.03.06.~1568.10.(永禄11.02.08~永禄11.09)   8か月

 

信長上洛までの軌跡

 

1565(永禄8.10.) 武田家嫡男・義信が幽閉される。

義信の正室今川氏真の娘は離縁され、今川に送り返された。

1565.(永禄8.11)   信長、武田信玄と同盟。

信長、養女を武田信玄の息子・勝頼に嫁がせる。

1566(永禄9) 家康松平から徳川姓に改姓。

この頃家康、東三河、奥三河を平定し三河を統一する。

1567(永禄10) 木下藤吉郎竹中半兵衛重治を得る。

斎藤氏滅亡後、藤吉郎は信長へ願い出て、竹中重治牧村利貞・丸毛兼利を与力として得る。

1567(永禄10.) 信長、稲葉山城を落す。稲葉山を岐阜と改める。岐阜城主になる。

1567(永禄10.) 信長、天下布武の印を使い始める。

1567(永禄10) 信長、美濃加納で楽市場の制札を出す。

1567(永禄10)春 信長、滝川一益に北伊勢攻略を命じる。

 1567.03.20(永禄10.02.10) 義輝追善供養の六斎踊りが真如堂で行われる。男女計8万人参加。

1567(永禄10.04) 上杉輝輝虎、厩橋城代の北条高広が謀叛の為、これを破る。

1567(永禄10.05) 徳川家康嫡男・竹千代(信康9)織田信長の娘・徳姫(9)が結婚

1567.09.17(永禄10.08.15) 斎藤龍興、伊勢へ逃れる。

1567.11.19(永禄10.10.19.) 武田義信(武田信玄嫡男)、自害。

1567(永禄10.11) 正親町天皇より信長に皇室領回復を命じる綸旨が届く。

1568(永禄11.02) 北伊勢の神戸具盛(かんべとももり)、信長の三男信孝を養子にする。

1568(永禄11.07.25) 信長、足利義昭を美濃の立政寺(りゅうしょうじ)に迎える。

足利義昭上洛実現の為、越前国朝倉氏の下にいる義昭へ和田惟光らを遣わし、義昭を美濃の立政寺に迎えた。

1568(永禄11.08.) 信長、義昭上洛を援ける様にと、六角義賢に使者を遣わした。

六角義賢、これを拒否。更にもう一度使者を遣わしたが、矢張り拒否。実は、義賢は既に三好氏に通じていた。

1568.09.27(永禄11.09.07) 信長、足利義昭を奉じて京都上洛を開始する。

三好軍と敵対していた松永久秀と三好義継は、信長側に立ち、義昭上洛に協力的に動いた。

1568.10.02(永禄11.09.12~13) 観音寺城の戦い。箕作城(みつくりじょう)の戦い。

六角氏は本陣を観音寺城、主力を和田山城、脇陣を箕作城へと配置した。信長軍は攻め手を三つに分け同時に攻撃した。特に、箕作城を攻撃した信長は、日中の激戦の疲れも癒えぬ内の、その日の夜に火攻めの猛攻を掛けた。城兵はパニックに陥り、落城。箕作城の落城を知った和田山は、戦わずして逃げ出して陥落。観音寺城六角義賢も、夜陰に紛れて逃走してしまった。六角氏の18ある支城は(一つを除いて)ドミノ倒しのように降伏した。降伏しなかった日野城蒲生賢秀は、義兄の神戸具盛の説得に応じて人質を差し出して降伏した。此の人質が蒲生氏郷である。

1568.10.03(永禄11.09.13~) 信長、順調に京都へ進軍。

観音寺城の戦いや箕作城の戦いに於ける信長の圧倒的な勝利が京にまで聞こえ、進軍する先々で戦う前から敵城が降伏すると言う状態が続いた。9月26日には東寺を経て東福寺に着陣。義昭は清水寺に入った。細川藤孝に御所の警備を命じ、治安の回復を図った。三好方も京都周辺から撤退していた。29日、岩成友通が降伏。30日、義昭が芥川城に入り、将軍家の旗を掲げた。同日、細川昭元三好長逸が城を放棄、10月2日篠原長房が城を放棄して淡路へ逃亡。

1568.11.07(永禄11.10.18) 足利義昭、第15代将軍就任

1569.01.31(永禄12.01.05) 本圀寺の変。

足利義昭を将軍に就けた信長は、美濃国に帰った。その隙を突いて三好の残党が本圀寺に居る義昭を襲った。信長は直ちに馳せ参じたが、細川藤孝明智光秀たちの奮戦によって事なきを得た。信長は、義昭の為に将軍御所・二条城の建設を始める。

 

 

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

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146 信長年表2 初陣~桶狭間

前項に引き続き、信長の年表を書いて行きます。彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども合わせ見て行きたいと思います。

 ※ 年表表記について

〇  西暦を前にその後に和暦を( )内に記す。 〇  元年の場合は1と表記。(例:弘治元年→弘治1)   〇  年だけが分かり、月日が分からないものは、年初にまとめて列記。従って、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあります。

 

年表

1547.01.11(天文15.12.20)    足利義藤(=義輝)、室町幕府13代将軍に就位。

義藤、僅か11歳で将軍宣下を行う。細川家の内紛、細川家家臣で軍事的実力者の三好氏の内紛など、糾合離反、向背の動きが激しく、義晴も、新将軍・義藤(義輝)もその度に逃げ、近江と京を何回も行ったり来たりしている。

