式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

13 背振(せふり)の茶

栄西は中国での禅の修行を終え、日本に帰国しました。その時、お茶の種を持ち帰り、九州の背振山(せふりやま)にある霊仙寺(りょうせんじ)の石上坊に、お茶の種を蒔きました。 

背振山山系は福岡県と佐賀県の県境にある山系で、最高峰は背振山(1055m)です。

背振山玄界灘に面していて、昔、奈の津(=博多港)に入る時の目印になる山でした。

遣隋使、遣唐使等の船は奈の津から出航していました。又、瀬戸内海を制した平氏は、日宋貿易を始めて莫大な利益を得ていましたが、その時も、奈の津は大陸への航路の中継地点として重要な位置を占めていました。

奈の津の港は大変栄えました。港の背後に控える背振山に、水の神様と言われる弁財天を祀っており、背振山には背振千坊と言われる位、お寺が沢山ありました。大陸に渡る留学僧などは必ず背振山にお参りをして航海の安全祈願をしたと伝わっています。

前に載せた「10 お茶物語 in 中国」で、野生の茶木が育っている環境を述べましたが、背振山はその環境に近く、茶の栽培の適地と申せましょう 。雨が良く降り、山体が花崗岩で水はけがよく、霧などが発生する谷川の傾斜地か或いは丘という条件を満たしています。ただ、年間を通じて12°C以上という「亜熱帯」の条件が一つだけ満たされていませんが、日本に於いてそれを満たすのは無理でしょう。

栄西はこの地を茶の栽培適地として選びました。

2019年(令和元年)の6月、7月と断続的に九州の熊本県、鹿児島県、宮崎県各地が線状降水帯に見舞われ、未曽有の豪雨災害に遭いました。

同年8月27日~28日、九州北部を襲った線状降水帯により、背振山地方に洪水や土砂災害の甚大な被害がもたらされました。九州は台風の通り道です。前線がかかれば太平洋から吹き込む風、或いは日本海から吹く風に、背振山系の1000mを越える山が立ちはだかって積乱雲が発達し易い地形になっています。降水量の多い地帯と申せましょう。そして、濃霧が出易い場所でもあります。大変痛ましい事に、過去には濃霧による飛行機事故が3回も起きています。

 

栄西が茶の種を蒔いて千年近く経ちます。長い歴史の中でかつての背振千坊の面影は消え、栄西の元々の茶畑も無くなってしまったとか。けれども、佐賀県側の嬉野という所にお茶の一大生産地があります。きっと背振の茶の命脈がそこに根付いているのではないかと婆は思います。

 

余談・霊仙寺

現在、背振山には霊仙寺の跡があり、そこには乙護法堂(おとごほうどう)の建物が残されているそうです。又、その近くに茶畑があります。地元の人がかつての昔を忍んで復活させたものだとか。