式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

47 鎌倉文化(3) 仏教・禅宗

禅寺では、お庭に楓の木を良く植えます。それは、春に芽吹き、夏に涼やかな木陰を作り、秋に紅葉して散って行く、その移ろいの無常を知る為と聞いたことがあります。人生の盛りもやがては死に向かうとの提示とか。東福寺の燃えるような紅葉にカメラを向けながら、死の一瞬前の華やかな輝きに思いを致す事は、婆には難しい事でした。年を取った今ではその話を聞いて、あゝそうだったのか、と妙に納得してしまっています。

茶禅一味と申します。「茶の湯」をメインテーマにしながら。なかなか茶の湯に言い及ばなくて、武士の歴史にばかり紙面を割いて来ました。前回「46 仏教・宗派多様」の流れから、この辺りで禅宗について項目を設けたいと思います。

禅宗は自力本願の宗派です。

禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)です。文字には拠らない、経典にも拠らない、説明文も無し。自ら考えよ、と言うのが禅宗です。

臨済宗

日本に入って来た最初の禅宗臨済宗でした。

明菴栄西南宋から持って帰ってきたものですが、初めは日本の仏教界から受け入れられず、止む無く鎌倉で布教を始めます。また彼は、京都で受け入れられる様に、他の宗派も併せて学べるように工夫しました。

臨済宗では師から公案(宿題)が出されます。弟子は座禅を組みながらそれを工夫して答えを出します。答えが出たら、師に正解かどうか尋ねて正しかったら先に進みます。間違っていたら、やり直し。それでも駄目だったら更にやり直し、と果てしなく師と弟子の問答が続きます。答えが得られれば、次にもう一段階上の難しい公案が出されます。この方式を看話禅(かんなぜん)と言います。

臨済宗の座禅は対面座禅と言って、壁を背にして行います。勿論、対面座禅とは言っても座禅中は沈黙を守り、問答はしません。問答の時間は別枠で設けてあります。

曹洞宗

曹洞宗道元禅師が日本に伝えました。

道元禅師は初め宇治で興聖寺を開山し、そこで説きましたが、旧仏教からの排斥に遭い、越前に永平寺を開き本山とし、そこを修行道場としました。

曹洞宗の特徴は、只管打坐(しかんたざ)と言って、只管(ひたすら)座禅をします。これを黙照禅(もくしょうぜん)と言います。

曹洞宗の座禅は壁に向かって座禅をします。壁面座禅です。達磨大師と同じ方法です。

朝廷や鎌倉幕府の権門から距離を取り、越前の山奥で修業に励んでいます。

そういう訳で、朝廷や幕府からの直接的な弟子は少ないです。但し、全く無かったかと言うと、上杉謙信の様に、曹洞宗天室光育の膝下で教育を受け、大いに影響を受けた武将もおります。なお、道元は、末法思想は方便に過ぎないと否定しております。

道元禅師は正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を著しました。

 

鎌倉期の禅僧

鎌倉期の主だった禅僧の名前です。(臨)は臨済宗、(曹)は曹洞宗の略です。

 

明菴栄西(臨) みょうあんえいさい or ようさい1141—1215

建仁寺開山。臨済禅を日本にもたらした僧。茶祖。「7 明菴栄西禅宗と茶の種を伝える」「8 栄西、第一次渡宋」「9 栄西、第二次渡宋」「13 背振(せふり)の茶」「14 栄西、鎌倉に下る」「15栄西禅師と明恵上人」を参照

 

道元(曹) どうげん 1200—1253

曹洞宗の開祖。永平寺開山。「正法眼蔵」を著す。仏性伝燈国師。 

 

弧雲懐奘(曹) こうんえじょう 1198—1280                

道元弟子。正法眼蔵を整理・筆写し 、現在残されている同書は全て懐奘写本を底本とす。また、道元が日頃語った法語を纏めた「正法眼蔵随聞記」を著す。永平寺二世。

 

円爾(臨) えんに 1202―1280

東福寺開山。聖一国師駿河に茶の種を伝え、静岡茶の祖。

 

宗峰妙超(臨) しゅうほうみょうちょう1283—1338 (=大燈国師)

 大徳寺開山。花園天皇離宮を禅寺にするにつき、山号寺号を正法山妙心寺とし、妙心寺開山に弟子の慧玄を推挙して入寂。禅風は厳格。興禅大燈と高照正燈の国師号を賜る。

 

大休正念(臨) だいきゅうしょうねん1215—1290

 南宋からの渡来僧。建長寺住職、円覚寺住職。北条時宗北条貞時北条宗政が参禅。

 

蘭渓道隆(臨) らんけいどうりゅう1213—1278  

 南宋からの渡来僧。北条時頼が帰依。建長寺開山。大覚禅師

 

無学祖元(臨) むがくそげん   1226—1286

 南宋からの渡来僧。蘭渓道隆の後継。建長寺住職。円覚寺開山。北条時宗の師。南宋に居た時、敵が刀を振り下ろそうとする刹那に、刃の下で詠んだ臨刃偈(りんじんげ)が有名。「莫煩悩」「莫直去」の偈をもって元寇に迷う時宗を励ます。「驀直進前」の成語の元。

 

一山一寧(臨) いっさんいちねい  1247—1317

元からの渡来僧。元からの朝貢要求使者として来日。処刑を免れ修善寺に幽閉されるも、後に鎌倉に身柄を移される。1293年、鎌倉大地震で倒壊・炎上した建長寺を再建し住職となる。南禅寺三世住職。一山国師

 

北条時宗(臨) ほうじょうときむね 1268—1284

鎌倉幕府8代執権。2度の元寇に対処。蘭渓道隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元に参禅し印可を受ける。元寇で亡くなった者達を、敵味方区別なく弔う為に円覚寺を創建、開祖。

 

覚山尼(臨) かくさんに 1252—1306

北条時宗正室東慶寺(縁切寺)の開山。

 

夢想疎石(臨) むそうそせき 

 夢想国師。後醍醐帝や足利尊氏・直義からも尊崇される。「夢中問答集」は足利直義との対話記録。作庭に非凡の才能を発揮。枯山水の完成者。天龍寺西芳寺を作庭する。他多数の作庭有り。漢詩、和歌を能くす。