1547.08.06.(天文16.07.21)  舎利寺の戦い。

(細川晴元陣営)三好長慶+六角定頼+三好政長 対  (細川氏綱陣営)細川氏綱+畠山政国+遊佐長教(ゆさながのり)の戦いである。大物崩れで自刃した管領細川高国の養子・細川氏綱が、敵将・細川晴元勢力に挑んだ戦いで、三好長慶側が圧勝。

1547(天文16)  信長(14)初陣。

今川勢力下にある西三河の吉良大浜(現愛知県碧南市)の長田重元の留守を狙って、織田側が仕掛けた戦い。今川の侵攻を止める狙いと、大浜の港の権益に食指を動かし、総大将を信長(兵力800)にして攻めたが、長田は織田側の動きにいち早く帰館。長田の兵力は2,000。伏兵などの陣立てをして信長を迎え撃った。信長、大浜に放火をして那古屋に帰るも、死傷者を大勢出し、地元伝承では大敗と伝わる。『信長公記』では無事帰陣とだけ書かれている。

1547.09.15.(天文16.08.02.)  松平竹千代(6歳)、人質になる。

松平竹千代は後の徳川家康である。竹千代は今川氏の人質となったが、護送途中に立ち寄った田原城戸田康光の裏切りにより、尾張織田信秀の下に送られた。その後2年間尾張国熱田の加藤藤盛の屋敷に留め置かれた。

1548(天文16.12) 堺公方足利義維、阿波に逼塞。

足利義維(あしかが よしつな)を推戴していた細川晴元が、主君を足利義晴・義藤に鞍替えした為に、後ろ盾を失った義維は堺から阿波へ没落した。

1548(天文17) 織田信長(16)斎藤道三の娘(濃姫)と結婚

1548(天文17.07)     武田晴信塩尻の戦いで小笠原長時軍を撃破した。

1548(天文17.08.12 ~ ) 三好長慶三好政長討伐に動く。

1532年飯森山城の戦いで、三好元長は、ライバル三好政長と管領細川晴元の策謀に嵌(はま)り敗死。息子の三好長慶はそれを知らず、晴元や三好政長の為に粉骨砕身して戦って来た。ところが、敵の遊佐長教と長慶が和睦し、長慶が遊佐の娘を娶ってから、三好政長こそ長慶の親の仇だと知り、長慶は晴元から離れ、晴元の対抗馬の細川氏綱側に寝返る。長慶は1549年の江口の戦い三好政長を討ち取り、細川晴元を京から追い落とす。長慶は氏綱を奉じて上洛し、京を制圧。三好政権を樹立。畿内を治めて長慶は天下人となる。これが三好長慶派と細川晴元派の争乱の底流となり、やがて将軍・足利義輝の暗殺や、足利義昭の流浪の発端となって行く。

1548(天文17.12.30.) 越後の長尾景虎(19)春日山城主になる。

1549年  キリスト教伝来。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。布教開始

1549(天文18.10.18)     足利義晴、築城に励む。

敵対勢力を警戒した義晴は、慈照寺の裏山に中尾城と将軍山城を、翌年北白川に城砦を築く。

1550(天文19.02,)    長尾景虎(上杉謙信)、越後の守護の代行になる。

越後国守護・上杉定実、嗣子無く死去。将軍・足利義輝長尾景虎に越後守護の代行を命ずる。

1550(天文19.05.04)    足利義晴、水腫の病により薨去。享年40

1550.07.14(天文19.07.1411.21) 中尾城の戦い 

細川晴元、義輝を擁立して京都奪回を試みるも不成功。鉄砲による死者一人記録される。

1550(天文19.09.09.10.01) 信濃砥石(といし)崩れ。

信濃国砥石城(村上義清)での戦い。攻め手の武田晴信(武田信玄)大敗を喫す。

1550(天文20.01) 越後。坂戸城の戦い。

長尾景虎(上杉謙信)、坂戸城長尾政景と戦いこれを制し、越後を統一する。(22歳)

1551(天文20.03) 織田信長(18歳)、父死去に伴い家督を継ぐ。

1552(天文21.01) 三好長慶足利義輝が和睦。義輝上洛。細川晴元出家。細川氏綱が細川京兆家の当主に成る。

1522(天文21.01.) 上杉憲政長尾景虎に庇護を求める。

関東管領上杉憲政北条氏康に攻められて景虎の下に逃げ、長尾と北条が敵対関係になる。

1552.09.04(天文21.08.16) 尾張。萱津(かやづ)の戦い (=海津の戦い)

尾張の当主になった若い信長を不安視する家臣が続出。鳴海城主・山口親子が今川に寝返り(赤塚の戦い)、清洲城家老の酒井大膳らが、松葉城・深田城を占領、叛旗を翻した。信長は叔父織田信光と共に駆け付け、清洲方と海津で激突、別の戦場でも交戦が行われ、清洲城方はほぼ壊滅。信長は清洲城を奪還する。信長19歳

