前項の「南北朝(3)」の「正平一統・和平の兆し」で、楠木正儀が北朝に寝返ったと述べましたが、そこに至る迄の間に様々な紆余曲折がありました。
延元4年/暦応2年8月15日(1339年9月18日)、後醍醐天皇が崩御されました。
後醍醐天皇の跡を、後醍醐天皇の側室・阿野廉子(あのれんしorあのかどこ)が生んだ皇子で第七皇子の義良(よしなが)親王が即位し、後村上天皇となりました。
後村上天皇は、南朝こそ正しい皇統であると主張している主戦派の天皇でした。お上がそうですから、南朝では主戦派が占める様になり、楠木正儀の様に和平を模索する者は次第に孤立して行きました。けれども、南朝の劣勢は隠しようもなく、後村上天皇も次第に柔軟になり、宥和に傾いて行きます。
正平20年/貞治4年(1365年)頃から和平交渉が始まります。この交渉は断続的に続けられ、あともう少しで合意に至ると言うところまでこぎつけました。
正平22年/貞治6年12月7日(1367年12月28日)、足利義詮が薨去します。
正平23年/応安元年3月11日(1368年3月29日)、後村上天皇が崩御されます。
正平23年/応安元年3月、南朝の長慶天皇が即位します。長慶天皇は主戦論者でした。
これ以後、25年間、南朝と北朝の間で和平交渉は開かれませんでした。
正儀、北朝に降る
長慶天皇は摂津の住吉に行宮を定めますが、河内天野の金剛寺(現大阪府河内長野市)に移ります。正儀は尚も和平の努力をしますが、再び南朝の中で孤立し、冷遇される様になりました。
楠木正儀は北朝の管領・細川頼之の誘いを受け、幕府に帰順しました。幕府は楠木正儀を歓迎し、破格の待遇をしました。
建徳元年/応安3年(1370年)、楠木正儀の居城・河内国瓜破(うりわり)城が南朝に攻撃されます。幕府は正義に援軍を送り、南軍を打ち破り勝利します。
文中元年/応安5年(1372年)8月、九州に居た南朝勢が幕府軍に攻められ太宰府が陥落し、懐良(かねよし)親王が落ち延びます。
文中2年/応安6年(1373年)、幕府軍は正儀はじめ細川氏、赤松氏などが南朝方の河内天野の金剛寺を攻め、陥落させます。南朝方は敗退し、吉野へ逃れます。
この様に、南朝方は次々と敗北を重ね、ついには反撃の力さえ失ってしまいました。
正儀、南朝に帰る
管領・細川頼之の配慮で破格の厚遇を受けた正儀でしたが、幕府内にはそれを面白く思わない者もいました。また、橋本正督と言う者が南朝・北朝を何度もクルクルと寝返りをして幕府を手古摺らせていたのですが、それの対処で細川頼之が失脚してしまい(暦応の政変)、正儀も幕府内に居難くなりました。正儀は南朝に戻る事にしました。
和平交渉本格化
南朝強硬派の長慶天皇にすっかり勢いがなくなり、和平への機運が高まってきました。
長慶天皇は穏健派の弟へ皇位を譲りました。この方が後亀山天皇です。
ここ迄根回しをしてきた正義は、和約を見届ける事無く亡くなりました。
さて、この様にして和議に至ったのですが、問題がありました。
実は、この交渉は南朝と足利義満との間で行われていて、北朝方は蚊帳の外だったのです。
和約の条件は
1, 三種の神器の引き渡し 2, 両統迭立(てつりつ) 3, 国衙領(こくがりょう)を大覚寺統の領地にする(国衙領とは国有地の事) 4, 長講堂領を持明院統の領地にする
と言うものでした。
すったもんだの末に、幕府が無理矢理に形を整え、三種の神器の受け渡しを大覚寺で行いました。
明徳3年/元中9年閏10月2日(1392年11月19日)、後亀山天皇が大覚寺に着き、その3日後に、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)の三種の神器が、北朝の後小松天皇に渡されました。
余談 皇統
皇統は万世一系と言う考え方が有ります。これは正嫡正流という考え方です。
もう一つ、人徳が優れている者が天皇になる、という考え方が有ります。
更に、三種の神器を持った者が天皇である、と言う考え方も有ります。
後醍醐天皇は正嫡正流ではありません。彼は後二条天皇の異母弟で、庶子です。
後二条天皇の第一皇子・邦良(くによし or くになが)親王がまだ9歳で、しかも病弱でしたので、邦良親王の代わりに、後二条天皇の異母弟・尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)が条件付きで即位します。その条件とは、後醍醐の皇位は一代限りの中継ぎで、後醍醐の息子には皇位は渡さないと言う条件でした。ところが、後醍醐天皇は一代限りと言う約束を反故にしてしまいます。結果、本来皇位を継ぐべき後二条の皇子には皇位が渡りませんでした。南北朝の騒乱が始まりました。
後醍醐天皇は三種の神器を携えて吉野に遷幸し、南朝を打ち立てます。
北朝の京都では持明院統の後伏見天皇の第三皇子・量仁(かずひと)親王が、三種の神器が無いまま即位し、光厳天皇になります。
光厳天皇の跡は光厳天皇の弟で第九皇子・豊仁(とよひと)親王が即位し、光明天皇となります。
こうして見ると、正嫡正流の考え方からすれば、後醍醐天皇が正統を主張するには自己矛盾していますし、約定を破った点からも非難されます。また一方、三種の神器の有無から見れば、北朝の光厳天皇は即位の資格を問われるかも知れません。
三種の神器ってなんでしょうね。平成上皇様も今上天皇様も実物をまだ誰も見ていないそうです。