式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

67 南北朝(1) 北畠顕家

北畠顕家(きたばたけあきいえ)は後醍醐天皇を批判し、堂々と真正面から諫めた人物です。『顕家諫奏文(あきいえかんそうぶん)』と呼ばれる彼の上奏文は、諸葛孔明の『出師(すいし)の表』に匹敵するのではないかと、婆は思っています。

略歴

顕家は、『神皇正統記』を書いた北畠親房の長男で、文武両道に秀でた公家でした。頭脳明晰、眉目秀麗、早熟の天才です。3歳で叙爵、12歳で従三位参議・左近衛中将になります。15歳で従三位陸奥守に任じられ、翌年、津軽の北条氏残党を征伐、その功により、従二位になり、陸奥鎮守府将軍になります。

京都が兵乱に巻き込まれ後醍醐帝が窮地に陥ると、陸奥から京都へ5万の軍を率いて駆けつけます。それは秀吉の中国大返しの10日間で200㎞を走り抜ける速度を上回って、16日間で600㎞を走る強行軍でした。兵站は全て現地調達の略奪です。顕家の通った道筋は家も草木も残らない程の大変な被害に遭ったと記録されています。

京都を占拠した足利軍を、彼は新田と楠木と組んで京都から駆逐してしまいます。顕家は18歳で鎮守府大将軍に任ぜられます。彼は斯波氏や相馬氏を破り、利根川で足利軍の大軍を壊滅させ、鎌倉の足利義詮上杉憲顕を打ち破って鎌倉を陥落させます。

二度目の上洛の時、顕家は美濃国青野原(現岐阜県大垣市)の戦いで足利軍を破ります。それから伊勢へと進路を転じ、畿内各所で戦いました。しかし、遠征の疲れも有って勝敗は五分五分でした。

延元3年・建武5年5月22日(1338年6月10日)高師直と堺浦の石津で戦い、敗れて顕家軍は潰走。ついに顕家は討死してしまいます。享年21歳。

顕家は死ぬ一週間前の5月15日、後醍醐天皇を諫める文書を陣中で書きました。それが『北畠顕家上奏文』又は『顕家諫奏文』と呼ばれるものです。


顕家諫奏文

『顕家諫奏文』は、最初の出だしが欠落していますが、全部で七条あります。ここでは出だしの文と、6条と、結びの文を載せます。原文は太字で表しました。ふりがな等婆が補完したものは、小さい字で表しました。婆なりに意訳も付けております。

諫奏文

一条

(前文欠落)鎮将各令知分域、政令之出在於五方、因准(いんじゅん)之處似弁(わきまえる)故實、元弘一統之後、此法未周備、東奥之境纔(わずか)(なびく)  皇化、是乃最初置鎮之効也、於西府者更無其人、逆徒敗走之日擅(ほしいまま)(はく)彼地、押領諸軍再陥帝都、利害之間以此可觀、凡(およそ)諸方鼎立(ていりつ)(しこうして)猶有滞於聴断、若於一所決断四方者、萬機紛紜(ふんうん)爭救患乎、分出而封侯者、三代以住之良策也、置鎮而治民者、隋唐以環之権機也、本朝之昔、補八人觀察使、定諸道之節節度使、承前之例、不與(よ)漢家異、方今亂後之天下民心輒(たやすく)難和、速撰其人、發遣西府及東關、若有遲留者、必有噬臍(へいぜい→ほぞを噛む)悔歟、兼於山陽・北陸等各置一人之藩鎮、令領便近之国、宜備非常之虞(おそれ)、當時之急無先自此矣

1条 (意訳) 