1552(天文21.08.) 長尾景虎、関東に派兵。侵攻した北条軍を押し戻す。

北条方の手に落ちた関東管領上杉憲政の居城・平井城(現群馬県藤岡市)と、平井城詰城の金山城(現群馬県太田市)を、景虎が奪還。北条長綱は上野(こうずけ)国から撤退し、武蔵国松山城へ逃亡。

1552(天文21.11.27) 『甲駿同盟 』が結ばれる

今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)と武田晴信の嫡男・武田義信が結婚。(嶺松院の母は武田信虎の娘で、武田晴信の姉である。つまり晴信の息子義信と嶺松院はいとこ同士になる。 後に、武田晴信により義信が廃嫡される。)

1553(天文22.03.08) 東山霊山城の戦い。(ひがしやま りょうぜんじょう の たたかい)

対抗勢力の脅威に対し、足利義晴と義輝父子は、1549年頃から築城に励んだが、霊山城は築城間も無く三好長慶に攻められ自焼した。1552年、義輝と長慶の間で和睦が成立。義輝は細川晴元に備えて再び霊山城を築城。が、長慶との和睦が決裂して、今度は、義輝は細川晴元と手を結び、1553年に霊山城で長慶と戦う事になる。結果、長慶側勝利。義輝・晴元側壊滅し、近江に逃亡。義輝による京都奪還は不首尾に終わる。

1553(天文22.04) 織田信長斎藤道三尾張国境付近の聖徳寺で会見

この時信長、「うつけ」から大変身する。道三驚嘆。自分の息子達が信長の軍門に降る事を予見する。

1553(天文22.04~) 第一次川中島の戦い

武田軍は村上義清の葛尾(かつらお)城を落すが、5月、更科八幡の戦いで葛尾城を奪還され、9月、武田軍は塩田城を落された。上杉謙信信濃領内に侵攻、荒砥城、虚空蔵山城を落した。

1554.2.25(天文23.01.24) 信長、村木城の戦いに勝利。

西三河知多半島の水野氏は今川勢力と織田勢力の緩衝地帯にあり、元々は織田に与していた。が、織田信秀今川義元の和議の話し合いで、水野氏は今川方に組み入れられた。信秀の跡を継いだ信長はその和議を破棄。今川氏に敵対する。水野氏も織田方に復したので、今川勢が水野を討ちに出陣し、織田方の重原(=鴫原(しぎはら))城を落し、水野信元の近くの村木に城を築く。水野からの救援要請に信長は直ちに行動を起こす。舅・斎藤道三那古屋城の留守を預け、嵐の中、熱田から20里の海路を1時間で渡海。鉄砲攻めで村木城を落す。この報告を聞いた斎藤道三は「恐ろしい男よ。隣に住みたくないものだ」と言ったそうである。

なお、水野信元は、徳川家康の生母・於大の方の異母兄である。

1554(天文23.07) 尾張守護・斯波義統(しば よしむね)暗殺さる。

尾張守護・斯波義統が、清洲城主で守護代織田信友に暗殺された。義統の息・斯波義銀(しばよしかね)は落ち延びて織田信長を頼った。織田信長の家は、守護代織田信友の下位に就く三奉行の一つ・弾正忠(だんじょうちゅう)家である。信長は、信友を「主殺し」としての大義分を得て信友誅殺の為に出陣し、信友一統の重臣達を討つ。

1554(天文23.07) 駿相同盟なる。

今川義元の嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿が結婚。ここに、1552に結ばれた『甲駿同盟』 と併せて『甲駿相三国同盟』が成る。この同盟は相互不可侵条約であって、軍事同盟ではない。これによって、今川は背後を突かれる憂いが無くなって上洛できるようになり、武田も安心して越後を攻められるようになる。

1555(天文24.03.)   松平竹千代、今川義元の下で元服

竹千代、名を次郎三郎元信と名乗り、義元の姪・瀬名(築山殿)を娶(めと)る。

1555(天文24/弘治1.04) 第二次川中島の戦い

川中島で武田軍と上杉軍が200日対陣(上杉川の記述では5ヵ月間とも)した。今川義元の仲介で、景虎と晴信は和睦。

1555(弘治1.04) 信長、清洲城城主となる。

織田信友は、1554年に尾張守護・斯波義統暗殺に成功したものの、信長との戦いで敗れた。劣勢を挽回すべく織田信光を新たに清州の城主に傀儡として据え、勢威を存続しようとした。信光は、信友の策に嬉々として乗って手勢を率いて清洲城に入城する。が、信光、ここで主殺しの信友を取り囲んで退路を断ち、切腹させてしまった。これは、事前に信長と信光が謀議して筋書を書き、信友をその気にさせて罠に誘い、嵌めたものである。信長はこうして清洲城を奪取。清洲城を改修して信長の居城とする。那古屋城織田信光に譲る。

1556(弘治2.04) 斎藤道三戦死

信長の舅・美濃の斎藤道三は、嫡子・義龍を嫌い、次男の孫四郎、三男の喜平次を偏愛していた。道三と義龍の関係は険悪化し、ついに義龍は弟二人を殺し、道三に歯向かって挙兵する。道三と義龍は長良川で交戦。道三に従う家臣は少なく、信長が駆けつけた時は討死していた。享年63

