式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

21 室礼(6) 床の間

床の間の室礼の原形は寺院にあります。

例えば,釈迦三尊像の場合、釈迦牟尼仏を中尊にして両側に脇侍(わきじ)を置きます。

何々会館などで二間幅くらいの広い床の間でよく見かけますが、三基の活花を飾ったり、三幅の掛物を掛けたしますが、それは中尊・脇侍の配置を模した飾り付けです。

城郭建築の大書院では床の間に絵が描かれています。その場合はそこに何も置かず、床の間の正面にお座りになる「お殿様」が中尊になります。お殿様がお座りになって初めて収まりの良い構図になるように絵が描かれます。

室礼の仕方は千差万別です。これぞ正解というものはありません。

茶事などでは、懐石料理の時、濃茶の時、薄茶の時と、床の間の室礼を変えます。茶事全体のテーマを一貫した上で、その場の雰囲気に合わせて演出を変える、という事をします。

大寄せ茶会などでは茶室の掛物は一幅掛けです。その茶会の趣向により、禅語墨蹟、山水画、断簡(文書の切れ端)、消息(手紙)、和歌、道釈図、時にはやまと絵などを選んで掛けます。茶掛けの一幅を本尊と見立て、仏を敬う様に花を手向けます。床の間は神聖な場所なので、お床拝見の時は膝前に扇子を置くのだそうです。扇子は結界を表すそうです。

千利休はお茶に修行の道を求めました。

利休は往々にして床の間に「死」を想起させる掛物を掛け、「侘茶」の席である事を提示する事がありました。「一期一会」しかり。「日々是好日」然り。「千年の松の翠」然り。「十牛之頌」然り。利休は床の間をあの世の世界と捉えています。ですから仏の世界を敬い、扇子を膝前に置いて結界の線引きをし、へりくだります。

ところが、式正織部流は床の間の前に座って床を拝見しますが、扇子は置きません。

利休の茶と織部が創始した武家茶とは、扇子一つでもこの様に違います。この件については後々述べる事にします。

さて、千利休が生まれるずっと前、佐々木道誉(どうよ)というバサラの守護大名がおりました。

彼はたびたび闘茶という茶会を催しました。闘茶と言うのは「きき酒」と同じでお茶の銘を当てっこする遊びです。当てた人には景品を上げます。道誉の景品は超豪華な事で知られていました。道誉の外にも大小様々な闘茶の会が開かれ、みんな夢中。これは賭け事です。余りの流行に足利尊氏建武式目で茶寄合(闘茶)を禁止しました。

禅寺での茶礼が一般に広がり、健康長寿の薬湯が武士達の社交の道具になり、次第に過熱して闘茶と言う賭け事にまで行き着てしまいました。そういうお茶の在り方に疑問符を投げかけたのが村田珠光(むらたじゅこう)と言うお坊さんです。珠光は一碗の茶、一本の竹の茶杓、一つの茶筅をもって茶を振る舞い、客を持て成しました。村田珠光が亡くなった年の1502年に武野紹鴎(たけのじょうおう)が生まれます。紹鴎は、珠光の貧しくて華やかさの全くない、ものわびしくて、さびしい茶を取り上げ、「侘茶」として集大成します。それを利休が完成させます。

 

余談 織部忌の室礼

式正織部流の織部忌茶会では、濃茶の床の間に流祖の肖像画を掛け、その前に五具足(ごぐそく)を飾ります。五具足と言うのは中央に香炉、両脇に一対の花生け、一対の燭台の、五つの道具の事です。

スペースの都合で三つ具足の場合も有ります。その時は花と香炉と燭台が一つずつです。

これ等に加えて、献茶と菓子を供えます。