式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

17 室礼の歴史(2)  生活と荘厳

寝殿造りの建物は、その後の幾多の兵乱で失われてしまい、残念ながら現存しているものは一つも有りません。わずかに焼失を免れた調度類と、絵巻物や文学などと合わせて見て、その頃の貴族達の暮らし振りが偲ばれるのみです。

この時代は日本文化の揺り籠です。仮名が生まれ、小説や日記や随筆の文学が生まれ、唐様の建築様式や仏教美術などが日本の風土に合う様に変化して行きました。 

 住居では、大陸と日本との間に特徴的な違いが有りました。

中国では建物内の下が地面(三和土(たたき))、或いは石畳でした。そこに牀(しょう)(=ベッド)を置いて寝ました。日本では、入り口や台所に三和土を残しつつも、居場所は地面から少し高くして板を張って床とし、その上で生活をする様になりました。床に上がる時は履物を脱ぎます。寝る時は筵を敷きます。寝殿造りでは必要な場所にだけ畳を敷きました。

寺院建築では、東大寺の大仏殿内や宇治の平等院などは、下が石畳になっています。

平等院鳳凰堂内の室礼はとても美しく荘厳(しょうごん)されています。

阿弥陀如来がおわします四方の壁上方には雲中供養菩薩が舞い、扉には極楽浄土の絵、柱や梁は漆塗りと螺鈿。天蓋は金の唐草模様。浄土の世界を地上に再現すれば、かくやと思われます。当時の人々は、極楽浄土を見たければ平等院を見よ、と言っていたそうです。

藤原氏の権力闘争が激化し、応天門の変や保元・平治の乱、更には疫病の流行などが重なり、世に末法思想が浸透して行きます。幾度かの乱により武士が力を示すようになり、その存在感が増してきます。やがて藤原氏に代わり、平氏が台頭してきます。

平清盛は娘を天皇に嫁がせ、外戚として絶大な権力を手にします。彼は日宋貿易を盛んにし莫大な利益を得ると共に、長い間の「鎖国」の為に停滞していた国風文化に、大陸の風を吹き込みます。栄西が渡宋して日本に禅宗をもたらす事が出来たのも、日宋貿易の商船に乗って渡海できたからです。

治承の乱(1180年)の時、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じて平家打倒の狼煙を上げた源頼政が、平家の追撃を受けて負け、子や孫などと共に宇治で自刃しました。平等院の庭に頼政のお墓があります。頼政は亡くなる前に阿弥陀様のお顔をご覧になったのではないかと・・・・

頼政敗死後まもなく源頼朝が平家を倒します。

世の中は律令制度から封建制度へ、貴族社会から武家社会へと移って行きます。それにつれ貴族の社交重視の建物から、武家の生活重視の家へと変わって行きます。書院造の家がここから生まれます。