式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

30 執権北条氏(4) 北条経時 松下禅尼

4代執権 北条経時

経時(つねとき)は、3代執権・北条泰時の長男・時氏の嫡嗣子、つまり泰時の嫡孫です。

泰時には3人の男子がおりましたが、執権職は子供を通り越して孫に受け継がれました。

事情はこうです。

泰時の三人の男の子は、不運にも長男は28歳で病死、次男は喧嘩で死亡、三男は年取ってからの子で泰時が亡くなった時には2歳でした。子供の中に執権職を継げる様な適格者が居なくなってしまった泰時は、嫡孫の経時をその地位に相応しい様に育てます。泰時は、経時を若くして役職に着けて実地を学ばせたり、元服の加冠役に将軍頼経に頼んだりして、それなりに盛り立てて育てました。そういう訳で泰時が死ぬと、19歳の孫・経時が執権職を相続したのです。

実はこの時、我こそは執権職に相応しい、と思っている男が居りました。それは、2代執権義時の項で、義時の嫡嗣子・朝時が夜這い事件を起こして廃嫡になったと述べましたが、その廃嫡された朝時の子・光時です。本来ならば父・朝時が廃嫡されていなければ我こそが執権になって居た筈、との思いが強く、反経時派の中核になって行きます。

19歳で四代執権を継いだ経時は、叔父・重時の支えを得て政務に当たって行きます。経時は、訴訟制度の簡略化とスピード化の改革を行い、それなりの成果を上げましたが、激務と、反経時派の対応に苦しめられます。

将軍・藤原頼経(九条)は、北条政子が京都から招いた時は2歳でしたが、経時が執権に就いた頃は27歳になっていました。お飾り将軍だった頼経は、お飾りの殻を脱ぎ捨て将軍親政を始めようとします。そういう将軍と結びついたのが、先に述べた反経時派の北条光時です。

光時は、三浦泰村、千葉秀胤、藤原定員、後藤基綱、三善康持などと反体制のグループを作り始めていました。

経時は彼等を潰す為、将軍頼経を解任し、その代りに頼経の息子の九条頼嗣を新将軍に就けました。けれども、頼経は鎌倉に留まって息子の頼嗣の後ろにぴったりと寄り添い離れなかったので、経時の思惑は外れてしまいました。

経時は次の一手で、自分の妹の檜皮姫(ひわだひめ)を新将軍頼嗣に嫁がせて将軍の後見役に就き、なんとか執権としての力を保ちます。

経時は次第にストレスに苛まれ、病気がちになります。ついに、1246年3月23日病気が重篤になり、後継者問題で秘密会議(深秘の御沙汰)が開かれ、後事を弟・時頼に託します。

1246年5月17日卒 享年23歳 執権在職期間3年9か月 

 松下禅尼

師走の大掃除の時に、母はよく「今年は松下禅尼で」と言ったものです。これは婆の子供時代の話です。そう聞くと婆は嬉しくて、鋏と紙を持ち出して桜の花を何枚も切り抜きました。

今の若い人は松下禅尼と言われてもピンとこないかも知れません。「徒然草」の184段の話、と言えば思い出す方もいらっしゃるでしょう。

松下禅尼は、4代執権・経時と5代執権・時頼兄弟の母で賢婦人と聞こえた人です。

時頼が執権になった時期の頃のエピソードがあります。

彼女は明かり障子の張替えをする時に、全面的に張り替えるのではなく、破れた所のマス目だけを切り取って、そこを補修しました。「そんな事は某にやらせよう。あいつは器用だから上手く張れるぞ」と禅尼の兄が言うと、禅尼が「私の方が上手にできますよ。それに、質素倹約をあの子(執権時頼)に見せて教えなければ」と言ったそうです。

幕府の権力者・執権の母ならば贅沢三昧も出来ように、彼女は身をもって息子に質実の大切さを教えたのでした。この話は明治期の文部省唱歌にもなっていたそうですし、戦前の国定教科書にも載っていたそうです。母の「今年は松下禅尼で」は、障子の張替えは切り張りで済ませましょう、という意味だったのです。我家の障子に桜の花が咲いたのは勿論でした。そして、毎年のように禅尼の障子になりました。桜が八重桜の様に重なって満開になると、ようやく全面的に張り替えました。そんな時は、まっさらな障子紙に緊張して、破かない様に大人しく立ち居振る舞いに気を付けたものです。

武士の家で、部屋の中での行儀に厳しかったのは、襖や障子を破かない様にする為だったのかも知れませんね。