式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

26 曽我兄弟仇討事件

1193年に起きた曽我兄弟仇討事件は、曽我祐成(すけなり)と曽我祐致(すけまさ)の兄弟が、「富士の巻狩り」の場で、父の仇・工藤祐経(すけつね)を討ったという実在の事件です。

原因は領地の相続争いです。歌舞伎では曽我兄弟が仇討すると拍手喝采ですが、そう単純ではありません。婆の目には、リヤ王とマクベスハムレットが一緒に舞台に上がったような事件に思えてしまいます。

領地分与の判断を誤ったリヤ王(工藤祐高)、領地を奪った加害者(祐親)マクベスの子孫と、領地と妻を奪われた被害者(祐経)ハムレットの、互いの怨恨が世代を超えて2度交差し、被害者の放った怨みの矢が、次なる怨念を生むという話です。結局、加害者の子孫が被害者を殺害してしまいます。

あらまし

工藤祐高(家次とも)には嫡子祐家がいましたが、祐家は幼子を残して夭逝してしまいました。

祐高は嫡子の幼い遺児(祐親)に家督を継がせるのは無理と考え、自分の後妻の連れ娘が産んだ祐継(すけつぐ)に家督を譲ります。祐高は祐継に伊東荘と宇佐美荘を譲り、嫡子遺児祐親に河津荘を与えます。

祐継43歳の時 (祐継は後妻の連れ子が産んだ子。その子が本家の跡取りになっている)、病床の枕辺に祐親を呼び (祐親は本家跡取りを外された嫡子遺児。)、息子の祐経 (祐継の子供) の後見人にします。祐親は祐経を育て、やがて祐親は自分の娘と祐経を結婚させます。 (一説では、初代祐高は後妻の連れ娘を犯して祐継を産ませた、とも言われています。)

祐経は京都に出て平家の家人となり、朝廷の役人になって左衛門尉にまで出世します。祐経が上京して20余年、その留守中、後見人だった祐親が、祐経の全ての所領を奪ってしまいます。祐経は検非違使に訴え出ますが、既に祐親が根回しをしていたので、敗訴します。祐経が恨みを募らせ文句を言うと、祐親は激昂し、祐経の妻を強引に離縁させ、他所に嫁がせてしまいました。土地も妻も奪われた祐経は祐親に殺意を抱き、祐親とその息子を矢で射る様に家人に命じます。矢は祐親の息子・祐泰に命中します。祐泰には二人の幼い子供が居りました。未亡人になった祐泰の妻は、二人の子を連れて曽我祐信と再婚します。二人の子は名を曽我と改めます。後の曽我祐成と曽我祐致で、彼等が父祐泰の仇討を遂げた二人です。

 

さて、巻狩りに参加したのは有力御家人60人。御家人それぞれが小軍団の頭目ですから、総動員数は相当なものです。宿舎、幕舎が無数にある中、幾多の誰何(すいか)を潜り抜け、仇の居場所を突き止めるのは至難です。しかも、風雨の真夜中の決行。協力者が居ないと一寸無理。

巻狩りの設営担当は北条時政。そして、弟の曽我祐致は時政の家人でした。彼は祐経を討った後、抜身の刀を引っ提げて頼朝の寝所を襲います。本懐を遂げたならば他に用はない筈なのに、何故? 同日同じ場所で、伊豆と相模の御家人同士の武力衝突が起こり、騒乱状態になります。公式には伊豆と相模の武力衝突は伏せられ、相模の御家人大庭影義(おおばかげよし)と岡崎義実(おかざきよしざね)が責任を取って出家。両者の土地は時政の手中に収まります。

遠江守護は源範頼です。事件後範頼は失脚、範頼の領地は時政が手にし、結果、時政は遠江駿河・伊豆の土地を手にしました。単なる仇討にしては激震の度が過ぎ、この事件の裏に頼朝暗殺陰謀説が浮上する所以です。

 

余談 工藤(伊東)祐親と源頼朝北条時政

祐親は頼朝の最初の妻・八重姫の父です。彼は頼朝と八重姫の子・千鶴丸を殺しています。

祐親の娘の一人が北条時政と結婚し、政子と義時を生んでいます。牧の方は時政の後妻です。

石橋山合戦で、祐親は時政の長男宗時を討っています。祐親と時政は共に伊豆の豪族で、親戚で、敵同士でもあります。

殺された祐経は20年も在京し、朝廷で左衛門尉を務めていた為、京都の人脈・文化に通じ、頼朝にとって京都布石の重要な人物でした。