式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

163 茶正月 一客一碗

11月、茶の正月。炉開きの季節です。

何時の間にか季節はしずかに忍び寄り、婆の住まう団地の庭の、ハゼの木の樹冠が少し赤く色付きはじめました。三階のベランダを超えるまでに大きく育ったそのハゼの木は、秋になると鳥たちの楽園になります。ハゼの褐色の小さな実が、シャンデリアの様に房になって、枝という枝から垂れ下がり、大きい鳥も小さい鳥も夢中になってついばみ始めます。

秋。 ♪もういくつ寝るとお正月♪ を歌うにしては早すぎるこの時期、お茶の世界ではお茶の正月を迎えます。

春、一番摘みの新茶の芽を収穫して茶葉をつくり、それを壺に入れて密閉し熟成を待ちます。熟成して香りも味も最高に整うのが11月の立冬の頃。その頃に壺の封を切ります。これが「口切り」です。口切の行事を経て茶葉を石臼で挽き、抹茶に仕立てます。こうして新しい抹茶を使い始めるので、お茶の世界では11月を茶の正月と言う訳です。
せっかくお茶の正月を迎えているのですから、一息入れて、お茶でもいただきましょう。

 

一客一碗

式正織部流って濃茶の回し飲みは絶対にしないって、本当ですか? とよく聞かれます。

本当です。当流では回し飲みは絶対にしません。一人一人個別にお茶を点てて供します。近頃ではコロナ禍と言う事も有り、感染症に気を配る様になっておりますが、当流ではずっと昔からそれを心掛けています。

「一座建立」の理念の下、一碗の茶を啜(すす)り合って仲間意識を養うよりも、各位を尊重し、独立峰を遇する如く茶を差し上げるのが当流のお持て成しです。お客様は大名や武将、一騎当千の侍達。各々それぞれに腹に一物のある者達です。自国の利益優先であり、存亡を賭けての同盟離反の探り合いの場です。そう易々と同化しません。

それに、大名・武将達には結構病気持ちが多かったのです。英雄色を好むと申します。加藤清正浅野幸長(よしなが)結城秀康前田利長黒田如水松平忠吉等は梅毒(=黴毒=瘡毒(そうどく))に侵されて命を落としました。英雄気取りで遊郭に通って女漁りをしたり、衆道に励む者も多かったのです。朝鮮出兵名護屋駐留中や彼の地で罹病した者も多く、梅毒は侍達に広がっていました。

梅毒はコロンブスアメリカから「輸入」し、ヨーロッパに瞬く間に広がりました。大航海時代の貿易発展で、東南アジアや中国に伝搬し、貿易の窓口だった長崎や博多などの港町の遊郭に広がりました。潜伏期間が長く、最初は3か月くらい、その後、発症と潜伏を繰り返し、最終的には10年以上潜伏しています。その潜伏期間の長さから、恐らく、今日のコロナ禍以上のスピードで蔓延したと思われます。徳川家康は家臣に遊郭の出入りを禁止しました。家康自身も遊女を近づける様な事はせず、氏素性のはっきりした者を側室にしており、薬作りにも熱を上げていました。不特定多数と性交をすると梅毒に罹ると言う知識は、当時でも知られていました。

結核竹中重治(半兵衛)や片桐且元ハンセン病や不衛生による下痢など、感染症は最も警戒すべきものの一つでした。

古田織部に現代の衛生知識がどれほど備わっていたか分かりませんが、とにかく、当流の「清め」の所作の手の数が、他流よりも断トツに多い事は論を待ちません。一回のお茶で2枚の袱紗を使い分けます。手巾が1枚、茶巾が2~4枚使います。茶巾を多く使用するお点前の時は、茶巾台というお皿を用意します。

清めの所作が多いので、他流よりもお点前に時間がかかります。お客様の中には、足が痺れて参ったと言う方もいらっしゃいます。けれど、最初から胡坐(あぐら)をかいても当流ではお咎め無しです。なにしろ武家茶。足が痺れては咄嗟の時に戦えないので、茶室でも胡坐はOKです。行住坐臥是戦。何時でも何処でも俊敏に反応するのが侍。厄介な性分の職業です。

 

風炉から、風炉と炉の使い分けへ

お茶の正月を迎えるに当たり、新春の正月を迎えるのと同じ様に、茶室の設えも模様替えをして新しくします。

茶室の模様替えは11月から4月までが「炉」、5月から10月までが風炉と決まっております。

けれども、その様に決まったのは後々のことでして、決まる以前は季節に関係なく風炉に釜を掛けて湯を沸かしました。禅寺発祥の茶の湯は、中国から僧侶が持って来た「風炉」と言う、火鉢や七輪の機能に似た、金属製の、持ち運び可能で便利な火の設備を使っていました。

長い間風炉の時代が続き、やがて部屋に1尺4寸(42.5cm)四方に畳を切り、小さな囲炉裏風に仕立てた炉が登場します。足利義政が建てた鹿苑寺の東求堂を、何時だったか調査した際に、同仁斎に炉を切った跡が発見された、と言う報道があったのを覚えております。

炉が登場してから、やがて侘茶が盛んになって来ると、次第に季節によって炉と風炉を使い分ける様になり、何時の間にか、秋冬は炉、春夏は風炉と使い分けるのが慣習になり、そして、それが固定されて行きました。

 

炉開き

夏場の茶室を覗くと、炉が畳の下に隠されていて、ちょっと見では何処にあるか分かりません。でも、よくよく見ると、1尺4寸(42,4㎝)四方の小さな畳が、畳の筋目に同化する様に嵌め込まれている箇所があります。そこが炉の畳です。立冬の頃、その小さな畳を上げて炉を出すことを炉開きと言います。炉開きして灰を整え、いよいよ秋冬のお点前が始まります。

どうして春夏が「風炉」で、秋冬が「炉」と使い分けるかと言いますと、夏は、少しでも涼しくするために、お客様から火を遠ざける位置に風炉を据えます。可動式の風炉は、その点とても便利です。亭主の座る点前座の左隅に風炉を据える様にします。そうすると、お客様から離して熱源を置くことが出来ます。

(本勝手の間取りですと、上座に向かって右側にお客様が座り、左側に亭主が座るように造られた茶室になりますので、点前座の左隅に風炉を置くのは、お客様から火が離れますので、具合がいいのです。)

炉は炭火の容量が大きいので部屋全体が温まります。炉を切る場所は、亭主が座る点前座とお客様の座る客畳の間にありますので(待庵のように極小の茶室は例外)、火がお客様に近くなります。寒い冬などは火の温もりがご馳走です。という訳で、火がお客様の傍になるように秋冬は炉でお持て成しをするのです。

 

炭手前

炉で茶の湯をする時は、炉に炭を熾(おこ)します。炭火熾しは難しくコツが要りますが、近頃では電熱器を使いますので、随分便利になりました。

炭組みには各流派でも独特のやり方があり、炭が確実に熾(お)きる様に、炭を組み上げた時の姿が美しい様に、火箸扱いや灰の扱い、炭手前の所作など様々に工夫されています。

ここでは失敗無く火が熾せる式正織部流のやり方の、炭組みの順序だけを述べてみたいと思います。所作・お香・その他については省略します。

炭にはそれぞれ名前がついています。順序に従って炭を炉の中に組み立てます。

炭手前を始める前に、予(あらかじ)め灰の中に種火を入れて置きます。炭手前に取り掛かる時、最初に灰の下に埋め込んだ種火を、火箸で掻き分けて表に出し、空気に晒します。

炭の組み方は色々ありますが、炭をどのように組み上げるにしても、空気が底面の横から入り、種火で熱せられて上昇気流が起り、新鮮な空気が絶えず流れる様にすれば、放って置いても火熾しは成功します。

下記は、当流で炉の時に使う炭の名前と長さです。風炉の場合も名前は同じですが、炭の長さが少し短くなります。(例えば風炉用胴炭は12cm、立輪炭は6㎝と言う具合です。また、炭組みの順序は風炉でも同じです。) 頭に振った番号は炭を組む順番です。

柄杓

炉のお点前になると使う柄杓も、風炉用から炉用に変わります。

炉用は、柄杓の合(ごう→お湯を入れる所)が、風炉で使っていた柄杓よりも少しだけ口径が大きくなります。柄杓の柄の先の切止め(柄を断ち切った所)も切り方が変わります。

風炉の時に使う柄杓の切り止めは身を斜めに削りますが、炉の時に使う柄杓の柄は皮を削る様に斜めに切ります。(身を削る→竹の内側の白くて柔らかい部分を斜めに削る。皮を削る→竹の表皮(艶があって堅い方)を斜めに削る。炉と風炉兼用の柄杓は、切止めが垂直になります。蓋置には竹、陶器、金属など材質に色々なものがありますが、もし、竹の蓋置ならば、身が肉厚のものになります。

炉縁

炉の縁ですが、他流では黒漆の縁(真塗り)を用いる時も有れば、侘びた風情を出す為に木地のままを使う場合もあります。当流では必ず漆塗りの縁を使います。茶席の趣向によっては蒔絵、螺鈿象嵌などの縁を使う場合もあります。炉縁ばかりでなく、長板や棚もの、台子(だいす)にしても、木地のままのお道具を使う事はありません。全て漆が塗られています。袋棚などは華やかな朱塗りです。

当流ではわび・さびに強いて拘(こだわ)りません。それと言うのも、書院で点てる事を旨にしておりますので、室内の雰囲気が草庵風では無いのです。床柱一つにしても、草庵なら数寄を凝らした丸柱や自然に近い樹木の姿を取り入れたりしますが、正式の書院の床の間は角材を用います。垂直の角柱・角材を使った梁と言う具合で、直角の線と面の、言うなれば四角四面の部屋作りです。一事が万事、そういう訳で、殊更にわび・さびに拘らないのです。

武家に相応しい茶を創始せよ、との秀吉の命令で織部が編み出した武家茶。利休から茶の湯を学んだ織部は、師から受け継いだ侘茶を脱皮して、如何にして武家らしい茶の湯にするか、かなり悩んだと思います。彼が辿り着いたのは、師・利休の極端に平等意識に裏打ちされた侘茶を排して、足利義政が開いた唐物道具による書院茶へ回帰し、当世風にアレンジしたものでした。

 

炉の無い書院

前置きでも触れました様に、炉が無かった大昔の茶の湯は、全て風炉で行われておりました。これが原形です。その後、書院にも炉が切られる様になりました。代表的なものに、

大徳寺龍光院(りょうこういん)にある小堀遠州作の密庵(みったん)席。

同じく大徳寺小堀遠州作・松平不昧再建の弧蓬庵(こほうあん)にある忘筌(ぼうせん)。

上田宗箇の和風堂・鎖の間「建渓(けんけい)」。

などがあります。

独立した庵(いおり)での茶会で無く、お城や御殿の一画の炉の無い部屋で茶の湯をする場合、移動可能な風炉を持ち込んでお茶を点てる様になります。こういう場所で茶湯をする時は、夏でも冬でも、風炉を持ち込んで茶を点てます。

他流では、冬の風炉使いはルール違反になります。「秋冬に風炉で茶を点てるなんてとんでもない、アレはお茶を知らない奴だ。非常識だ」と非難されそうですが、式正織部流では唐物茶の湯の時代に回帰している側面がありますので、冬の風炉点ては全く問題ありません。江戸城での正月賀の祝いでは、真台子(風炉点て)六天目の茶会を開いているくらいです。建物の構造上、或いは、大勢を部屋に入れての茶会の需要で、冬の風炉点ては大いに有りなのです。

ところが、すっかり秋冬は炉、春夏は風炉と言う常識が定着しているものですから、そういう社会通念に逆らって、冬の風炉点てと言う世間様で物議を巻き起こしそうな点前は、当流では遠慮して行わない様にしています。婆はそれをとても残念に思っております。弓箭台子点て(きゅうせんだいすだて)や天目茶碗を使っての真台子点てなどはいずれも風炉点てで、なかなか見ごたえのあるお点前なのですが、外部で茶会をする時は、春夏しかやりません。

 

殿様茶

お茶を戴く時、目の前にお茶が供されたら、隣の人との間に一旦お茶碗を置き、「お先に如何ですか?」と目顔で伺ってから自分の前に茶碗を戻して、「それではお先に」と挨拶をして頂く、という作法が他流では行われています。

