式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

9 栄西、第二次渡宋

栄西はインドへの憧れを抑えがたく、1187年に再び南宋を目指して海を渡りました。

矢張りお釈迦様が悟りを開いた土地に行き、座禅の原点に立ち返って修行をしたいと思ったのでしょうか。彼は南宋に着くと、早速インド行の願いを出します。ところが、陸路西に向かうのは危険と言うので許可が下りませんでした。その頃、宋の隣には「金」という国があり、宋と金は敵対関係にあったのです。

彼は諦めて船に乗ります。それが帰国の船なのか、海のシルクロードへの海路なのか、婆はそこまで知りませんが、結果的に嵐で宋の陸地に吹き寄せられてしまいました。

 

栄西は再度天台山に登ります。天台山の禅寺・万年寺に行き、虚菴懐敞(きあんえじょう、又は こあんえじょう)の膝下に入ります。

彼は虚菴懐敞の下で修業に励みます。臨済宗のお寺では座禅をするばかりでなく、先生(師家)が弟子に色々なお題(公案)を出します。そのお題の問題を解きながら一歩ずつ悟りに近づける様なカリキュラムになっています。でも、そのお題たるや普通では絶対解けないような難問ばかりです。

また、禅寺では、朝起きてから夜寝るまでの小さな動作一つ一つに規則があって、それらすべてが修行になっています。虚菴禅師が万年寺から天童寺に移った時も、栄西は師に従って天童寺に行き、ついにそこで悟りを開きます。

早暁から起きて座禅を組み、作務に、公案の工夫に、更に夜の座禅に・・・と眠る暇もなく修行僧は過密なスケジュールに追われます。そんな中で禅寺では茶礼と言ってお茶が飲める時間があります。茶礼は、僧達が一堂に会し儀式の様に無言で粛々と進みますが、僧達にとってたとえそれが番茶であってもほっとする一時です。しかも、お茶は眠気を払ってくれます。厳しく締めるだけでは修行は続きません。日本に禅を根付かせるにはお茶は欠かせないものと考えて、栄西は禅寺で行われる茶礼にも関心を持ち、茶の研究もしました。

彼は日本に帰る時、茶の種を携えて来ました。

 

余談・墨蹟について

「墨蹟」と言う言葉は禅僧の書を指して言います。同じお坊さんでも他の宗派のお坊さんの書は墨蹟と言いません。例えば空海の風信帳は墨蹟とは呼ばないのです。

但し、これは日本だけの話で、栄西が入宋した頃は「墨蹟」は「筆跡」や「書蹟」と同じ意味で、禅僧とか他宗派の僧とか文人とかの区別はなく、広く使われていました。それが次第に禅僧だけに限るようになったのには、書の歴史と関係があります。

中国で書と言えば、王義之(おうぎし(東晋の人))、欧陽詢(おうようじゅん(唐の人))、虞世南(ぐせいなん(唐の人))、褚遂良(ちょすいりょう(唐の人))、顔真卿(がんしんけい(唐の人))が挙げられます。特に王義之は書聖と言われています。

宋の皇帝・徽宗(きそう)は、皇帝職を忘れているのではないかと思うほど芸術に熱心で、芸術への理解が深く、自身も能く書画を書くほどでした。彼の描いた「桃鳩図」は有名です。

また、徽宗は優れた文物の蒐集も熱心でした。殊の外王義之の書に傾倒し、盛んに蒐集しました。その為か多くの士大夫や書家達も王義之の書を範としていました。

多くの者が王義之の書風を正統の書と重んじている中で、禅僧はそういう決まりに捉われず、自由闊達に書いていました。当然当時の評価からすれば「はみ出し」の字。禅僧の「書」の評価は低かったのです。ところが、日本ではその「はみ出し」具合に味が有る、と言う訳で珍重されました。そのような具合で別扱い的に「墨蹟」という一つのカテゴリーを形作っていったと思われます。

徽宗は宋の最後の皇帝から数えて二番目の皇帝です。その頃、満州女真族の「金」と言う王朝がありました。金が宋に攻め入って来た時、徽宗は大慌てで息子に帝位を譲りました。が、金は徽宗も息子の欽宗も皇族・廷臣など3000人を一網打尽に捕虜にし、金に連れ去ってしまいました。又、金は徽宗が生涯かけて集めた宝物や、貴族達の夥しい宝物を略奪しました。連れ去った虜囚とそれらの文物がやがて、金を次第に宋の高度な文化に染めて行き、金が宋化して行くようになります。一方、辛うじて江南に逃れた欽宗の弟が、南宋を建国しました。栄西が留学した南宋は、そういう歴史を持っていました。