新しい御代が始まり意気盛んな帝を戴いて、陽気にお祭り騒ぎと思いきや、綸旨に追われて右往左往。世間様を上から下まで、聖から俗まで見渡して、鋭いまなこで軽やかに笑い飛ばして描き切る当世風刺の傑作の、二条河原に落首が一つ。この頃都にはやるもの夜討ち 強盗 にせ綸旨・・・そんな無頼の世の中に大乱軍馬の音が迫ります。
尊氏、鎌倉を動かず
足利尊氏は鎌倉から北条時行を駆逐したまま鎌倉に居座ってしまいました。
そして、鎌倉に御所を建て、軍功の者に恩賞を与えるなど勝手な振る舞いを始めました。なんと、尊氏が与えた恩賞の中には、新田義貞の所領も含まれていました。尊氏は義貞の領地の一部を勝手に取り上げて恩賞にしてしまったのです。
讒訴(ざんそ)合戦
恩賞授与は後醍醐帝の専権事項です。尊氏の振る舞いは越権行為そのもの。帝の怒りは頂点に達します。帝は、足利尊氏に京都に帰還する様に命じます。尊氏はそれを無視。逆に尊氏は新田義貞を讒訴します。北条時行を成敗したのは足利であり、新田義貞は戦功も無いのに功を横取りしている奸臣だ、故に義貞を討伐すべきだ、と。そして、尊氏は全国に檄を飛ばし、兵を集めます。
新田義貞は尊氏の讒訴に対して直ちに反論。護良親王を殺害したのは足利直義である事など個々の具体例を挙げて帝に訴えます。
尊氏は、護良親王殺害の罪を義貞になすり付けようとしましたが、目撃証人が現れて嘘がバレてしまいます。
足利討伐軍進発
建武2年11月9日、後醍醐帝は足利尊氏追討を新田義貞に命じ、錦旗を授けます。
帝は新田義貞に尊良親王(たかよししんのう)を付けます。尊良親王は後醍醐天皇の第一皇子で一品(いっぽん)の君。次期皇太子候補でしたが、持明院統の量仁(かずひと)親王(後の光厳天皇)とポストを争い、破れてしまいました。その尊良親王が足利討伐軍の上将軍(総大将)になります。新田義貞はその下に位置する将軍です。戦いに疎い公家の上将軍と実戦経験豊富な武家将軍の組み合わせが、やがて作戦と指揮命令系統に支障をきたす様になります。
征討軍は三手に分けられました。
新田義貞は尊良親王を戴いて京都から鎌倉へ向かって東海道を東進します。
洞院実世(とういんさねよ)による追討軍が同じく京都から東山道を通って鎌倉に向かいます。
北畠顕家(きたばたけあきいえ)が北の陸奥将軍府から南進して鎌倉に向かいます。
三軍の挟撃によって鎌倉に居る足利尊氏を攻撃する手筈でした。
矢作川(やはぎがわ)の戦い
建武2年11月25 日、新田義貞率いる官軍と足利軍(足利直義・高師泰(こうのもろやす))が、三河国矢作川(現愛知県岡崎市にある川)を挟んで対峙します。新田義貞は川の西岸に陣を構えます。足利軍は東岸に布陣します。義貞は、長浜六郎左衛門を呼んで大軍が渡河できそうな浅瀬を探させます。彼はただ一騎で最適な場所を探します。そして、丁度良い場所は三か所あるが何処も対岸が屏風の様に立っていて、しかも敵が矢を揃えて狙っている、と報告します。
義貞は作戦を変え、敵を川におびき出す事にします。彼は中州に射手を配置し、矢を盛ん射かけます。敵はその手に乗って上流の浅瀬を渡河し始めます。義貞は渡河中の彼等を狙って襲います。
さる程に、11月25日の卯の刻に、新田左兵衛督義貞。脇屋右衛門佐義助、6万余騎にて、矢矧川(やはぎがわ)に押し寄せ、敵の陣を見渡せば、その勢20~30万騎もあるらんとおぼしくて川より東、橋上下30余町に打ち囲みて、雲霞の如く充ち満ちたり。左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼びて「この川いづくか渡りつべき所ある。くはしく見て参れ」とのたまひければ、長浜六郎左衛門ただ一騎、川の上下を打ち回り、やがて馳せ帰って申しけるは、「このかわの様を見候に、渡りつべき所は三箇所候へども、向かひの岸高くして、屏風を立てるが如くなるに、敵鏃(やじり)をそろへて支へて候ふ。」(途中略)
わざと、敵に川を渡させんと、河原面に馬の懸け場を残し、西の宿の端に南北20余町にひかへて、射手を川中の洲崎へ出だし、遠矢を射させてぞおびきける。案に違はず吉良左兵衛佐、土岐弾正少弼頼遠、佐々木佐渡判官入道、かれこれその勢6千騎、上の瀬を打ち渡って、義貞の左将軍、堀口、桃井、山名、里見の人々に討って懸かる。
作戦が当たり、新田軍(官軍)は足利軍に快勝します。敗走する足利軍を追って新田軍は更に東へ進撃します。
建武2年12月5日昼、安部川河口の手越河原(現静岡県静岡市)で再度足利直義と新田義貞は激突。新田は夜襲を仕掛けて成功し、足利軍を潰走させます。この時、淵辺義博(護良親王を殺したと言う人物)が足利直義の身代わりとなって殺されます。その隙に直義は逃げる事が出来ました。
余談 佐々木佐渡判官入道
太平記に出て来る佐々木佐渡判官入道は、佐々木道誉の事です。彼はバサラで有名です。華道、香道、茶道などでも達人と知られています。この手越河原の戦で足利軍側で戦っていましたが、負けると官軍側に寝返り、鎌倉攻めに加わります。
余談 土岐弾正少弼頼遠
土岐弾正少弼頼遠は土岐家系図の人ですが、当古田家系図にも出てくる人物です。当古田家系図の頼遠は、土岐系図と同じ弾正少弼と言う役職で、在鎌倉と書かれています。ただ、頼遠の父親の名前が、古田家系図では頼明、土岐系図では頼貞、尊卑文脈では別の名前になっています。
余談 新田義貞の家格
新田義貞の家は足利尊氏より低い家柄だったと言われています。けれど、足利尊氏も新田義貞も、同じ源頼国を祖としています。新田は頼国の嫡流です。足利は頼国の次男の流です。ただ、新田は軍役を課せられても静観する事が多く、諸事不運にも見舞われ、頼朝から疎んぜられていました。結局無位無官。常に足利氏の後塵を拝し、建武の頃は、完全に足利氏に従属していました。