1556.09.27.(弘治2. 08.24?) 稲生(いのう)の戦い 

信長23歳の時、信長の同母弟の信勝(=信行)を、織田弾正忠家当主にと願う家臣達が、信長に叛旗を翻した戦いである。信勝軍には柴田勝家林秀貞、林美作(はやし みまさか)(=通具(みちとも)が従い、兵力1,700。対して信長軍は、佐久間盛重、森可成(もり よしなり)、前田利家、織田信房、丹羽長秀を合わせて兵力700。信長側は初め劣勢だったが、盛り返して信勝軍を崩し、敗走させた。

1557(弘治3)     大内氏滅亡 (防長経略)

毛利元就が大内義永を討った。元就は、九州を除く大内氏の旧領の大半を掌中に収めた。

1557(弘治3.04 ) 第三次川中島の戦い

信濃の飯山城主の高梨政頼は、武田の脅威を長尾景虎に訴え、救援を要請していたが、豪雪で景虎は動けなかった。景虎は4月に入って出陣し、武田勢力の城を落しながら善光寺に進んだが、武田晴信景虎との正面衝突を避け続けた。

1557(弘治3) 将軍・足利義輝から甲越和睦のご内書が下る。

1558(弘治4.02)  正親町(おおぎまち)天皇即位。

1558(弘治4/永禄1) 元号を弘治から永禄に改元。義輝これを知らず。

1558(弘治4/永禄1) 信長、弟・織田信勝(=信行)暗殺。

1556年に稲生の戦いで信長に叛旗を翻した同母弟の信勝は、再び信長に謀反する兆しを見せ始めた。信勝付重臣柴田勝家は、稲生の戦いで反信長派の信勝に従い大活躍をしたが、信勝の謀反の動きを察知した勝家は、その事を信長に密告。信長は「病気」になり、清洲城に病気見舞いに来た信勝を暗殺した。

1558~1559(永禄1~2 ) 信長、岩倉城の織田信賢(おだ のぶかた)を破る

織田信賢嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の出身で、弾正忠家出身の信長に対抗していた。信長は1558年、浮野(現愛知県一宮市⦆の戦いで信賢を撃破した。翌1559年、岩倉城に籠城していた信賢を、信長は降伏させ、尾張統一を果たした。

1559(永禄2) 永禄の飢饉発生。

旱魃(だいかんばつ)によって飢饉発生。北条氏政、徳政をもってこれに対処する。他の領主達無策。戦争に明け暮れ、戦費調達の為に重税を課すばかりである。

1559(永禄2) 甲斐国に大規模水害発災

1559(永禄2)  信長(26歳)、上洛して将軍足利義輝に拝謁する。

斎藤義龍長尾景虎も相次いで上洛し義輝に拝謁。長尾景虎正親町天皇にも拝謁している。

1559(永禄2.02) 武田晴信出家。徳栄軒信玄と号す。

1559(永禄2.05) 松永久秀筒井順慶の城を陥落させ、十市(とおちorといち)氏を破る。

1559(永禄2.09) 毛利氏、尼子氏に大敗す。

大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山に手を伸ばし、出雲の尼子晴久と戦った。1558年の忍原(おしばら)(現島根県太田市)で毛利氏は忍原崩れと呼ばれる程の大敗北を喫し、1559年の山吹城(やまぶきじょう)攻略の時、降露坂(ごうろざか)の戦いで、再び毛利は壊滅的な大敗をした。(山吹城は石見銀山の傍にあり、銀山を守る為だけに築かれた城)

1560(永禄3) 松永久秀興福寺を破り、大和国を統一

1560(永禄3.03.29.) 上杉謙信、富山城を陥落させる。

富山城主・神保長職(じんぼうながもと)は、武田信玄と誼(よしみ)を通じながら、一向一揆軍と手を結び、信玄が信濃へ北進する時には、神保は越中で陽動作戦を行って上杉軍の背後を脅かし、上杉が武田軍に集中できない様にしていた。謙信は、その神保を攻め勝利する。神保との戦いはこれで終わらず、数年続くことになる。

 

今川、上洛の機、熟す

『甲駿相三国同盟』は相互不可侵条約である。これにより、今川義元は背後や脇腹を突かれる心配がなくなった。武田は信濃攻略に野心を燃やし、越後の上杉は武田に備えながら越中の神保に気を配らなければならず、南下どころではない。相模の北条と言えば、当面の関心事は内政の充実であり、今川にとって安心して良い相手だった。

 

織田、迎撃態勢道半ば

尾張は、東に三河、北に美濃、西に伊勢に国境を接している。東は今川義元、北は斎藤義龍、西は村上源氏の名門・北畠氏の支配地である。力と力が三方から押し合い、丁度隙間が出来た三角形の土地、それが尾張である。尾張濃尾平野の肥沃な土地であり、木曽川揖斐川長良川の大河を抱え水運の便が良く、伊勢湾に港を幾つも擁している。非常に豊かなこの国に食指を動かさない戦国大名はいないであろう。しかも、上洛に都合のいい街道筋にある。

常に狙われている国を存続させて行くには、先手必勝とばかり、信長の父・信秀は、1532年、謀略を以て今川方の那古屋城を乗っ取った。その後も、松平竹千代人質事件などで見られる様に、絶えず隣国、特に三河と美濃の間で摩擦があった。その解決が無いまま、家督がうつけの信長に継がれ、尾張国内は分裂し、まとまりを欠いた状態になった。

