式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

45 鎌倉文化(1) 運慶・快慶

祇園精舎の鐘の声、盛者必衰の理を表すにしては、なんと多くの人々の血が流れたことか。末法到来の噂に庶民は怯え、兵乱と病と飢餓からの救済を求めて、ひたすら仏に祈る日々。

平安時代、貴族は極楽浄土を求めて盛んに寺院造営を行いました。財力を注げば注ぐほど極楽浄土に近づけると思っていた節があります。やがて写経や仏像造立へと力点が移り、更に仏像への合掌から念仏への信仰に移って行きます。

 

定朝(じょうちょう)

藤原時代の仏像は、体はふくよかでお顔も丸味を帯びて穏やかです。衣文の起伏の彫りは太目で、その流れは平行的です。このような仏像の代表例が、宇治の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像です。この阿弥陀様を彫ったのが大仏師の定朝です。

定朝は京都に工房を構えていました。定朝様式は富貴円満の相があり、貴族達から大いに持て囃されました。

定朝様式は、息子の覚助ー院助ー院覚ーと続く院派と、弟子の長勢ー円勢ー長円ーと続く円派の二つの流派に分かれますが、院派も円派も定朝を手本として作像し、大量の受注に応えていましたので、次第に類型化し、マンネリ化して行きます。

 

慶派(けいは)

一方、南都には興福寺を拠点とする仏師の集団がいました。その中に康慶(こうけい)を中心とした慶派と呼ばれる小さな集団がありました。

1180年、治承の乱の時、平重衡軍の放火によって東大寺興福寺は殆ど灰燼に帰してしまいました。兵乱が治まってから興福寺の仏師達は、まず焼けた仏像群の再刻に取り組みます。慶派の仏師達も一緒です。

 

康慶(こうけい)

慶派の祖・康慶は、定朝の流れを汲む院派の一人の、康朝の弟子だったと言われています。康慶の作と言われる興福寺の行賀(ぎょうが)座像は肖像彫刻です。額に浮き出る血管や瞼の皺、唇から覗く歯、片膝立ての姿勢に流れる衣文の様子など、院派や円派にはない写実的な傾向が見られます。

 

運慶(うんけい)

運慶は康慶の息子です。

 運慶の最も初期の作品は、父・康慶と共作の円成(えんじょう)寺の大日如来があります。静謐で威厳に満ちたお顔と、誇張を極力排した洗練された造形で、東大寺金剛力士像とはまた違った味が有ります。

運慶の代表作は、東大寺南大門にある「阿」「吽」の「金剛力士像」です。

これは運慶一人の作ではなく、運慶はじめ快慶、定覚、湛慶ほか慶派の工房の総力を挙げて造ったものです。運慶はその総監督です。

体の各部位を各仏師達がそれぞれ担当して彫り、それらを寄せ集めて造形して行く、と言う方法で作った寄木造りです。下から見上げた視覚効果を計算に入れつつ、極端に誇張した筋肉質の体躯。腰布も天衣も風を孕んで乱れ、グワァーと見開いた目は参詣者を威圧しています。運慶は人体のリアルさを出す為に、玉眼(水晶の目)を初めて用いた仏師ですが、金剛力士像には玉眼が嵌められていません。鑿一本で彫って、強烈な眼光を表見しています。

運慶の最も技量の充実した時期の作品に、無著(むちゃく)立像と世親(せしん)立像の肖像彫刻があります。無著のこけた頬、世親の柔和な眼差し、自然に垂れた衣の襞、人間味あふれるその造りは、その人物の人生まで余す所なく表しています。

運慶は、やがて京都に進出し、定朝様式一辺倒だった京都の作風を席捲して行きます。

 

湛慶(たんけい)

湛慶は運慶の長男です。運慶には6人の男子がおりますが、皆仏師になっています。

中でも湛慶は作例が多く、代表的なのが蓮華王院本堂(三十三間堂)の中央におわします中尊が湛慶の作です。父・運慶の肉感的な写実性は影を潜め、洗練された造りで、また、お顔も少し丸味を帯び穏やかです。この千手観音菩薩坐像は湛慶82歳の時の作です。

 

快慶(かいけい)

快慶は康慶に師事し、運慶とは兄弟弟子です。

快慶は俊乗房重源の弟子で、熱心な浄土宗の信者です。1m以内の阿弥陀如来像を沢山造っており、広く民衆に支持された様子が伺えます。彼の阿弥陀仏のお顔は真面目です。半眼の目は細くて下を向いており、病臥する人への眼差しを意識して作っている様です。衣の襞は等間隔で単純化されています。写実的な人間に近付ける為に、却って誇張を含んだような運慶の造像に対して、快慶はそれをこそげ取り、平凡な人間像に近い阿弥陀仏を彫っています。快慶の作り出した安阿弥(あんなみ)様式は、それだけに類型化し易かったのですが、人々の心に受け入れられ、長く命脈を保って行きました。

 

 

余談  源頼朝東大寺

東大寺が平家によって焼き討ちに遭い、全焼してしまった時、その再建を誓った重源を全面的に応援したのが源頼朝でした。平家によって焼失した東大寺を源氏が再興してみせる、と頼朝は決心したのです。南都の仏師と武家政権との接触がここに始まります。武士好みの力強い作風がこうして生まれて来たのです。同じく焼失した興福寺藤原氏の寺でしたので、九条家(藤原氏)が再建に関わっています。