式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

2021-01-01から1年間の記事一覧

129 名馬の条件

前項、前前項の「絵で見る茶の湯」の中で、馬の絵をダシにして茶の湯の話へ進めました。 馬と言えば、武士と切っても切れない縁があります。馬の善し悪しは、武士の生死を左右すると言ってもいい程ですので、もう少し馬の話をしてみましょう。 三大始祖 婆達…

128 絵で見る茶の湯(2) 調馬図

『調馬図』 滋賀県に多賀大社(たがたいしゃ)という神社があります。そこに重要文化財の六曲一双の屏風があります。 『調馬図・厩馬図(ちょうばず・きゅうばず)』と言って、左隻に厩舎に繋がれている六頭の馬が描かれており、右隻には騎乗して馬を走らせてい…

127 絵で見る茶の湯(1) 厩図

何時の時代でも何々自慢と言う者はいるもので、武士であれば先ず自慢するのが「馬」。刀剣自慢も「馬」に劣らずおりますが、絵画に描かれているのは圧倒的に「馬」です。厩(うまや)図屏風は数多く描かれています。神社にある「絵馬」も馬ですし、加茂神社の…

126 武将の人生(7) 書状(手紙)

近頃では、ペンを取って便箋に手紙を書く、と言う行為はすっかり廃(すた)れてしまっています。スマホに顔文字や記号を駆使して伝えるのが今の流行ですが、婆の若い頃は、遠くにいる相手に伝えるのは固定電話や手紙が主流。少しでも良い印象を与えようと、言…

125 武将の人生(6) 出る杭は打たれる

七重八重花は咲けども山吹の 実の一つだになきぞ悲しき 鷹狩の時に俄雨にあい、近くにあった貧しい家に立ち寄り、雨具を貸して欲しいと頼んだ太田道灌。その家の女は黙って八重咲の山吹の一枝を差し出しました。その意味が分からず腹を立てた道灌は、館に帰…

124 武将の人生(5) 足利将軍家2

お茶会が始まる時「お床拝見」をします。その時、他の流派では床の間の正面に座り、膝前に扇子を置いて拝礼し、拝見しますが、式正織部流では、拝礼はしますが膝前に扇子を置きません。 利休は床の間を「神聖な場所」或いは「冥界」と見立てています。ですか…

123 武将の人生(4) 足利将軍家 1

家系を繋ぐと言うのは何時の世でも大変な困難を伴います。足利将軍家は正にその典型でした。 男子が生まれない、生まれても大人になる前に病死してしまい満足に育たない、健康ならばそれで目出度いかと言うとそうでも無く、兄弟が死闘を繰り返す・・・徳川幕…

122 武将の人生(3)

室町幕府は守護大名の寄合所帯です。足利将軍はその上に乗っかている御神輿の鳳輦(ほうれん)に過ぎません。足利家は御神輿の安定化を図る為に担ぎ手の守護大名の背丈を揃えようと、強大な守護大名を狙い撃ちにしては内紛を起こさせて弱体化を図り、挑発し…

121 武将の人生(2)

南北朝の動乱の中、足利家で一つの悲劇が同時進行しておりました。それは、日本史最大の兄弟喧嘩とも言える「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」の始まりです。 室町幕府初代将軍・足利尊氏には正室との間に生まれた義詮(よしあきら)と言う男子と、無筋目の…

120 武将の人生 (1) 

豊臣秀吉が天下を取って争乱の時代が終わりを告げたかに見えても、なお戦いは絶えません。小田原征伐・九州征伐・朝鮮征伐、関ケ原、大坂の陣へと続いて行きます。 顧みれば、討死、戦病死、自刃、暗殺、刑死、謀殺・・・畳の上で天寿を全うすると言う事は、…

119 式正の茶碗 

前号で織部焼きの茶碗について触れましたが、式正織部流ではいわゆる「織部茶碗」と言う歪(ひず)んだ茶碗は使いません。また、織部釉(緑色)の茶碗も「織部流だから」と言って使かわねばならない、と言う決まりもありません。 式正織部流で使う茶碗は、ご飯茶…

118 桃山文化13 焼物(4)・織部焼

織部焼きと言うと、先ず緑色の陶器が思い浮かびます。 以前、お茶を習いたての頃、デパートの茶道具売り場で緑釉の菓子皿を探した事がありました。その時、店員さんが珍しく近寄って来て「織部をお探しですか?」と声を掛けられました。デパートでは、客が何…

117 桃山文化12 焼物(3)・茶の湯

六古窯で焼かれていた焼き物は、甕(かめ)や擂鉢(すりばち)、瓦が多いようです。 甕が多いというのは不思議な気がしますが、考えてみれば成程と思い至ります。何故なら、生活で何よりも必要な物は「水」だからです。お水を入れる甕が最も重要な生活必需品にな…

116 桃山文化10 焼物(1) 歴史

楽、萩、唐津、志野、織部、黄瀬戸・・・桃山の器は茶人の器です。 それまでの焼き物は、古くは祭器、でなければ生活必需品の土鍋や水がめ、穀物入れの甕(かめ)などで、食器は木製でした。庶民は木地のままの椀を、身分の在る役人などは漆塗りの椀を用いまし…

115 桃山文化9 漆工芸

漆器 漆器と言うと思い浮かぶのは、漆塗りのお椀ではないでしょうか。お箸やお盆、茶托や重箱など、日本人にとってはとても馴染みのある工芸品です。 漆は英語でJapanと言います。古代から日本人は漆を生活の中に取り入れて来ました。福井県若狭町の鳥浜貝塚…