1547年、西三河の長田重元(松平氏方)と戦い、1552年萱津の戦い、1554年の村木城の戦い、1555年、清洲城乗っ取り、1556年稲生の戦いを経て、1558年弟・信勝を暗殺、1558年岩倉城攻めを行い、ようやく尾張を統一する事が出来た。軍制を改革し、鉄砲隊を強化し、親衛隊の馬廻衆を創設して機動力をつけ、敵の迎撃に万全を期す筈であったが、今川軍と対決した時は、後ろ盾だった斎藤道三を失って、防御の壁に想定外の大穴が開いてしまっていた。 

1560(永禄3.05) 今川義元、上洛を決意し、松平元康に先鋒を命ずる。

1560.06.11.(永禄3.05.18) 松平元康、大高城救援の兵糧を運び込む。

松平元康(徳川家康)は、鷲津城と丸根砦の敵地を突破して小荷駄隊を大高城に運び入れ、無事に引き上げた。

1560.06.12(永禄3.05.19.  3:00頃) 今川軍、丸根砦と鷲頭砦に攻撃を開始。

此の時の攻め手は松平元康と朝比奈泰朝である。

1560.06.12(永禄3.05.19.  4:00頃) 信長、幸若舞『敦盛』を舞った後、出陣す。

この時直ぐに従った者は小姓数人のみ。外の者は慌てて主君の後を追った。

1560.06.12(永禄3.05.19.  8:00頃) 信長、熱田神宮に到着。戦勝祈願をする。

1560.06.12(永禄3.05.19. 10:00頃) 信長、善照寺砦に入り、軍勢を整える。

この頃、信長側の丸根砦、鷲津砦が陥落。

1560.06.12(永禄3.05.19. 12:00頃) 信長側の中島砦の部隊敗れる

1560.06.12(永禄3.05.19. 13:00頃) 豪雨

1560.06.12(永禄3.05.19.) 桶狭間の戦い

今川義元、服部一忠と毛利新介によって討ち取られる。義元享年42 

此の時信長は27歳

 

 

 

お断り

この年表を書くに当たり、下記の様にネット検索をいたしました。

ウィキペディア」「刀剣ワールド」「武将愛-SAMURAI HEART」「年表」「コトバンク」「地形地図」「古地図」「和暦から西暦変換(年月日)-高精度計算サイト-Keisan」「日本の災害防災年表」その外、戦国時代の領国支配や経済のレポート、地域の出している情報、観光案内などなど、ここには書き切れない程の多くのものを参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

145 信長年表 1 誕生前から元服迄

織田信長と言えば、知名度抜群の戦国武将です。学校で習うのは勿論の事、小説で、映画で、テレビのドラマで、そしてゲームで、頻繁に取り上げられています。彼の生涯についてはそれ故、御存じの方が大勢いらっしゃいますので、ここでは敢えてそれを書かず、代わりに彼の人生の年表を記して、それに代えたいと思います。

彼が生まれた時代を知る為に、彼が誕生する2年前からの世の中の動きを書き出します。また、彼を取り巻いていた政治的な環境、軍事的な動きなども視野に入れながら、彼本人の事績に関係のない事柄であっても、或る程度取り入れていきたいと思います。

 

※ 年表表記について

〇 西暦年月日を前に、その後に続けて和暦元号年月日を( )内に記します。

〇 西暦年はグレゴリオ暦です。

〇 年月日という漢字表記はピリオドを以て代用します。

〇 元年の場合は1と表記します。(例:弘治元年→弘治1)

〇 年だけが分かり、月日が分からないものについては、年初にまとめて列記します。従って、その年の初めに書かれた事柄であっても、実際にはその年の中頃とか年末に起きた可能性もあり、時系列の順序が、その場合は狂っている場合があります。

 

信長誕生2年前から

1532(享禄(きょうろく)5)  織田信秀、策略をもって那古野城を奪う。(乗っ取りの時期については1533年の蹴鞠大会以降という説も有り)。

尾張勝幡城(しょうばたじょう)主・織田信秀(信長の父)は今川氏豊連歌好きを利用して連歌仲間に入り、信用を得てから氏豊の那古野城にしばらく滞在。信秀は病に倒れ、本国より家臣を呼び寄せ、油断していた氏豊側の隙を見て兵を引き入れて城に火を放ち、これを奪い取った。氏豊は捕らえられるも解放される。

1532(享禄5.05.~ ) 堺公方政権内部の抗争激化。

堺公方足利義維(あしかが よしつな)を擁立していた細川晴元は、対立していた管領細川高国を前年1531年の摂津の大物(だいもつ)で討滅すると(大物崩(だいもつくず)れの戦い)、京都の将軍・足利義晴と和睦する。それまで義維(よしつな)を擁立していた晴元は、これを機に義晴側に接近して行く。

細川晴元と共に、堺公方・義維を盛り立てていた三好元長(みよし もとなが)がこれに激怒。細川晴元 vs 三好元長の争いが始まる。これとは別件で、畠山義堯(はたけやま よしかた) の家臣木沢長政が、主君・義堯(よしかた)から細川晴元へ乗り換えようと晴元に接近。これに義堯が怒り、細川晴元憎しの一点で三好元長と畠山義堯が手を結ぶ。そこに、細川晴元に肩入れしていた本願寺一向宗(浄土真宗)が絡まる。

