式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

37 元寇(5) 弘安の役(後編)

1281年、元はいよいよ第二次日本征討を始めます。

彼等は二手に分かれて日本に向かいます。一つは朝鮮半島から出発する東路軍です。もう一つは中国大陸の寧波から出発する江南軍です。この二つの軍は6月15日壱岐で合流する約束をしました。

東路軍は、高麗人が主で、それにモンゴル人、漢人の混成部隊です。兵士と水夫合わせて4~5万7千人、軍船900艘の陣容です。

江南軍は旧南宋軍主体で10万人の兵力、軍船3,500艘の大艦隊です。

1281年5月21日(新暦6月9日)、東路軍は対馬に到着しましたが、日本軍は激しく抵抗します。元は更に壱岐に到達し、壱岐を襲います。

東路軍が壱岐に着いた時は未だ江南軍が来ていなかったので、フビライの裁可を得て単独行動を起こします。彼等は博多に上陸を試みますが防塁に阻まれて上陸困難。6月6日(新暦6月23日)に、博多近くの志賀島(しかのしま)に上陸して陣を構えます。志賀島砂州の先の陸続きの島です。日本軍は夜襲を掛け、夜が明けると陸と海から総攻撃します。東路軍は敗戦を重ね、壱岐まで後退しました。

東路軍に疫病が蔓延し始め、病気による死者が増えて行きました。軍議に「撤退」の二文字が登場しますが、結局は江南軍を待つと言う選択をします。

6月29日(新暦7月16日)、日本軍は数万の軍勢で壱岐を総攻撃。

7月2日(新暦7月18日)に日本軍は壱岐上陸敢行、激戦になります。日本側はかなりの戦死傷者を出したものの、元軍はそれ以上に苦戦します。そこに江南軍が平戸に到着した報せが来たので、東路軍は壱岐を捨てて平戸へ敗走します。

一方、江南軍は6月下旬に出港し、合流を約束した壱岐には行かず、平戸に着きます。それは江南軍が、難波して助けた日本の漁師が描いた地図と話から、平戸の方が太宰府に近く防備も手薄だと判断したからでした。

江南軍は平戸から鷹島(たかしま)へ移動し、平戸へ向かっていた東路軍と鷹島で合流します。

鷹島伊万里湾の出入り口にある島で、広さは16.36㎢です。東京国際空港(羽田空港)より少し大きめの島です。潮汐は、地上や海底の地形に大きく影響を受けますので一概に言えませんが、有明海は6m、佐世保で3mの干満差ですので、鷹島も潮流は早いと思われます。張氏墓碑銘には『鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことが出来ない』と書かれているとか。他方、鷹島の南側は伊万里湾に面していて穏やかなので、台風などの時の船の避難所になっています。

元軍は鷹島に土塁などの陣地を築きます。又、船を縛って砦とした、とあります。(ひょっとして連環の計? 連環の計は赤壁の戦い曹操が敗けた要因の筈ですが・・・)

この頃、鎌倉幕府六波羅探題から6万騎の援軍を派遣し、九州に下向中でした。

鷹島沖海戦

 7月27日(新暦8月12日)、日本軍は鷹島沖で大規模な海戦を挑みました。武士達は船をこぎ出し、元船に取り付いて乗り移り、白兵戦を繰り広げました。弩弓から放たれる雨あられの矢を掻い潜り、船に乗り移る事が出来れば勝機は引き寄せられます。後は日本刀の出番になります。海戦は翌28日朝まで夜通し続きました。

台風

7月30日(新暦8月15日)夜、台風が来ます。元軍の台風の被害は、部隊により、停泊海域により、船の製造上の問題により、壊滅状態のものから軽微のものまで色々ありました。総じて高麗が造った船は頑丈だったので沈まず、江南船は脆かったようです。ぶつかればすぐ壊れたと元の役人が言っております。(粗製乱造と連環の計が原因か?)

元軍の将官達は撤退します。船に乗り切れなかった10余万の兵士達は鷹島に置き去りにされました。

鷹島合戦

閏7月5日(新暦8月20日)夕方伊万里湾の出入り口にある御厨(みくりや)海上で、日本側は残存の元船を攻撃します。これにより、伊万里湾にあった元の船は一掃されました。

閏7月7日(新暦8月22日)、日本軍は鷹島に総攻撃を開始、残る元の船を焼き払い、元の兵士達と戦い、殲滅します。10万余の元の兵士達は殺され、或いは捕虜になり、捕虜になっても結局は処刑されました。僅かに、かつて日本と交流のあった旧南宋人の、しかも技術者や知識人だけが、助けられたそうです。鷹島には血生臭い地名がたくさんあります。

南宋の臣・鄭思肖(ていししょう)は日本の鷹島を『倭国の白骨山』と呼び、慟哭の詩を詠んでいます。

 

余談  

弩弓(どきゅう)

蒙古襲来絵詞に描かれている元兵の持つ弓をよく見ると、弩弓ではなさそうですね。単なる短弓の様に見受けます。

台風 

台風の季節を意識して、旧暦の後に括弧書きで新暦を示しました。新暦6月に来寇して、約3か月間の激闘が続き、台風シーズンに入ります。台風は一度ありますが、その後も戦いは更に続き、完全に止めを刺したのは鷹島の合戦です。鎌倉武士の奮闘と頑張りを「神風伝説」に置き換えて覆い隠すのは、戦死傷者を大勢出した武士に対して失礼の様な気がします。これは婆の感想。