式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

35 元寇(3) 文永の役

1268年、高麗の使者が蒙古の国書を携えて太宰府にやって来てから後、何回も日本へ使者を送り「友好か、さもなくば・・・」の瀬戸際外交を元は試みますが、日本は相変わらず無視。いよいよもってフビライは日本侵攻を決意します。

対馬の戦い

1274年(文永11年)10月5日午後4時、今の暦で11月26日そろそろ日没の頃、対馬海上に雲が湧く様に夥しい船影が現れました。900隻の船団を組んだ蒙古軍が対馬の小茂田浜(こもだはま)に現れたのです。報せは対馬守護代・宗助国(そうすけくに)に伝えられました。既に夜。助国はすぐさま馬を走らせ現地に駆けつけます。

翌朝、元軍に来航の主旨を尋ねますが、激しく弓矢で攻撃してきましたので、助国は陣を立てて応戦しました。助国の兵は80騎。小茂田浜に上陸した蒙古軍は約1000人。勇敢に戦いましたが、圧倒的な元の兵力を見て助国は死を覚悟し家臣の小太郎と兵衛次郎にこの事を太宰府に知らせる様に命じて、助国はじめ全員討死します。二人は島を脱出、太宰府に急を報せます。

蒙古軍は対馬上陸後、残虐の限りを尽くし、男・老人・子供を見つけ次第殺します。殺して人肉を食料にしました。女を凌辱の上、掌に穴を開けて縄を通し、数珠つなぎにして船べりにぶら下げました。人間の楯にする目的だったと言う説と干し肉にする為だったと言う説があります。島の牛馬は全て彼等の胃袋に納まりました。彼等は10日ほど対馬に居座り、壱岐へ向けて出港します。

蒙古軍と言っても、3万余の兵士の内、かなりの割合が高麗人です。それに宋人、女真族が加わった混成部隊で、蒙古人は指揮官の外は余りいなかったようです。

壱岐の戦い

蒙古軍は壱岐でも虐殺の限りを尽くしました。

壱岐の守護は平景隆対馬の情報から景隆は迎撃の体制を整えますが、彼の手勢は100騎。到底敵う相手ではなく防戦に追われ、樋詰城(ひづめじょう)まで後退しそこで自害します。平景隆は最期に家臣の宗三郎と自分の娘の二人を呼び、太宰府へ「壱岐は全滅した」と伝える様に命じますが、娘は途中で矢に射られて死んでしまいます。こうして蒙古軍は九州の博多にやってきます。そこで待っていたのは・・・

博多の戦い

元の官吏の、伝聞による手記に拠れば、日本は『・・騎兵は結束す』とあります。また、元史にも『彼の兵は四集し・・・』とあり、日本軍も集団戦法だった事が分かります。婆は、武士達は名乗ってから一騎打ちを仕掛けたので、蒙古軍に忽ち討ち取られたと習いました。実際は、仲間内で「儂は何の某。お手前は?」「私はこう言う者」と互いに名乗り(自己紹介)していたそうで、それは論功行賞の時にお互いの証人になって貰う為のものでした。

1274年(文永11年)10月16日、元軍は肥前の松浦(まつら)党の島々を襲撃、松浦郡を壊滅させます。

10月20日博多湾百道(ももち)原に上陸、赤坂へ移動し、そこに布陣します。太宰府から京都と鎌倉に急報が発せられ、鎌倉は援軍を九州に差し向けます。九州各地の御家人達が続々と博多に集まります。筑後川の渡河も、神代良忠(くましろよしただ)が浮舟橋を架けたので、軍の移動が円滑になりました。初め日本軍は博多の息の浜で元を迎撃する積りでしたが、菊池武房が赤坂に布陣していた元軍を発見、100騎で攻撃をします。元は麁原(そはら)へ敗走。鳥飼潟(とりかいがた)でも激戦。元は百道原まで敗走し、そこで決戦になります。日本軍の総大将・少弐景資が、元の左副都元帥・劉復亨(りゅうふくこう)を射倒します。

博多は戦場になり、筥崎宮は炎上します。住民も被害に遭いました。

 20日の戦は朝から始まりましたが、夜になると元軍は船に引き上げます。彼等は陸上に橋頭保(足懸りになる陣地)を築いていませんでした。日本軍は夜襲を掛け、更に追い打ちします。

翌10月21日午前6時頃、元軍の船は悉く消えていました。元軍は出航してしまったのです。理由は矢が尽きた事、指揮官の劉復亨が負傷してしまった事、船内の衛生環境が悪く病人が続出していた事、等が挙げられています。

彼等は冬の玄界灘に乗り出して行きました。玄界灘の冬は北西の季節風が吹き荒天が続く魔の海域です。船は木の葉の様に揉まれ海底に沈んで行きました。 船が大破して沈んだのは粗製乱造の船だったから、と言われておりましたが、最近の水中考古学によると、沈んだ元の船は結構ちゃんと作られていたそうです。

元軍の記録によれば、還らざる者13,500人とあります。元軍にとって戦死した者よりも溺死した者の方が圧倒的に多かった戦でした。

 

余談  蒙古襲来絵詞

蒙古襲来絵詞は、竹崎季長元寇の時に活躍した時の話を、武功の証として絵師に描かせたものです。当時の戦いの様子が良く分かるものとして、歴史の教科書には必ずと言っていい程載っていますが、ちょっと話を盛っている所があるので、注意が必要です。季長が敗走する蒙古兵を追っている図に、それに立ちはだかる様に元軍の3人が描かれています。この3人は筆致や色合いから、後から描き加えられたものと言うのが現在の定説です。反撃を受けてこんなに大変だったんだぞ、と示したかった為と言われています。