式正織部流では茶碗を移動する所作はありません。お茶が供されたら、隣の人に「お先に」と黙って軽く会釈して、そのまま茶碗を取り上げ、亭主に礼をしてから頂きます。

というのも、亭主がそのお客様の為にお茶を点てて差し上げたのに、そのお茶を、他のお客様に譲るゼスチュアをすると言うのは、亭主に対して非常に失礼に当たる、と考えるからです。身近な例で言えば、お歳暮に頂いた品物を他所様に回すような行為に映る訳です。「儂の点てた茶が飲めぬと申すか!」と、殿様の逆鱗に触れかねません。

他流では、お互いに謙譲の美徳で譲り合い、和気藹々とした雰囲気の中でお茶を戴いています。日本的美風で大変結構な作法ですが、当流では、客と客との横の関係性よりも、亭主と客との縦の関係性が重視されます。これも支配者層の武士の意識と、町衆が商業圏の共同利益を守るという仲間内意識との差から来るものではないかと、愚考する次第です。

出入り口を低くして誰彼別なく頭を下げさせ、侍のアイデンティティの刀を取り上げ、横の繋がりを大切にするという、この様な侘茶に潜む平等意識に対抗して、秀吉は、武家に相応しい茶の湯を創始せよ、と織部に命じたのかも知れません。

 

 

162 利休と秀吉(3) 朝顔

利休の庭の朝顔の花が大変見事だと評判が立ちました。それを聞いた秀吉、是非とも見たいものだと思い、利休に朝顔を見たいと朝の茶事を所望します。家臣の話から、垣根一面に朝顔の花が咲いている様子を聞き、期待に胸を膨らまして訪ねましたが、残念ながら垣には一輪の花も咲いていませんでした。全ての花が摘み取られていたのです。

「?」これはどうした事か! 朝顔の花を見たいと申したのに、その花を全部刈り取るとは儂に逆らうつもりか! と秀吉は内心腹を立てた事でしょう。利休はそれに構わず秀吉を茶室へ誘(いざな)います。すると・・・

秀吉はあっと驚きました。床の間にたった一輪の花が活けてあったのです。

秀吉は「うむー、見事!」と利休の美意識の冴えに感心しました。

 

朝顔と言えば

ネットで検索してみると、上記のあさがおのエピソードからは利休の美意識への素晴らしさに感嘆の声が多く、これぞ侘び茶の花、美の極致と讃えられています。さすが利休、天才! 秀吉もシャッポを脱いだ、という訳です。中には、全く違った視点で捉えたものもあります。朝顔の垣に満開に咲く花の、花首すべてを取ったのは、秀吉が討ち取った兵達の首を暗示し、茶室の一輪は、討ち取った数多(あまた)の死者の上に生きているのがお前だ、と提示しているという意見です。これも一理あるかも知れません。けれど、婆は別の視方をしています。

それは「朝顔」を取り上げた有名な随筆「方丈記」に由来しています。

平家物語の冒頭の一節が、日本人の心に諸行無常を呼び覚まします。「沙羅双樹」と言えば「盛者必衰の理をあらわす」と直ぐ連想する様に、沙羅の花は無常の代名詞です。実は「朝顔の花」も、それと同じくらい無常の代名詞として使われています。

 

武将の読書

あの時代、結構武将達は本を読んでおり、或いは読まなくても素養として知識を持っていて、そういう話には通じています。

因みに、武将達が読んだ本と言うと、孫子呉子史記司馬法などの兵法書は勿論必読。治世に関わる本や身を正す為の論語中庸、大学などを含む四書五経貞観政要。温故知新を求めて日本の歴史書や軍記ものの吾妻鏡太平記平家物語などが有ります。更に加えて教養を積むための古典文学があります。意外と思われるかもしれませんが、彼等は公家や大名同士の付き合いの中で、連歌や和歌が詠めないと茶の湯と同様「仲間外れ」に成り兼ねませんでした。また戦場で死ぬにしても畳の上で亡くなるにしても、辞世の句を詠まねばならず、それらの素養が必要だったのです。いきなり討死した時は辞世を詠む暇はありませんが、大丈夫。彼等は出陣に望みそんな時に備えて、事前に辞世を詠んだりしておりました。そればかりか、死に様が見苦しくない様に、美々しく装い、兜に香を焚きしめたりして、死装束に意を凝らしたりしていたのです。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)是死の武士の嗜(たしな)みです。

彼等が素養として読んだのが、源氏物語古今集が定番テキストです。伊勢物語徒然草方丈記、さらには経典なども、素養の脇を固める本だったでしょう。

源氏物語はその後の文学に多大な影響を与え、そこから色々な物語や和歌が派生しております。文学の首根っことも言うべき要(かなめ)の本です。そこを押さえず、古今集だけで和歌作りに励もうとしても、心を置き忘れて技術的な面に走ってしまいがちになります。

 

古今伝授

古今伝授を受け継ぐ細川幽斎(藤孝)には、こんなエピソードがあります。

関ケ原の合戦の前、東軍側の細川家の居城・丹後田辺城(現京都府舞鶴市)が1万5千の西軍に取り囲まれてしましました。その時、主力は嫡男・忠興徳川家康に従って会津征伐に向かっていましたので、留守役・細川幽斎の手持ちの兵はわずか500。圧倒的な兵力差を縮めようもなく落城寸前になりました。ところが、攻め手の武将の中にも細川幽斎の弟子がかなり居て、攻めの切っ先が鈍っており、又、八条の宮智仁(ともひと)親王後陽成天皇も幽斎が亡くなってしまえば古今伝授が途絶えてしまう、と言う危機感から「あの者を死なせてはならぬ。助けよ」との勅命が下り、勅使を遣わして講和させ、幽斎を救ったのでした。和歌の力にはもの凄いものがあります。これは、幽斎を師匠とする武将をはじめ、その裾野に広がる兵などの歌詠みの人口が多かったと言う証でもあります。

 

方丈記

豊臣秀吉の辞世の

「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」

の辞世など最高傑作です。と思うと同時に、この辞世には「方丈記」の影響が色濃く読み取れます。

秀吉は貧民の出でしたが、深い教養を積んでいたと思われます。彼は細川幽歳から古典を学んでいた、と言われています。秀吉の事ですから、その他にも海内(かいだい)一の学者や文化人と交流していたのではないでしょうか。秀吉は「方丈記」を知っていた、と婆は思い込んでいます。方丈記に書かれている露と落ち、露と消える朝顔の露に、秀吉の辞世が見事に呼応しているのです。

婆は学校の先生から「古典文学の中でこれらの冒頭の出だしの段は必ず暗唱しなさい」と言われたものがあります。それは祇園精舎の鐘の声』『徒然なるままに』『春はあけぼの』『いずれのおん時にか』『ゆく河の流れは絶えずして』でした。試験に備えて必死に覚えましたが、齢80にもなるとほとんどうろ覚え。今、この項を書くに当たり、改めて昔の参考書を引っ張り出している所です。

 

方丈記

 一 序 

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶ うたかたは、かつ消え かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。

たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍(いらか)を争へたる、高き、いやしき、人の住まひは、世世を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀(まれ)なり。或いは去年(こぞ)焼けて今年作れり。或いは大家(おおいえ)(ほろ)びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中にわづかにひとりふたりなり。明日に死に、夕べに生きるヽならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来(きた)りて、何方へか去る。また 知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、主(あるじ)と栖(すみか)と、無常を争うさま、いはゞ あさがおの露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども 夕(ゆうべ)を待つ事なし。

(大意:流水とどまる事を知らず、常に変化しています。人の世も同じで、立派な都に御殿や庶民の家が何時もびっしり建っている様に見えても、中身を見ると、昔あった家が無くなったりしています。住む人も同じで、人がいっぱいいても、昔知っていた人が20人~30人も居たのに、今はその内のたったの一人か二人になってしまっています。

人が生まれ、人が死ぬ、何処から来て何処へ去っていくのか、私は知りません。この世は仮の宿。無常の世に何を思い煩い、何に喜びを見ようとするのか。言うなれば、朝顔の露と同じです。露が落ちて花が残ったとしても、朝、日が昇ると花は枯れてしまいます。或いは花がしぼんでしまっても露だけが残っています。とは言え、その露も夕方には消えてしまうのです。)

 

利休の朝顔

利休が凡庸の人で、朝顔が満開の垣根をそのまま残し、更に茶室に一輪を活けたなら、さほど秀吉にインパクトを与えなかったと思います。秀吉の心に何の引っ掛かりも無く、素直に「おヽ、見事じゃ」と叫んだでしょう。

けれども、利休は、一輪の朝顔に全ての視線を凝縮させてしまいました。そして、美しさへの感動以上の強烈な打撃を秀吉に与えてしまいました。余りにも一点に集中させてしまった為に、秀吉は床の間の花に利休の暗喩を見ました。

方丈記の「無常を争うさま、いはゞ あさがおの露に異ならず。」

「殿下の栄華は朝顔の露と同じでございます。やがて滅びましょう」

と。

利休ほどの人が「方丈記」を知らなかったとは言わせません。知った上での朝顔の花です。

「雪」と見て「御簾(みす)をかかげた」清少納言と同じ様に、「あさがお」と言えば、「方丈記」です。或いは、「源氏物語」の「朝顔」の巻でしょう。源氏物語の「朝顔」は、光源氏のナンパの話ですので、侘茶の茶室には不似合いです。となれば、茶室の朝顔が秀吉に示しているのは、方丈記朝顔です。

「ふむー、見事じゃ」の声は、無邪気な感動の声だったのか、それとも利休の美の冴えに兜を脱いぎ、「いや、参りました!」の意を込めて発した言葉だったのか、或いは、「おぬし、なかなかやるのう。儂に恐れげもなく滅びを予言するのか、その覚悟見事!」の「ふむー、見事じゃ!」なのか・・・
その時の秀吉の声の調子や顔の表情が読み取れないので、婆にはどう解釈して良いか迷いがあります。が、その後の利休と秀吉の関係性の変化を見ていると、腹に一物を含んだ毒気のある感嘆符がそこに付く様に思われて仕方ありません。人たらしの名優・秀吉は恐らく破顔一笑、満面笑みを湛えて、利休の侘びの美を理解した事をアピールするでしょう。そして、毒気を腹に収めて、後は沈黙・・・かな

 

 

余談  源氏物語朝顔

世界最古の長編恋愛小説「源氏物語」は全部で54帖あり、その内の20帖目に「朝顔」の巻があります。朝顔の姫君は桐壺帝の弟・桃園式部卿宮の姫です。つまり、光の君とは従妹(いとこ)に当たります。光源氏が若い頃から朝顔の姫君に心惹かれていましたが、姫君はプレイボーイの光の君を警戒し心を許しません。彼女は斎院を務めていたので、ずっと独身でした。

式部卿宮がお隠れになり、喪に服した朝顔の姫君は宿下がりをします。その時に、光源氏は萎(しお)れた朝顔の花を添えて、歌を贈ります。

  見しをりのつゆ忘られぬ朝顔の 花のさかりは過ぎやしぬらむ 

朝顔の姫君は

  秋はてて霧のまがきにむすぼほれ あるかなきかにうつる朝顔

と歌を返します。

(ずいよう超意訳:源氏「あなたと一緒になりたいとずっと待っていたのに、過ぎし年月は残酷です。あなたも年取ってしまったのでしょうか」 それに対して朝顔の姫君が「あなたの御推察の通り私は、秋も終わりの、霧の中の垣根に消え入りそうにして咲いている朝顔でございます。)

余計なお世話! 失礼しちゃうわと憤慨すべきところ、いとやんごとなき朝顔の姫君、幾歳月の流れに頷きながら、やんわりとお断りの歌を返します。私はずっと一人で生きて参ります。斎院の宮として・・・

光源氏は、ナンパすれば必ず成功したのに、唯一朝顔の姫君だけにはそれが通じませんでした。

 

 

余談  清少納言の「御簾をかかげてみる」

枕草子299段 又は280段 又は282段(参考にした本やネットで段の数え方が違うので、さて、どれが本当やら・・・でも、出だしの索引「雪のいと高う降りたるを」で探し出せます。)

『雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みこうし)まゐりて、炭櫃(すみびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらふに、少納言よ、香炉峰の雪いかならむと仰せらるれば、御格子あげさせて、御簾を高くあげたれば、笑わせ給う。」

これは、中宮様が清少納言に「香炉峰の雪はどのようなものでしょう」とお尋ねになったので、清少納言が御簾をかかげて庭の雪景色をお見せになりました、という話です。これには話の下敷きがあり、白居易の詩『香炉峰下新卜山居 草堂初成題偶東壁』という題で詠んだ詩に基づいています。その内容を、清少納言が機転を利かせて具体的に見せたもので、それを見た中宮様はお笑いになった、周りに居た女房達も、「あ、それなら知っているけど、ここで使うとは思いもしなかったわ」と感心し、清少納言の頭の良さに感嘆した、というお話です。

白居易の詩『香炉峰下新卜山居 草堂初成題偶東壁』については「ブログ№8 栄西  第一次渡宋」2020(R2).05.05 upで全文を取り上げております。

詩の内容は、占いをして香炉峰の麓に家を建てた、草堂が出来たので寝ながら窓の外を見た。遺愛寺の鐘が鳴っているのを枕をしながら耳をそばだてて聞いている。香炉峰の雪を、御簾をかかげて視た。匡盧(きょうろ)の地は隠棲の場所に丁度良い。何も長安だけが故郷でもあるまい、というものです。

 (ブログ№8栄西 第一次渡宋20(R2).05.05 up)をお探しの場合は、この頁の右欄にある「月別アーカイブ」欄から、当該年の2020(75)をクリックすると、2020年にupした全項目が表示されますので、そこから8番目の項目を選んで下さい)

 

 

余談  沙羅双樹

平家物語に出て来る沙羅双樹は、サラノキが2本並んで立っている様子を言います。或いは、根元から幹が二手に分かれた樹とも言われています。従って植物名としてはサラノキです。

サラノキはフタバガキ科で、樹高20~30mにもなる大木に成長し、インドのヒマラヤ山脈の麓からインド中西部にかけて分布します。群生しますので、純林をつくります。気候などの条件により日本では栽培は無理です。日本で沙羅(双樹)といわれている樹は、ナツツバキと言って、全く別物です。

花は非常に小さく、五裂の花弁を持ち、淡黄色で、粟(アワ)が吹いたように枝が見えなくなるほど樹木全体を覆う様に咲き、芳香を放ちます。材質は堅牢です。

 

 

余談  朝顔物語

朝顔物語は、江戸時代の天保年間に成立したお芝居で、文楽や歌舞伎、講談などで庶民におなじみのお話です。文楽・歌舞伎では「生写朝顔(しょううつしあさがおばなし)」という題名になっています。すれ違い恋愛物語の極致ですが、最後はめでたし めでたしで終わります。物語が江戸時代ですので、利休の朝顔には関係ありません。念のため。

 

 

余談  加賀千代女

朝顔の俳句で有名なもの

あさがおや つるべ取られて もらい水   加賀千代女

この句には千代女の朝顔への優しい心遣いが感じられて婆の好きな俳句の一つです。

これも江戸時代の俳句なので、利休には縁がありません。残念

 

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

源氏物語 瀬戸内寂聴訳」 「源氏物語 秋山虔著」 「古典新訳シリーズ 枕草子 簗瀬一雄監修/榊原邦彦著」 「古典新訳シリーズ 方丈記(全)  簗瀬一雄監修/野崎典子著」  ネット上の情報で  「Wikipedia 朝顔(源氏物語)」        [源氏物語]朝顔の姫君は光源氏を拒んだ唯一の人 一万年堂ライフ 常田正代(ときだまさよ)」  「世界大百科事典 平凡社」 

「なぜ利休は、秀吉が心待ちにした「庭の朝顔」をすべて摘み取ったのか 末永幸歩」 「6月の法話集 ~利休と一輪の朝顔」龍昌寺」 「利休の死」野澤道生」 「花のお話その6 千利休豊臣秀吉一輪の朝顔」 「戦国武将の愛読書 宇宙歴史自然研究機構」 「コトバンク」 「地域の出している情報」 「観光案内パンフレッド」 「植物関係の情報」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

 

 

161 利休と秀吉(2) 対立する美意識

昔、黄金の茶室を見ました。MOA美術館で・・・

とても綺麗でした。見た印象は、思ったより渋くて落ち着いた感じがしました。事前の予想では、薄っぺらなキンキラキンの成金趣味かと想像していました。ところが、どうしてどうして、光の威厳に圧倒されました。光と影が反射し合って陰影が複雑で、それが光の渋さを醸し出し、不思議な空間を作っていました。燭台を灯(とも)して、揺らぐ光に浮かんだならば、どんなにか幻想的かと、しばらく見入ってしまいました。

この中に座ってお茶を点てたら、自分の姿が壁に写るのではないかと想像してしまいます。恐らく鏡に対坐している様な気分になり、思わず身を正してしまいそうです。光の世界は弥陀の清浄の世界。華美を越えて美しいと、しばし呆然としていました。

この美しさの中で茶を点てる、それも有りだと思いました。美しさは「わび」「さび」に一極化した世界ではありません。「わび」「さび」は美の一つ、One of themです。

 

侘びの美

「わび・さび」の美は、派手な色も装飾的な形も、それらの余計なものを削(そ)ぎ落とした美を主張しています。全く光りません。静かで穏やか、自然の色を重んじ、余計な加飾は無く、簡素で、古びて錆びた落ち着きのある風景を善美とする世界です。

村田珠光の項で「おようのあま」を取り上げましたが、その絵を見ると、躙(にじ)り口もなく、開けっ放しの押し入れだか押し板の上だかに、無造作に置かれた釜と茶道具があります。茶の湯はそれで充分出来ます。

それを真似て、財力を並外れて持つ者が、ことさら田舎めいて茶室を建造し、素朴さを演出し、千貫文で買った「わび」の茶碗に、千貫文の茶入れを合わせて、「わび」でございます、「さび」でございますと言ったって、貧乏草庵に見立てた似非(えせ)わびでしかありません。

わびしいとは、貧しく心細く見すぼらしい事。侘びの美とは、突き詰めて言えば、一切の虚飾を捨て去った果ての凛とした美しさに尽きます。

 

侘びの裏にあるもの

人は、欲で生きています。大小軽重様々ある物欲、性欲、食欲、名誉欲、自己顕示欲などを脱ぎ捨てて、最後に残る生存欲すら諦観の域に達してしまうと、そこに在るのは「死」の世界に外なりません。利休の追求した「わび」は、究極のところ冥界の美なのです。

利休は、床の間の前で掛け物を拝見する時、扇子を膝前に置き、拝礼してから鑑賞する様に作法を定めました。扇子を置くのは、結界との間に一線を画すという意味があります。結界、とは何? 現世とあの世の境界線です。床の間は侵入してはならない結界の先、すなわち冥界なのです。

式正織部流では、この結界の概念がありません。従って、床の前に座って礼をして拝見し鑑賞しますが、不入の領域と一線を画す為に扇子を置く事はしません。

死亡率37.7%の職業の武士が、何を今更「死を想起せよ」と、死の安全圏に居る町人達から垂示されなければならない? 全く片腹痛い説教じゃ! 

  (参照:ブログ№136 武士の実像 生死報告書  2022(R4).02.19  up )

秀吉は、陰鬱な雰囲気を持つ黒茶碗を嫌っていました。黒い色に抹茶の緑はとても映えて美しいのですが、その黒い世界を恐れていました。その為、秀吉は、利休の一の弟子・山上宗二を殺してしまいます。黒楽茶碗を使ったが為に・・・

織部よ、武士に相応しい茶の湯を創れ」と秀吉は古田織部に命じます。

 

荘厳の美

ツタンカーメンの財宝、トプカプ宮殿の宝物、ロココ建築、金色の仏像、金閣寺、金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)、大聖堂、クリムトの絵等々これらを成金趣味と言う人はいません。黄金の美は永遠です。

秀吉は、自分の財力で黄金の茶室を建て、誇らかに最善の美を以って天皇を持て成そうとしました。どうだ凄いだろうと天皇の前で自慢し、そういう晴れがましい自分を見せてご満悦の秀吉の無邪気さが、人間臭くて可愛らしいです。

もし、金の茶室を成金趣味と言うならば、それは、出自に対する偏見でしかない、と思います。

仮に秀吉が佐々木道誉の息子であったならば、さもありなんと多くの人が納得してしまうでしょう。このように評価と言うものは相手の状況によって見方が変わってしまいます。出自やら性別やら評価を下す側にヘイト的な感情があれば、その心に左右されて、正当に評価されるべきものが歪(ゆが)められてしまう恐れがあります。

荘厳の美は、もっと綺麗にしよう、もっと美しく飾ろうと、最高の美を求めて色や形の装飾を加えて行くことにあります。加飾の美です。おおよそ美や芸術は加飾の領域のものです。それに対して、侘びの美は減飾に有ります。無駄な物を削ぎ落とした本質の美に迫るものです。

 

待庵(たいあん)

待庵は、山崎合戦で明智光秀に勝利した秀吉が、山崎の天王山に城を築いた時に、千利休に命じて建てさせた茶室です。秀吉は大坂城に移るまで山崎城を本拠地としていました。

待庵の茶席はたった二畳。建物全体で四畳半の切妻造りで杮葺(こけらぶ)きです。

室床(むろどこ)と言って床の間の柱を土壁の中に塗り込んで四隅を丸くし、角を隠して部屋を広く見せる工夫がされています。又、その塗り壁も地塗りのままで上塗りが無く、すき込んだ藁(わら)が食(は)み出しており、田舎家造りになっております。二つの下地窓と一つの連子窓(れんじまど)を設けて室内の暗さを緩和しており、客座の頭上は切妻屋根そのまま剥き出しの斜面になっていますので、高く感じられます。如何にもこれぞ侘びの茶室という風情です。

待庵は国宝です。現在、待庵は京都府大山崎町の妙喜庵にあります。

なお、国宝の茶室は待庵の外に、如庵(じょあん)密庵(みったん)があります。

 

茶の湯とは・・・

茶の湯とはただ湯を沸かし、茶を点てて のむばかりなることと知るべし」

                                                                                                                千利休

茶席で重要なものと言えば、釜と茶碗と茶入と思われていますが、それらは脇役。それらを重要視すると、得てしてお道具自慢や来歴自慢、お値段自慢に陥り勝ちになり、「侘茶の本道」から外れた雑念になってしまいます。そうなったら、唐物・名物蒐集に奔(はし)ったかつての茶湯になってしまい、利休の目指す侘茶とは違ってしまいます。

利休は茶の湯を「物」では無く「心」を大切にする方向に舵を切りました。茶の湯の場に相応しい舞台装置をどうしたら良いか、茶室の環境や、お道具類の置き合わせ、持ち出しや点前の振る舞いの合理性、所作の美しさなど、お茶をのむ迄の一連の動きを磨き上げ、茶道としての完成を目指しました。そうした不断の努力を隠して、一見何気なく供されるお茶との一期一会の美味しさ、そこに侘茶の完成を目指したと、婆は推察しています。

正に禅語の「喫茶去(きっちゃこ/きっさこ)(=お茶をのんでいきなさい)」です。

 

利休の侘茶は真のお持て成しか?

