平頼綱(平禅門(へいぜんもん))の乱は、執権北条貞時が、御内人の平頼綱を粛清した事件です。
身の程を弁えず権力を望み、それを掌中に収めた時、人は己の足らざるところを補おうと虚勢をはり、殊更に強く見せようとするものです。平頼綱もそうでした。
御家人と御内人の違いは、御家人は将軍とご恩と奉公を通じて直接主従関係を結んでいる人です。御内人は北条得宗家(本家)に雇われている家僕です(得宗被官)。
その御内人の頼綱が、霜月騒動で有力御家人達が一掃されて、表の政治舞台のトップに躍り出ました。が、彼の頭の上には惟康将軍が居座っていました。
彼の周辺には「何を偉そうに! 御内人のくせに」と思う人が沢山いました。そこで、頼綱は自分の地位を人より上にする為に、官位を得る事に力を注ぎました。ただ、主人の貞時の位階を飛び越して上になる事は出来ないので、先ず手始めに貞時の官位を従四位上に押し上げます。父の時宗が正五位下でした。そこから数えると正五位上、従四位下、従四位上、正四位下、正四位上となり、昇段は5階級特進です。少年執権貞時は、元寇で日本を守った父・時宗に比べてみても、異常な出世です。そして、頼綱自身は左衛門尉という6位の官位に就きます。余程辣腕を振るい、強引だったのではないかと想像してしまいます。
官位は朝廷の役職位です。執権は将軍の家臣であり、その家臣の家僕が朝廷の役職に就くなど前代未聞です。
1287年、頼綱は、惟康将軍を元の皇籍に戻す許可を朝廷に求め、許可されます。
1289年9月29日、惟康親王の将軍を解任します。そして、後深草天皇の第六皇子・久明親王を迎えます。
1289年10月9日、久明親王(13歳)の将軍宣下がなされます。
久明親王を迎えに行ったのは頼嗣次男の資宗(すけむね)。資宗は衣冠束帯に威儀を正し、美々しく飾った4~500騎の武者を従えて行ったそうです。その立派さに都人は皆一様に驚いた、とか。
資宗はこの時検非違使(位で言えば6位)になり、更に大夫判官の5位に昇進しました。
一方、頼綱の嫡男・宗綱は、父親との間が上手くいかず、冷遇されていました。宗綱は侍所所司で惟康親王に仕えていました。父が惟康親王を粗末に扱って京都へ送り返したのに対して、彼は抗議をしています。
頼綱の専横は次第にエスカレートし、公文書に得宗の花押無しに、執事書状を発する様になりました。目に余る振る舞いに、大人になった貞時(23歳)は危機感を募らせます。
1293年4月21日(旧暦3月14日)、宗綱が貞時の下に来て、「父頼綱が弟資宗を将軍にしようと謀反を企てている」と密告します。
1293年5月19日(旧暦4月12日)、鎌倉をM7.1の地震が襲いました。土砂災害、大津波など発生、推定死者27,000人以上、民家は勿論、建長寺を始め多くの寺が倒壊・損傷、甚大な被害を蒙り鎌倉は大混乱に陥りました。
1293年5月29日(旧暦4月22日)、余震が続く混乱の最中、執権貞時は平頼綱邸に兵を差し向け、どさくさに紛れて頼経を討伐してしまいます。頼綱邸は炎上し、90余名が死亡、貞時の娘二人も亡くなります。密告した宗綱は死罪を免れ佐渡に流されます。宗綱は後に内管領になりますが、また、政争に巻き込まれて左遷されてしまいます。
余談
平禅門(へいぜんもん)の乱について
平禅門の乱は、平頼綱の乱と同じものです。平頼綱は出家して杲円(こうえん)と称しましたので、それで平禅門の乱と言います。
熱原法難(あつはらほうなん)
現静岡県富士市厚原(あつはら)の日蓮宗宗徒が、勝手に他人の田を刈り取る「苅田狼藉」を働いたと訴えられ、弾圧された事件。無実を主張するも、20名が鎌倉に送られます。この時、当時13歳だった頼綱の次男・資宗が捕縛された百姓達を鏑矢で攻め立てて拷問した、と伝わっています。3名が斬首、他は投獄されます。
惟康親王京都送致について
前項「39霜月騒動」で、『粗末な御輿に逆さまに乗せらて・・』という光景を、婆は輿ではなく駕籠に載せられたのではないかと推測しましたが、調べていたら、進行方向に背を向けて座る事を言う、と出ていました。進行方向に前に向いて座るのは順当な座り方、背を向けて座らせるのは流人の扱いだそうです。
頼綱評価
正親町三条実躬の記録に『・・・彼の仁(頼綱を指す)、一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なく候』とあります。当時の人が頼綱をとても恐れていたことが伺えます。
平左衛門地獄(へいざえもんじごく)
義同周心と言う禅僧が熱海に行った時の事、地元の人から聞いた話として記しています。
平(たいら)左衛門尉頼綱の別荘が熱海にあったそうで、頼綱が亡くなるとその別荘は地面に吸い込まれる様に消えて無くなってしまった、生前殺生をし過ぎたので地獄に落ちたのだろう、と言い伝えられている、と。
婆の身も蓋もない話 。頼綱は鎌倉地震の時に誅されたのだから、同日、地震による地崩れか何かで別荘も埋まったのではないかしら、と。