式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

34 執権北条氏(8) 元寇(2) 時宗

時宗誕生

宋が金に滅ぼされて南宋が生まれ、金はやがて元に滅ぼされてしまいました。元は金を呑み込んだ後に高句麗を隷属させ、南宋を滅亡させます。

その頃日本では、執権北条時頼正室から一人の男児が生まれました。正寿丸と言います。後の時宗です。

正寿丸には兄の宝寿丸が居ました。宝寿丸は兄とは言え側室の子だったので、順位は正寿丸より格下になります。 宝寿丸は長じて時輔と名乗ります。時輔は二月騒動で時宗によって殺されます。

武家帝王学

幕府の期待の星・時宗には、特別の英才教育が施されます。

7歳で元服、9歳で小侍所の別当に就任。当時小侍所の別当だった北条実時の薫陶を受けながら、時宗は実務経験を積んで行きます。実時は人格も教養も優れた幕府随一の文化人です。実時は古今の典籍を集め、相模の六浦に金沢文庫を創設しています。

中継ぎ執権6代目長時が出家、7代目執権を継いだ60歳の北条政村も、時宗への中継ぎの役に徹します。彼は14歳の時宗連署にして、一層の経験を積ませます。連署とは執権の補佐役で、執権と同等の力を持つ重要なポストです。時宗はその一方、蘭渓道隆や兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念の教えを受け、精神的な修行も積んで行きます。勿論武家の棟梁としての鍛錬も怠りなく、11歳の時に披露した笠懸の騎射の腕前は、将軍・宗尊親王を唸らせるほどでした。揺れる馬上で弓を射るにはそれ相当の肝が据わっていなければ出来ない事です。

蒙古迎撃準備

1268年、高麗の使節が蒙古の国書を携えて太宰府にやってきます。太宰府から、その国書が鎌倉にもたらされます。外交は朝廷の専権事項として、幕府は蒙古の国書を朝廷に回します。朝廷は連日会議を開きますが、鎌倉幕府は国書を無視します。元の使節(実際には高句麗使節)は返書を得られず、7か月後帰国します。

いずれ蒙古が攻めて来ると見て、政村と時宗は幕府の引き締めを図ります。まず、

1272年、権力の一元化を図る為に、18歳の時宗が8代執権になります。政村は時宗を支える為に、今度は立場を代えて連署になります。

1272年2月、鎌倉で、名越流の北条時章と教時兄弟に謀反の疑いが有り、と言う理由で時宗の命により討手を差し向け、誅殺します。更にその4日後、時宗は、京都の北六波羅探題北条義時に、南六波羅探題北条時輔を謀反の疑いで討伐させます。(二月騒動)

しかし、後で時章には叛意は無かったと分かり、討手の5人に責任を転嫁してこれを時宗は殺してしまいます。

また、六波羅探題の時輔を誅するに足る十分な謀反の証拠はありませんでしたが、多分、と婆は次の様に推測します。六波羅探題と言う職責で朝廷と良い関係を作り、公家達との人脈も多く、名越流の人達とも交わっていた時輔は、それだけで将来反得宗家の旗印になり得る人物だったからではないか、と・・・。全く不条理な、と思いますが、後世、同じ様な事件が起こった事を考えると、強ち考えられない事でもありません。

ここで突然関白秀次事件

後世の出来事とは、秀吉の時代の関白秀次事件です。関白秀次は悪行の関白で、その為に誅されたと言われていますが、本質は違います。関白の仕事は人事と叙任です。その為、関白秀次の下に大勢の大名が寄って来て一大勢力を形成しました。秀次が作る派閥を、幼い秀頼の将来の為に秀吉が恐れたのです。

桶狭間今川義元を討ち取った功労者・服部一忠は秀次によって松坂藩の藩主になりますが、彼は秀次事件に連座して切腹します。秀次に厚遇されて切腹した大名が他にも何人もいます。白井備後守、木村常陸守、一柳右近、明石左近、羽田長門守、前野但馬・・・関白秀次事件を語る時、秀次一人の切腹と妻妾と子供達の30余名の虐殺話で終わってしまいますが、実は竹林の根の様にかなりの広がりを持った事件です。この件については桃山時代に話が進んでから改めて取り上げたいと思います。

話が脱線してしまいました。

この二月騒動により、長年得宗家に反抗的だった名越流の北条氏を一掃し、幕府の一本化に成功、時宗独裁を確立します。けれども、この事件で時宗の非情さが知れ渡りました。御家人達の神経はピリピリと引き締まり、幕府に対する『無駄な抵抗』が無くなりました。

九州手配

名越流北条氏は、九州に多くの所領を持っていました。時宗は、彼等の所領を召し上げ、得宗家に忠誠の堅い者達に移しました。万一、蒙古が攻めて来た場合、鎌倉による指揮命令系統が直接把握できる様な態勢を、彼は整えました。

時宗は、西国に所領を持つ東国御家人に対して、西国に行くように命じ、蒙古を迎え撃つ準備を進めました。そして、鎮西奉行少弐資能大友頼泰の二名に博多の警備の総指揮をとらせました。

元からの使者は6度に及びますが、いずれも返書を得る事無く帰国します。

1274年1月フビライ高句麗に戦艦300隻の建造をさせます。更に船を大小900隻を建造させます。蒙古軍15,000人の主力部隊と日本攻めの総大将クドゥン高句麗に到着します。

 

 

余談  金沢文庫

金沢文庫は日本最古の図書館です。

京浜急行金沢文庫駅は、北条実時が設立した金沢文庫に因んで名付けられました。

金沢文庫は、金沢流北条家の実時が、古今の典籍、記録類等々を集めて作った書庫です。実時が作った当時の建物は失われてしまいましたが、書籍や書画、文化財等は引き継がれ、現在は神奈川県立金沢文庫となっています。