『(前略)犬田楽ハ関東ノ ホロブル物ㇳ云イナガラ 田楽ハナホハヤルナリ 茶香十炷ノ寄り合イモ 鎌倉釣リニ有鹿ト(後略)』
犬追いものや田楽は 関東を滅ぼしたものと言いながら 田楽は尚流行っています。お茶やお香の寄り合いも、鎌倉と同じ様な有様です(盛んです)。
上記『 』内の一文は、『此比都二ハヤル物。夜討強盗偽綸旨…』の出だしで有名な二条河原の落首の中頃あたりにある文言です。
ここに書かれている様に、当時「田楽」と言う民間芸能が流行っておりました。
田楽
田楽は「田」の字が付く事から分かるように、農耕の際に、田の神様をお招きしたり、喜ばせたり、お慰めしたりする時に行われる耕田儀礼の舞踏と音楽です。これは平安時代よりかなり昔から行われてきましたが、神事や仏教と結びついて次第に格式を整え、芸能として発達してきました。そして、見事に舞ったり音楽を奏でたりする人達の一団が、専門集団を作り、寺社などと結びついて田楽座などと言う一座を形成する様になりました。
華やかな衣装をまとい、化粧をし、飾り立てた笠などを被り踊る姿は、見物人達のやんやの喝さいを浴び、お祭りの花形になりました。
鎌倉時代や室町時代になると、笛や太鼓や歌に合わせて踊るだけでは無く、そこに物語の要素が加わる様になりました。
足利義持が田楽一座の増阿弥を贔屓にしましたので、田楽能の深化に繋がって行きます。
散楽(さんがく)
散楽と言うのを現代で言うと、大道芸に、決まった旋律などが無い当意即妙の音楽が加わったもので、面白おかしい芸能でした。散楽の起源は中央アジアや西アジア、ギリシャにまで辿り着く事が出来ます。ディオニソス(酒の神(ローマではバッカス))の取り巻きのサティロス達が、酒神を先導して楽器を鳴らして歌って踊って騒いでいました。ディオニソスはインドまで遠征しに行ったとか・・・周や漢の時代に火を吹いたり刀を呑んだり、ジャグリングをしたり、奇抜な芸や音楽や踊りを披露していた芸人も、もしかしてディオニソスの末裔かも知れません。
東大寺大仏開眼供養会には、唐人による唐や新羅の音楽や踊りを聖武天皇がごらんになったと、続日本書紀の記録にあるそうです。天平時代には雅楽寮に散楽戸が置かれましたが、余りにも猥雑なので散楽戸は廃止されました。散楽を演じていた者達は庶民の間に入って行き、田楽や猿楽に吸収されて行きます。
猿楽(さるがく)・申学(さるがく)
世阿弥が「風姿花伝」の中で言うには、聖徳太子が「神楽」と言う文字の示す偏を取って「申」という字にしたとの事です。が、どうやらそれは歴史的には誤りの様です。
散楽=猿楽が朝廷の保護から外れた事に依り、演者達は寺社や街角などで芸を披露する様になります。
鎌倉から室町に掛けて、申学の中に翁猿楽が現れます。翁猿楽は寺社などで演じられる申楽の一つで、天下泰平五穀豊穣や延命を願う儀式の舞です。面を付け、舞を舞う人と、歌や音楽を奏でる人が居ます。翁猿楽は能の原形と言われています。
翁猿楽の三番叟(さんばそう)は神事の祝いの舞で、演者は精進潔斎をして臨むそうです。これは三つの構成要素からなっています。
まず面を付けないで舞う千載(露払い)の後、黒い翁の面を付けて天下の安寧と五穀豊穣を祈って舞い、三番は揉みの段と鈴の段を舞います。揉みの段は種蒔き、鈴の段は幾つも付いた鈴を稲の穂に見立てて舞う、と聞いたことがあります。
伎楽
推古天皇の時、百済の人が伎楽舞を伝えました。伎楽は儀典楽として、仏教行事や宮廷の外国使節歓迎式などで演じられました。
伎楽の面は木彫か、乾漆で造られています。頭からすっぽり被るので、木製の物はさぞかし重かったことでしょう。現代の獅子舞の中にその片鱗を見る事が出来ます。
やがて伎楽が廃れる様になり、伎楽面が作られない様になりますが、その代り、顔の前だけを覆う面が作られる様になります。能面の始まりです。
東大寺昭和大修理落慶法要に際し、古代の伎楽が復元されました。
呉王、金剛、迦楼羅(かるら)、呉女、崑崙(くろん)、力士、バラモン、大孤(たいこ)、酔胡(すいこ)、等が練り歩き、面白おかしく物語をパントマイムで演技しながら落慶を寿ぐ様子が、テレビで放映されました。
念仏踊りは菅原道真が活躍していた頃、讃岐で始まった雨乞いの踊りがその起源とされています。
或る時、法然上人が上皇の怒りを買い、讃岐に流罪になりました。法然上人、この時75歳。彼は四国を布教して回り、雨乞いの踊りに接しました。それにヒントを得て、念仏踊りを始めました。法然の念仏踊りは、歌い手と踊り手が別々です。
空也上人はそれを更に工夫して、歌いながら踊る「踊り念仏」を始めました。