新田軍は後醍醐帝の宣旨を奉じ、錦旗を掲げて 鎌倉の足利尊氏討伐に向かいました。
一方、朝敵になるのを恐れて尊氏は出家してしまいます。これに対して尊氏の弟・直義は交戦を主張、自ら軍を率いて京都に向かい西進します。
後醍醐帝側の新田軍は足利を討つべく東進し、矢矧川(愛知県)で直義軍とまみえ、これを撃破。更に手越河原(静岡県)で足利軍を破り、敗走する直義軍を追尾して、新田軍は三島(静岡県)に到着します。義貞は行軍で伸びた戦列を三島で整え集結させます。
追い詰められた足利尊氏は、弟・直義の説得も有り、出家を辞めて出陣します。尊氏が出陣する、と聞いて足利軍の士気が高まりました。
天下の嶮での布陣
新田義貞は軍を二手に分けます。
弟・脇屋義助(よしすけ)を副将軍にして、尊良親王や公家達など7千騎を付けて足柄峠に向かわせ、義貞自身は7万騎を率いて箱根に布陣します。
義貞が軍を二手に分けた理由はこうです。義貞軍主力が足利軍主力の正面に立ち向かい、弟・義助軍が足利軍の搦手(からめて(弱点))の背後に回って攻める作戦でした。
他方足利軍は、足利直義が主力軍を率いて箱根に向かい、足利尊氏が足柄山に控えて後方を守るという陣形です。
箱根・竹之下合戦
12月11日、両軍は箱根と竹之下の二ヵ所で向き合い、戦端を開きます。
新田義貞軍(官軍)は足利直義軍に対して優勢に戦いを進め、箱根の戦いで大勝します。
弟・義助軍と足利尊氏軍は足柄山の麓、芦ノ湖の北にある開けた平地・竹之下で激突。尊氏参戦で士気が上がった足利軍は勢いを増し、義助軍は苦戦を強いられます。
義助軍には名目上の総大将・尊良親王や中将の二条為冬、武官の公家や北面の武士達が居ます。義助が上将を差し置いて指揮を執るのはかなり難儀だったでしょう。誇りばかり高い公家達は、快進撃してきた延長戦のまま搦手攻めを担当したので、楽勝気分だったかも知れません。義貞にしても、一品の君の尊良親王や公家達を、激戦が予想される正面攻めに投入するのは遠慮があったと思われます。
12月12日、竹之下の戦場では、思わぬ事態が発生します。義助軍から大友貞載(さだとしorさだのり)と塩屋高貞(えんやたかさだ)の二人が、足利軍に寝返ったのです。義助軍は総崩れになり、敗走します。二条為冬も討死しました。
この報せが義貞に届くと、義貞はすぐ箱根口を退きます。
義貞はこの時大勝していましたが、義助の敗走を追って足利軍が来た場合、潰走して雪崩れて来る軍を支えるのは大変です。一旦後退して態勢を立て直そうと引いたのですが、更に思わぬ誤算が生じます。
新田軍に敗色が出ると、義貞と共に戦っていた佐々木道誉が、新田軍の形勢不利と見て足利軍側に寝返りました。義貞軍は混乱、総崩れになってしまいます。
軍を立て直す暇も無く新田軍は敗走し、其のまま東海道を西進、京都まで逃げ帰ってしまいました。
『箱根・竹之下合戦の事』(抜粋)
『(前略)義貞の兵の中に、杉原下総守、高田薩摩守義遠、葦堀七郎、藤田六郎左衛門、川波新左衛門、藤田三郎左衛門、同じき四郎左衛門、栗生左衛門、篠塚伊賀守、難波備前守、川越三河守、長浜六郎左衛門、高山遠江守、園田四郎左衛門、青木五郎左衛門、山上六郎左衛門とて、党を結んだる精兵の射手16人有り、一様に笠符(かさじるし)を付けて、進むにも同じく進み、また引く時もともに引けるあひだ、世の人これを16騎が党とぞ申しける。
(途中省略) 馬の蹄を浸す血は、混々として洪河の流るるが如くなり。死骸を積める地は、累々として屠所の如くなり。無慙と言うもおろかなり』
余談 古田氏の始まりは・・・
古田織部の古田氏は、上記の太平記に出て来る高田薩摩守義遠の子孫ではないかと、婆は思うのですが・・・この高田義遠の子孫に、美濃に在所して古田を名乗る武将が出て来ます。以下その系図です。
源頼政 従三位上 大内守護 兵庫頭 美濃守 治承四庚子五月廿六日高倉宮奉勧合戦負於宇治平等院扇芝自害歳七十六
→頼兼 大内守護 住于美濃国高田庄故号高田 高田四郎 源蔵人大夫
→頼茂 従五位下 大内守護 後鳥羽院ノ勅勘ヲ蒙テ仁壽殿二走入火ヲ放チ自害ス (承久の乱) 高田右馬頭
→頼保 従五位下 高田兵庫頭 依君命相續祖頼政跡或有之賜上野國甘楽郡也
→頼明 従五位下 高田民部少輔
→政春 従五位下 高田伊豆守
→義遠 従四位下少将 高田薩摩守 元弘ノ乱屬宮方度々有軍功焉
→遠春 従五位下 高田美濃守 建武ノ乱足利新田取合ノ刻於遠州白坂同薩埵山三州矢矧或駿河竹下相州箱根山或富士川岩淵等合戦何レモ得利運矣 元弘以来永和年中四十八箇年間一度無二心為 宮方勵忠勤而無隠天下
→政行 従五位下 高田飛騨守
→頼春 従五位下 高田下野守
→友春 古田靭員佐 住于濃州古田郷依子孫為名字也
→重頼(古田大膳亮) → 重隆(古田左衛門尉) → 重次(古田吉内将監) → 重則(古田吉左衛門・秀吉公登庸之士) → 重勝(古田重勝・松坂藩藩主) → 重治(古田重治・浜田藩藩主) → 重恒(古田重恒・浜田藩藩主) → 御家改易 (以下略)
これによると、源頼兼の時に高田を号し、友春の時に名字を古田に変えています。
上記系図は婆が嫁いだ先の古田家の系図です。ただ、重則以前の系図が本当かどうか確かめようがありません。
『尊卑文脈』では、承久の乱の時、頼茂(よりもち)の息子・頼氏で系が絶えています。
太平記に出て来る高田義遠は建武の乱での活躍なのに、古田系図では義遠は元弘の乱での活躍になっています。そして、建武の乱の箱根で活躍したのは義遠ではなく、古田系図では息子の遠春になっています。
友春の代から名字を古田にしています。この時から名前の通字(とおりじ)が「重」に変わっています。それ迄は頼政の「頼」が通字、或いは親や先祖の一字などを貰って付けています。何故友春の代から「重」に変わったか謎ですが、多分、友春の時に官位を失っていますので、それを恥て先祖の名を通字にしなかったのかと、これは婆の推測です。
古田織部正重然は安土桃山時代に活躍した美濃の人です。ひょっとしたら古田織部は「住于濃州古田郷依為名字」の流れかもしれません。違うかも知れません。本当は分りません。
余談 『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』
『尊卑文脈』は左大臣洞院公定が著した家系図です。そこには各公家・各武家の嫡流と支流の血筋が書かれております。