式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

48 鎌倉文化(4) 禅語

茶掛けに盛んに禅語を用いるようになったのは、千利休が活躍した安土桃山時代ですが、鎌倉時代禅宗そのものが日本に定着した時期でもありますので、ここで、茶掛けによく使われる禅語の一部を紹介したいと思います。茶掛けと言うのは、茶室の床の間に掛ける掛物の事です。

 

茶掛けの禅語

一期一会  (いちごいちえ)

今、あなたにお会いしているこの時・この一瞬は、後にも先にも二度と来ない奇跡の時空。だから、この時間を愛おしみ大切にしたい。

これは、対人ばかりでなく、素晴らしい芸術や物に出会った時にも使う言葉です。

 

和敬清寂 (わけいせいじゃく)

互いに敬いながら和気藹々と、静かに愉しむ状態を指します。

 

日日是好日 (にちにちこれこうじつ)

春の縁側の眠り猫。長閑でいいなぁ!  という好日ではありません。

今日はいい事があった、ラッキー!! という好日でもありません。では、何?

圜悟(えんご)禅師の著書『碧巌録(へきがんろく)』にこういうのがあるそうです。

『雲門、垂語して云く。15日以前の事は汝に問わず。15日以後、一句を道(い)い将(も)ち来たれ。自ら代わって云く。日日是好日

(ずいよう流超訳:過去の事は聞かない。これからどうする?誰か言ってごらん。(シーン)。じゃ、儂が答えよう。日日是好日じゃ) 

雨が降っても槍(災害)が降っても、病になっても、困窮しても、幸せな時も、そうでない時も、いつも自分がそこに存在する事に感謝し、その時間を慈しみ、万物の恵みの有難さを喜ぶ・・・それが日日是好日です。

 

喫茶去 きっさこ

喫茶去とは「お茶を飲みなさい」という意味です。

唐の趙州(じょうしゅう)禅師が、訪ねて来た僧に「ここは初めて来たのか?」と聞きました。「初めてです」とその僧が答えると「お茶を飲みなさい(喫茶去)」と言いました。別の僧がやって来た時、禅師は又「初めて来たのか?」と聞きました。その僧は「いえ、以前にも来ました」と答えました。すると「お茶を飲みなさい」と言いました。寺の者が「初めての人もそうでない人も何故喫茶去なのですか?」と伺いました。すると、趙州禅師は「お前もお茶を飲め」と言いました。

誰彼の区別なく、誰でもお茶で持て成す、それが喫茶去です。

 

松無古今色 まつにここんのいろなし

松樹千年翠  しょうじゅせんねんのみどり

松の偈は、正月などのめでたい時や、末永く栄えます様になどと願いを込めた茶席に、良く掛けられる禅語です。

松は常緑。何時も青々していて永遠にこの状態が続く様に見えますが・・・果たしてこれは本当? 実は、松は常に変化しています。変化しているから見掛けが変わらないのです。松を良く観察してみると、松の木の下に、茶色いこぼれ松葉がいっぱい散り敷かれています。枯れた松葉は落ち、新しい松葉が生えてきます。松は常に新陳代謝をしているのです。伝統の世界でも同じです。新陳代謝や改革を怠って沈滞すると、やがて衰退していきます。

松が緑を保ち続ける為には、不断の努力が必要です。

 〇 

 まる。まるは・・円相は、むむ・・・難しい。分かりません。

吉川英治の『宮本武蔵』の中で、修行に行き詰った武蔵が愚堂和尚に教えを乞う場面があります。武蔵は愚堂和尚の前に座り、地面に両手を着き、頭を垂れて必死に答えを求めます。和尚は黙ったまま棒で武蔵を囲む様に地面に〇を書き、そのままスタスタと去って行ってしまいました。武蔵は円の中に取り残されてしまいます。こんなに頼んでいるのに、何だあの態度は、と心の内で怒り心頭「糞坊主!  頭の中が空っぽだから、さも意味有り気に〇を書きやがって! 」と、思った瞬間、忽然と悟る場面があるのですが・・・ (吉川英治はもっと文学的に書いています。)

 

 無

ますます分かりません。よって、般若心経より『無』がいっぱい羅列されている箇所を抜粋してみました。

・・無色 無受想行識 無眼耳舌身意 無色聲香味觸法    無限界 乃至 無意識界 無無明  亦 無無明盡 乃至 無老死 亦 無老死盡 無苦集滅道 無智 無得以無所得 ・・

 

 無一物 むいちもつ

 人間生まれた時は裸ん坊。死ぬ時もあの世に何も持って行けません。人間の本来の姿は無一物。なので、余計な執着は捨てましょう。地位も名誉も財産も愛憎も。

 

知足 ちそく

満ち足りた心境の事。

あれもこれも欲しくて全て手に入れた上での「余は満足じゃ」という心境ではありません。念のため。

 

諸悪莫作  衆善奉行  自浄其意  是諸仏教 

しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶつきょう

上記四つの言葉はお経の中の一節です。茶掛けに良く用いられるのは「諸悪莫作 衆善奉行」の二句です。悪い事をしてはいけません。良い事をしましょう。と言う意味です。

唐の白楽天が樹の上で座禅をしている道林禅師に「 仏の教えは何か」と問うと、「悪い事をするな。善い事をせよ。そして、心を清くする。それが仏の教えじゃ」と言いました。「そんなの3歳の童でも知っている」と白楽天。すると「80歳の老人でも行うは難しい」と禅師が答えました。

 

莫煩悩 まくぼんのう

悩むな。     (36 元寇(4) 弘安の役(前編)参照)

 

莫直去 まくじきこ

真っ直ぐ行け   (36 元寇(4) 弘安の役(前編)の余談参照)

 

看脚下 かんきゃっか or   きゃっかをみよ

脚下照顧 or 照顧脚下 きゃっかしょうこ  or   しょうこきゃっか

看脚下も脚下照顧も、玄関などに表示されている足元注意の標語です。足元が暗いので注意してね、履物はちゃんと揃えてね、と言う意味です。

転じて、余所見ばかりしていないで自分自身の足元を見なさい、とも。自分探しの旅をしてみたい。そんな時に思い出したい言葉です。

 

壺中日月長 こちゅうにちげつながし

壷中天   こちゅうてん

これは中国の仙人のお話。

昔、後漢の国に壺公という薬売りのじい様がおりました。じい様はいつも夕方になると店を閉めて壺の中にスーッと入ってしまいました。それを知ったお役人が、一緒に連れてって、と頼むと渋々壺の中に連れて行ってくれました。お役人が見た世界は、立派な御殿か立ち並び、山紫水明の庭に鳥が鳴き、花が咲き乱れ、美女が数多居てご馳走が並ぶ、夢の様な世界でした。三日ばかりそこで遊んで、再び元の世界に戻ってみたら、十数年の時が過ぎていましたとさ。

壷中天も字句の由来は同じ。壺の中の別天地と言う意味です。

狭い世界と見えた所が広々とした美しい別世界だった、というお話。悟りの境地かも。

或いは、狭い茶室の比喩かも。楽しんで、ゆっくりして行きなさい、という・・・