式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

33 執権北条氏(7) 元寇(1) 南宋滅亡

遊牧騎馬民族モンゴルの人々の視界には国境線が無く、有るのは無窮の天地でした。彼等の中からジンギスカン(太祖)が現れてからモンゴルは瞬く間に版図を広げ、広大な帝国を築きます。

蒙古は道や通信網を発達させ、欧州から中国までの東西交流を以前よりも活発にしました。商売上手な色目人(西域や西アジアの人達)が経済を活発にし、物流が円滑になりました。陶磁器の絵付けの鉱物が手に入り易くなり、染付の青が出るようになりました。

一方、広大過ぎる国土を一元的に支配するのは大変なので、国土を幾つかに分けて身内の者を王にし、分割統治をしました。が、それは又、内紛を一層激しくするものでした。

フビライが中国を征討している時、兄弟のアリクブケが5代目の帝位につきます。フビライはそれを認めずアリクブケを攻撃、帝位を奪って6代目の帝王になります。

 

南宋の武人・岳飛(がくひ)は国防の重要性を説き、高宗に主戦論を強く主張します。ところが、秦檜(しんかい)と言う男が現れ、戦うよりも和睦を結び朝貢する方が損失は少なく国益の為であると、高宗に進言します。

秦檜は、かつて宗が金に滅ぼされた時、徽宗や欽宗、3,000人の廷臣らと共に金の捕虜になった男でした。(※ 9 栄西、第二次渡宋  余談参照)

秦檜は金に優遇されていました。そして、解放され南宋に来たのです。彼が高宗に面会すると高宗は喜び、早速秦檜を宰相にしました。

秦檜は持論を達成すべく、武官、文官構わずタカ派を弾圧、救国の英雄・岳飛に反逆の濡衣を着せて処刑してしまいました。秦檜は苛烈な粛清を断行、南宋は恐怖政治に覆われます。

南宋タカ派を一掃し、外交による融和策に転じた頃、蒙古は金に触手を伸ばし、金を呑み込んでしまいます。

1267年、フビライ南宋攻略に着手します。

    (日本ではこの翌年に北条時宗が18歳で執権になっています。)

蒙古軍は平原の騎馬戦は得意でも、城攻めは苦手です。そこでフビライは土塁を築いて襄陽(じょうよう)を包囲し、兵糧攻めをします。蒙古軍は6年かけて襄陽を陥落させます。

中国は南船北馬と言われる土地。フビライは水軍の必要性を痛感し、15,000隻の船を建造します。彼の視線の先には日本がありました。彼は同時並行の侵略を進行させます。朝鮮半島を支配し、日本産出の硫黄(火薬の原料)や銀や金を掌中に押さえる狙いがありました。(「東方見聞録」の黄金の国伝説に憑りつかれたのでしょうか。)

さて、襄陽が陥落すると、秦檜の粛清によって既に良将、猛将を失い、軍隊も弱体化していた南宋は、連戦連敗の状態になります。

1271年、蒙古は国名を「大元」と定めます。

1276年、南宋の都・臨安(杭州)が落ち、南宋皇帝・恭宗が降伏します。ここに南宋は滅亡しました。

1279年、南宋に残っていた抵抗勢力が全滅し、元は完全に南宋を掌握します。

 

その頃、日本へ続々と禅宗の高僧が日本にやってきます。蘭渓道隆(建長寺開山)、兀庵普寧(ごったんふねい)(建長寺2代目住職)、大休正念はじめ、弟子達も来日します。

1279年、無学祖元が北条時宗の招聘を受けて来日、建長寺の住職になります。(※ 無学祖元は臨刃偈の禅僧です。「18 室礼の歴史(3) 禅の影響」参照)

建長寺には渡来してきた禅僧たちが大勢いて、さながら外国かと思うばかりに中国語が飛び交っていたそうです。

無学祖元は鎌倉幕府に最新の大陸の情報を伝えます。勿論、無学祖元ばかりでなく、渡来の僧達も様々な情報を伝えています。

幕府は事前にかなり元の情報を得ています。

 

余談

 岳飛 国史の中で、英雄中の英雄と言えば先ず岳飛の名前が挙げられます。

貧しい農民の子でしたが、文武両道に優れ、強国金を相手に連戦連勝、中国南部

まで侵攻した金を、開封(北京)まで後退させました。非業の死後「卾王」に封じ

られ、西湖の畔に岳王廟が建てられました。

秦檜 秦檜の名は、売国奴の代名詞にもなるほど嫌われており、岳王廟の前の鉄柵の檻の中に、後ろ手に縛られて座る秦檜夫婦像が設置されています。今でも人々はその像に唾を吐きかけているのだとか・・・

南船北馬 華北は平野などが多くて馬で移動するが、江南は川が多くて船で移動する、という意味です。

 兀庵普寧 兀庵普寧の話は難解でついて行けず、頭の中がこんがらがる事から→ごったんごったん→ごたごたの語源になったそうです。