式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

15 栄西禅師と明恵上人

栄西禅師が九州でお茶の栽培をしているという話が、京都の栂尾(とがのお)に住んでいた明恵(みょうえ)上人に聞こえました。

因みに、明恵上人は密教を修めた華厳宗の僧侶です。法諱は高弁と言います。

己に厳しい人で、インドに憧れ渡航を試みるも二度挫折しました。最下層の人達へも慈悲の目を向け、ハンセン病患者の救済にも心を砕いていたようです。

当時の京都の仏教界は、伝統の上にどっかりと胡坐を掻いたまま沈滞し切っていました。お蔭で栄西禅師は朝廷や比叡山の厚い壁にぶつかり、鎌倉へ行くことになったのですが、やがて鎌倉幕府の庇護を受けて、京都に建仁寺を開くことになります。

明恵上人は、念仏を唱えれば簡単に極楽浄土へ行ける、と説く法然上人の書いた『選択本願念仏集』に猛烈に反論します。彼は『於一向専修宗選択摧邪輪』(略称:『摧邪輪(ざいじゃりん)』)と『摧邪輪荘厳記』という本を書き、単に念仏を唱えるだけでは浄土に行けない、心から悟りを開こうと発心し、菩提心を起こして念仏を唱えてこそ救われる、と主張します。南無阿弥陀仏と言えば誰でも救われると説くとは何事か! と叱り、念仏宗の弱点を論破します。因みに「摧」とは砕くという意味があります。

明恵上人は京都の宗界から一線を画し、都から少し離れた栂尾の高山寺で修業に励みます。明恵上人の自己に厳しい求道生活と真理を求める愚直なまでの姿勢。栄西禅師の、朝廷や比叡山から排斥された経緯と禅宗独特の厳しい生き方。それらが互いに響き合い、二人は邂逅のような出会いをしたのではないかと・・・・これは婆の想像です。

明恵上人は栄西禅師を訪ね、禅師の下で座禅の修行をします。やがて、栄西禅師は明恵上人に臨済禅の印可を与えます。栄西禅師は明恵上人に禅の後継者となるよう要請しますが、明恵上人はそれを辞退します。栄西は九州から茶の種を取り寄せ、茶の栽培方法を伝授すると共に明恵に渡したと言われています。栄西入寂の直前、彼は中国での師・虚菴懐敞(きあんえじょう)から頂いた法衣を、明恵に渡します。

「茶」という飲み物が心身を爽快にし、眠気覚ましの作用を持つところから、修行に是非とも必要なもの、と明恵も考えていたと思われます。また、茶は健康にも良く、延命長寿の薬効ありとの思いから、それを庶民にも広げたいと志したのではないでしょうか。一つの菩薩行として庶民の救済を願ったのではないかと推量します。

栂尾で始まった茶の栽培は、後に宇治茶の源流となります。

 

余談・鳥獣戯画

栂尾山高山寺は国宝・鳥獣戯画(=鳥獣人物戯画)を所有しています。鳥獣戯画は全部で四巻あります。反骨精神の明恵上人のお寺に、風刺画の鳥獣戯画が在るという事に、何か不思議な縁を感じます。