式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

28 執権北条氏(2) 北条義時

二代執権・北条義時

義時は北条時政の次男で、頼朝の正室・政子の弟です。

嫡嗣子の兄・宗時が石橋山の戦いで討死したので、義時が嫡嗣子に繰り上がりました。彼は父・時政の命ずるままに父の手足となって働きました。

頼朝挙兵の時は勿論の事、義経追討軍を指揮し、幾多の戦功をあげています。一方、誅殺、討伐、暗殺など父の命令に従い、かなりダークな面も担っています。畠山重忠討伐の時は、義時は重忠討伐に反対しましたが、結局、彼は父の命令に従って出陣します。後で重忠が無実だと知り、義時は泣いて悔やんだと伝わっています。(1205年6月22日畠山重忠の乱)。

義時は、牧の方の言いなりの父から次第に離れる様になり、ついには父・時政を逮捕して出家させ、隠居させます。

承久の乱

1219年(承久元年)1月、三代将軍源実朝が暗殺され、将軍継嗣問題が起こります。皇子から将軍を迎えたいと北条政子は願い出ますが、交渉は難航。朝廷は将軍空位の時こそ討幕の好機と捉え、討幕の動きを強めます。同年7月、御所の警備を担っていた北面の武士源頼茂が、突然西面の武士に襲われます。源頼茂は、源頼政(治承の乱で宇治の平等院で討死)の孫です。

頼茂については「後鳥羽院ノ勅勘ヲ蒙リ仁壽殿二走入火ヲ放テ自害ス」とその時の様子が古田家の系図に記録されています。頼茂の子・頼氏も父と共に自害しました。多分、朝廷側は鎌倉側の諜報活動を封じる為に、源頼茂を取り除いたのではないかと、これは婆の推測です。

1221年5月15日、後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣を発します。上皇に応じなかった在京の伊賀光季(いがみつすえ)は、同じ15日、兵800騎に襲われます。多勢に無勢。光季は下人に事変を直ちに鎌倉へ知らせる様に命じて討死。4日後の19日、その急報が鎌倉に到着。鎌倉は大混乱に陥りますが、北条政子御家人を前に演説を行い、御家人達を一つに纏め、22日に京都へ進発します。スタートは少人数でしたが、東海道東山道北陸道の三方から攻め上る内、最終時には総勢19万騎の兵力になり、院の軍を攻めて圧勝。幕府は後鳥羽上皇隠岐に、順徳上皇佐渡に、土御門上皇は土佐に流し、加担した公家達や武士達を処刑しました。義時は処罰した者達の荘園を取り上げ、そこに鎌倉側の御家人を地頭として送り込みました。対象になった荘園は西国や九州まで含まれていたので、幕府の勢力範囲も全国に広がりました。

鎌倉幕府はこれにより軍事力も経済力も発言力も増しました。幕府は朝廷監視の為に六波羅探題を設置、朝廷の統制を強めます。そして又、将軍補佐役でしかなかった執権の地位が強大になり、京都から迎えた将軍・藤原頼経(九条家出身)は、お飾り的な存在になりました。

 承久の乱の翌年の1220年、義時は全ての官職を辞めて無官になっています。

1224年6月13日卒。享年62歳。

 

余談 執権職

北条時政を初代執権、北条義時を二代執権としましたが、執権職というポストがしっかりと確定した時期は義時の時からです。ですから、北条義時を初代執権とする人もいます。

 

余談 武家の子供事情

北条義時は、父親の言いなりに動く自主性のない男に見えますが、武士の家では上の者に絶対服従する様に育てられます。家長>長男>次男・・>>女で、女は系図上に名前さえ出ません。家長は戦力を増強する為、正室の外、側室を何人も持って種馬的に働きます。武器の性能に大差ない白兵戦の時代、男子の数そのものが戦力でした。女子は姻戚関係を増強する為の駒です。正室は悋気よりも家の存続を優先しました。