聞くところによれば、当時にしては千利休は並外れた大男だったとか。利休が着用した甲冑の大きさから、背丈が180㎝くらいだったと伝わっています。利休が亭主の座に座れば、対する客はかなりの威圧感を受けたでしょう。待庵の様に狭小の茶室ならばなおさらです。1対1のひざ詰め談判のような格好になります。親密度はいや増すでしょうが、婆ならば息が詰まってしまいそうです。

猫は狭い所が好きです。箱や袋に直ぐ入りたがります。身の回りが壁で囲まれていると、外敵から防禦されている様な感じがして、安心するのでしょう。人も同じかも知れません。狭い部屋は安心感を呼ぶのかも知れません。それで、茶室は狭いのでしょう。けれど婆は、そこに他人が入って来ると、パーソナルスペースが破られてしまい、途端に落ち着きを無くし、居ても立ってもいられなくなってしまうのです。出来るならば、空間に緩みが欲しいです。

部屋の光の絶妙な演出や外部の風の取り込み具合、田舎家が醸し出す素朴な寛ぎ、それらは皆茶の湯の為にあり、人の為ではない様な気がします。何故なら、躙り口は低く、待庵の茶道口の高さがおよそ1.4m。反バリアフリーの構造物に、「おもてなし」精神がそこにあるとは思えません。小心者の婆から見ると、檻に捕えた獲物を狭い空間に閉じ込めて、主の想いのままに料理しようとする、恐ろしい装置に見えてしまいます。

はじめ、黒田官兵衛茶の湯に興味を持っていなかったそうです。ところが秀吉が、官兵衛を茶の湯に誘い、「のう、官兵衛。茶室なら密儀をしても怪しまれまい」と言ったところ、茶の湯の活用術を知り、以来、官兵衛は茶の湯に嵌(はま)ったそうです。

大坂の黒田屋敷には茶室・密庵席(小堀遠州作)が有りましたが、官兵衛が亡くなった後、息子の長政が、菩提寺龍光院に移築しました。足が悪かった如水の茶室・密庵席には躙り口がありません。貴人口(きにんぐち)と言って、襖を開けて入る様になっています。 

 

肖像画から見る利休像

① 長谷川等伯

長谷川等伯が描いた利休の肖像画(不審庵所蔵・絹本著色・重要文化財)は、頭巾をかぶり、意志の強そうな大きな口を横真一文字に結んで、慧眼をやや細めにして端座しております。利休像と言えば大概この絵が引用されます。この絵は、利休没後に楽家が利休を偲んで等伯に頼んで描かせたもので、遺像です。生前に描いたものではありません。

② 長谷川等伯

もう一つ、長谷川等伯の手になる千利休像があります。それは利休の生前に描かれたもので、同じく重要文化財になっており、正木美術館所蔵のものです。その絵は、眼光鋭く、人を睨み付ける様な気迫に満ち、それが利休と知らなければ、名の有る部将の剃髪した姿と見間違えそうです。こんな人の眼光を受けたら縮み上がってしまいそうです。

③ 狩野永徳

更にもう一枚、狩野永徳の描いた利休像が有ります。赤い頭巾をかぶって脇息(きょうそく)に持たれている絵です。上記二枚に比べれば穏やかな顔つきで、やや憂(うれ)いを含んでいるお顔ですが、全体的には寛(くつろ)いでいる様子です。右手に扇子を持っておりません。扇子を持つと、自然とアクティブな意志がそこに籠りますので、何かに身構えている様に見えますが、永徳の絵はそれが無いので、穏やかです。左手は掌が開いて脇息の上に伏せ置いており、脱力している感があります。茶人の宗匠としての姿は、永徳の絵の方に軍配を上げたいと婆は思いますが、どうでしょうか。それとも、上記二枚の等伯の絵は、利休の肖像画を借りて、無意識のうちに描き手・等伯自身の人格の投影がされているのかもと、深読みしてしまいます。等伯もかなりの自信家で特異の人でしたから。

利休を知ろうとすればするほど、利休の多面性が露(あらわ)れて来ます。茶聖という一言では片付けられないものがあります。商人の顔、フィクサーの顔、自信家の顔、教祖の顔、武人の顔、求道の顔・・・

 

 

余談  喫茶去(きっさこ/きっちゃこ)

禅語の「喫茶去」は「お茶を飲んで行きなさい」という意味です。それで、茶席の床に「喫茶去」の掛け軸がしばしば掛けられます。そのお軸を拝見すると、なんだかゆっくりと寛(くつろ)いでお茶を戴きたくなるのですが・・・

「去」は「去(さ)る」です。喫茶去は「茶を飲んで去れ」です。喫茶居の間違いではないのか? と思うのですが、これは唐の禅僧・趙州(じょうしゅう)和尚が掛けた禅問答。座禅を組んだことも無い婆には、答えが分かりません。なんだか、「お前はまだまだ修行が足らん。お茶でも飲んでさっさと帰れ!」と、相手にされないで追い払われているシーンにも思えてきてしまいます。それでもお茶が飲めるだけ、まだましかなと、思ったりもします。

趙州和尚は、初めて来た雲水に対しても、以前に訪ねてきた雲水に対しても、更には、同じ寺の僧に対しても、「喫茶去」と言っています。さて、なんでだろう?

 

余談  杮(こけら)(ふ)

杮葺きは薄板を何枚もずらしながら重ね合わせて屋根を葺く工法です。

※ 「こけら」と果物の「かき」の字が間違いやすいので注意が必要です。活字だと見分けがつかないのですが、手書きで書くと、杮(こけら)は、右辺の4画目の縦棒が上から下まで貫いています。柿(かき)の右辺は市(し・いち)で、右辺 1画目がチョン「`」です。

 

 

余談  下地窓(したじまど)・連子窓(れんじまど)

土壁を作る時、先ず竹などを材料にしてこまい縄(細い藁縄(わらなわ))で格子状に粗く編み、それから、スサ(藁や麻などの切片)を練り込んだ土をその上から塗ります。これが下地になる基礎の壁です。下地窓と言うのは、基礎の壁の状態のまま開口部を造って窓にしたものです。従って中の骨組みの竹やこまい縄などが剥き出しになっています。

連子窓と言うのは、窓の開口部に細い竹や木の棒などを縦に並べて作ったものです。

 

 

余談  如庵(じょあん)

如庵は織田有楽斎(おだ うらくさい・信長弟)が建てた茶室で国宝です。初め、建仁寺塔頭正伝院(しょうでんいん)に立てられていましたが、明治になってから持ち主が幾度か変わり、京都から東京→神奈川県大磯→愛知県犬山と移築されてきました。

如庵は杮葺き入母屋造りで、入り口は開放的な土間になっております。土間の入り口に立つと正面に障子2枚立の入り口があり、そこは従者席への入り口になります。右手側に躙り口が有り、客人はその躙り口から入る様になっています。つまり、従者用入り口と客人用の入り口は90度の位置関係にあります。

茶席は二畳半台目、水屋は三畳です。茶席は二畳半台目ですが、茶道口から点前座に入る所に三角形の板敷(鱗板)があり、それによって遠近法が感じられ、実際より広く見えます。窓は連子窓、有楽窓(うらくまど(立格子の縦棒が密に詰まったもの。)で、室内の光の具合を工夫した上で、突き上げ窓と言って屋根に天窓があって、スポットライト風に茶室に光が入る様になっています。腰壁一面に暦が張ってあり、遊び心満点です。

(※ 台目(だいめ)、台目畳(だいめいだたみ)とは、一畳の3/4の広さの畳の事を言います。)

 

 

余談  密庵席 (みったんせき)/密庵(みったん)

密庵席は、京都にある臨済宗大徳寺塔頭龍光院(りょうこういん)に有ります。

龍光院は、黒田長政が父の黒田孝高(くろだ よしたか)(黒田官兵衛=如水)の菩提を弔う為に、長政が開基となって建立した寺です。開山は春屋宗園(しゅんおく そうえん)ですが、間もなく亡くなった為に江月宗玩(こうげつ そうがん)が開山を引き継ぎました。江月宗玩は、天下三宗匠と言われた茶人・津田宗及(つだ そうぎゅう)の息子です。

龍光院を建立の時、長政は大阪にあった孝高(=如水)の屋敷から書院と茶室(小堀遠州作)などを龍光院に移築しました。

密庵は書院の中の茶室で、独立した建物ではないので、密庵席と呼ばれております。

密庵席は四畳半台目の茶室です。密庵席は広縁から上がり、襖を開けて入る様になります(貴人口)。又、密庵席は建物内部の一隅にあるので、席の陰側には10畳、8畳。6畳と畳敷きの部屋が続いており、場合によっては4枚障子立の隣室・10畳の部屋から入る事も出来る様になっています。

席内には炉が1つ、床が二か所あります。一つは本床で、いわゆる茶室の床の間です。一つは密庵床と呼ばれるものです。密庵床は奥行きが1/4間で、密庵咸傑(みったん かんけつ)禅師の墨蹟(国宝)が掛けられています。実は、密庵席の茶室は、この密庵禅師の墨蹟を掛ける為に造られた茶室なのです。

龍光院は国宝・曜変天目茶碗を所持しています。

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク」「角川書店・世界美術全集」「NHK新日本風土記アーカイブス妙喜庵」「第一回妙喜庵待庵 茶室の窓-WINDOW RESEARCH INSTITUTE 三井嶺」「日日日陰新聞(nichi nichi hikage shinbun)建築のに本展その3・待庵」「もう一歩深く知るデザインのはなしvol.6茶室×光-インテリア情報サイト」「日本建築史 密庵(みったん) 庄司和樹」その他、美術関係、お茶関係、建築関係や、地域の出している情報」「観光案内パンフレッド」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

 

160 利休と秀吉(1) 茶室のサイズ

秀吉が関白太政大臣になり、九州が平定され、平和が訪れました。

鎌倉時代から室町時代応仁の乱を経て戦国時代と、戦に次ぐ戦でおよそ400年間戦い続けた世も鎮まり、派手好きの秀吉の気風そのままに、安土桃山文化が花開きました。

安土桃山文化は信長・秀吉が開いた時代だけの文化では無く、例えば茶の湯にしても、鎌倉時代の明庵栄西(みょうあん えいさい)の上に室町時代北山文化が積み重なり、バサラ、闘茶、淋汗(りんかん)茶湯などの紆余曲折(うよきょくせつ)を経て次第に侘茶に収束して行く、と言う道を辿(たど)って、多様な時代の積み重ねの上に千利休の侘茶が生まれております。

この様に、およそ文化と言うものは、ポッと出の気泡の様な孤立したものでは無く、幾つもの時代の層に根を張りながら、その時代時代の栄養を吸収して育ちます。そして、時を得て花を咲かせます。茶の湯でも同じで、宗教や文学や美術・工芸、更には時代の気風などを練り込んだ地層の上に成り立っているのです。

利休の「常に工夫をしなさい」の言葉も、連歌の発想から来ています。前の人の詠んだ句をそのままオウム返しに詠むのではなく、前の人の句を踏まえながら自分なりの工夫をして、新しい発想で句を詠む。それでないと、百句詠んでも千句詠んでも全く面白味のない句の連続になってしまい、連歌の体を成さなくなってしまいます。

「工夫しなさい」「真似するな」「革新せよ」その発想は、連歌では前詠者の繰り返しを避けよ、と言うルールそのものに外なりません。また、そうやって工夫し、意を尽くし、連歌に参加する座の全ての人達が、最善の連句を練り上げて行く作業を、一座建立(いちざこんりゅう)と言い、利休の唱える茶席の「一座建立」も淵源(えんげん)はそこから来ています。

「一座建立」の言葉は利休が「言い出しっぺ」ではありません。それは、能阿弥、心敬、宗祇、三条西実隆、里村紹巴、辻玄哉(つじげんさい)武野紹鴎、細川幽歳、明智光秀みな茶人にして連歌に長(た)けた人達が心掛けたモットーなのです。

利休の弟子で新しい流派を創始した人は何人もいます。その中で、師匠のやり方を突出して破壊したのが古田織部です。その意味で、古田織部は利休の教えを守った一の弟子、とも言えます。

(参考:ブログ№76 室町文化3 婆娑羅(バサラ))   2021(R3).01.05  up

(参考:ブログ№77 室町文化4 闘茶)                    2021(R3).01.10  up

(参考:ブログ№82  室町文化(9)  東山御物    2021(R3).02.04  up

(参考:ブログ№83  室町文化(10) 連歌     2021(R3).02.07  up

(参考:ブログ№106 信長、茶の湯御政道    2021(R3).06.30  up

(上記ブログ№をお探しの場合は、この頁の右欄にある「月別アーカイブ」欄から、当該年月の「2021(54)」をクリックすると、2021年にupした全項目が表示されますので、そこからお望みの項目を選んで下さい)

 

侘びの茶室にて

何時だったか昔、織部忌の時に、幾つかの茶室を備えた施設をお借りして、織部桔梗会が大寄せ茶会を催したことがありました。広間や小間などある中で、婆は草庵の茶室の係になり、そこでお運びさんをする事になりました。

その草庵の茶室は本格的な「侘び」仕様の茶室でした。婆はお運びさんとして、仲間のお運びさん達と組んで陰点(かげだて)のお茶をお客様に運んでおりました。

陰点てと言うのは、別室や水屋(台所)で点てるお茶の事を言います。本来ならば亭主がお客様の前で点てたお茶をお出しするのですが、それは正客(しょうきゃく)様・次客様に対してだけです。他のお客様に対しては別室で点てたお茶を差し上げます。

で、何回か往復して運んでいる内に、注意力が散漫になり、茶道口から入る時、頭を低くすることを忘れ、鴨居にこっぴどく頭をぶつけてしまいました。退出する時もぶつけました。往復ビンタの様なものです。そして、二席目、三席目と進む内にしばらく後でもう一回、ぶつけてしまいました。なんてこった!

