式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

14 栄西、鎌倉に下る

栄西は帰国後、宋で修めた臨済禅を布教しようとしたのですが、新しい宗教は受け入れてもらえず、比叡山から激しい排斥を受けてしまいます。それのみか、布教禁止の宣下が出されてしまいます。彼は京都での布教を諦め、鎌倉で布教しようと鎌倉へ下向します。

栄西が鎌倉に下りますと、宋へ2度も渡った高僧が鎌倉にやって来たと言うので、みんな大騒ぎ。たちまちにして幕府に迎え入れられます。源頼朝の一周忌の法要の導師を務め、北条政子の為に寿福寺を建立します。

こんな逸話があります。源頼家が二日酔いで苦しんでいた時、栄西がお茶を勧めてそれを治したそうです。お茶の薬効の一端が伺える話です。

お茶が体に良い、という話が武士達の間に広まり、彼等もお茶を飲む様になりました。又、禅宗の自力本願の姿勢が武士達の心を捉えた事もあり、ますます彼等は禅宗に接近して行くようになります。そんなこんなで鎌倉幕府との結びつきが生まれ、源頼家の帰依を得て、彼は京都に建仁寺を建てる事が出来ました。

建仁寺は、現在は禅宗専修道場ですが、当時は京都の仏教界が受け入れ易いように、天台宗密教禅宗の三宗が学べる道場として開かれました。

 

栄西源実朝へ『喫茶養生記』を献上しました。

実を言うと、奈良時代から茶は日本でも飲まれていたそうです。お茶の木も栽培されていたそうです。ただ、一般には普及しておりませんでした。

お茶は大変体に良い、と知られており、少数の貴族や僧侶達の間で薬として服用されていましたが、お茶の栽培は難しく、大した収穫は望めませんでした。貴族たちにとっても自分の荘園で栽培するより大陸からの渡来物の茶葉を使った方が楽で、しかも高級感があり、自然とそちらの流れになり、日本での茶の栽培は廃れていったと言われています。

そういう時に、栄西はお茶を復活させたのです。

 

仏教寺院では飲酒を戒めています。

特に禅宗の寺では、飲酒を固く禁じておりますので、その代りお茶を飲みます。

お茶には覚醒作用があります。眠気覚ましにもってこいですし、頭がすっきりして公案の工夫も進むというものです。また、禅寺では一日に数度の茶礼が行われます。このように禅宗とお茶は切っても切れない関係になっています。