鎮守府を置いて各区域を治めて来ましたが、元弘で統一した後はこの法は未整備です。東奥はわずかに皇化しておりますが、これは最初に鎮守府を置いて治めたからです。西(九州)にはそれが無いから逆賊が走り入って勝手に占領し、再び帝都を陥れました。どちらが得策かこれを見れば分かります。地方が鼎(かなえ)の様に立って行政が上手くいったとしても、それでも民の声を聴くのは滞ってしまいます。仮に集権的に一か所で色々なことを決断しようとすれば、よろずのことが紛々として混乱し、患難を救う事が出来るでしょうか。分権して治めるのが良策です。隋唐の昔からやっている事です。本朝も昔は観察使を置き、節度使を置いて民を治めました。漢の国も同じです。今の様に乱の後では、民心が簡単に和する事は難しいです。ですから、速やかに人を選んで西府や関東に派遣しなさい。もし、遅れる様な事が有れば、必ず臍(ほぞ=へそ)を噛むような後悔をするでしょう。ついでに、山陽・北陸に各一人ずつ藩鎮を置いて治めさせ、万一に備えるべきです。これは早急にすべきです。

 

第六条

可被厳法令事

右法者理之権衡(けんこう)、馭民之鞭轡(べんひ)也、近會朝令夕改、民以無所措手足、令出不行者不無法、然則定約三之章兮如堅石之難転、施画一之教兮如流汗之不反者、王事靡鹽民心自服焉

6条 法は厳かにする事

法は国の理(ことわり)で、基準となるものです。それによって民を馭(ぎょ)し、民を統(す)べるものです。ところが近頃では、朝に令を出し夕べにそれを改めています。そのような事をしたら、民は混乱してどうして良いのか分からないではありませんか。法令を出してもそれが行われなければ、法は無いのと同じです。ですから、三つの決まり事のように極めて簡単で良いから、ころころ転がらない様なような盤石の法令を作り、それを衆知すべきです。流れ出た汗は元に戻らないと言います。王の言葉もそうです。矢鱈と出したり引っ込めたりするものではありません。しっかりすれば、民の心は自ずから王に靡き、服するでしょう。

 

結びの言葉

以前条々所言不私、凡厥為政之道治之要、我君久精練之賢臣各潤餝(じゅんしょく)之、如臣者後進末学何敢計議、雖然粗録管見(かんけん)之所及、聊攄(りょうちょ)丹心蓄懐、書不尽言々不尽意、伏冀照 上聖之玄鑒(げんかん)察下愚之懇情焉、謹 奏

延元三年五月十五日従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

結び

これまで述べてきた事は私心からではありません。これは政治をする上で大切な要です。陛下は長らくこれを精錬なさり、賢臣の方々は陛下の事跡を更に豊かに実らせてまいりました。私の様な者は未だ若輩者ですので学問も未熟です。どうして議を計る事が出来ましょうや。とは言え、私の愚見を、赤心(まごころ)をもって胸に抱いていた思いを申し述べます。書は言葉を尽くす事が出来ません。言葉はいくら尽くしても思いの全てを表す事が出来ません。どうぞ、伏して冀(こいねが)います。陛下の何処までも見通す心でご照覧下さいまして、愚かな私の懇情を察して下さいますよう、謹んで奏上申し上げます。

 延元3年5月15日 従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍源朝臣顕家上

 

 余談  本文を載せなかった他の条

2条 3年間無税にする事。帝は奢侈を慎み、宮殿造営等は止めるべき事

3条 無能の者はリストラすべし。官位と報償の在り方を検討すべし。

4条 帝に擦り寄り禄を貪る不忠の公家や僧侶が多い。武士や雑兵の中に主人に仕えて死んで行く者がいる。その者達が不遇ならば善政とは言えない。

5条 陛下よ。行幸や宴会は止めなさい。民は苦しんでいる。

7条 人材登用の勧め。能力あるものは引き立てよ。職務を汚す者は退けよ。

 

余談  綸言(りんげん)汗の如し

勅命が一度出れば取り消せない事は、出た汗が再び元に戻らないのと同じだという事。天子には戯れの言葉は無い。

(角川 新版 古語辞典より引用)

 

余談  定約三之章(三つの法律)

6条にある「定約三之章」は『史記』に載っている法令です。

1、人を殺すな  2、人を傷つけるな  3、盗むな

人を殺せば死刑である。人を傷つけたり盗んだりしたら、それなりの罰を受ける。