日記
日本人は日記を書くのが好きです。定番三日坊主はお愛嬌としても、古くは西暦935年に書かれた「土佐日記」を初めとし、「蜻蛉日記」「和泉式部日記」「紫式部日記」と続きます。日記は個人史でありながら、その時代を映す大切な記録です。
鎌倉期に出た日記では次の様な物があります。
名 前 成 立 年 著 者
明月記(めいげつき) 1180年~1235年 藤原定家
十六夜日記(いざよいにっき) 1277~1280年 阿仏尼
弁内侍日記(べんのないしにっき) 1246年~1252年 藤原信実娘
中務内侍日記(なかつかさないしにっき) 1280~1292年 藤原経子
(他にもありますが、省きます。)
関白太政大臣・九条兼実が書いた日記です。個人的な感想も有りますが、業務日誌に近いものです。叙任、政治、平氏や源氏の各地の情報、儀式次第など詳しく書かれています。歴史の変わり目に生きた最高権力者の日記で、超一級の資料です。現在最古の写本は宮内庁書陵部に収められています。「玉海」は二条家が「玉葉」を写本し、原本と写本を区別する為に付けた名前です。従って内容は同一です。
明月記
歌人・藤原定家が、時代の奔流の真只中を写し取った日記です。権門への忖度は無く、世間から一歩引いた冷静な目で、その時々の事を記述しています。オーロラ出現などの天文の記録も正確で、日本天文遺産に指定されています。
「明月記」の中の治承4年11月7日の分を抜粋
『七日、天晴、去夜維盛少将自坂東逃帰入六波羅云々。客主之貌巳不相若、況亦疲之兵難當新騎之馬云々、入道相国猶以逆鱗云々』
7日、天気晴れ、昨夜平維盛少将が坂東から逃げ帰って(富士川合戦)六波羅に入ったそうだ。帰還した維盛の顔は年取って見えた(維盛は光源氏張りの美男子で有名。この時21歳) ましてや、疲れた兵に新しい馬を宛がうのも難しい。平清盛入道は激しく怒っているとか。: ずいよう超訳
十六夜日記
著者・阿仏尼は藤原定家の息子・為家の側室です。為家死後、正室の子・為氏(ためうじ)と側室阿仏尼の子・為相(ためすけ)との間に相続争いが起きました。阿仏尼は我が子・為相の為に鎌倉へ行き、訴訟を起こします。鎌倉への道中記が十六夜日記です。訴訟の結果は阿仏尼の死後、為相の勝訴になりますが、これを機に、定家流は二つに分かれ、嫡流・藤原為氏は二条家となり、庶流・為相は冷泉家となります。
随筆
この時代、多くの随筆が書かれています。
海道記、東関紀行、建礼門院右京大夫集、とはずがたり などなどです。
けれど、何と言っても断トツは「徒然草」と「方丈記」でしょう。後世への影響も大きく、入学試験でも頻繁に出ます。出だしを暗誦していらっしゃる方も沢山いらっしゃるでしょう。
五大出だし暗誦文と言われる下記は、1行位は聞き覚えがあるかと思います。
「いずれの御時にか・・」「春はあけぼの・・」「祇園精舎の鐘の声・・」「つれづれなるままに・・」「ゆく河の流れは絶えずして・・」
徒然草 (つれづれぐさ)
丁度鎌倉幕府が倒れてから、南北朝を経て室町時代に書かれた全244段からなる随筆です。「枕草子」「方丈記」と共に「徒然草」は日本三大随筆に数えられています。
著者は吉田兼好と言うのが定説になっています。世の中の色々なことを取り上げて、面白おかしい説話だの、彼の雑感だの、それこそ暇にあかせて書き綴ったもので、今読んでも文章の軽妙さもさることながら、共感やら納得する箇所が随所にあります。
方丈記 (ほうじょうき)
著者の鴨長明(かものながあきら or かものちょうめい)は、加茂神社に仕えた家柄の出です。
彼は和歌や琵琶を習い、和歌所の寄人(よりうど)迄になりましたが、50歳の時、下賀茂神社の禰宜への道を閉ざされて突如出家してしまいます。彼は日野に庵を結び、そこで方丈記を書いたと思われます。1212年の事です。
方丈記抜粋
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 (中略) 知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来りて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り,誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖と、無常を争うさま、いはば、あさがおの露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといえども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて露なお消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。(訳は省略します)
余談 利休とあさがお
利休の庭の朝顔が見事だと言う評判に、秀吉は朝顔が見たいと利休に所望しました。利休は庭の朝顔を全部摘み取って、一輪だけ床に活けました。
千利休は「方丈記」を知っていたでしょうか。いえ、利休ほどの人が知らない筈はありません。
秀吉も知っていたでしょうか。それは分かりません。
経緯はどうであれ、利休がもし方丈記を知った上で朝顔を活けたのなら、秀吉に「殿下の『我が世』は短いですよ」と暗に示したことになるかも知れません。お茶の世界は暗喩、見立て、推測の世界。亭主の意を汲み取り趣向を肴にして遊ぶ世界です。
秀吉が朝顔の花を所望した、利休は利休なりの美意識で素直に応じた、それだけの話かも知れけないけれど、婆はそこに何か得体の知れない怖さを感じます。利休の底知れぬ反骨と挑戦。「殿下、ご存知かな? 朝顔が象徴する意味。知らぬだろう。それは方丈記に・・」
婆の考え過ぎかしらね。利休切腹予兆の足音が、微かに聞こえる気がするのですが。