第二次京都合戦
宮方の新田軍が湊川で敗れ、京都に向かって敗走して来る、しかも賊軍の足利がその後を追い駆けて来る と言う報せに、京都は上を下への大混乱に陥りました。
建武3年5月27日、後醍醐天皇は三種の神器を持って比叡山に避難します。その時、天皇は光厳(こうごん)上皇に共に逃げようと誘います。光厳上皇は仮病を使ってそれを断ります。
光厳上皇にとって、後醍醐天皇は自分を帝位から引き摺り下ろした人物、光厳上皇は、密かに足利尊氏に「義貞討つべし」と院宣を出しています。
後醍醐帝は足利尊氏を朝敵にしました。光厳上皇は新田義貞を朝敵にしました。天皇と上皇の命をそれぞれ受けた二つの「朝敵」が京都でぶつかりました。
建武3年5月29日、足利軍は新田軍を追って京都に入り、都を占拠します。
6月14日、足利尊氏は光厳上皇を奉じて京都の東寺に入りました。
新田軍と足利軍は都を舞台に死闘を繰り広げます。
楠木正成は既に討死し、名和長年も千種忠顕(ちぐさただあき)も次々と討死し、頼みの綱にしていた北畠顕家は別の戦場で足止めを食らっており、新田軍側にとって戦局は次第に不利になってきました。
後醍醐帝、新田を捨てる
足利尊氏は後醍醐帝と密かに連絡を取り、和平工作を始めました。この和平工作は新田側には知らされませんでした。ただ、新田の家臣・江田行義と大舘氏明が後醍醐方に通じていました。
10月9日、江田と大舘の行動に不信を抱いた義貞の部下・堀口貞満が、後醍醐帝に質そうと比叡山に登ると、後醍醐帝は和睦の為に山から都に降りる、正にその時でした。
「あゝ、何故あなた様は長年忠節を守って来た新田をお見捨てになるのですか。今の今まで大逆の朝敵だった尊氏に心を寄せ、あなたの為に戦って来た我らを裏切りなさいますのか」と、涙ながらに堀口は訴えました。
そこへ3000の兵と共に駆け付けた新田義貞は、怒りを懸命に堪えて事の真偽を質しました。すると、帝は新田の労を労い、これは計略であると言い繕って説明しました。
義貞は帝に、恒良親王と尊良親王を推戴して北陸道へ行き再起を図りたいと願いました。帝は二人の親王を連れて行く事を許しましたので、義貞は兵を二手に分け、一手は帝の護衛に付け、もう一手は義貞が率いて北陸道を目指しました。
道中、新田義貞一行は足利軍の追撃を受け、猛吹雪にも遭い凍死者を出しながらも、金ケ崎城に入る事が出来ました。義貞側は金ケ崎城から、親王の足利追討の令旨を各地に盛んに送りましたが、反応はいま一つでした。
金ケ崎城落城
足利軍は金ケ崎城を攻撃、何度か渡り合う戦も有りました。新田勢は初めの内は優勢でした。が、やがて6万の兵に包囲されて兵糧攻めにあいます。城中の食糧は底を突き、兵達は餓えに苦しみました。人肉を食べる程の凄惨な様子だったと伝わっています。
延元2年3月5日。足利軍による総攻撃が行われ、翌6日、金ケ崎城は陥落します。尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となってしまいます。
新田義貞はたまたまその時、弟の義助のいる杣山城へ援軍に行っていて、金ケ崎城を留守にしていました。
南朝樹立
後醍醐帝側に就いて新田軍側で戦った有力武将達が次々と討たれ、後醍醐帝の持てる武力は次第に痩せ細っていきました。
2月29日、光厳上皇は改元し、元号を延元とします。後醍醐帝はこれを認めず建武の元号を使います。
延元元年(建武3年)8月15日(西暦1336年9月20日)、光厳上皇は院宣を出し、弟の豊仁(ゆたひと)親王を即位(光明天皇)させます。
延元元年(建武3年)10月10日、後醍醐帝が花山院に幽閉されます。
11月7日、建武式目が制定されます。この制定によって足利政権が一歩前へ踏み出しました。
12月21日、後醍醐天皇は幽閉先の花山院を脱出、吉野へ逃れ、そこで吉野朝廷を開きます。南朝の樹立です。
後醍醐天皇は、自分は退位をしていないと退位を否定、光明天皇の存在を否定し、更に、渡した三種の神器は偽物だったと宣言します。
余談 三種の神器
三種の神器について、後醍醐帝が偽物を北朝に渡したと言う話ですが、後の研究者によって否定され、渡したのは本物であったと言われています。その裏付けとして、正平一統の時、南朝の後村上天皇は北朝に渡した神器を取り戻した、という事実が有ります。