式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

22 源氏の諸流

いづれの御時にか 女御更衣あまた侍ひ給ひける中に・・・・・侍がおりました。

まぁ! ご冗談を、と言いたいのですが、「侍(さぶら)ひ給ひける」の「侍ひ」が「侍」の語源になっていますので、単語的には当たっています。

天皇の皇子が臣籍降下して源氏の姓を賜ったという点では、光源氏清和源氏も同じです。違うのは、光の君は文学の中の美貌の貴公子。清和源氏は実世界の武人達と言う点です。

清和天皇の第六皇子・貞純親王(さだずみしんのう)は武人で、中務卿兵部卿を務めました。彼の子・経基王(つねもとおう)が源氏の姓を賜って臣籍降下します。

源経基清和源氏の祖と言われています。

この経基、実はとんでもない男でして、平将門の乱の引き金を引いてしまいます。

基経は受領(ずりょう)になり関東に下ります。そこで地元の豪族と一騒動起こします。彼は貢物が少ないと豪族に因縁をつけ、豪族の館を襲撃し強奪します。当時、中央から派遣されてきた国司や受領へは、地元の者達が着任祝いの貢物を贈る慣習があったそうです。それが少ないと言って豪族の館を襲ったのです。それを怒った平将門源経基を逆襲、基経は京都に逃げ帰り、将門は謀反人であるとの讒訴をします。しかし、各地の国府の報告書により将門の無罪が分かり、逆に経基は捕らえられてしまいます。

将門は、中央の強圧的な支配に反感を抱き、中央政権の影響を排除して関東に独立国を打ち立てようとします。彼は近隣諸国を征服して周辺各地を取り纏め、新皇を僭称する様になります。事ここに至って朝廷も黙っていられず、関東に征東大将軍を派遣します。結局平将門は討ち取られてしまいます。基経は放免され、各地の国司を歴任、その度に焼け太りならぬ役人太りになり、ついには鎮守府将軍になります。源経基の子・満仲は各地の受領を歴任します。満仲もその度に私腹を肥やし財を蓄えます。満仲は蓄えた財で武士団を養い、藤原摂関家に仕えます。

地方の受領の役はかなり旨味のある仕事でした。臣籍降下した皇子達に人気でした。

臣籍降下した者の有名な流れに、桓武平氏清和源氏がありますが、源氏に限って言えば、清和源氏の外にも沢山あり、それぞれ天皇の名前を冠して嵯峨源氏とか村上源氏とか、順徳源氏とかがあります。そういう何々源氏を合せると21流あります。

彼等は地方に分散して行きました。源氏の子孫たちは行った先の土地に根を降ろし、武士団の頭目として活躍を始めます。

畿内に定着した源氏には、摂津源氏大和源氏河内源氏近江源氏があります。

中部地方では、美濃源氏信濃源氏石川源氏甲斐源氏があります。

関東では、常陸源氏、下野(しもつけ)源氏、上野(こうずけ)源氏があります。

更に地方名を細分化して、木曽や足利や土岐などの土地の名前を付けました。木曽義仲足利尊氏などがその例です。屋号の様なものです。木曽義仲の本姓は源義仲足利尊氏は源尊氏です。

新田、足利、木曽、佐竹、細川、今川、土岐、若槻、里見、山名、武田、石川と言った者達の本姓は源です。