式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

36 元寇(4) 弘安の役(前編)

『煩(わずら)い悩む莫(な)かれ』 

一国の運命を背負う孤独な若きリーダー北条時宗。苦悩する彼に無学祖元は『莫煩悩(まくぼんのう)』と書き与えました。祖元は更に

『海虜百万、鎮西に寇す。風浪俄かに来たって一時に破没す。』(海から百万の蒙古軍が来て鎮西を侵略するであろう。しかし、風浪が俄かに来て船は皆壊れて沈む)と予言し、『驀直去(まくじきこ)と言いました。

時宗は『喝――ッ!  』と叫んで師の教えに応えたそうです。

使者処刑

1275年、元は再び日本に使者を派遣してきました。時宗は使者を鎌倉に連れて来させ、処刑してしまいます。使者が帰らないので、元は重ねて使者を派遣します。この使者達も博多で斬首します。2回とも梨の礫(つぶて)の使者になりました。

元の状況

その間にもフビライは高麗に600艘の軍船建造を命じます。一回目の戦役で木を大量伐採したので、山は荒れ放題。材木が圧倒的に足りません。600の内200艘分を命じられた担当者は、50艘分は完成したがそれ以上は無理、使役の民も疲弊している、と報告しています。又、前回で矢が尽きてしまったので、矢も大至急製造しなければならず、戦支度に時間が掛かりました。梨の礫の使者を待つ迄も無く、フビライは日本侵攻を当初からやる気でした。

元の廷臣の中には、日本攻略の延期や中止を求めて諫める者も出て来ました。

①無理をすれば民が反乱する。②日本を取っても得にはならない。③先ずは南宋を落してから日本を攻めるべし

1279年8月、日本へ遣わした使者が処刑された事が元に伝わります。

1280年フビライは日本行省を設置し、そこを日本征討の大本営にします。

日本の迎撃準備

鎌倉幕府は、元が再度襲来すると見て、博多湾の海岸線に石築地を20㎞にわたって築きました。石築地の外の浜辺には元軍の上陸を阻む乱杭や木々で作ったバリケード(逆茂木) 等を構築しました。これらの設備は、元の「てつほう」の投擲距離や元弓の矢の飛距離などからの十分な間合いを取って造られました。

「てつほう」の重さは4~5㎏で、砲丸投げをする様な感じです。現在の砲丸投げの世界記録が23m12。普通の人だと約10~15m位がせいぜい。オリンピックで行われている回転式投擲法が無い時代、「てつほう」は遠くに投げられず、武器と言うより脅かし用だと武士達は前回で学習しています。

和弓の矢は楽に200mは飛びます。戦場で使う征矢(そや)は、三十三間堂の通し矢で使う的矢と違って、殺傷力が非常に高くなっています。鏃(やじり)が柳葉か槙(まき)の葉の様に細長く四角錘の鋭い形で、鏃の身の先(茎部)を矢竹の中に深く挿入する為、普通の矢の2倍の重さが有ります。矢竹は真直ぐに整え直し、三枚の矢羽根は竹の繊維に対して少し斜めに着けるので、矢は回転しながら直進します。征矢は板の楯や鎧を貫通する威力があります。

元の弩級の弦の張力は強く、反発力は160~180㎏程あったそうです。弓を引くのに腕力も背筋力も相当な力が必要でした。矢を板の上に置いて弓を引くので照準は合わせ易かったのですが、発射後の矢の安定性が悪く、連射性も和弓よりは劣っていたようです。

陸上の白兵戦ならば武士の方が上ではないかと思います。何故そのように思うのかと言うと、実は両者の力量を婆が知っている訳ではありません。ただ、元の重臣・劉宣が「前回の戦(文永の役)で精鋭部隊を失ってしまった。今回は武芸の劣った兵で戦場経験の浅い者ばかりだからきっと失敗する」と書いているからです。大平原の騎馬戦ならば元軍が上だと思います。が、日本は山あり川あり複雑ですし、騎兵を大規模に展開させられる地形ではありません。元軍は兵員の数重視で、そもそも馬を船に余り載せていませんでした。

武器の性能で言えば、日本刀は言わずもがな。世界最高の切味を誇っています。

幕府は御家人に動員令を掛け、御家人達は九州に続々と集結します。そして、更に、食料などの兵站の補給を諸国に命じます。朝廷は貴族へも、荘園からの食糧供出に応じるように求め、又、天皇も寺社も賊徒調伏を熱心に祈ります。官武一体の連携と、庶民の「蒙古に征服されたら大変だ」という思いに駆られた協力があり、国内は一致団結します。

 

 余談 驀直進前(ばくちょくしんぜん)

驀直去(まくじきこ)とは、無門彗関が著した禅書の中の31則にある公案です。逃げたり避けたりせずに直進せよ、「驀直(まくじき)に去れ」という意味です。

『趙州因僧婆子。臺山道向甚處去。婆云。驀直去』

趙州の僧が婆子(ばす)に聞きました。台山へ行く道は何処へ向かって行ったらいいのですか? 婆子が『驀進せよ。真っ直ぐに行け』と言いました。

脇目も振らず一心不乱に真っ直ぐに行け、という『驀直去』と『莫煩悩』とが合わさって『驀直進前』と言う故事成語ができました。