式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

20 室礼の歴史(5) 同仁斎

銀閣寺境内(正式には東山(とうざん)慈照禅寺) に東求堂と言うお堂があり、そこに同仁斎と言う部屋があります。同仁斎は四畳半の小さな部屋ですが、お茶を語る時、書院を語る時、日本の住宅建築を語る時、どうしても外せない重要な場所です。

室町幕府の将軍は、代替わりの度に将軍の住まい(御所)を新造していました。その中で突出して御所を造営したのが足利義政です。彼は烏丸(からすま)殿、室町殿、小川殿(こがわでん)、そして、最後に東山殿(ひがしやまでん)の四つを造りました。小川殿は細川勝元の別荘だったものを義政が借りていましたので、本格的な「造営」には当たらないかも知れませんが、それにしても多いです。

11年に及ぶ応仁の乱で、義政はすっかり政治への興味を失い、趣味の世界に逃避する様になっていました。義政は息子の義尚に将軍職を譲ると、ほどなくして京都東山に山荘(東山殿)を造り始めます。彼は造営に夢中になり、完成を待たずに造成中の家に引っ越してしまいます。そこで寝泊まりしながら、大工や庭師を指図しました。彼は完成を待たずに亡くなります。遺言により東山殿は相国寺に寄贈され、臨済宗のお寺になりました。

さて、冒頭の同仁斎の話に戻ります。

同仁斎は東求堂の中を四分割した内の一区画で、一間半四方の広さの、北東に面した一室です。

北側の壁に半間の違い棚、その右手の並びに一間幅の付け書院があります。

付け書院には、一尺半の2枚からなる左右両開きの明かり障子があります。障子を閉めると外光が障子紙を通して柔らかく差し、部屋を落ち着いた明るさにします。付け書院の障子を全開すると、障子によって切り取られた空間に、庭が見える様になっています。居ながらにして一幅の「自然掛物」を愉しむ、という趣向で、雪景色、春の芽吹き、濃き緑、紅葉と、時の移ろいのままに、長方形に切り取られた「自然掛物」は部屋を演出してくれます。

付け書院に文具を置き、違い棚に愛玩のお道具を置いて心行くまで鑑賞する・・・まるでそこは茶室の「床の間」の様な場所です。同仁斎には炉も切られていて、本当にそこでお茶を点てていたそうです。東向きの縁側の明かり障子も、室内の穏やかな光の空間を作り出しています。そこを開ければ、また違った山水の庭が見えます。まさに、同仁斎は厭世の逃避所、隠棲の場に相応しく、余計な装飾を捨て去った静謐の世界です。

 同仁斎の柱は角柱、天井は棹縁天井。明かり障子の外側には舞良戸(まいらど(板戸の一種)(→雨戸))。部屋毎の仕切りは襖と壁。縁側があって、という具合に、日本住宅の原形がそこにあります。

同仁斎の書院の造りは、武家屋敷に大いに取り入れられて行くようになります。やがてそれが権威の象徴の場へと変化し、城郭建築の大書院へと発展したり、又、別の流れとして数寄屋造りへと変わって行き、庶民の家へも波及して行くようになります。

 

 余談 足利義満と十牛之頌

室町幕府三代将軍足利義満は禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)に十牛之頌(じゅうぎゅうのしょう)の教えを乞い、それを書かせて座右の銘にして日々修行した、と伝わっています。

余談 永楽通寶

仲芳中正(ちゅうほうちゅうしょう)は楷書と草書の名人として聞こえ、人気がありました。彼は寺院の扁額などを数多く書いております。足利義満に仕えていましたが、1401年に明に渡ります。明の成祖に召されて明の通貨・永楽通寶の文字を書き、その字が鋳造されて流通する様になりました。