 

書院の茶

式正織部流の茶の湯は書院で点てるのを旨としています。

書院は草庵の茶室より鴨居は高く,躙(にじ)り口がありません。

お茶を供する側の亭主初め半東(はんとう)やお運びさん達のスタッフは、水屋→(控えの間)→茶席という動線で動きます。控えの間と言うのが無い場合も多く、その時は、茶席から出入口を通して水屋が丸見えにならない様に、屏風などで「楽屋裏」を隠して小さな控えの空間を作ります。水屋と茶席を隔てている障子や襖(ふすま)は背丈が1間で、襖1枚立て、2枚立、3枚立、4枚立と部屋の規模によって色々あり、その一つを開いて水屋との出入り口にします。

亭主と半東(はんとう)の二人が最初に茶席に入る時、敷居の手前で正座してご挨拶しますが、それ以降は立ったままお道具の持ち出しや陰点てのお運びをします。従って、鴨居にぶつからない様に身を屈(かが)めたり頭を下げたりする必要がありません。

お客様が大寄せ茶会で庭から入る場合は、中待合も躙り口も何もないので、順番待ちの行列を作って縁側の前に並び、迎え付けの人に導かれて、沓(くつ)脱ぎ石で履物を脱いで縁側に上がりました。

けれども、大概は大玄関から上がって、廊下伝いに茶席が設けられている部屋へ行きます。お客様は廊下から茶席に入ったり、一旦次の間(中待合の代わり)に入ってから茶席入りします。その時、入り口で正座してご挨拶をします。立ち上がって普通に敷居を跨ぎ、茶席に入る様になります。
このようなやり方で席に入りますので、婆は部屋のサイズなどまったく気にしない所作にすっかり慣れていたのです。

 

頭を下げる・・・

頭を高くしたままの所作を、額をぶつけてみて初めて、利休さんに注意された様な気がしました。「頭が高い!頭を下げなさい!」

それにしても、何故利休さんは茶室の作りをわざわざ小さくして、物理的に、或いは強制的に誰にでも頭を下げさせたかったのでしよう。そうまでして頭を下げさせたかった理由は何? 頭を低くする事で「互いに敬う」を形にするならば、挨拶のお辞儀の時に、茶会でお会いできる喜びと、ご来駕(らいが)頂けたお客様への感謝、そして、お客側はお招きを頂いた感謝を、黙ったまま心を込めて互いに丁寧に礼をし合うだけで十分ではないのか、と思うのですが・・・勿論ご挨拶の言葉を添えるのも有ですが・・・

頭を下げない傲岸不遜(ごうがんふそん)の輩(やから)が居て、利休はさんはそれが腹に据えかねて、物理的に狭い入り口を作ったのかも、とも邪推してしまいます。いやいや、目的はそれでは無くて、狭い密室で向き合って、いわば秘密基地の様な親密感を演出する為に、部屋も出入り口もスモールサイズにしたのかもしれません。秘密、時には謀略の場として・・・

もっと勘繰れば、利休さんは身長180cm、秀吉さんは身長140cmと言われておりますので、利休さんは秀吉さんに忖度して出入り口を小さくしたのではないかと・・・秀吉さんは小男なので大して頭を下げずにフリーパス。利休さんは必然的に頭を下げなければならない造りにしたのかも知れません。

お城の格天井(ごうてんじょう)の部屋で暮らしていた秀吉さんは、茶室でお稽古した時に、瘤(こぶ)タンを作ったのでしょうか。気になります。

武家に相応しい茶の湯を創始せよ」と、秀吉は古田織部に命じております。

 

 

余談  半東(はんとう)

亭主を補佐するのが「半東」と言う役割の人です。

古来から日本では「東」を重んじ、重要なものに「東」と言う名を冠してきました。

例えば「東宮(=皇太子)」や「東司(とうす)(=トイレ)」などです。お相撲でも「東・西」と東が先に来ています。半東は重要な役割の半分と言う意味です。亭主の片腕です。

半東は、亭主の後ろに目立たぬように控え、常に気配りをして、円滑にお茶が進行して行くようにします。何か事があればそれをカバーするのも半東です。お運びさんを差配するのも半東の役割です。歌舞伎で言えば「後見(こうけん)」に匹敵します。

昔、中国に「天子南面す」という言葉がありました。

天子様は南を向く、と言う意味で、宮殿の正面は南を向き、玉座も南に向く様に据えられました。中国の故宮は南向き、皇帝玉座も南向き、京都の街も南北と東西の碁盤の目で、京都御所も南向きです。

天子様は太陽の光を浴びる輝かしい存在であり、南に向けて立つと言う事は、頭上後方に北極星を戴くことになります。北極星は天にあって不動であり、満点の星を従えております。地上の支配者として君臨するには誠にもってこいの象徴的な位置です。

天子が南面すれば、左手が東を向きます。東は日出る方向です。天子様を補佐する最も重要な大臣は左大臣です。右大臣よりも左大臣の方が位は上です。

歴史的に中国文化の影響を受けたアジアの国々では、左高右低のこの考えが受け入れられていますが、欧米では左右の地位の高さが逆になり、右高左低と言われております。国際会議などでテーブルに着く序列や写真撮影などの時の並びなど、結構事務方は苦労する、と聞いております。

 

 

 

159 九州平定

昔、山下清と言う貼り絵を得意とする画家がおりました。その技は息を飲むほど精緻。色彩は美しく、婆は彼の絵が大好きでした。その彼が口癖にしていた言葉があります。それは「兵隊の位で言えば・・・」です。彼は、相手が偉いか、偉くないかを兵隊の位で判断していた様です。勿論、彼は相手が「大将」でも「二等兵」でも意に介さない人でしたが、この「兵隊の位で言えば」が小さなブームになった事があります。

武家社会は、この「兵隊の位」が重要な意味を持っています。それは、兵隊の位が表すピラミッド型の階層構造(ヒエラルキー)が、体制維持の根幹を成しているからです。それを崩す事は支配体制を壊す事です。キリスト教では神の前に人は皆平等であると説き、侘茶は貴賤別なく躙(にじ)り口で頭を下げさせ武士から刀を取り上げます。侘茶は武家の力の否定から始まります。

 

足利義昭の妄想

室町幕府第15代将軍・足利義昭は京都を追われてからも、全国の大名に信長打倒の御内書を発し、信長を悩ませ続けました。彼は、尾張の田舎大名の風下に立つなど誇りが許さず、ましてや本能寺の変後、何処の馬の骨とも分からぬ秀吉など「目通り叶わぬ、下がり居ろう!」の相手でした。足利義昭は将軍職を辞職もしていなければ、罷免もされておらず、現役の征夷大将軍の誇りがありました。

1585(天正13)年、義昭は毛利氏の庇護の下、備後国(とも)の浦で小さいながら幕府を開いていました。彼は、島津義久を九州の太守に任命して、義昭が京都へ上洛する時には余を手助けせよと命じ、更に大友を攻め滅ぼせと命じました。何故なら、毛利を従えて上洛するには、毛利の背後を脅(おびや)かす大友氏を排除する必要があったからです。

島津義久は、以前から持っていた九州統一の野望を実現すべく征夷大将軍足利義昭の命令という大義名分を得て、大友宗麟(おおとも そうりん)を脅かし始めました。

 

国分案(くにわけあん)

その頃、九州は群雄が割拠(かっきょ)しておりました。中でも大友氏は豊前・豊後・筑前筑後肥前・肥後の 6ヵ国を領有し、九州の北部一帯に一大勢力を誇っていました。が、1578年(天正6)年大友宗麟島津義久日向を巡って戦い(「耳川の戦い」「高城川の戦い」)、大友氏が惨敗して以降衰退し、大友氏の勢力圏は島津氏の草刈り場になっていきました。(※ 「耳川の戦い」「高城川の戦い」は、ブログ№158の「キリシタン(2)仏教徒との衝突」 2022(R4).09.19 up  を参照の事)

秀吉は、九州の各地で繰り広げられている島津と大友の衝突を止めようと

1585(天正13.10.02)、島津氏と大友氏に「九州停戦令」を発します。が、島津は成り上がり者の秀吉など関白とは認めないと公然と表明し、これを無視、大友領を侵犯して行きます。

1586(天正14.03.07)、秀吉は、弁明の為に大阪に来た島津氏の使者・鎌田政近に、侵略して得た土地の殆どを返す国分案を提示します。その国分案とは次のようなものでした。

  1. 島津氏本領の薩摩・大隅・日向半国は島津氏に安堵。 
  2. 肥後半国・豊前半国・筑後を大友氏に返還。 
  3. 肥前を毛利氏に与える。 
  4. 筑前を秀吉直轄領にする。

 

秀吉、国分令執行を決意

秀吉の提示した国分案は、毛利輝元大友宗麟も受け入れましたが、島津は反発します。九州の戦況の激化を見て、秀吉は国分案の執行を決意します。

それには先ず島津に、武力で占領した土地を放棄させなければなりません。島津が大人しく、ハイそうですかと従う訳が無いので、1586(天正14.04)年に、毛利輝元に人員・城郭の増強、兵糧の準備などの戦支度の指示を出します。島津が抵抗して毛利の「強制執行」に島津が従わない場合に対処できるように、1586(天正14.07)年に、四国勢に出陣を命じます。土佐の長曾我部元親・信親父子、讃岐の十河存保(そごう まさやす)(=三好長慶の甥・三好実休の次男)、高松城主・仙谷秀久を先遣隊として大友氏に加勢させます。その時、秀吉は四国勢3人の将に、相手の島津軍は野戦に強い故、決して城を出て戦ってはならぬと釘を刺し、豊臣軍本隊が到達するまで籠城戦で持ち堪(こた)えよ、と指示しました。

 

島津軍、緒戦は破竹の勢い

1586(天正14.06.18)、島津当主・島津義久の本隊が鹿児島進発し、7月2日(旧暦)に肥後八代に到着すると早速に肥前勝尾城肥前鷹取城を攻撃して陥落させました。

島津軍は島津義久を総大将に、義弘、家久、歳久、忠長と島津一門の諸将、各所で大友方の諸城を陥落させて行きます。落城、降伏、開城などなど大友側には良い知らせが無ないまま、じり貧の状態に陥りますが、秀吉が大友宗麟・義統(よしむね)父子と立花宗茂に書状を送って黒田孝高(くろだ よしたか(=官兵衛))・宮城豊盛らの出陣を伝えると、少しは元気が出て来て、更に、豊臣軍の先遣隊諸将が九州に入ると、形勢が次第に逆転して行きます。

 

秀吉のマウンティングの闘い

秀吉には九州出兵する前にすることがありました。それは1584(天正12)年に起きた小牧長久手の戦い後の、徳川家康との関係修復でした。

1586(天正14)年、秀吉は妹の旭姫徳川家康正室として送り込みます。更に同年、生母の大政所を人質として家康へ差し出し、代わりに10月27日に家康を大坂城に呼び出して謁見、臣下の礼を取らせ、諸大名の前で臣従させます。

同年旧暦9月9日、朝廷から豊臣の姓を賜り、更に同年の同じく12月25日太政大臣に登り、官位は従一位・関白太政大臣になりました。

こうなると従三位権大納言征夷大将軍足利義昭は、秀吉に位負けしてしまいます。あの秀吉が、源姓平姓と同等の朝廷から賜った豊臣姓になりました。最高位の公卿にして武人の秀吉自らが、国分令を仕置する為に大軍を率いて島津討伐をすると言う事は、それが天皇の意志だと言う事です。豊臣軍は朝廷軍なのです。秀吉に逆らえば朝敵になってしまいます。

