式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

25 源 頼朝

1160年、平治の乱が勃発します。

この乱で後白河上皇方についた藤原信頼源義朝(河内源氏)は負け、二条天皇方の平清盛が勝ちました。負けた信頼は死罪、義朝も殺されました。武門では、勝者は敗者を皆殺しにする習慣がありました。しかし、ここに一つだけ例外がありました。平清盛は反逆者・源義朝の子供を助命したのです。彼は義朝の嫡男・頼朝を伊豆に流罪、牛若丸を寺に入れます。

 

初め、頼朝は伊豆の豪族伊東祐親(すけちか)に預けられます。祐親が上洛してる間に、頼朝は祐親の娘・八重姫に手をつけ、千鶴丸という男子をもうけます。京都から帰って来た祐親は激怒、3歳の千鶴丸を簀巻きにして松川の「轟の淵」に投げて殺してしまいます。頼朝は慌てて乳母の比企尼の娘の縁を頼って北条時政の所に逃げ込みます。(伊東祐親は後に曽我兄弟仇討事件に深く関わります)。北条時政は、流刑人・源頼朝を預かり監視役になります。ところが、ここでも時政の娘・政子と頼朝は恋仲になってしまいます。時政は止む無く娘の結婚を認めます。

 

1180年、以仁王は令旨を発して平家打倒の狼煙を上げますが、それに呼応した源頼政(摂津源氏)と一族は敗死。平氏による源氏の探索が厳しくなり、源頼朝にも危険が迫ってきたので、頼朝は平家打倒に立ちあがります。舅・北条時政の力を借り、伊豆の平氏目代を討ち取りますが、石橋山の戦いで敗け、頼朝は逃げて洞穴に隠れます。梶原景時が洞穴に潜んでいた頼朝を見逃し、お蔭て彼は命拾い。その後、頼朝は船で安房に逃げ、坂東武者達を糾合して反撃に出ます。

 

頼朝は、京都に先に攻め上った従兄弟の木曽義仲を攻め滅ぼし、義仲の嫡子にして頼朝の娘大姫の婿・義高を斬殺します。頼朝は更に範頼と義経を平家討伐に向かわせ、平家を壇ノ浦で滅亡させます。

平家討伐に大功ある義経でしたが、頼朝は、義経と令旨をもたらした従兄弟の源行家の両名に謀反の疑いを掛けます。行家は鎌倉の手の者に捕まり、息子共々斬首されます。

北条時政義経謀反の問題で京都に赴き、義経探索の為の守護・地頭を全国に置く事を朝廷に認めさせました。これによって鎌倉幕府の支配圏が格段に広がり、また、経済的基盤も固まり始めました。

1189年、頼朝の要求に屈して藤原泰衡義経を討ちます。

1192年、源頼朝征夷大将軍の宣下を受け、鎌倉に幕府を開きます。

1193年5月、頼朝は、富士山の麓で大規模な軍事演習「富士の巻狩り」を行います。

その最終日、そこで曽我兄弟の仇討があり「頼朝様も討たれた」の誤報が鎌倉に届きます。政子は動揺。その政子を力づける為に範頼が「私が居るから大丈夫」と言った一言で、範頼は頼朝から謀反の疑いを掛けられ、幽閉されてしまいます。(誅殺の噂も)

 

頼朝は、現代に言い換えれば軍事政権の独裁者です。どのように貢献しても、独裁者の些細な疑心一つで水泡に帰してしまうばかりか、命まで失いかねないのです。

武家社会と言うのは軍事政権の社会と言う事です。そういう武家社会の始まりが鎌倉時代でした。

 

余談 頼朝兄弟の最期

頼朝の男兄弟9人の中で、まともに天寿を全うした者はおりませんでした。

頼朝(事故死)、義平(斬首)、範頼(幽閉or誅殺)、朝長(討死),義門(討死)、希義(討死)、全成(今若丸・誅殺)、義円(乙若丸・討死)、義経(牛若丸・自刃)