1532.07.17(享禄5 .06.15) 飯森山城の戦い、堺公方の幕府瓦解を誘発。

木沢長政と細川晴元の援軍が立て籠もる飯森山城(いいもりやまじょう)を、三好元長・畠山義尭が攻囲、その攻囲網の更に外周から一向一揆軍が攻めて挟撃する。三好・畠山連合軍が敗北。畠山義尭自害。三好元長は堺の顕本寺(けんぽんじ(法華宗))まで敗走するも、一向一揆軍は20万の大軍をもって堺を包囲。進退窮まった元長は嫡子・仙熊丸(せんくままる(=長慶(ながよし))などを逃がして、顕本寺で6月20に自害。

堺公方足利義維細川晴元に捕えられる。

1532.08(天文1.07) 将軍・足利義晴近江八幡の桑実寺(くわのみでら)に避難。

管領細川高国は将軍・足利義晴を支えていたが、細川家本家の跡を狙う細川晴元と対立し、高国と晴元は天王寺で衝突 (天王寺の戦い)。結果、高国が敗北し自害する(大物崩(だいもつくずれ))。側近高国の敗死に危機感を募らせた足利義晴は近江の六角定頼を頼り、六角氏の観音寺城山麓にある桑実寺に入り、そこで幕府の政務を行う。

1532.08.28(享禄5.07.28) 改元元号を享禄から天文(てんぶん)に改める。 

1532.08.29(天文1.07.29) 天文元年

1532.09.22.~ (天文1.08.23) 天文法華の乱・山科本願寺合戦

飯森山城で畠山義尭を討ち取り、三好元長を敗走させて堺の顕本寺で自害させた一向一揆勢は、勢いを止む事なく大和に侵入。興福寺春日大社を襲い、京都までも争乱に巻き込みかねない情勢になった。一向一揆軍が法華宗を攻撃すると言う噂が流れ、それに対抗した法華宗徒が蜂起。一向宗を初めに焚きつけた細川晴元も燃え広がった一向一揆に脅威を覚え、これを鎮圧すべく逆に法華宗と手を結んだ。そして、8月23日、法華一揆軍・細川晴元・六角定頼の連合軍が山科本願寺を包囲、攻撃を始める。結果、細川晴元側が勝利し、山科本願寺側は寺院の全てを焼亡した。この戦いはこれで終わらず、長きにわたり尾を引く事になる。

山科本願寺はこれによって寺地を、証如の居た大坂へ移し、石山本願寺へとなって行く。やがて信長は、石山本願寺と戦う事になるが、それは凡そ40年後のことである。

 1532.11.16 (天文1.10.20) 足利義維、阿波に逼塞

細川晴元に捕えられていた堺公方足利義維は堺を脱出、淡路に逃れた後、阿波に渡りその地に逼塞(ひっそく)する。

1532.12.03. (天文1.11.07) 将軍・足利義晴細川晴元の間で和睦が成立する。

1533.07.12.(天文2.06.20) 三好仙熊、一向宗細川晴元の和睦斡旋の労を取る。

細川晴元三好元長・畠山義尭を討つ為に、一向宗を焚きつけて一揆軍を起こさせ、飯森山城攻防戦に利用した。が、目的を果たした後も一揆軍の反乱は勢いを増し、法敵・法華宗徒と衝突を繰り返した。更に、各地に波及、鎮火にてこずった晴元は、一揆討伐に舵を切った。細川晴元一向宗が対立し、戦乱は拡大。一揆に対しては一揆をと、晴元は、今度は法華宗徒に一揆を起こさせ一向一揆を攻撃させた。(「享禄の錯乱」「天文の錯乱」「天分の乱」「天文法華の乱」)

この事態に、三好元長家督を継いだ嫡子・仙熊丸(せんくままる)は、12歳ながら事態収拾に乗り出し、叔父三好康長などを動かして和睦させる。仙熊丸は後の三好長慶(みよしながよし)である。

1533.08.02~(天文2.07.12~) 織田信秀が和睦の蹴鞠(けまり)大会を開く。

織田信秀(信長の父)は、清洲三奉行の一人・織田藤左衛門と争っていたが講和し、講和を記念して蹴鞠(けまり)大会を勝幡城で連日行い、更に清洲城に場を移して続行した。

1533.11(天文2.10) 足利義晴、病に伏す。

義晴の病気で、訴訟などの審議が遅れ幕府の政務が滞る。病名は水腫。

 

信長誕生

1534.06.23(天文3.05.12) 信長誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)

尾張国織田弾正忠家の主・織田信秀と継室との間に、嫡出長子の男子が誕生。吉法師と名付けられる。信秀は正室を離縁した後、継室を迎えた。この継室は土田政久の娘で土田御前と一般的には言われているが、小嶋信房の娘だとも、六角高頼の娘などとも言われ、諸説ある。吉法師が生まれた時には既に庶出の兄・信広がいた。後に兄弟で家督を争う事になる弟の信行(=信勝=達成(みちなり)=信成)は、同母弟である。信秀には正室・継室・側室併せて6人おり、息子は12人、娘は15人居た