義昭の手の平返しが始まりました。義昭は、島津義久に講和に動く様に説得にかかります。

 

豊臣秀吉、九州へ動座

1586(天正14.12.01)年、秀吉は翌年の3月に自ら軍を率いて島津を征討する事を宣言し、全国の37ヵ国に対して計20万の兵を大阪に集めるように命令します。また、軍勢30万人分の兵糧米を1年分馬2万匹の飼料の1年分の調達を、堺豪商・小西隆佐(こにし りゅうさ(=小西行長の父))や、摂津尼崎の代官で物流に通じている建部寿徳(たけべ じゅとく)などほか2名合わせて4名に当たらせ、石田三成、大谷吉嗣、長束正家の3名を兵糧奉行に据(す)えて、輸送に当たらせました。又、小西隆佐には船舶を徴発して兵糧10万石分赤間ヶ関(現下関)への輸送も命じました。

1587.02.08(天正15.01.01)、秀吉、新年の年賀の席で九州征伐を伝え、諸大名にそれぞれの部署を割り当て、軍令を下します。

同年旧暦1月15日、宇喜多秀家九州へ向け出陣。2月10日、豊臣秀長出陣と各武将支度が整い次第続々と九州に向け進発。福島正則細川忠興丹羽長重池田輝政蒲生氏郷前田利長黒田孝高蜂須賀家政毛利輝元小早川秀秋等などその他にも名だたる武将達も合わせてざっと50名。兵員合わせて20万~27万の大軍勢が九州に集結します。

豊臣軍は肥後(熊本)から西海岸沿いに南下する部隊と、日向(大分)側から東海岸沿いに南下する部隊に分かれ、秀吉本隊が到着する前に絨毯進撃を開始、島津討伐に取り掛かります。

1587(天正15.03.01)、豊臣秀吉本隊が大坂を出陣。その出陣を勅使や公家衆が見送ったそうです。正に官軍の出発でした。

 

九州平定

秀吉は、圧倒的な大軍と物量をもって天下様の軍の威容を示し、九州入りをします。その噂は九州各地の諸将に恐怖を与えました。そのタイミングに合わせる様に、黒田孝高(くろだ よしたか)(=官兵衛))は秀吉進軍の事前工作として、「関白様に味方すれば本領安堵し、逆らえば討伐する」との調略の書状を配りました。秀吉が軍馬を進めると、事前の調略が効いたのか、国人領主達の旗色がオセロゲームの様に帰順色に代わって行きました。幾つかの抵抗戦があったものの、月とスッポンほども違う豊臣軍の物量と、百戦錬磨の武将達にかかっては、さしもの戦場の猛者(もさ)・島津軍の反撃は絶望的でしかなく、困難な退却戦をしながら潮が引く様に九州南部に押し戻されて行きました。

1587(天正15.04.12)、島津義久足利義昭の使者に会い和睦の意志を伝え、4月17日に高城(たかじょう)の戦い、根白坂の戦い等で島津の抵抗を示したものの力尽き、

1587(天正15.05.08)、川内(せんだい)(現鹿児島県川内市)の泰平寺に本陣を構えていた秀吉の下に、島津氏当主・島津義久が剃髪して訪れ、降伏しました。

 

バテレン追放令、九州帰途に発す

島津義久が降伏し、九州平定の目的を達した豊臣秀吉は、大坂に戻るべく九州を北上し、帰路に就きました。途中九州の実情を視察しつつ筑前の筥崎に本陣を構え、そこで20日間ばかり滞在しました。滞在中大規模な茶会などを催し、骨休めなどをしていましたが、本来の目的は物見遊山では無く、唐入りへの野望を実現する為に、博多港の港湾の状態や、後に築城する事になる名護屋城の土地の下見などがその目的だったようです。

実際の文禄の役は、「異国(いこくに(1592))出兵文禄の役」で暗記した様に、1592年ですから、九州平定の1587年より5年先の事です。かなり前から、秀吉は唐入りを計画していたのです。年取って耄碌して気が狂って朝鮮出兵を思い付いた訳では無く、彼は本気で唐へ行くつもりだったようです。

秀吉は九州平定に出陣する1年前の1586(天正14.03)年大坂城イエズス会宣教師コエリョを引見して、国内を平定したら次に唐国を征服するから、堅固なポルトガルの軍艦が2隻欲しいと頼み、斡旋を依頼しています。そして、儂が中国を征服したら、中国で宣教活動をしても宜しいと、コエリョに許可を与えています。

1587(天正15)年、九州の地を踏んだ秀吉は、バテレンが寺社を破壊し、日本人を奴隷として「貿易品」の一つとして売買している事を、薬院全宗(やくいんぜんそう)を通じて知りました。また、大村純忠が長崎と茂木(もぎ)イエズス会に寄進し、イエズス会領になっている事も知り、植民地化の危険性に気付きました。彼は、筥崎滞在中の1587.07.24(天正15.06.19)に、バテレン追放令を出します。但し、この時の追放令は後世の禁教令とは違って、宣教師のみの追放でしたので、かなり緩いものでした。

 

 

余談  楢柴肩衝(ならしばかたつき)

筑前国人領主秋月種実は、居城の岩石城(がんじゃくじょう)で秀吉軍と戦ったが、僅か1日で落とされてしまった。彼は古処山(こしょさんじょう)に退却、そこで籠城した。次の日の夜、城から下を眺めたら周りは火の海になっていた。夜が明けると、一夜城が忽然と現れていた。種実は負けたと思い、剃髪し、茶器「楢柴肩衝という大名物(おおめいぶつ)の茶入と「国俊の刀」及び娘竜子を秀吉に差し出して降伏した。実は、火の海と思ったのは、秀吉が村人に篝火を焚かせたものであり、城は、種実が破却した城に和紙や障子を張って見せかけたものであった。

(楢柴肩衝は抹茶を入れる茶入れの名前です。足利義政が所持した天下一品の茶器と言われ、織田信長もこれを盛んに欲しがったが本能寺の変で実現しなかった。楢柴肩衝の持ち主の遍歴は、足利義政―島井宗室―秋月種実―豊臣秀吉徳川家康-明暦の大火で破損―修復後行方不明)

 

  余談  岩屋城の戦い

「岩屋城の戦い」は、大友氏側の岩屋城城主・高橋紹運(たかはしじょううん)(=立花宗茂の父) 以下763名の城兵が、秀吉が九州に来るまでの時間稼ぎの為に、2万から5万の島津勢を引き付けて奮戦、半月も持ち堪(こた)えて紹運自刃の上全員討死し、陥落した戦いを言う。紹運享年39

  

余談  戸次川(へつぎがわ)の戦い

戸次川の戦い」は、1587.01.20(天正14.12.12)、戸次川で島津軍25,000と、豊臣軍四国勢+大友勢6,000が戸次川で戦い、豊臣軍四国勢大友勢が惨敗した戦い。秀吉は島津軍が野戦に強い事を念頭に、「決して城を出て戦ってはならぬ。豊臣軍本隊が到達するまで籠城戦で持ち堪(こた)えよ」との厳命を仙谷秀久・長曾我部元親・十河存保四国勢に下したが、軍監だった仙谷が島津家久の誘(おび)き出し作戦にうかうかと乗ってしまった。この時、長曾我部元親の嫡男・信親(享年22)と十河存保(享年33)が討死、豊臣四国勢6,000名の内、4,000名を越える戦死者を出し、壊走。秀吉は激怒して仙谷を改易してしまった。。

(戸次川というのは、大分県を流れる一級河川・大野川の一部で、河口付近の流れの呼称です。大野川は阿蘇の外輪山から竹田―大分を経て別府湾に注いでいます。)

 

余談  足利義昭

足利義昭は九州平定に於いて、島津義久への降伏交渉に多大に貢献したとして、秀吉からその功を認められ、京都への帰還を許された。1587(天正15.02)年、義昭は毛利氏に護衛されて京都に戻り、同年10月、義昭は大坂の秀吉の下に行き秀吉に臣従し、秀吉より山城国の槙島(まきしま)に1万石の領地を与えられた。そして、翌年の1588(天正16.01.13)に、秀吉と共に参内し、将軍職を辞し朝廷に返上した。ここに、足利義昭は将軍ではなくなり、室町幕府も正式に滅亡した。

 

余談  施薬院全宗(やくいんぜんそう)

薬院全宗は冒頭の「施」の字を読まないのを正式とします。比叡山の僧籍だったが還俗し、曲直瀬道三(まなせどうさん)に師事、漢方医学を極めた。秀吉の知遇を得て彼の侍医となり、取次役なども務めた。後に、800年前に光明皇后が始めた慈善病院「薬院(せやくいん)」の復興を願い出て朝廷より許され、施薬院使に任命される。

 

 

余談  旧国名について

大和国」「尾張国」「三河国などの昔の国の名前は割と馴染みがありますが、その他の国名となると、それが何処の場所が思いつかないことが多々あります。この項で出てきた国名を現在の県名に置き換えてみました。なお、昔の国の名前で「前」「後」と付いているのは、京の都に近い方が「前」それより遠い方が「後」となります。

摂津(せっつ)      大阪府北中部と兵庫県南東部

備後(びんご)    広島県東半分

  (因(ちな)みに備前(びぜん)岡山県南東部。備中(びっちゅう)岡山県西部)

讃岐(さぬき)      香川県

土佐(とさ)         高知県

豊前(ぶぜん)    福岡県東部と大分県北西部

豊後(ぶんご)    大分県

筑前(ちくぜん)    福岡県北部

筑後(ちくご)    福岡県南部

肥前(ひぜん)    長崎県佐賀県

肥後(ひご)       熊本県

日向(ひゅうが)   宮崎県

 

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク」「地形図」「古地図」「長崎キリシタン考(4)禁教時代から復活まで 長崎史談会幹事村崎春樹」「ジャパンナレッジ伴天連追放令」「西南大学博物館 海を渡ったキリスト教東西信仰の諸相」「Laudate 日本キリシタン物語 結城了悟(イエズス会司祭)」「地域の出している情報」「観光案内」等々。

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

158 キリシタン(2) 仏教との衝突

今、旧統一教会と政治家の関係が問題視され、多くの場で議論されていますが、この問題は何も今日に限った事では無く、宗教が及ぼす政治や経済、或いは権力への影響は昔から随分言われてきました。

中世に日本にやってきた宣教師達もまた、彼等の個人的信仰心が篤く純粋であったとしても、別の視座に立って見てみれば多くの問題がありました。彼等はキリスト教内の内部抗争、つまり、カトリックや新興のプロテスタントの版図争いや母国の世界戦略などの背景を背負い、布教に寄せる熱意の裏側には、俗世の競争原理が働いていたのです。そして、その先兵となった日本のキリシタン大名も、キリスト教本来の博愛精神から逸脱して、キリスト教を広めるに急なあまり仏教徒への迫害者に変質して行きました。

 明治維新時に廃仏毀釈という悪法がまかり通って、数多くの寺が廃寺に追い込まれましたが、戦国時代のキリシタンの為政者(いせいしゃ)はそれと同じ様な事をして領内を統治しようとしたのです。

キリシタン大名は、自分が良いと思った方向に領民を導くのは「善なる事」、「善なる事」を知っている自分は、迷える人々をそこへ導く責務があると、思い込んだのでしょう。信者を増やす事は又、如何に宣教師に協力的であるかを、国内外にアピールする事にも繋がりました。

南蛮貿易を盛んにして領国を富ませようとする大名は、それで一層キリシタン化に熱を入れました。言う事を聞かない人間は捕らえたり、殺害したり、海外へ奴隷として売りました。日本人の奴隷は従順で礼儀正しく勤勉でしたので高く売れました。

 

平戸での廃仏毀釈

1550年(天文(てんぶん)19年)肥前国 (現佐賀県長崎県)にフランシスコ・ザビエルがやって来て、領主・松浦隆信(まつら たかのぶ)に宣教活動を願い出ました。隆信はポルトガルとの交易に魅力を感じていましたので、それを許可しました。以来、ポルトガル船が毎年の様に平戸に来る様になり、隆信は鉄砲や火薬などを購入する様になります。

