式正織部流「茶の湯」の世界

式正織部流は古田織部が創始した武家茶を伝えている流派で、千葉県の無形文化財に指定されています。「侘茶」とは一味違う当流の「茶の湯」を、武家茶が生まれた歴史的背景を中心軸に据えて取り上げます。式正織部流では「清潔第一」を旨とし、茶碗は必ず茶碗台に載せ、一人一碗をもってお客様を遇し、礼を尽くします。回し飲みは絶対にしません。

71 南北朝時代の年表

南北朝時代と言うのは、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開いた事に依り、京都の朝廷と二つに割れた1336年から、明徳の和約で南北合一する1392年までの57年間を指しますが、実際にはそれより3年前の建武の新政から数えた方が、時代区分としては分かり易い様な気がします。と言うのも、南北朝時代の主役の一人・足利尊氏が、次の時代を開いた牽引役でもあるからです。

そこで、これ迄書いて来た南北朝時代の総括を兼ねて、主だった事柄を、取り敢えず足利義満までを年表(西暦年表)にしてみたいと思います。

年表

1331年   元弘の乱後醍醐天皇挙兵

   9月  楠木正成後醍醐天皇に与し、赤坂城で戦うも落城す。

1332年   後醍醐天皇隠岐に配流さる。

       楠木正成、赤坂城奪還。

1333年2月   後醍醐天皇隠岐を脱出。伯耆国船上山に陣を敷く。  

   2月~5月、千早城の戦い楠木正成勝利。

   5月7日、足利連合軍、六波羅探題を攻め落とす。

   5月22日、新田義貞鎌倉幕府を滅ぼす。

           6月   後醍醐天皇、京都に戻る。光厳天皇が廃される。

                       旧領回復令、寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令を発布

   7月  諸国平均安堵令発布。恩賞方と武者所を設置。叙任・除目を行う。

      年内に雑訴決断所拡充。陸奥将軍府鎌倉将軍府を設置。

1334年1月  元号を、元弘から建武改元

1335年7月  中先代の乱。鎌倉、北条時行に襲われ陥落。

   8月  足利尊氏、弟・直義救援の為鎌倉へ出陣し鎌倉奪還。

    11月  後醍醐天皇足利尊氏追討令を新田義貞に下す

       矢作川の合戦と手越河原の合戦で新田軍勝利。

       箱根・竹之下合戦で足利軍勝利。

1336年1月    足利軍京都入り、後醍醐天皇比叡山延暦寺に避難。

         足利軍と南朝軍が京都で激突。足利軍敗北し九州へ逃げる。

   2月29日、光厳上皇元号を延元と改元。   

   3月     九州多々良浜の戦いで足利軍勝利。

   5月     新田義貞後醍醐天皇による足利追討令を受けて、九州へ出動。  

         光厳上皇から足利尊氏に新田軍追討令が届く。

   5月25日、湊川合戦。足利軍勝利。楠木正成自害。

   5月27日、後醍醐天皇三種の神器を持って比叡山に避難。

   5月29日、足利軍、京都占拠。

   6月   尊氏、光厳上皇を奉じて東寺に入る。

   8月   光厳上皇院宣により豊仁(とよひとorゆたひと)親王を即位させる。

          →光明天皇

    10月9日、足利尊氏後醍醐天皇との間に和睦成る

       新田義貞恒良親王尊良親王を奉じて北陸道へ走る。

   11月2日、三種の神器後醍醐天皇より光明天皇に渡る。

          足利尊氏建武式目を制定・

   12月21日、後醍醐天皇、京都から吉野へ脱出。南朝樹立。

1337年 3月 5日、 金ケ崎城陥落。足利軍vs新田軍。新田軍敗北。

1338年 6月      北畠顕家、堺浦石津合戦で討死。

     8月11日、足利尊氏光明天皇より征夷大将軍に任命さる。

1339年     後醍醐天皇崩御南朝後村上天皇即位。

1350年10月   観応の擾乱勃発足利直冬九州で挙兵。足利直義、大和で決起。

        光厳上皇、直義追討令発令。直義、南朝に寝返る。

1351年11月   正平一統足利尊氏南朝と和議し、三種の神器南朝に返還

        南朝後村上天皇足利尊氏征夷大将軍を罷免。

        代わりに宗良親王征夷大将軍に任ず。

1352年     尊氏、直義軍を破って直義を鎌倉に幽閉す。

        南朝宗良親王、鎌倉を攻める。

        南朝方敗北。北条時行処刑。宗良親王など信濃や越後に落ちる。

        第一次、第二次、第三次と南朝北朝、京都で入り乱れて合戦。

1355年2月    神南(こいない)の戦いで尊氏、近江に退却。南朝京都を占拠。

   3月    尊氏、京都攻撃、南朝京都を撤退。

1358年4月   足利尊氏薨去

   12月     足利義詮征夷大将軍になる。

1361年       細川清氏楠木正儀、京都を占拠するも、一か月で退去。

1362年       義詮、斯波義将管領に任命。

1365年       義詮、評定衆引付衆を縮小し、将軍権限の拡大を図る。

1367年         義詮、斯波氏失脚の後、細川頼之管領に任命。

   12月7日、義詮薨去

1368年 4月15日、足利義満元服

1369年12月30日、足利義満征夷大将軍になる。義満この時12歳。

1378年       義満、幕府を室町に移す。

 

南北朝の騒乱は60年も続き、多くの英傑・逸材が斃れました。

時代の濁流は地層の下を削り取り、巻き上げ、新しい活気も生み出しました。

奈良・平安時代を文化の抱卵期とすれば、足利尊氏が開いた室町時代は、日本文化の育雛期でもあります。