式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

65 建武の新政(6) 楠木正成と湊川合戦

当時の御家人は「利」を求めて走り、「利」が薄いと見るや忽ち離れます。「利」は恩賞。「恩賞」は土地。「土地」を得て一族郎党を養って行くのが生活の全てです。

その為には「利」の多い方に付くのは当然と考え、寝返りは日常茶飯事。戦の敗色が濃くなれば、勝ち馬に乗り換えるのが彼等の流儀です。

箱根・竹之下で大物武将が何人も寝返ったのも、足利尊氏に加担して武士の世を再び立ち上げた方が、恩賞が手厚くなるとの読みから。元弘の乱の時、後醍醐帝の恩賞の配分が余りにも不公平だった為に、武士達の心は帝から離れてしまいました。

 

第一次京都合戦

建武3年1月新田義貞を追って京都に来た足利軍は、園城寺(おんじょうじ)(=三井寺)に入り、そこを京都攻略の拠点とします。

後醍醐帝は難を避けて比叡山延暦寺に入ります。

延暦寺園城寺は昔から犬猿の仲です。延暦寺僧兵による園城寺焼き打ちは主なものだけでも10回も有りました。後に、織田信長延暦寺焼き打ちをした際、信長は本陣を坂本の園城寺に置いたと聞いています。

それはさて置き、尊氏を追って西進してきた北畠顕家と、態勢を立て直した新田軍、そして楠正成(くすのきまさしげ)軍の三軍が連携をとって足利軍を攻撃します。足利軍は敗北し、園城寺は焼き打ちされてしまいます。この時の兵火は園城寺ばかりで無く、後醍醐帝の二条富小路内裏も焼失、京都での市街戦は凡そ20日間続き、都は灰燼と化します。

宮方の軍は京都から足利軍を駆逐しましたが、北畠、新田、楠木の三軍はなおも抵抗する足利軍を豊島河原(現大阪府箕面市池田市)で破ります。

足利軍は九州へ敗走します。

 

九州多々良浜の合戦 

九州に入った足利軍は、少弐頼尚(しょうによりひさ)に迎えられます。が、宮方に付いた地元の筑前筑後・肥後の諸豪族から抵抗に遭います。その軍勢凡そ2万騎。対する足利軍は2千騎。

建武3年3月2日(西暦1336年4月13日)両軍は多々良浜(たたらはま)(現福岡市)で衝突します。足利軍が絶望的な戦力差にもかかわらず、宮方の九州勢の中から足利軍に寝返る者が続出、九州の宮方は総崩れになり、足利軍が圧勝してしまいます。

 

楠木正成

河内国の悪党と呼ばれた楠木正成は稀に見る戦巧者でした。彼の出自・出身には諸説あります。得宗被官だったらしいと言われております。

楠木正成は、幕府に反抗的な態度をとっていた渡辺党、湯浅氏、越智氏(おちし)などを平らげ、その軍事的手腕が高く評価されました。やがて彼は、幕府よりも地元の人々の暮らしに寄り添う様になり、人々からも慕われる様になります。ついには彼自身が「悪党楠木兵衛尉」と幕府側から呼ばれる様になっていました。

 

和睦の献策

後醍醐帝が討幕の狼煙を挙げてからずっと、楠木正成は宮方で戦って来ました。

彼は戦の天才でした。全く人が思いつかないような奇策を次から次へと繰り出しました。石や材木を崖から落としたり、糞尿を浴びせたり、かと思えば藁人形に鎧兜を着せた偽装兵を並べて、その陰から矢を射たりと、敵の大軍を手玉に取って大損害を与えました。

その戦上手の彼が、京都合戦で討ち漏らした足利尊氏を非常に危険視していました。

尊氏には、血筋と人間的魅力と武家棟梁としての力量の三拍子が揃っていました。その尊氏を九州に追い落としたのは、虎を野に放つ様なものでした。

楠木正成は帝に献策します。新田義貞を打ち、足利尊氏と和睦するべきだ、と。

正成のこの仰天献策は公家達に一蹴されてしまいます。彼等は言います。宮方は勝利し、敵は九州に逃げてしまったではないか、と。敗北した朝敵と何故和睦しなければならないのか?

 

新田軍苦戦

3月、後醍醐帝は新田義貞を総大将として足利尊氏追討の軍を九州に差し向けます。

新田軍は播磨国で、足利側の赤松則村を攻めますが、なかなか勝敗はつかず長引いてしまいました。そんなこんなで時間を取られている間に、九州から足利軍が攻め上ってきました。勢いづく赤松軍。新田軍は撤退を始めます。撤退を始めると早速寝返りが大量に出て来ました。新田軍はその数を急速に減らしてしまいます。

尊氏が京都に攻め上って来る、宮方の新田軍は押されて敗退している、という報せが帝の下に届きます。帝は楠木を呼び出し、新田軍の救援に向かう様命じます。

 

湊川(みなとがわ)の決戦

正成はそこで提案します。敵軍を都に誘い入れ、新田、北畠、楠木の三軍や、宮方に付く者達と共に都を包囲し、四方より攻めれば足利軍を殲滅できる、と。その間、帝には比叡山に難を逃れていて欲しい・・・しかし、この提案は退けられてしまいます。正成は止む無く出陣します。

建武3年5月3日、九州から東進して厳島まで来た足利尊氏の下に、光厳上皇から使者が到着し、「新田義貞追討令」の院宣が伝えられました。これは、箱根・竹之下で勝利した尊氏が密かに光厳上皇と連絡を取り合って実現したものです。これで、尊氏は朝敵の汚名を逃れる事が出来るようになりました。こうなると現金なもので、足利軍に我も我もと加わる者が増えてきます。

建武3年5月24日新田義貞楠木正成は兵庫で合流します。その晩二人は、どう考えても勝ち目の無い戦を前に、酒を酌み交わしながら話し合います。

建武3年5月25日、足利軍は九州・四国の水軍10万を引き連れ、湊川に着きます。陸路から東進してきた足利直義軍もそこに加わります。総勢30万とも50万とも・・・

対する新田軍は約4万、楠木正成軍は身内で固めた700騎。

開戦は午前8時頃、船と陸からの矢合わせから始まりました。上陸してくる雲霞の様な敵。衆寡敵せず、果敢な突撃を繰り返しても正成は味方の数を減らすばかりでした。ついに、正成軍は73騎にまで減ってしまいました。正成は弟・正季(まさすえ)らと共に村の民家に入り、そこで刺し違えて自害し、家臣達も皆自害しました。

新田軍からは、敵方への投降やお定まりの寝返りが続出。新田義貞は残る兵を纏めて激戦の死地から退却し、京都へ戻ります。

後醍醐帝は官軍敗北の報せに、三種の神器をもって比叡山に登りました。

 

 

余談  楠木正成の旗印

楠木正成の旗印は『非理法権天』です。理よりも法が勝り、法よりも権が勝り、権よりも天が勝るという意味だそうです。

 

余談  桜井の別れ

楠木正成が子の正行(まさつら)と桜井で分かれた話は有名です。何人もの画家が桜井の別れを画題にして描いていますし、銅像も建っている様ですが・・・実は太平記の創作だったのではないかと言われています。正成の子・正行はその頃は既に青年だったと言う話です。正行は、当時は余り考慮されなかった戦争の基本・兵站、情報などにも力を入れ、父に勝るとも劣らない武将になったとか。彼は父と同じ様に南朝方で戦っています。