1558(永禄元年)、隆信の重臣籠手田安経(こてだ やすつね)が洗礼を受け、生月島(いきつきしま)度島(たくしま)に教会堂を建て、島民を一斉に改宗させてしまいました。領内がキリスト教色に染まって行くに従って、お寺などとの摩擦も増えました。宣教師達は、真言宗の西禅寺の僧と宗論を行います。平戸の仏僧達は次第にストレスを溜めて行きました。

そんな時、ガスパル・ド・ヴィレラ神父が平戸に派遣されました。彼は強圧的で、ザビエルゴメス・デ・トーレス神父が築いて来た適応主義を無視し、アジア人蔑視の目線で布教を始めました。その上、ヴィレラはとんでもない事をします。彼は、仏像は偶像であると考え、平戸島に祀られていた仏像を集めて焼いてしまったのです。西禅寺を初め平戸にある寺々や神社がこれに猛烈に抗議し、一触即発の状態になってしまいました。はじめ、宣教師達を保護していた隆信も態度を硬化させ、ヴィレラを追放してしまいました。

 

宮の前事件 

1561(永禄4)その事件が起きました。

事の始まりは、平戸の七郎宮と言う神社の前で始まった喧嘩でした。宮前の露天商とポルトガル人が、絹織物(綿布との説も有り)の商いを巡って条件が折り合わず決裂してしまいます。互いに激昂し、周りも加わって大乱闘になってしまいました。そこへ武士が仲裁に入ります。

ところが武士が入って来たので、ポルトガル側はそれを日本側の加勢だと思い、対抗する為に一旦船に帰り、武装して戻って来たのです。事態は収拾するどころか火に油。結局ポルトガル側に船長以下14人の死者が出てしまいました。ポルトガル船は港を脱出しました。

松浦隆信はこの事件で日本人側を罰しなかったので、それを知ったトーレス日本教区長は平戸での出来事をインドのゴアのポルトガル総督に報告し、平戸港での貿易から撤退を決定。代わりの港を探します。この様に、宣教師は貿易の可否の決定権を握っており、布教と貿易は切っても切れない関係がありました。

平戸港を撤退した後、トーレス神父はアルメイダ神父に命じて新しい港を探させました。丁度その時、南蛮貿易に食指を動かしていた大村純忠(おおむら すみただ)が、アルメイダ神父に自領にある横瀬(現長崎県西海市)の提供を申し出たのです。1562(永禄5)年の事です。

 

横瀬浦港の焼討事件

肥前の領主・大村純忠は、本当は有馬晴純(ありま はるずみ)の次男です。晴純の次男でしたが、子供のいなかった大村家に養嗣子として迎え入れられました。ところが大村家が純忠を養嗣子に迎えた後に、大村家に庶出の嫡男・又八郎が生まれましたので、実子の又八郎を武雄の領主・後藤家の養子に出してしまいました。又八郎は後藤貴明と名乗ります。この決定は大村家の分断を招き、又八郎支持派の家臣達の中から後藤家に移籍する家臣が続出しました。

さて、大村純忠横瀬浦をポルトガルに提供し、家臣と共に洗礼を受けました。領民にも入信を奨励、大村領内だけでも6万人を超えました。この様に急激にキリシタンが増えた裏には、仏教徒神道信者への強烈な弾圧があったのです。仏教徒の居住を禁止し、寺社を破壊し、先祖の墓も壊しました。仏僧や神官に改宗を迫り、従わなければ殺害しました。仏教を信仰する住民達はキリシタンに反発します。領民の間の亀裂を捉え、後藤貴明が大村純忠を攻めました。

1563.08.15(永禄6.07.27)、貴明は大村家に残っていた貴明親派の家臣達と呼応して謀反を起こさせ、自らも出陣して横瀬浦を焼討しました。開港してわずか1年にして繁栄していた横瀬浦は灰燼に帰してしまいました。

1570(元亀元年)純忠はポルトガル人の為に新たに長崎を提供します。それまで寒村だった長崎は、皆様ご存知の日本一の港町に発展して行きました。思案橋、丸山、上町(うわまち)、下町などなど現在の長崎の地名の中には、かつて横瀬浦にあった地名をそのまま使っているものがあるそうです。

 

大友宗麟、理想郷の夢に沈む

大友義鎮(おおとも よししげ)(宗麟)は、大友義鑑(おおとも よしあき)の嫡男ですが、廃嫡されそうになり、1550(天文19.02)年、対抗馬の異母弟とその一派を粛清して、家督を継ぎました。彼は内政を固める一方、周防国(すおうのくに)大内義隆陶晴賢(すえはるかた)に討たれると、その後釜に異母弟の春英(はるひで)を送り込みました。春英は大内義長と名を改めます。

宗麟は次々と版図を広げ、豊前肥前・肥後・筑前筑後を掌中に収め、自領の豊後を含めて6ヵ国を領知しました。博多港を手に入れた宗麟は莫大な富も掌中に収めます。

宗麟は毛利氏との緊張が高まっている中、宣教師に「私はキリスト教を守っている人間だ。毛利氏はこれを弾圧する側だ。だから私の方に良い硝石をよこし、毛利氏には硝石を渡さない様に」と言う手紙を出しています。

「貿易」と「キリスト教」と「戦(いくさ)」の三題噺がこの手紙にもうかがえます

やがて、宗麟は政治に興味を無くし、1576(天正4)年、家督を嫡男の義統(よしむね)に譲って、その2年後の1578(天正6.07)年、洗礼を受けました。洗礼名はドン・フランシスコです。

1577(天正5)年、薩摩の島津義久が北上し始め、日向国(ひゅうがのくに)(現宮崎県)に侵攻しました。日向の伊東義祐(いとう よしすけ)は一時期領地がかなり拡大し、支城を48も持つ程になっていましたが、奢侈(しゃし)に溺れて人望を失い、島津家に寝返る支城が増える様になりました。島津義久は日向を攻め、義祐は敗れて大友宗麟を頼って豊後に逃亡します。そして、宗麟に援軍を頼みます。

1578(天正6)年、宗麟は義祐の頼みを承知して日向に出陣します。が、実は宗麟には戦意が余り無く、日向を乗っ取ってその地にキリスト教の理想郷を拓(ひら)くのが夢でした。その為、行軍に宣教師を連れていました。彼は理想郷を打ち立てるのに邪魔な神社仏閣を、総なめに打ち壊しながら進軍します。日向の無鹿(むしか)(現宮崎県延岡市)まで来てそこに本営を置き、滞在します。滞在して何をしていたかと言うと、教会を建設していました。それから大友軍は宗麟をそのままそこに残して、本隊は無鹿から更に南下しておよそ30㎞以上も南の耳川まで兵を進めます。耳川を挟んで北に大友軍、南に島津軍が対峙しますが、大友軍は耳川を渡河して更に高城(たかじょう)を攻めます。高城そばの高城川で大友軍と島津軍が激突します。(耳川の戦い」「高城川の戦い」「高城河原の戦い」高城川は現小丸川のこと)

総大将の大友宗麟が後方にあって指揮を執っているならば、将兵も或る程度納得しようと言うものです。が、実際は指揮どころかキリスト教ユートピア建設にうつつをぬかしていました。兵の士気が上がる訳がありません。薩摩軍は大友軍より兵員数は少なかったのですが、「釣り野伏せ」の戦法と言って伏兵や囮(おとり)作戦など戦術の限りを尽くして猛攻、大友軍は算を乱して敗走、耳川まで後退しました。薩摩軍はそれを猛追します。大友軍は耳川で溺れる者多数で、大友軍はかつてない程の大敗を喫しました。

この耳川の戦いで、大友軍は4,000の将兵を失ったと言われています。この敗戦から大友氏の凋落(ちょうらく)が始まりました。再起不能なほどの兵力を失い、与力する者が現れるどころか離反する者の方が多く、龍造寺氏(肥前)や島津氏の草刈り場になって行きました。

ついに宗麟は豊臣秀吉に援助を求める様になりました。これが秀吉の九州征伐に繋がって行きます。

九州平定後、秀吉は宗麟に九州の一国を領する様に計らおうとしますが、宗麟はそれを断り、病に伏すなか、ひたすら祈りを捧げて没したと伝わっています。直後の葬儀はキリスト教式、後に仏式で執り行われました。享年58歳。

 

 

余談  ダンテの「神曲

ルネサンス期、イタリアの詩人・ダンテは「神曲」の中で、ローマ教皇や聖職者達が地獄に落ちてもがき苦しんでいる有様を活写しています。聖職者が神に仕えているからと言って、全てが聖人君子ではありません。ダンテは、欲深き偽善の聖職者達を地獄に落として断罪しています。彼等や、宗教を利用して国を統治していた王侯貴族を痛烈に批判した為に、ダンテはフィレンツェから追放されてしまいました。

  

余談  婆の思い出

婆が子供の頃、宗教勧誘の場面を見たことがあります。

私事ですが、婆の家は母子家庭でした。父と母が別れた頃、或る新興宗教の方がいらっしゃって、家庭が不幸なのは信心が足りないからだ、我が宗教を信じれば幸せになれると説教に来ました。熱心に誘うも靡(なび)かないとなると、もう少し上級の人が来たり、時には数人で押しかけてきたり、それが断続的に何か月も続きました。母はその都度論破して追い返し、仕舞いに相手側も諦めて来なくなりましたが、ご近所の家では、仏壇を庭に放り投げられてめちゃくちゃに壊され、泣く泣く入信したという話を聞きました。

その家はお子さんが病弱でしたので、ご両親は藁(わら)をもすがる思いでその宗教を受け入れたのでしょう。信心すればお子さんは元気になり、幸せになるという謳(うた)い文句は、お子さんの夭折(ようせつ)によって打ち砕かれてしまいました。信心を勧めた方は、「それはあなたの信心が足りないからだ。もっと熱心に信心すれば死なずに済んだ」と言ったそうです。

母は仕事を持っておりました。或る企業の独身寮の寮監、いわゆる末端管理職で、住み込み(婆達子供も一緒)でした。最盛期には寮生が200人を超え、倒産した時に最後まで残っていた寮生は11人。最後の人達の身の振り方を手配して母は退職しましたが、とにかく大変な激職でした。

終戦直後の、左傾化した労働組合員と生活基盤が直接接する立場でしたので、寮生活の改善やら何やらしょっちゅう団交があり、突き上げや吊るし上げがあり、理論武装した闘志達に囲まれていました。血のメーデー事件のあった日の夜など、破けた旗を持った泥まみれのシャツの寮生達が帰寮し、裸電球の灯った玄関の板敷きに、大勢がへたり込んだ光景を覚えております。母は何時も穏やかでした。キレた所を見たことがありません。

母は婆にこう申しておりました。

「勉強しなさい。考えなさい。特に哲学を学びなさい。問題解決の処方箋の様な本(今で言うハウツーもの)は読まなくてもよい。それは相手も読んでいます。同じ本を読んでいる者同士が議論したって、同じ土俵で同じ戦い方で相撲を取っているだけです。それでは解決策は見つからない。それは取りも直さず、著者の手の平の上で双方が踊っているだけですから」

母が薦めてくれた幾冊もの哲学書、不肖の娘の婆は、余り読んでいません。時間が有り余る今になって、いざ読もうとしても、年取り過ぎたせいで頭に入らず、数行読むだけで眠りの世界に入ってしまいます。高卒で就職した婆は、人は皆師と思い、耳学問、目学問、体験学問で学ぶしかありませんでした。その事を愧(は)じ、義母に申しましたら、「気にする事はありません。北政所は小学校さえ出ていらっしゃらないのだから」とにこにこと笑っておりました。

今は、母も義母も既に鬼籍に入っております。

 

 

 

この記事を書くに当たり下記の様に色々な本やネット情報を参考にしました。

ウィキペディア」「ジャパンナレッジ」「刀剣ワールド」「コトバンク「地形図」「古地図」「戦国日本の津々浦々平戸」「旅する長崎学「島の館」中園成生さんインタビュー」「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)耳川の戦い」「耳川の戦い高城の画像(その内の数葉)」地域の出している情報」「観光案内」等々。

