式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

42 南北朝への序曲

1297年、貞時が、御家人救済に満を持して発布した永仁の徳政令が失敗に終わり、更に1299年、再び元から朝貢を求める国書が届きます。

国内外に難問を抱えた貞時は、酒浸りの毎日になって行きます。

貞時は引退し出家します。息子がまだ小さいので、中継ぎに師時を執権にします。ところが師時は1年で病死、その後立てた中継ぎは、宗宣1年、熙時3年の内に病死、次の13代基時も1年未満で執権を辞します。

執権4代を経て、貞時の子・高時が14代執権に就きます。彼は病弱でした。

執権が心許ないので、内管領は引き締めを図って益々強権的になり、御家人達の反発を買います。

 

両統迭立(りょうとうてつりつ)

承久の乱の後始末

話は承久の乱(1221年)まで遡ります。

幕府は承久の乱に勝ち、後鳥羽上皇隠岐島へ、順徳天皇佐渡島へ、土御門上皇を土佐に配流し、関係した公卿の多くを処刑、流罪、失脚などにしました。

時の天皇(4歳で践祚在位78日)は廃帝になり、後堀河帝、四条帝と続きますが、四条帝は12歳で崩御します。さて、次の帝に、幕府は土御門帝の皇子を即位させます。後嵯峨天皇です。

 

皇位継承問題

やがて後嵯峨天皇上皇になり、長男を天皇(後深草帝)にします。そして、後深草帝に子供が生まれる前に退位させて上皇にしてしまい、次男を即位させます(亀山帝)。

後嵯峨上皇は次男の亀山帝を可愛がっていました。長幼の序を守って取り敢えず長男を天皇にしたものの、長男家に子供が生まれる前に亀山帝に譲位させたのです。これでは、もし長男家に子供が生まれても、その子は皇太子になれません。

後嵯峨上皇が崩ぜられる時、後白河法皇の遺領(長講堂領)180か所の荘園を後深草帝に与え、八条院の遺領の荘園230か所を亀山帝に与えると遺言され、その上で、将来の皇位は幕府の意向に任せる、と書き残されました。

一連のこれ等の措置は、後深草上皇の不満と亀山帝の不安を増大させて諍いを起こし、双方は幕府に裁定を求めます。

 

持明院統大覚寺統

幕府は妥協案として、長男と次男の流れから交互に皇位を継ぐ様にします。

長男の後深草上皇持明院にお住まいになっていました。ですから、この流れを持明院統と呼びます。

次男の亀山帝が大覚寺にお住いになっていました。こちらを大覚寺統と呼びます。

皇位は次の様に継承されて行きます。(持)は持明院統、(大)は大覚寺統です。

後嵯峨ー後深草(持)ー亀山(大)ー後宇田(大)ー伏見(持)ー後伏見(持)ー後二条(大)ー花園(持)ー後醍醐(大)

とここまで来て、問題が発生します。

後醍醐天皇両統迭立の約束を守らなかったのです。

 

後醍醐天皇

後二条帝の後、持明院統の花園帝が皇位を受け継ぎ、その次は大覚寺統の後二条帝の第一皇子邦良親王天皇になるべきでした。が、邦良親王が幼かったので、後二条帝の異母弟の尊治親王(後醍醐天皇)が、中継ぎで一代限りであるという条件付きで、帝位に就きました。これは後宇田上皇のご意志と幕府の承認によって決められたことです。

ところが、後醍醐天皇は「中継ぎ一代限り」という条件を無視、更には両統迭立も反故にして軍事行動を起こします。

 

 

余談  長講堂領と八条院

長講堂領と言うのは、後白河法皇が所有していた荘園の総称です。

八条院領と言うのは美福門院から八条院へ受け継がれた荘園の総称です。

長講堂領や八条院領の荘園を合せると国家財政に匹敵する程になります。

これら天皇家の荘園や財政の管理は家政として「治天の君」が担い、天皇は国の政と祭祀の担当で財産管理にはノータッチでした。

治天の君」の座に就くと財力をバックに天皇や公家達を思う様に動かす事ができ、旨味も魅力もあるポストでした。「治天の君」は主に上皇がなりました。これを院政と言います。天皇が「治天の君」になった場合、親政と言います。帝位の争奪を裏返して言えば、財産が絡んだ治天の君のポストの争いでした。

ただ、両統迭立の約束は10年毎に天皇位を交替すると言うものでしたから、後二条帝のときには5人もの上皇が溜まっていて、彼等の争いは激しさを増していました。

大覚寺統に伝わる八条院領を後醍醐天皇が手に入れた事に依って、彼は財政基盤を固める事ができ、建武の中興の原資になりました。