伝説の名刀「小狐丸(こぎつねまる)」
「これは一条の院に仕え奉る橘の道成(みちなり)にて候。さても今夜帝不思議のお告げましますにより、三条の小鍛冶宗近を召し、御剣を打たせられるべきとの勅諚にて候ふ間・・・」
これは、能「小鍛冶(こかじ)」に出て来る冒頭の詞です。
ここに出て来る三条宗近(さんじょうむねちか)は平安時代に実在した刀鍛冶です。
能「小鍛冶」では、宗近は稲荷明神の化身を相槌方にして、見事に「小狐丸」と言う名刀を打ちます。この「小狐丸」の刀が本当に実在していると信じている人が大勢います。
世界の刀剣類の中で、日本刀は他の追随を許さない程優れた性質を持っております。そういう日本刀の中でも、天下五剣(てんがごけんorてんかごけん)と言って、名刀中の名刀と呼ばれる刀があります。(鎌倉時代に限らず、平安時代の作も含まれています。)
天下五剣
三日月宗近は三条宗近が作刀した太刀(たち)です。平安中期の作らしいです。
刃長 79.9㎝ 元幅 2.97㎝ 先幅 1.47㎝ 反り2.8㎝
手元に近い下半分に三日月の様な刃文があり、それが銘の由来です。
「三日月宗近」は足利義輝が所有していました。足利義輝は、上泉(かみいずみ)信綱と塚原卜伝(ぼくでん)から剣術を習った剣豪でした。けれども1565年、三好と松永の謀反により殺害されてしまいます。この時「三日月宗近」は三好氏の手に落ちてしまいます。やがて刀は豊臣秀吉の手に渡り、秀吉正室・高台院の手から徳川秀忠に贈られ、徳川家の重宝となります。明治維新後個人コレクター所有になりますが、1992年、東京国立博物館に寄贈されました。
銘 童子切安綱 (どうじぎりやすつな) 国宝
伯耆国(ほうきのくに)(現鳥取県中部・西部地域)の刀工・大原五郎大夫安綱が作刀した太刀です。製作は平安後期と言われています。
刃長 80.3㎝ 元幅 2.9㎝ 先幅 1.91㎝ 反り2.7㎝
伝承では、安綱が坂上田村麻呂の為に作った太刀で、坂上田村麻呂は後に伊勢神宮に奉納、その後、源頼光が神宮参拝の折、夢のお告げによりその太刀を給わります。
その頃、大江山に酒呑童子と言う鬼が居ました。源頼光は家臣の渡邊綱にその刀を貸し与え、鬼退治を命じます。渡邊綱はその太刀で鬼の腕を切り落としましたが、鬼は切り落とされた腕を取り戻そうと源頼光を襲います。頼光はこの太刀で酒呑童子を見事に討ち取ります。以来、その刀の銘を「童子切安綱」と申します。
「童子切」は足利将軍家の所蔵となり、足利家から豊臣秀吉に贈られ、徳川家康、秀忠を経て松平忠直、松平光長の手に渡り、津山藩松平家に落ち着きます。
江戸時代、罪人の死体を6人積み重ねて「童子切」の試し切りをした所、一気に下まで到達したばかりでなく、土台をも切ったと伝わっています。
明治維新後、個人コレクターの収蔵品になりましたが、戦後は東京国立博物館に収蔵されています。
銘 鬼丸国綱 (おにまるくにつな) 御物
「鬼丸国綱」は、山城国 (京都) 粟田口の刀工国綱の作刀した太刀です。
刃長 78.2㎝ 元幅 2.88㎝ 先幅 1.97㎝ 反り 3.2㎝
北条時頼は夜毎に鬼の夢に悩まされていました。或る夜、太刀の化身が現れ・夢の鬼を退治したければ国綱の刀の錆びを落せと告げます。その通りにして、抜身の刀身を立て掛けていると、刀が倒れて火鉢の足の鬼の細工を斬ります。それ以来、時頼は悪夢を見なくなったとか。
1333年、新田義貞に攻められた北条氏は敗北、東照寺で800余人が自害をします。この時「鬼丸国綱」は新田義貞の手に渡ります。(44鎌倉幕府滅亡の項参照)
新田義貞は斯波高経(しばたかつね)に討たれ、鬼丸は斯波高経の手に渡ります。
この様な来歴に、秀吉は鬼丸の不吉を嫌い本阿弥家に預けてしまいます。
それでも豊臣家は二代で滅び、大坂城は落城します。
大坂城落城後は徳川家に渡りますが、徳川家も本阿弥家に預けっ放しにします。
明治維新になって、本阿弥家は預かっていた鬼丸を明治政府に届け出、ようやく明治天皇の御物として皇室に納められます。
銘 大典太光世(おおでんたみつよ) 国宝
「大典太光世」は、平安時代後期に筑後三池(現福岡県)の刀工・初代典太光世が作刀した太刀です。
刃長 65.1㎝ 元幅 3.5㎝ 先幅 2.4㎝ 反り 2.7㎝
足利義昭から豊臣秀吉に贈られました。この刀は霊力があり、病を治すと伝わっています。前田利家の娘・豪姫が病気になった時に、この刀を秀吉から利家が借り受けたところ、豪姫の病が治りました。豪姫は幾度か病に罹り、その度に秀吉から大典太を借り出す内、秀吉はついに利家にその刀を与えました。以降、前田家の家宝として現代にまで伝えられています。前田育徳会所蔵。
銘 数珠丸恒次 (じゅずまるつねつぐ) 重要文化財
日蓮上人が信者から護身用にと贈られた太刀です。作刀は備前守青江恒次です。
刀身 83.7㎝ 元幅 3.1㎝ 先幅 1.8㎝ 反り 3.0㎝
日蓮上人はこの太刀に数珠を巻いていましたので、数珠丸恒次という銘になりました。数珠丸は身延山久遠寺に納められましたが、行方不明になりました。それから約200年後の1920年(大正9年)、競売品の中から偶然発見されました。「数珠丸恒次」を元の久遠寺に返そうとしたところ、久遠寺側は元の刀と少し様子が違うと、受け取りを拒否。そこで、数珠丸を同じ日蓮宗の本興寺に奉納しました。