「印度学仏教学研究第三十八巻第2号「近世仏教と対キリシタン問題」高神信也」

その他に沢山の資料を参考にさせて頂きました。有難うございます。

 

 

157 キリシタン(1) ザビエルの道

茶の湯キリシタン、一見何の繋がりも無いように見えます。が、実は大有りです。

茶の湯を論ずるならば、先ずは禅宗でしょ、と、こう来るのが普通です。けれども、千利休が深化させた侘茶には、キリシタンの影響が多々見受けられ、避けては通れない問題です。

それは、茶湯大名の中にはキリシタンが何人もいるとか、堺の豪商にもキリシタンが居るとか、そういう表向きの関わり方ではなく、それは茶の湯の精神や所作に、全く気付かない程深く潜んでいるのです。謀叛や革命にも発展し兼ねないマグマの様なエネルギーをそれは秘めています。その危険性を察知した秀吉が、利休を賜死に処したと考えても不思議はない、と婆は考えています。

何はともあれ、そのキリスト教を初めて日本にもたらしたフランシスコ・ザビエルの歩いた道を、辿(たど)ってみたいと思います。

 

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢

16世紀初頭のインド・東南アジアの情勢は、香辛料航路の権益を巡って、ヨーロッパ各国が熾烈な争いを繰り広げておりました。

1509年2月3日、ディープ沖海戦があり、ポルトガルインドに圧勝しました。

ディープ沖海戦とは、インド西海岸のディープ沖で起きた海戦です。戦ったのは、ポルトガル帝国に対して、インドのスルターン朝・マムルーク朝カリカットの領主の連合軍です。このインド側にオスマン帝国ヴェネチア共和国が与(くみ)して大いに支援していました。何故なら、オスマン帝国アラビア海の貿易権益をポルトガルに奪われたくなかったし、ヴェネチアは、喜望峰周りの航路がポルトガルによって開拓されれば、地中海航路に依存してきたヴェネチアの繁栄が衰退しかねないからでした。ヴェネチアは、地中海→エジプトのカイロ→陸路→紅海→インド→東南アジアと言うルートで香辛料交易路を握っていたのです。

ポルトガルはインドに勝利し、インド西海岸にある良港・ゴアに要塞を築きました。ポルトガルはゴアをポルトガル領インドの首府とし、サンタ・カタリナ大聖堂を建設、総督府修道院など様々な建造物を建て、町を繁栄に導きました。その一方、ゴアの住民はキリスト教に強制的に改宗させられました。ポルトガルはゴアを拠点にしてマラッカを征服、更に香辛料諸島と言われるモルッカ諸島への航路を開きました。

この様な時に、フランシスコ・ザビエルがゴアに派遣されたのです。

 

ザビエルの来日

フランシスコ・ザビエルは、スペインのバスク地方にあるナバラ王国の貴族の生まれです。父はナバラ王国の宰相を務めていました。が、バスク地方はスペインとフランスの国境地帯にあった為、両国の紛争に巻き込まれてしまい、スペインに併合される形で国が滅びてしまいました。父も亡くなってしまいました。

ザビエルは信仰心が篤く、フランスのパリ大学で学んでいた時に一緒になった友人達と、世界にキリスト教を広めると言う目的でイエズス会を立ち上げ、生涯を神にささげる事を誓い合いました。

ポルトガル王は、ゴアの一層の教化を図る為に宣教師の派遣を決め、世界布教を目指していました。そして、イエズス会にその任を与えます。多少の紆余曲折(うよきょくせつ)があった後、その任にザビエルが当たる事になりました。

彼は1541年4月リスボンを出発、1542年5月にゴアに到着しました。彼はインドやマレーシアのマラッカ、インドネシアモルッカ諸島まで布教に足を延ばし、ゴアに戻りました。

ゴアで、ザビエルは日本人のヤジロウと言う人物に会います。ザビエルはヤジロウの話を聞き、日本へ渡る決心をします。

1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルは他の神父や修道士や従者達、それにヤジロウを加えてジャンク船で日本の薩摩半島坊津(ぼうのつ)に着きました。

 

誤解されたザビエル

ザビエルは許しを得て1549年8月15日に、外洋に面した坊津から錦江湾に面した祇園之洲と言う、桜島の対岸にある町に上陸します。この日は丁度カトリックでは特別の日でした。それは聖母マリアが天国に引き上げられた日(被昇天の日)だったのです。彼は来日の喜びと聖なる日の重なりを思い、日本を聖母マリアに捧げました。

ザビエルは薩摩藩主・島津貴久に謁見し、キリスト教を布教させて下さい、と許しを願います。この時、インドから連れてきたヤジロウに通訳をさせたのですが、「宣教師」も「神」も日本語の訳語が無く、ヤジロウはどうして良いか分かりません。そこで彼は、当たらずとも遠からじ、とばかり、「宣教師」は日本で言えばお坊さんの様なものだ、キリスト教の「神」は全知全能で宇宙を創成した偉い神様だから、大日如来と同じ様なものだろうと思い、「神」を「大日」と訳しました。この様にかなり適当に翻案してザビエルの話を通訳しました。

そこで、島津貴久はザビエルを「天竺からやってきた高僧であり、「大日如来」を信仰する宗派である」と理解しました。ザビエルが仏教の本場からやってきたと思い込んだ貴久は、ザビエルが島津家代々の菩提寺である曹洞宗玉龍山福昌寺に滞在できる様に取り計らい、布教を許可しました。

福昌寺は寺領1361石、最盛期には僧侶1,500人も居たと言う大寺院で、1546年、ザビエルが滞在する数年前に後奈良天皇勅願となった寺です。彼は、福昌寺の禅僧・忍室文勝(にんしつ もんしょう)と頻繁に宗教問答をしております。ザビエルは書簡の中で忍室を激賞しているそうです。

 

キリスト教は仏教にあらず

ザビエルの説くキリスト教は、新しい仏教の一派、譬(たと)えて名付ければ「天竺宗」とでも言う風に受け止められました。ところが、仏僧達と話をしていく内に、男色を容認している仏教界に対して、ザビエルの信仰しているキリスト教はそれを禁止しています。そんなこんなで次第に仏僧達との間で摩擦が増えてきました。これは仏教の一派ではない、と仏僧達は気付き始めます。

島津貴久は、仏僧(忍室かどうか不明ですが・・・)の話を聞く内に、次第にザビエルと距離を取り始めました。当初、キリシタンは仏教の一派であると誤って認識していたものが、実はそれとは全く違う別物と言う理解に至った時、それまで通りホイホイと優遇する訳にはいかなくなったのです。

ザビエルは仏僧達の反目を受け薩摩を離れる事にしました。そして、京に向かいます。

 

周防(すおう)大内義隆

日本全国に布教を展開して行くには、やはり中央に居る日本の王(天皇)の許しを得る必要があると考え、ザビエルは上京します。彼は、上京途中に各地で布教して行きます。薩摩で誤解を与えてしまった失敗を繰り返さない為に、無理やり日本語に直す事を止め、ラテン語で「神」を「デウス」と言うように、はっきりと仏教と区別しました。

1550(天文19)年8月、ザビエル達は肥前国平戸に行き、布教活動をします。そして、平戸での布教の後事をトーレス神父に託して、フェルナンデス修道士と鹿児島出身の洗礼名ベルナルド青年を連れて、10月に平戸を立ち、周防(すおう)に向かいます。周防で大内義隆に謁見しますが、義隆の不興を買い布教の許可は下りませんでした。というのも、ザビエルの様子がとても礼儀を欠いていたからです。乞食の様な汚い旅装のまま、手土産も無く、義隆の放蕩や男色を非難したり、仏教の保護を攻撃したり、これでは、義隆の逆鱗に触れるも当然でした。

 

京にて

12月に周防を立ち岩国から瀬戸内海を船でに向かいます。

ザビエル一行は堺で豪商の日比谷了珪の家に止宿します。日比谷は屋号です。何を商っていたかは分かっていません。了珪は堺奉行の小西隆佐(こにし りゅうさ)と親しく、了珪は京の隆佐にザビエルの紹介状を書きます。それを持って京に行きます。隆佐はザビエル達を歓迎し、京都滞在中の彼等の世話を何くれと面倒を見ました。因みに、小西隆佐は、あのキリシタン大名小西行長の父です。

ザビエルはインド総督とゴアの司教の親書を持参していました。彼は、その親書と共に、後奈良天皇と将軍足利義輝に拝謁を願い出ますが、贈り物を持参していなかったので門前払いを喰らってしまいました。彼は京都で願いが叶わなかったので、献上品を取りに一旦平戸に戻ります。

 

再び大内義隆に会う

献上品が無いと相手にもして貰えないと思い知ったザビエル。また、日本では外見が大事だと学んだザビエル。みすぼらしい服装だと馬鹿にされ、歯牙(しが)にもかけて貰えないと知ったザビエル。ラテン語の件と言い、贈物と言い、服装と言い、一つ一つ日本人を学びながらザビエルは日本に受け入れられる様に努力しました。そして、平戸に置いていた献上品を携え、再び取って返して山口に足を踏み入れます。勿論その時、一行は美々しく着飾り、天皇に奉呈する筈だった二通の親書の外、沢山の西洋の珍しい文物を贈り物として携え、大内義隆に謁見を申し入れます。

贈り物は鏡、メガネ、望遠鏡、置時計、ギヤマンの水差し、書籍、絵画、小銃、洋琴 (ピアノの様な形をした楽器。ザビエルの頃の洋琴はチェンバロハープシコードなどかと思われます)などです。

義隆は大いに喜び、ザビエルに宣教しても良いと許可を与え、信仰の自由を認めました。おまけに大道寺という、空き寺をザビエル達に与えました。

贈物作戦は大成功! (こんな風だから今でも贈収賄事件が絶えないのですね)

ザビエルは大道寺をキリスト教の教会堂に建て直します。日本最初の教会堂です。またこの建物は宣教師達の住居も兼ねました。

彼はこの教会堂で毎日2度の説教を行いました。一人の盲目の琵琶法師が、彼の説教を熱心に聞いていました。後に、この琵琶法師はロレンソ了斎となり、イエズス会には無くてはならない重要な宣教師になります。

ザビエルのこの教会堂での活動で、信者は実に600人にも上ったそうです。

 

大友宗麟との出会い

ザビエルは周防で宣教活動を継続していましたが、インドの情報が得られず、とても気になっていました。そんな時、ポルトガル船が豊後国にやって来た、とのニュースが入りました。ザビエルは教会堂の事はトーレス神父に任せ、彼自身は豊後の日出(ひじ)に向かいます。日出は国東(くにさき)半島別府湾側の付け根にあり、天然の良港でした。ポルトガルの入港地でもあり、ポルトガル人のコミュニティもありました。

1551(天文20.09)、豊後の日出(ひじ)(現大分県速見郡日出町(ひじまち))にザビエルが着いた時、沖に停泊していたポルトガル船が祝砲をあげ、その大砲の轟音に大友宗麟は度肝を抜かれた、と伝わっています。宗麟はザビエル達を招きました。ザビエルは、船長の用意した見事な衣装を着て、楽人達と共に街を練り歩き、宗麟に会ったそうです。

ザビエルとの出会いは、宗麟に大いにインパクトを与えましたが、その2か月半後の11月15日には、ザビエルは日出を出航し、インドのゴアに向かいました。

この時、大友宗麟はまだ洗礼を受けていません。宗麟が洗礼を受けたのは27年後の1578年のことです。

 

最期

日出を出航する時、ザビエルは4人の日本人留学生を連れていました。ベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオという洗礼名を持つ若者4人は、ゴアでパウロ学院に入学しますが、マテオは現地で病死、ベルナルドは更に学問を修めにヨーロッパまで留学します。

1552年9月、ザビエルは再びゴアを出発して中国へ向かいます。日本で布教するには、日本に大きく影響を与えている中国にキリスト教を根付かせるのが一番と、考えたからです。

けれども、上川島(じょうせんとう)(現広東省台山市の沖合)に辿り着いたものの、明の海禁政策により外国人は大陸側に上陸できず、大陸本土に渡る日を待っていました。

1552年12月3日、ザビエルは上川島で病気に罹り、そこで亡くなりました。享年46。