1331年4月29日、六波羅探題に後醍醐天皇の側近・吉田定房から後醍醐帝に謀反の動き有りと密告がありました。
吉田定房は従一位の内大臣で、後醍醐天皇を幼い時から養育した乳父です。つまり「爺や」です。帝を諫めても聞く耳を持たなかったので、思い余って届け出たのでしょう(これは婆の推測)
因に、建武の親政後も定房は後醍醐天皇と良好な関係を保っています。
六波羅探題は直ちに「後醍醐天皇謀反」を鎌倉に伝え、御所に追捕使を向けます。後醍醐帝は密かに脱出し、笠置山で挙兵します。その時、天皇の下に集まったのは、悪党や僧兵達など3,000人ばかり。
笠置山は要害の地でなかなか攻め落とせず、六波羅は鎌倉に援軍を求めます。鎌倉は大仏(おさらぎ)貞直、金沢貞冬、足利高氏を大将にして20万余の軍を笠置山に向かわせます。しかし、幕府軍が到着する前に帝側は敗北し、山から逃げる途中後醍醐帝は捕まり、隠岐に流されます。後醍醐帝は廃帝になり、持明院統の光厳(こうごん)天皇が即位します。
赤坂城落城
後醍醐帝の第三皇子・尊雲法親王(そんうんほっしんのう)は還俗し、護良(もりよし(もりなが))親王と名乗り、父帝に代わって令旨を全国に発し、決起を促します。
河内の楠木正成(まさしげ)が赤坂城で挙兵、護良親王も吉野で挙兵、播磨の赤松則村など各地の悪党や、反幕府勢力が蜂起します。
鎌倉軍は赤坂城に立て籠る楠木正成の奇策に散々手こずり乍らも陥落させ、続いて護良親王のいる吉野を落します。
これで反乱は鎮圧されたと見て、足利高氏等鎌倉軍は関東に引き上げます。
赤坂城陥落の時に死んだと思われた楠木正成が再起、千早城で挙兵し反撃を開始、幕府軍は大軍をもってしても苦戦を強いられました。幕府軍の苦戦は全国に知れ渡り、討幕の潮流は勢いを増しました。又、吉野で破れた護良親王も潜伏後、吉野で再度挙兵しました。
六波羅探題壊滅
1332年閏2月、後醍醐帝は隠岐の島を脱出して伯耆(鳥取県)に上陸、船上山に陣を敷き、綸旨を天下に発しました。
幕府は船上山に足利高氏と名越高家を大将として援軍を差し向けましたが、4月名越高家は赤松則村に敗れて討死しました。5月7日、足利高氏は、鎌倉幕府に叛旗を翻し、赤松則村や佐々木道誉と共に 京都の六波羅探題を攻め落とします。
幕府主力軍が近畿一帯に展開している最中、5月8日新田義貞が挙兵、鎌倉に侵攻します。
鎌倉は三方山に囲まれていて、もう一方が海、守りに易く攻めるに難しい天然の要害の土地です。
新田軍は極楽寺坂、巨福呂(こぶくろ)坂、化粧(けわい)坂の三つの切通と、稲村ケ崎からの攻撃で鎌倉市街に侵入、激闘が繰り広げられます。
幕府側の諸将が次々と討死、兵の損耗も激しく、ついに北条氏の菩提寺である東勝寺に集結、生き残った者達が自刃、その数800名に及んだそうです。
1333年5月22日、ここに鎌倉幕府は滅びました。
東勝寺で自刃した執権は次の通りです。
13代基時 享年48歳
14代高時 享年31歳
15代貞顕 享年56歳
16代守時は5月18日に洲崎で自刃39歳
余談 基時辞世の歌
北条基時の嫡男・仲時は、六波羅探題で足利高氏と赤松則村と戦いましたが破れました。仲時は、北条時益と共に光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を連れて東国へ落ち延びようとしましたが、近江で野武士に襲われて時益が討死してしまい、仲時は近江の番場峠まで来て佐々木道誉に襲われて破れ、蓮華寺に於いて兵数百名と共に自害しました。
光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇の身柄は佐々木道誉に託されました。
東勝寺合戦が起きたのは、その2週間後です。
仲時の父・元13代執権基時は、東勝寺で自害する時、先立った息子を思い、次の様な辞世の歌を詠んでおります。
同じく超えて浮世語らん