1534.07.18(天文3.06.08) 足利義晴近衛尚通の娘と結婚

足利将軍家摂関家から正室を迎えるのは義晴が初めてである。

1534.09.(天文3.08) 足利義晴、政務再開する。

1534.10.(天文3.09) 足利義晴、六角定頼と共に上洛する。

定頼は義晴を上洛させると直ぐ帰国し、在国しながら幕政に参加する道を選ぶ。

1535(天文4)   細川晴元三好長慶、木沢長政などが入洛、幕政に加わる。

1535(天文4)   細川晴元、義晴の偏諱を受けて「晴元」と名乗る。

細川晴元は、足利義晴偏諱を受けるまでは細川六郎と名乗っていた。このブログでは、便宜上知名度の高い「細川晴元」で通してきたが、実は、此の時を以て諱が「晴元」になる。

1535.10.16.(天文4.09.20)  丹羽長秀尾張の丹羽長政の次男として誕生。

1536.3.31(天文5.03.10)      足利義晴と御台所の間に男子誕生。

男児は菊幢丸(きくどうまる)と名付けられた。後の13代将軍・足利義輝である。生まれると直ぐ、義晴は菊幢丸を近衛尚通(このえひさみち(→従一位関白太政大臣))の猶子(ゆうし)にした。近衛尚通は学問や文芸に秀で、日本の「戦国時代」の呼称は、日本の騒乱状態を中国の春秋戦国時代に重ね合わせて、彼が「戦国の世の如し」と言った事から始まっている。

1536.09.12.(天文5.08.27) 義晴、将軍職を菊幢丸に譲る意向示す。

義晴は、菊幢丸を支える8名の年寄衆を指名した。指名された年寄衆は大舘恒興、大舘晴光、摂津元造(せっつ もとなりorもとみち(=摂津晴門の父))、細川高久、海老名高助、本郷光康、荒川氏隆、朽木稙綱(くつき たねつな)の8名である。

1537.03.17.(天文6.02.06) 豊臣秀吉誕生。

秀吉は尾張中村で生まれ、父は木下弥右衛門。幼名日吉丸。と言うのが通説である。が、諸説あり、秀吉の出自には不明な点が多い。下層出身である事は確かだが、日吉丸と言う武家の子の様な○○丸と付く幼名は後世の創作、と言われている。

1537.12.15.(天文6.11.13) 足利義晴に第2子の男子誕生。幼名千歳丸。

千歳丸(ちとせまる)は、菊幢丸の同母弟。後の15代将軍・足利義昭である

1538(天文7)  阿波に逼塞していた元堺公方足利義維に嫡子が誕生する。

幼名不明。初名義親(よしちか)。後の14代将軍・足利義栄(あしかが よしひで)である。義栄は、祖父は11代将軍・足利義澄、父は12代将軍・義晴の実弟・義維(よしつな)である。従って、義晴の子・菊幢丸(=義輝)とは従兄弟に当たる。義親(=義栄)の母は大内義興の娘。

1538年頃からか?  足利義維・三好実休、堺の豪商と交流頻繁。

義維と義栄の側近と三好実休は、しばしば堺の豪商の茶会に出席する。

1540.07.12.(天文9.06.09)  三好長慶の家臣・松永久秀の名が寄進の書状に初めて登場する。

松永久秀は、三好長慶の右筆(ゆうひつ)として活躍し始めていたと見られる

1541.01.23.(天文9.12.27)  松永久秀、堺豪商・樽井甚左衛門尉の購入地安堵添え状を発給。

1542(天文11)            松永久秀、三好軍の指揮官として大和国人残党討伐に携わる

1542.04.02.(天文11.03.17) 太平寺の戦い。木沢長政討死。

幕府の追討軍(三好長慶三好政長・遊左長教(ゆさながのり)連合軍)8,000と、木沢長政7,000が太平寺で対戦。結果、連合軍側が勝利。木沢長政は討死する。

1542.(天文11.03)    木沢長政討死を機に、義晴、近江朽木(くつき)から京へ帰還。

太平寺の戦いが始まる前に義晴は朽木に避難していたが、事態が落ち着いたので戻った

1542.12.26.(天文11.11.20)  千寿丸、興福寺一乗院に入室。法名を覚慶(かくけい)と名乗る。

此の時千寿丸は6歳。入室に当たり、母の実家である近衛尚通の嫡男・近衛種家の猶子に成る。出家理由は、既に兄・菊幢丸(=義輝)が居たので、武家の慣例に従った。

1543.01.31(天文11.12.26) 徳川家康誕生。

三河国松平氏松平広忠の嫡男として岡崎城で誕生。幼名松平竹千代。「徳川」姓は、徳川家康が創始した名字であり、家康直系と御三家のみに許されている。他の松平家は徳川を名乗れない。

1543.08.25.(天文12.07.25)   細川氏綱細川晴元打倒の挙兵をする。

細川氏綱は、元管領細川高国の養子である。1531年(享禄5年)、高国が大物(だいもつ)で細川晴元に敗れ(「大物崩れ」)て敗死した後、養子の氏綱は、養父高国の仇を討つ機会を狙っていた。本来ならば細川京兆家(細川本家)の家督を継ぐべき氏綱は、晴元にその地位を奪われていた。氏綱は、高国実弟達や恩顧の者、反晴元派を糾合して戦ったが、晴元に敵対し得る戦力は無かった。

