式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧

41 永仁の徳政令

侍の本分は一所懸命にあります。一つの土地を命懸けで守るのが仕事でした。 彼等の元々は、国衙領(こくがりょう(国有地))や荘園(私有地)の管理人です。 領内の警察的な仕事をするのが守護と言う役目でした。 領内から租税を徴収する役目が地頭でした。 彼等…

40 平頼綱(平禅門)の乱

平頼綱(平禅門(へいぜんもん))の乱は、執権北条貞時が、御内人の平頼綱を粛清した事件です。 身の程を弁えず権力を望み、それを掌中に収めた時、人は己の足らざるところを補おうと虚勢をはり、殊更に強く見せようとするものです。平頼綱もそうでした。 平頼…

39 霜月騒動(しもつきそうどう)

霜月騒動とは、鎌倉時代後半に起きた騒動で、幕府を二分する大規模な内乱を指します。11月に起きたから霜月騒動と呼んでおります。 1284年4月、第8代執権・北条時宗が亡くなり、その子の貞時が13歳で執権職を継ぎました。貞時を支えたのは乳母の夫(乳母父)平…

38 鎌倉暗雲

歴史は、ここぞと言う大変な時にそれに相応しい人を遣わすのでしょうか。 北条時宗が執権に就いたのが18歳、文永の役の時は23歳、弘安の役が30歳、そして、 1284年4月4日、死期を悟ったのか、出家したその日に34歳(満32歳)でこの世を去ります。 不動の精神で…

37 元寇(5) 弘安の役(後編)

1281年、元はいよいよ第二次日本征討を始めます。 彼等は二手に分かれて日本に向かいます。一つは朝鮮半島から出発する東路軍です。もう一つは中国大陸の寧波から出発する江南軍です。この二つの軍は6月15日壱岐で合流する約束をしました。 東路軍は、高麗人…

36 元寇(4) 弘安の役(前編)

『煩(わずら)い悩む莫(な)かれ』 一国の運命を背負う孤独な若きリーダー北条時宗。苦悩する彼に無学祖元は『莫煩悩(まくぼんのう)』と書き与えました。祖元は更に 『海虜百万、鎮西に寇す。風浪俄かに来たって一時に破没す。』(海から百万の蒙古軍が来て鎮西…

35 元寇(3) 文永の役

1268年、高麗の使者が蒙古の国書を携えて太宰府にやって来てから後、何回も日本へ使者を送り「友好か、さもなくば・・・」の瀬戸際外交を元は試みますが、日本は相変わらず無視。いよいよもってフビライは日本侵攻を決意します。 対馬の戦い 1274年(文永11年…

34 執権北条氏(8) 元寇(2) 時宗

時宗誕生 宋が金に滅ぼされて南宋が生まれ、金はやがて元に滅ぼされてしまいました。元は金を呑み込んだ後に高句麗を隷属させ、南宋を滅亡させます。 その頃日本では、執権北条時頼の正室から一人の男児が生まれました。正寿丸と言います。後の時宗です。 正…

33 執権北条氏(7) 元寇(1) 南宋滅亡

遊牧騎馬民族モンゴルの人々の視界には国境線が無く、有るのは無窮の天地でした。彼等の中からジンギスカン(太祖)が現れてからモンゴルは瞬く間に版図を広げ、広大な帝国を築きます。 蒙古は道や通信網を発達させ、欧州から中国までの東西交流を以前よりも活…