式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

62 建武の新政(3) 中先代の乱

武士は恩賞の為に戦います。一所懸命です。土地に命を懸けるのです。それが、朝敵から領地を没収する筈のものが諸国平均安堵令によって御破算になり、北条氏の所領のみの没収と言う事になったので、没収された土地の面積はぐっと減ってしまいました。

その少なくなった土地から恩賞をくれると言うのですから、一人宛ての土地は当然少なくなります。しかも、帝の覚え目出度い者には手厚く、それ以外のものには薄く、という傾斜配分ですから、恩賞に対する不満は武士の間に鬱積して行きました。

20分の1税

自分には立派な御殿が必要であると、後醍醐帝は思いました。そして、大内裏(だいだいり)造営の計画を立てました。帝は、大内裏の造営費を賄う為に、二十分の一の新税を掛ける、と綸旨を出します。思い立ったら吉日と申しましょうか。思うと直ぐ口にし、綸旨にします。今時のツイッター政治に似ています。

只でさえ、恩賞が少なく生活が苦しい上に、この上新税を課せられたら耐えられません。武士達の不満が一層つのりました。人材登用策の影響で、代々の家職を失った公家達も憤懣やるかたない口惜しさが有りました。

後醍醐帝暗殺計画

この様な状況の中、西園寺公宗(さいおんじきんむね)が、後伏見法皇を奉じて後醍醐帝の暗殺を計画します。

西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に後醍醐帝をお招きして、そこで暗殺する計画でしたが、謀は発覚します。公宗は捕らえられ、出雲に流されます。が途中で殺害されてしまいます。

西園寺公宗北条泰家(14代執権北条高時の弟)を匿(かくま)っていました。泰家は逃亡し、各地を巡って挙兵を呼びかけます。

北条時行、拉致さる

泰家は、北条蜂起の旗印として北条時行に目を付けます。北条時行は14代執権北条高時の遺児です。北条高時の側室・二位局の子です。泰家は家来に、母親から時行を奪って来いと命じます。家来は、信濃に身を隠していた二位局に会い、強引に子供を連れ去ってしまいます。

彼女は東照寺の凄惨な地獄から幼い時行を守って脱出し、信濃諏訪頼重を頼って落ち延びて来ました。諏訪頼重は北条氏の御内人信濃守護でした。頼重は母子を迎え入れ、時行を我が子の様に育てました。ようやく安心の地に辿り着いたと彼女が思ったのも束の間、戦の旗印に、と奪われてしまったのです。彼女は嘆き悲しみの余り、入水自殺をしてしまいます。(「44 鎌倉幕府滅亡」の項参照)

時行挙兵

建武2年(1335年)7月14日、時行は諏訪頼重、諏訪時継、滋野氏、保科氏などに擁立されて挙兵します。時行この時10歳です。

時行起つ、の報せに各地に居た北条氏の残党や不満を抱えた武士達が、時行の下に馳せ参じ、たちまち大軍勢になりました。その勢いに乗って信濃から鎌倉を目指して進軍、次々と強敵を撃破して鎌倉に迫りました。

7月22日武蔵国町田村(現町田市)で時行軍は、迎撃に出て来た足利直義と正面衝突、足利軍を撃破します。

7月23日足利直義は、鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害し、鎌倉から逃げ出します。

護良親王は囚人と言えども元征夷大将軍。敵方の手に渡れば敵軍の総大将として襲って来るに違いないと思ったのでしょう。或いは第二次鎌倉幕府開設の中心人物になる可能性がある、と考えたのかも知れません。将来の禍根は断つに限ると、親王の命を奪いました。

7月25日、時行、鎌倉に入ります。

更に、時行は逃げる直義を追撃します。

足利尊氏出陣

鎌倉陥落の報せに、京都にいた足利尊氏は弟の直義を助けに北条時行討伐軍を起こします。尊氏は京都進発に当たり、後醍醐帝に征夷大将軍の肩書と、総追捕使の役目を要求しますが、帝は許可しません。

8月2日、尊氏は許可のないまま出陣します。帝は仕方なく、出陣した後から足利尊氏を征東将軍に任じます。

尊氏は、落ち延びて来た直義と合流し、反撃に転じます。足利軍は怒涛の様に時行軍に向かって行き、遠江(とおとうみ)の橋本、小夜(さよ)の中山(現掛川市)、相模国相模川北条時行軍を破り、尊氏はついに鎌倉を奪還します。

諏訪頼重は自害し、北条時行は逃亡します。中先代の乱はここに終息します。

中先代とは、先代の北条氏、後代の足利氏の間にある代という意味で、中先代と言います。

が、これが更なる争乱の発端となって行きます。

足利尊氏は、鎌倉に居座り続け、この戦いの功労者達に恩賞を与え始めます。

尊氏のこの行為に後醍醐天皇は激怒、尊氏と天皇の間に深刻な亀裂が入り始めます。

 

 

余談  護良親王伝説

足利直義が鎌倉から敗走して逃げる時、家臣の淵辺義博(ふちべよしひろ)に護良親王を殺す様に命じました。淵辺は護良親王を命ぜられた通りに殺しましたが、殺された時の、親王の余りの形相の凄まじさに怖気づいて、首級を草むらに放り出して逃げてしまったと言われています。

護良親王が鎌倉の土牢に幽閉されていると聞いた親王の寵姫・雛鶴姫(ひなづるひめ)は、供の者と共に鎌倉に来ましたが、時すでに遅し、親王が殺された後でした。雛鶴姫は親王の首級を抱き、鎌倉を脱出します。追っ手を逃れ、甲斐から京都に向かいますが、山また山の険しい道中、妊娠中だった雛鶴姫は山中で産気づき、落ち葉をかき集めたしとねの上で皇子を産みます。けれど、姫も皇子も力尽きてそこで亡くなってしまいます。供の者達は二人の亡骸を近くに葬り、護良親王の御首と錦旗を石船神社に祀ります。その後、村人により、雛鶴神社が建てられたそうです。

そういう話がある一方、こういう話も有ります。

実は、護良親王を殺す様に命じられた淵辺義博は、親王を害し奉るなど恐れ多くて出来ませんでした。足利直義が一目散に退却した事を幸いに、彼は時行軍が鎌倉に入る直前に親王を伴って脱出。船で陸奥を目指し、石巻に行ったと言うのです。「御所の浦」「御所入り」「吉野町」と親王にゆかりの名前が地名に残っており、「熱田神社」「朝臣(あそん)の宮」と言う建物も有り(3.11の津波で被災流出)、また親王の家臣だった姓を持つ旧家が何軒か今も残っているそうです。