114 桃山文化8 服飾・染織

服飾 小袖 服装は、その時代の空気を良く表しています。 安土桃山時代に流行ったのは、気楽な下着姿でした。小袖と言う名の下着です。 小袖は、狩衣(かりぎぬ)や十二単(じゅうにひとえ)等の下に着るものでした。初め、下着は筒袖でした。やがて筒袖に袂(たも…

113 桃山文化 7 文学

長い戦国時代のトンネルの向こうに一筋の光を見た時、押さえつけられていた民衆の感情が、お祭りの様に爆発し、はちゃけたのがこの時代の文化の特徴です。 連歌・俳諧(れんが・はいかい) 明るく華やかな美術や芸能が新しく興る一方で、何々物語や勅撰和歌集…

112 桃山文化6 南蛮貿易(3)影響

日本の文化史を見てみると二つの変革点が有ります。そのいずれも外国に由来しています。 一つは仏教伝来です。仏教が日本に定着する様になって、阿弥陀信仰が起こり、仏教美術が隆盛し、今でもお盆行事等習俗・習慣に深く影響が及んでいます。 もう一つが明…

111 桃山文化5 南蛮貿易(2)鉄砲

1543年(天文12年)、中国の船(後期倭寇)が嵐に流されて種子島に漂着しました。船長は明国の五峰と名乗り、船には100人ばかりの客が乗っており、その中に異人が3人いる、と言いました。その異人がポルトガル人でした。その船長とのやり取りは全て筆談で行われ…

110 桃山文化4 南蛮貿易(1)

日本の種子島にポルトガル人が漂着し、鉄砲がもたらされました。この鉄砲によって日本の戦国時代の戦の仕方が劇的に変わりました。信長は鉄砲入手と彼の新奇趣味により、南蛮貿易に積極的に手を出します。このころ世界は大航海時代。当時の世界情勢を少し見…

109 桃山文化3 障壁画(2)各流派

日本の絵画史上で巨大な鉱脈の様に太く長く続いて来た狩野派ですが、その長い歴史の中にはマンネリ化などで衰退の気配などを見せたりして、結構山や坂がありました。伝統継承が得手の者は継承に力を注ぎ、飛躍を追求する者は受け継がれてきた伝統に革新をも…

108 桃山文化 2 障屏画(1)

日本史の教科書に必ずと言っていい程載っている大政奉還の場面、その時使われたあの部屋は、二条城の大書院です。大書院は、襖・長押(なげし)の上の壁、天井、床の間など全てに絵が描かれており、とても豪華な部屋です。あのような絵を障屏画(しょうへいが o…

107 桃山文化 1 城郭建築

桃山文化の謂(いわ)れ 安土桃山時代と言うのは、1573年(元亀4年)、織田信長が室町幕府を倒してから1603年(慶長8年)、徳川家康が豊臣氏を倒すまでを言います。その間、たったの30年です。 信長が築いた安土城、秀吉が築いた伏見城跡地を桃山と呼んだのに因ん…

106 信長と茶の湯御政道

平蜘蛛の釜を所望した信長は、平蜘蛛ばかりでなく、他の茶道具にも目が無く、これぞと思うものを片端から手に入れようとしました。「名物狩り」と言われるその所業、はなはだ迷惑な行為ですが、信長にとってそれは領地拡大に匹敵する重要な案件でした。 信長…

105 平蜘蛛の釜

「平蜘蛛の釜」と言うのは茶釜の銘です。その姿が蜘蛛が這いつくばった形に似ていた事から、「平蜘蛛」と名付けられたと言われています。 織田信長は「平蜘蛛の釜」の所有者・松永久秀に、その釜が是非とも欲しいと幾度も懇願したそうですが、彼は絶対に信長…

104 戦国乱世(4) 義輝と永禄の変 

三好三人衆 三好三人衆と言うのは、三好長逸(みよしながやす)、三好宗渭(みよしそうい)、岩成友通(しわなりともみち)の三人を指します。いずれも三好長慶(みよしながよし or みよしちょうけい)の家臣でした。三人衆は、三羽ガラスとかトリオとかの同類の意味…

103 戦国乱世(3) 剣豪将軍義輝(2)

木沢長政 三好元長は希代の戦の巧者でした。主君・細川晴元の命ずるままに、何時も命懸けで戦ってきました。晴元の強敵・細川高国を大物崩れで討滅し、戦功大いにあった元長。ところが彼に対抗する人物が現れます。木沢長政です。 木沢長政は、守護・畠山義…

102 戦国乱世(2) 剣豪将軍義輝(1)

乱世は無頼無道の野蛮人の世界です。家督を巡る争奪戦や権力闘争は規模の大小を越えて、無限相似形のフラクタルを描いています。 嘉吉の乱、応仁の乱、明応の政変、永正の錯乱・・・そして、将軍・義輝の悲劇、永禄の変へと繋がって行きます。 幕府滅亡への…

101 戦国乱世(1) 大物崩れ

大物崩れ(だいもつくずれ) 大物崩れの大物は「だいもつ」と読みます。大物(だいもつ)という地名に由来しています。大物町は兵庫県尼崎市に在ります。昔は海に面した大物浦(だいもつうら)と言う港でした。ここは細川高国が壊滅的敗北を喫して自刃した地でもあ…

100 戦国時代の幕開け(2) 流れ公方帰還

細川澄之(ほそかわ すみゆき)は、永正(えいしょう)の錯乱で暗殺された細川政元の葬儀を手際よく行い、家督者たる立場を示しました。将軍・義澄も澄之を細川家の跡取りと認めました。ところが、それも束の間、事件の揺り戻しが大きく津波の様に伸(の)し掛かっ…