式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

41 永仁の徳政令

侍の本分は一所懸命にあります。一つの土地を命懸けで守るのが仕事でした。

彼等の元々は、国衙領(こくがりょう(国有地))や荘園(私有地)の管理人です。

領内の警察的な仕事をするのが守護と言う役目でした。

領内から租税を徴収する役目が地頭でした。

彼等が管理の手数料として貰うのは賃金では無く、土地でした。

武士政権を確立した源頼朝は、全国に守護地頭を置く許可を朝廷から貰います。武力を背景に、言わば強引に既存領地へ侵出し、土地を確保します。幕府は、守護や地頭に土地を安堵する代わり(ご恩)に、いざ鎌倉と言う時は幕府の為に奉公する、という関係を築きます。

 

分割相続制

御家人は土地の所有の保証(安堵)を得たものの、やがて「分割相続制」という制度に苦しめられるようになります。

分割相続制と言うのは、遺産相続の事で、土地の分配方法を決めたものです。

土地の2を家の跡取り(惣領)が貰い、1を惣領以外の子供達で分ける方法です。女子は0.5が貰えましたが、その様にすると、世代が下がる毎に土地は細分化されてしまいます。御家人は次第に窮乏していきました。

 

元寇

そんな時に二度にわたり元寇が起きました。御家人達はご恩に報いる為に出陣します。旅費、宿泊費などは自費です。費用を捻出する為に借金をします。後で恩賞が得られるつもりで勇猛果敢に戦いますが、戦い終わっても恩賞はありません。借金が膨らみます。土地を売り、質に入れ、何とか暮らしを立てますが、それも限界に来ていました。

 

永仁の徳政令

1297年(永仁7年)、幕府は、御家人達の困窮を救う為に永仁の徳政令を発布しました。主な内容は、御家人に売った土地や質入れした土地は、20年前以内だったら無償で返して貰える、というものでした。相手が金融業者だったら、20年以内という制限無しに、無期限前のものであってもタダで返して貰えました。それから、これ以上土地を失わないようにする為に、土地の売買を禁止しました。

金融業者がこれを承知する訳がありません。それを見越して、幕府は債権債務の訴状を受け付けない事にしました。おまけに、越訴(おっそ)を禁止しました。越訴とは、再審請求の事です。永仁の徳政令の要は、借金は帳消しにします、という政令です。

そうすると今度は、貸したお金が戻らない事を恐れて貸し渋りが起こり、経済が回らなくなりました。永仁の徳政令は1年で失敗しました。

結果、御家人達の生活は更に苦しくなり、幕府への不満が高まり、それが討幕への潮流になって行きました。