南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がします。と言うのも、南北朝時代の主役の一人・足利尊氏が、次の時代を開いた牽引役でもあるからです。
そこで、これ迄書いて来た南北朝時代の総括を兼ねて、主だった事柄を、取り敢えず足利義満までを年表(西暦年表)にしてみたいと思います。
年表
楠木正成、赤坂城奪還。
1333年2月 後醍醐天皇、隠岐を脱出。伯耆国船上山に陣を敷く。
5月7日、足利連合軍、六波羅探題を攻め落とす。
旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布
7月 諸国平均安堵令発布。恩賞方と武者所を設置。叙任・除目を行う。
8月 足利尊氏、弟・直義救援の為鎌倉へ出陣し鎌倉奪還。
矢作川の合戦と手越河原の合戦で新田軍勝利。
箱根・竹之下合戦で足利軍勝利。
1336年1月 足利軍京都入り、後醍醐天皇は比叡山延暦寺に避難。
足利軍と南朝軍が京都で激突。足利軍敗北し九州へ逃げる。
3月 九州多々良浜の戦いで足利軍勝利。
5月 新田義貞、後醍醐天皇による足利追討令を受けて、九州へ出動。
5月29日、足利軍、京都占拠。
6月 尊氏、光厳上皇を奉じて東寺に入る。
8月 光厳上皇、院宣により豊仁(とよひとorゆたひと)親王を即位させる。
→光明天皇。
1337年 3月 5日、 金ケ崎城陥落。足利軍vs新田軍。新田軍敗北。
1338年 6月 北畠顕家、堺浦石津合戦で討死。
1350年10月 観応の擾乱勃発。足利直冬九州で挙兵。足利直義、大和で決起。
1351年11月 正平一統。足利尊氏、南朝と和議し、三種の神器を南朝に返還。
1352年 尊氏、直義軍を破って直義を鎌倉に幽閉す。
1355年2月 神南(こいない)の戦いで尊氏、近江に退却。南朝京都を占拠。
3月 尊氏、京都攻撃、南朝京都を撤退。
1361年 細川清氏・楠木正儀、京都を占拠するも、一か月で退去。
1365年 義詮、評定衆、引付衆を縮小し、将軍権限の拡大を図る。
12月7日、義詮薨去。
1369年12月30日、足利義満征夷大将軍になる。義満この時12歳。
1378年 義満、幕府を室町に移す。
南北朝の騒乱は60年も続き、多くの英傑・逸材が斃れました。
時代の濁流は地層の下を削り取り、巻き上げ、新しい活気も生み出しました。
奈良・平安時代を文化の抱卵期とすれば、足利尊氏が開いた室町時代は、日本文化の育雛期でもあります。