霜月騒動とは、鎌倉時代後半に起きた騒動で、幕府を二分する大規模な内乱を指します。11月に起きたから霜月騒動と呼んでおります。
1284年4月、第8代執権・北条時宗が亡くなり、その子の貞時が13歳で執権職を継ぎました。貞時を支えたのは乳母の夫(乳母父)平頼綱と、母の実家の祖父・安達泰盛です。
平頼綱は御内人(みうちびと・みうちにん)です。内管領とも言います。得宗家の家の中の仕事をする人です。
頼綱は執権の方が将軍より上だと思っておりました。
将軍はお飾りでした。高貴の子を連れてきて将軍にし、将軍が大人になって幕府の言う事を聞かなくなったらお払い箱。お払い箱にするのが執権です。その執権になるべきお方をお育てしているという思いが頼綱の誇りでした。
安達泰盛は貞時の外祖父で、政治の表舞台で活躍する有力御家人でした。
元寇の非常事態によって得宗家独裁の色合いが強くなっていた幕政を評定衆の手に戻し、将軍の権威を高めようと泰盛は行政改革を推し進め、「新御式目」を発布しました。
その中には、御内人が政治に口を出さない様に、とか、役人は真面目に働きなさい、とか言う条も入っていました。
一方、頼綱は、執権の権威を引き下げる改革など許せる筈も有りません。頼綱は少年執権・貞時に讒言します。安達泰盛は謀反を企てている、と。
霜月騒動勃発
1285年11月17日、頼綱の讒言を受け、貞時は祖父の安達泰盛を討つ様に命令を下します。
その日、外が騒がしいので泰盛は身支度を整えて貞時の館へ行きます。そこに待ち構えていたのが貞時邸の兵。つまり得宗家が直接抱えていた侍達です(得宗被官の侍)。泰盛は彼等に殺されてしまいます。安達氏は反撃。この時の戦いで大勢の死傷者を出し、将軍の御所は炎上、騒ぎが拡大します。安達氏は敗北、一族500名余りが自害し、安達一族は滅亡してしまいました。
鎌倉でのこの事件は忽ち全国に広がり、有力御家人の殆どを巻き込みました。
恩賞への不満、御家人の窮乏が層をなして淀んでいた所へ、秩序を正すと言う名の下に、寺社領から得た土地があれば元の所有者へ返せという既得権への侵害などがあって、不満爆発寸前の時に、平頼綱が引き金を引いたのです。
あの元寇で戦った少弐資能の弟・景資も、霜月騒動で討死しております。少弐景資の領地は、九州の御家人達に元寇の恩賞として分け与えられました。まるでハイエナの争いです。そんな事が日本中で起きました。滅亡した氏族は数知れず、討死、自害、或いは失脚、没落、気が付けば、かつての有力御家人の名前の多くが、評定衆や幕府要職から消えていました。
ビックネームが居なくなり権力は得宗家に集中しました。
泰盛の改革に歩調を合わせる様に進んでいた亀山上皇の徳政改革もとん挫しました。大覚寺統の亀山上皇の院政は封じられ、代わりに持明院統の伏見天皇が即位しました。
余談 将軍在位ついて
鎌倉幕府が招聘した将軍の在位は次の通りです。
代 将軍名 出 自 将軍着任ー解任年齢 在任期間
5 代 藤原頼嗣 頼経嫡子 6歳ー14歳 7年10か月
6 代 宗尊親王 御嵯峨天皇皇子 11歳ー25歳 14年3か月
8 代 久明親王 後深草天皇皇子 13歳ー32歳 18年10か月
惟康親王が京都に追放された時の様子が『とわずがたり』という本の中に描かれているそうです。
『悪天候の中を筵で包んだ粗末な「網代の御輿に逆さまに」乗せられた新皇は泣いていた』と。
御輿に逆さまに乗せられ 、とはでんぐり返し?
たぶん、御神輿の様に、普段は輿に乗って人の肩の上に担がれていたのが、この時は駕籠かきの様に、ぶら下がる形だったのではないかと・・・いつも人の目線の上に居た人が、人の目線の下に置かれたので屈辱的だったのでしょう。都ならば牛車で行く身分。そう言う人を幕府は見すぼらしい筵の駕籠で送るとは!!
安達泰盛と「髭切」
「髭切」は源満仲が造らせた日本刀の銘です。その刀で渡邊綱が鬼の腕を斬り名前が「鬼丸」になり、更に銘が幾度か変わりました。源氏に代々伝わる名刀でしたが、神社に奉納され、それを安達泰盛が探し出して所有したと伝わっています。霜月騒動で安達泰盛が討死した後、北条貞時の手に渡ったそうです。