式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

27 執権北条氏(1) 北条時政

初代執権・北条時政

北条時政を語る時、彼の異常な権力欲には嫌悪さえ覚えます。

曽我兄弟事件の戯作者は、恐らく時政ではないかと、婆は邪推しています。

時政は曽我兄弟に仇討を勧め、祐経の居場所を教える代わりに頼朝の暗殺を教唆、そして、仇討の成否に関わらず「不届き者」として兄弟を成敗し、その上で事件をうやむやにする為に、伊豆と相模の御家人達の偶発的衝突を演出して騒ぎに紛れ込ませる魂胆だった、と・・・。ただ、それだと時政は頼朝と言う出世の種を自ら葬る事になります。婆の邪推は、そこを突かれると弱いです。

1199年、仇討事件より6年後の平和な時、頼朝が落馬して死亡します。

頼家が18歳で二代将軍になります。ところが、頼家の独断専横が過ぎて反発を招き、ついに、幕府の運営は13人による合議制になり、頼家は次第に政務に意欲を失って遊び惚ける様になります。

合議制が始まって1年後、13人の内の最有力御家人梶原景時が粛清されます。景時は頼朝の命の恩人であり、頼朝が最も信頼していた御家人ですが、CIA的な役割を担っており、御家人達から嫌われておりました。

その景時が幕府から追放され、駿河国の狐ヶ崎で一族全員討死しました。景時が消されて、頼家は自分を守る防護壁を失いました。

更に頼家は後ろ盾だった比企氏を失います。

比企能員(ひきよしかず)は、頼家の妻・若狭の局の実家です。若狭の局が頼家の嫡男・一幡を生んだので、比企氏は外戚として力を持ち始めました。時政にとってそれは脅威でした。

1203年7月に頼家が病に倒れ危篤状態になります。そこで、家督相続が話し合われ、関東の地頭職を嫡男一幡に、関西の地頭職を頼家弟の千幡(後の実朝)が継承する事が決まります。それに不満の比企能員。娘を通じて北条時政を討つ様に頼家に働きかけます。政子がそれを時政に報せ、時政は先手を打って能員を招いて謀殺、比企氏に謀反ありと軍を発し、比企氏一族を一幡もろ共に全滅させてしまいました。(1203年9月比企氏の変)

危篤を脱した頼家は激怒、時政を討とうとしますが、逆に政子が頼家を修善寺に幽閉してしまいます。実はこの時、頼家は既に死んだ事になっていました。「頼家死す」と朝廷に届け出て、次期将軍に千幡(実朝)を推していたのです。政子は頼家を幽閉して世間から隠しました。時政は、頼家を殺す様に義時へ命じます。

時政には「牧の方」という後妻が居りました。牧の方には平賀朝雅(ともまさ)という娘婿が京都に居りました。牧の方は平賀朝雅を次の将軍にしたいと画策していました。二代将軍実朝の正室を迎える為に京都に赴いた畠山重保が、宴席で朝雅と諍いを起こします。これを根に持った朝雅が牧の方に讒訴、これが謀反の疑いに発展し、畠山重保とその父・畠山重忠が討伐されてしまいます。

その頃、実朝は時政邸に居住していましたが、危険を察知した政子と義時姉弟は実朝を時政邸から連れ出し、実朝を政子の庇護の下に置きます。しかし、牧の方は平賀朝雅を将軍にする野望を捨てず、彼女は時政を動かして実朝を暗殺してしまいます。(義時もそれに加担した気配があります)。これ以後、政子と義時は父の時政と袂を分かちます。そして、時政を捕らえて出家させ、牧の方を幽閉してしまいます。平賀朝雅は、義時の命により殺害されました。

時政は伊豆に隠居。政治の表舞台に出る事無く78歳で没します。

曽我兄弟仇討事件で、工藤祐親をマクベスに譬えましたが、真のマクベス北条時政だと、婆は思っております。

三代執権・北条泰時は、祖父時政の法要を一切しなかったそうです。