1543.09.23.(天文12.08.25)  種子島に鉄砲伝来

大隅国種子島に中国船が漂着した。(漂着した時期については、南浦文之(なんぽぶんし)著の鉄炮記(てっぽうき)』による。他にアントニオ・ガルヴァオ著の『新旧世界発見記』とジョアン・ロドリゲス著の『日本教会史』では1542年の事とあり、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』では1544年となっている。)

漂着したその中国船にポルトガル人が3人居て、2挺の火縄銃を持っていた。彼等は島主・種子島時堯(たねがしまときたか)の前で試し打ちの演武をした所、時堯はその威力に驚き、武器としての有効性に着目し、一挺2千両(現在価格約2千万円~1億円か? )でその火縄銃を2挺購入した。そして、家臣・篠川小四郎に火薬の製法を学ばせ、美濃国関から優秀な刀鍛冶・八板金兵衛を招聘(しょうへい)し、銃の複製を命じた。金兵衛は殆どを完成させたが、筒を塞ぐネジの製法が分からなかった。金兵衛の娘・若狭はネジの製法を知る為にポルトガル人と結婚したと言う伝説がある。

1544(天文13)  薩摩で根占(禰寝(ねじめ))戦争

種子島氏は、1542年に薩摩藩の国人・大隅の禰寝氏(ねじめし)に屋久島を略奪されていたが、その屋久島を取り戻すべく、禰寝氏を攻撃した。その時、この火縄銃を使った。種子島氏は禰寝氏を敗北させ、屋久島を取り戻したが、鉄砲の性能は悪く、不発や暴発が相次いだ。とは言え、殺傷能力は旧来の武器に比べて比較にならない程凄かった。

1544.(天文13) 再度、中国船が種子島に漂着。

乗船していた人の中に鉄砲の製法に詳しいポルトガル人が居た。金兵衛は彼から正式な鉄砲工法を学び、ネジの切り方を教わり、国産銃が完成した。年内には数十挺を製造した。

堺の橘屋(たちばなや)又三郎は鋳物工である。また、九州や琉球とも交易をしている貿易商でもあった。又三郎は鉄砲の情報を得ると直ぐ種子島へ赴き、1~2年鉄砲を学んで熟知、その技法を堺へ持ち帰った。

1544(天文13.02) 國友で鉄砲製造が始まる。

種子島時堯から島津義久の手に鉄砲が渡った。島津義久はその鉄砲を将軍・足利義晴に献上した。将軍・義晴は管領細川晴元に銃の複製を命じた。細川晴元は、優れた刀鍛冶集団が居る北近江の国友村へ、銃の製作を命じた。國友善兵衛、藤九左衛門、兵衛四郎、助太夫らが承って、村あげて制作に取り掛かった。幸いな事に、近くを流れる姉川流域は鉄が採れた。「鉄糞岳(かなくそだけ)(→金糞は鋼滓(こうしorこうさいの事。スラグ)」「金居原(かないはら)」「たたら」など鉄にまつわる地名がある程である。若狭湾に近く、海路で出雲の鉄も入手し易くかった。

1544(天文13.08.12)  國友、鉄砲2挺を将軍に献上した。

1545(天文14)   紀州の根来で鉄砲の製作が始まる。

紀州国の吐前城(はんざきじょう)の城主にして、根来寺の僧兵の総帥・津田監物算長(つだけんもつかずながor さんちょう)(=杉ノ坊算長)は、種子島時堯に会いに行き、種子島銃1挺を買い求めた。そして、刀鍛冶の芝辻清右衛門に銃の複製を依頼した。

1546(天文15) 吉法師、古渡城にて13歳で元服。織田三郎信長と名乗る。

元服の後見役は平手政秀。それ迄吉法師の教育係だった沢彦宗恩は信長の参謀となる。吉法師は小さい頃より好奇心旺盛で、科学的であった。合理的なものは積極的に取り入れた。その行動は当時の人々の理解を越え「うつけ」として映った。彼は鷹狩や野駆けで領地の隅々まで地形や植生や農地の状態を把握した。野山を駆け回るのに、若様然の立派な着物を着ていられるか? いや、木に引っ掛けて着物を破き、湿地に足を踏み入れて泥だらけになるのがオチ。鉄砲玉入れの袋や、水筒の瓢箪、食料の干し柿などを荒縄に縛り付け腰に巻く。動き易く、働きやすい格好が何より。決して「うつけ」を演じて敵を油断させていた訳でも、本物の「うつけ」であった訳でもない、彼なりの合理的な振る舞いであったと婆は見ています

 

余談  鉄砲伝来

種子島に漂着した船は密貿易の倭寇で、倭寇の首領の王鋥(おうとう)(=王直(おうちょく))の所有する船だった。王鋥は明の海禁政策の法をかいくぐって密貿易を行い、肥前守・松浦隆信の招きで1542年に日本の平戸に根拠地を移した。その配下の船が台風に遭い、種子島に流れ着いたという事であり、漂着船はポルトガル船では無い。漂着の経緯は、村の地頭と乗船していた明国の五峰と名乗る者との筆談で判明した。彼等は種子島に半年くらい滞在していた。